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       「夕霧」




       「お帰り下さい。アームストロングさま。」

       鏡台の前に座ったロイの言葉に、アレックス・ルイ・アームストロングは「しかし・・・」と、正座した膝の上の大きな手を、ぎゅっと握り締
      めた。
       ロイは身支度を続けている。
       アームストロングが訪れたのは、胸元とうなじにおしろいを乗せ終えたところだった。
       支度を手伝っていた禿(かむろ・花魁につく六歳〜十四歳の見習い少女)を下がらせてしまったので、ロイは一人で客を迎える準備を
      しなければならなかったのだ。
       本当ならこんな時間に、客でもない男と会うなど許されないことだが、アームストロングは特別なようだった。
       ロイに逢うこのほんの僅かな時間の為に一体幾らお金を出しているのか、ロイには見当も付かなかったが、きっと、いつもの客以上の
      上客扱いなのだろう。

       「我輩と一緒に、我輩の家に来て下さい。」

       アームストロングが、静かに言った。今日こそ頷いてくれるのではないかと、祈るような気持ちが混ざった言葉だ。
       しかし、ロイは「それだけはできません」と、振り返りもせずいつもの答えを繰り返すだけだ。
       「・・・どうしたら、あなたはこのお話を受けて下さるのだ・・・あなたの為だったら、我輩は何でもする・・・何でもできる・・・。あなたも私の
        ことを思っていると言って下さったのに・・・あの桜の下で約束して下さったのに・・・」
       苦渋に満ちた告白の間も、ロイは綺麗に結い上げられた髪の簪を直し、薬指で、ふっくらとした唇に紅を乗せる。
       ロイもその約束を忘れるはずなど無かった。
       まだ子供の時分に、父に「許婚」と、聞きなれぬ名で紹介された男は、ロイよりも幾つも年上で、見上げるほど大きくて、そして優しかっ
      た。
       何の疑問も抱かず、大人になったらこの人の「およめさん」になるのだと思っていたロイである。
       やがて、「少女」から「娘」と呼ばれるようになって、アームストロング家と自分の家で交わされた約束がわからない年でも無くなった。
       落ちぶれた華族のマスタング家と、歴史こそ浅いが、数々の会社を経営し、飛ぶ鳥を落とす勢いのアームストロング家。
       言い方を変えれば、資産が欲しいマスタング家と、家柄が欲しいアームストロング家。
       少し年は離れているものの、おあつらえ向きに娘と息子がある。      
       将来結婚するということを条件に交わした約束が、具体的にどんなものかロイは知らなかったが、そんなことはどうでも良かった。
       ロイは朴訥とした、この優しい男が嫌いではなかった。
       むしろ、好きだったのだと思う。



       ロイが女学校に入った年だ。
       満開の桜の下で。
       「嫌なら、断って下さっても構わないのです。親同士が勝手に決めた婚姻ですから・・・あなたの家にはご迷惑がかからぬよう、我輩が
        責任を持って何とかします故・・・」
       ロイは、一体この方は、急に何を言い出すのだろう、と、アームストロングの顔をじっと見上げた。
       その清らな視線に耐えられなくなったアームストロングは、桜の花びらの散る春萌えの地に膝を付き、まるで仏に縋るように、ロイの
      綺麗な右手を両手で握りしめた。
       「あなたは、我輩より一回りも若いのだし、とても美しくて・・・聡明で・・・こんなつまらない我輩の花嫁になんて・・・本当は嫌だという
        ことぐらい・・・我輩も解っているのです・・・」
       声を詰まらせるアームストロングに、ロイはそっと笑顔を浮かべて言った。「顔を上げて下さい。アレックス様。」と。
       「あなたがつまらない人かどうか決めるのは私です。そしてつまらないなどと思ったことは、一度もありません。」
       「では・・・あなたは、・・・あなたは我輩の花嫁になって下さると・・・?」
       アームストロングが信じられない、といった風に問い返すと、ロイは恥ずかしそうに頬を染めて頷いた。
       「だって、私はあなたの花嫁になれる日を楽しみにして、毎日を過ごしてきたのですもの。」
 
       そしてロイは、初めて接吻というものをした。
       アームストロングの大きな手も、体も、ロイを包み込んで、どんなことからも護ってくれそうで、とても安心できた。
 
       忘れるはずが無い。
       忘れろと言われても忘れられない。
       ロイの中で、まぶしすぎる思い出だ。きらきらと光って。 

       しかし、そんな綺麗な世界は、呆気なく崩れ去った。
       父が死んだのだ。事故だった。気づいたら、家屋敷や、数少ない美術品を売り払っても到底追いつかないような借金だけが残された。
       もともと病弱だった母も、父の後を追うように亡くなった。あれ程家に出入りしていた親戚連中も銀行家も、もともとなんの関係も無か
      ったような顔をしている。
       ロイは母のお葬式を出すこともできず、母はただ荼毘にふして小さな骨になった。
       そして、骨壷を抱えたロイが、着物を売って借りた粗末な部屋にやっと帰りついた途端、ガラの悪い男達に拘束されて、ここに連れて
      こられたのだ。
       それでも、今ももう何の価値もない「身分」というもののお陰か、ロイは最初から特別扱いだった。普通の遊女は、部屋持ちになるま
      ででも大変だというのに、ロイは直ぐに花魁と呼ばれて部屋をあてがわれ、大雛の張見世に他の遊女と並んで座ることもなかった。

