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 鎮魂歌



 「……菊……どこだ?」
 違和感に目覚めれば、腕の中で抱き込んでいたはずの体がない。
 ベッドの下を見れば、可愛くて履かせているもこもこスリッパも置きっぱなしだ。
 素肌にガウンを羽織り、寝室を出る。
 途端。
 ひんやりとした空気に晒されて、しっかり前を合わせた。
 広いカークランド本邸を闇雲に捜しても時間がかかるばかりだ。
 廊下に飾ってある薔薇の妖精を起こして聞けば、数時間前にリビングに入って行く姿を見た
という。
 人が居る時は一晩中、暖炉を燃やしているのであそこなら寒くないと、安堵の吐息を付き
ながら、リビングへ足を向ける。
 扉に手をかければ、中から微かに声が聞こえた。
 どうやら、菊は。
 とても珍しい事に、歌を唄っているようだった。
 「菊?」
 ノックもせずドアを開けて、中に足を踏み入れれば、菊がソファに座って窓の外を見ながら、
やはり歌を唄っていた。
 どこかで聞いたような、物悲しい旋律だ。
 「馬鹿! 何で暖炉の前に居ない。風邪を引くだろうが!」
 暖炉の前ならいざ知らず。
 窓際は一番寒気が強い場所だ。
 慌てて全裸の体を、抱き抱えて暖炉の前に敷いてあるムートンの上に転がした。
 「しかも、全裸なんて何を考えてるんだ!」
 抱き合った後で、気絶するように眠ってしまったので、起こさないようにとそのままにして
しまったカークランドに責任もあるので、つい声が大きくなってしまう。
 「すみません」
 しかし菊は、未だ夢の中に居るような遠い眼差しで、口だけの謝罪をする。
 実に菊らしくない。
 すっかり冷たくなってしまった、頬を掌で包み込み。
 その体をムートンに包みながら抱き寄せる。
 「何かあったのか」
 「いえ、特には」
 「嘘を吐くな! 自分が何時もとどれだけ違うか、わかってないのか?」
 「……そんなに、私。おかしいです?」
 こっくりと頷くと、菊は、カークランドの胸に己の頭を摺り寄せるようにして、静かに息を吐き
出した。
 「夢を、見たのです」
 「悪夢か?」
 「そう、ですね。悪夢と言えば、悪夢ですかね」
 「話してみろ。悪夢は他人に聞かせると楽になる。それでも駄目なら獏を召還してやるぞ」
 「ふふっふ。ありがとうございます。でも、そこまで貴方の手を煩わせる事もありませんよ」
 顔を上げた菊は、やっとカークランドと目を合わせてきた。
 カークランドが愛してやまない、知性と理性を湛えた穏やかな黒い瞳。
 思わずその黒目をねろりと舐めてしまっても、すっかりカークランドの癖を受け入れた菊が
動揺する事はない。
 「……怒らないで下さいね」
 「聞いてみなければわからねぇぞ」
 「約束、してくれないと。言いません」
 「努力は、する」
 曖昧な返答は菊から学んだ。
 笑みを深くした菊の告白は、確かにカークランドの逆鱗に触れるものだった。
 「昔の男と、別れる時の夢を見ていました」
 「誰だよ!」
 
 「おや、ご存知ありませんか?」
 「知らないから、聞いてるんだろうが!」
 「貴方のコトですから、公私混合万歳で、諜報部員の方に調べさせてると思ってました。私の
  昔の恋人くらい」
 「……やったけど。男はいなかった」
 だから、初めての時。
 それはもう、丁寧に抱いたのだ。
 自分が最初で最後の男だと信じて疑わず。
 「まぁ、いいじゃないですか。本当に昔の話ですし。向こうもきっと私と付き合ったコトなど
  忘れてると思いますし……貴方が、最後の男なのは間違いありませんよ?」
 嬉しい言葉に抱きしめる力を強くするが、追及の手は緩めない。
 「で、誰だ?」
 「貴方って人は……まぁ、そういう所も好きですけどね。昔の話なんです。相手を苛めたり
  しないで下さいよ」
 「善処する」
 「もぉ!」
 ぷうっと頬を膨らませてみせる。
 子リスみたいで、めっさ可愛い! と思った自分の目は絶対に間違っていないと内心で断言
しながら、頬をぷにぷに突付いた。
 「……グプタさんです」
 「はぁ? えーっと。ムハンマド?」
 「ええ、そうです。意外でしたか?」
 「想像もしてなかった。大体、接点ねーだろうが。俺ぁてっきりカリエドの奴かと!」
 「ああ。トーニョさんとも昔から親交は深いですけど。過去にナンパもされましたけど。あの人、
  男は興味ないみたいですよ。正確にはその当時はなかったです」
 カリエドは、今。
 自分が育て慈しんできた男を恋人にしている。
 だから、その前に付き合っていたのかと、そんな風に。
 「短い間でしたけど。本当に短な時間でしかなかったですけれど。私には忘れ得ない思い出
  です」
 切ない声を出す菊に、やっぱり何らかの嫌がらせを……と画策するカークランドに苦笑した菊は、
甘いキスをくれる。
 菊からのキスはあまりないので、カークランドの機嫌は一気に浮上した。
 戯れ程度のキスは心地良い睡魔を誘う。
 菊の瞳が、とろんと眠気を孕んだ。
 「ここで、寝ると風邪を引く。寝室に戻るぞ」
 「……抱っこ?」
 「してってやる」
 またしても滅多に見せない抱っこのオネダリに、今度は静まったはずの欲情が盛り上がって
きた。
 明日も仕事は休みにしてることだし。
 このまま、もう一戦挑むのも悪くない。
 そんな浮かれた気分になっていたカークランドの耳に、また。
 先程の歌が、菊の口から漏れた。
 「これはねぇ、アーサーさん。この歌は、鎮魂歌なんですよ」
 「レクイエム?」
 「ええ。しかもね。神を鎮める特別の鎮魂歌」
 道理で物悲しく、そして。




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