       ここで、やってくる男に体を与える。

       それがロイの仕事だ。
       母の前で足を開くことは出来なくて、遺骨は主人に頼んでお寺へ預けて貰った。
       ロイは知らなかったが、ロイのところに通ってくるのは、軍の高官や銀行家、政治家など、上流階級と呼ばれる人がほとんどである。
       世が世なら、顔を拝むことも儘ならなかったマスタング家の姫君の揚代は、普通の暮らしを営む人々には到底払える額では無かった
      からだ。そしてそのような身分の姫を好きに出来るとあって、ロイのいる楼は格も人気も上がったようだった。勿論、そんなこともロイは
      知らなかったが。


       「・・・我輩が妻と呼ぶのは、・・・生涯ただひとり・・・あなたと決めておりました・・・」

       苦しい胸のうちを絞り出すようなアームストロングの声に、ロイはここに存在していること自体が辛くて、堪らなくなっていた。
       「お引き取り下さい。このような場所に足しげく通われては、新しい縁談に障ります。あなたにはアームストング家の嫡子としての責任
        がある。私のことなど早く忘れて、あなたに相応しい方とお幸せになって下さい。」
       消えてしまいたい。と、そんなことを思いながら、ロイはやっとそれだけを言った。

       ロイのその静かな言葉に、アームストロングはもう我慢が出来なくなっていた。
       気丈に振舞っているロイが苦しんでいることを、アームストロングも判っていた。誰が喜んで遊女になどなろうか。ましてやロイは、こん
      なに清らかな魂を持った美しい人で。
       自分が会いにくることで、ロイが更に辛い思いをしているのも解っていた。
       しかしアレックス・ルイ・アームストロングには、到底諦めることなど出来なかった。
       愛しい人が苦しんでいる。自分にはその人を助けるだけの財力がある。お金だけで解決できる事柄であることが、アームストロングに
      取っては寧ろ喜ばしくもあった。情やなにかの柵が無く、金さえ出せばロイをこの闇の淵から助けることが出来る。
       それなのにどうして黙っていることなどできようか。
       だがロイは、いつでもこうして首を横に振るだけで、あの春のような優しくて暖かな笑みを浮かべてはくれないのだ。
       アームストロングは我慢が出来なかった。今日こそ、力ずくでもロイを連れ帰ろうとしていた。あなたを連れ帰るのだ。あの明るい光の
      下へ。本来あなたが在るべき世界へ。
       それなのに、何故、何故解って下さらないのか!
       「何故っ」
       壊れてしまいそうに華奢な肩を掴み、アームストロングはロイを振り向かせた。
       そして、アームストロングは、見た。

       ロイの黒い瞳に溜まった、いっぱいの涙を。

       「・・・父がお借りしたものは、どうあっても私がお返ししなければなりません。それが・・・マスタング家の一員としての、私の最後の務
        めです・・・そして今の私には、他の誰にも頼らず、自らの力でその務めを果たしているという誇りしか、そのようなものしか、もう、残
        されておりません・・・」
       はらはらと、まるで桜が散るように流れる涙をそのままに、紡がれる言葉。涙に崩れそうになりながら、その口調には、凛とした強さが
      あった。
       ロイ・マスタングの、何者にも貶めることなど出来ない、孤高の、潔いまでの清らな魂がそこにある。
       アームストロングは、そのロイを目の前にして、呼吸も出来ずに凍り付いていた。
       ・・・嗚呼、この珠玉の魂を、金でどうこうできようなどと愚かなことを、どうして自分はひと時でも考えたのだろうか。そんなものは唯の
      驕り高ぶりでしかなく、足もに転がるちっぽな石ころのようにつまらないものであった。
       ロイが何と言っても連れ帰る気でいたアームストロングだ。
       遊女の身の穢れを嘆くのなら、言おうと思っていた。
       「それを決めるのはあなたではない。我輩だ。そうだと教えてくれたのはあなたではないか、ロイ殿。」と。
       しかしロイは、アームストロングが思うより何倍も清らで、誇り高い生き物だったのだ。
       「ロイ殿・・・」
       どこか呆然と名を呟いたアームストロングに、ロイは三つ指を付いて深く頭を垂れた。


       「私は、かような名ではございません。・・・私は、夕霧と申します。」



       アームストロングは、長い長い溜め息をつくと、「我輩は、いつまでも待っております」と呟いた。

       それでも愛さずにはいられないのだ。

       この身を作る肉の一塊でさえも、
       この身を流るる血の一滴までも、
       ただひたすらに。
       強く、強く。

       あなたを想う。





                                   今井 もも様より相互リンク記念に頂きました♪


                                  アームストロングロイです!しかもロイ子さんです!
                      しかもロイたん花魁です!(どうしてそんなイロモノばかりリクエストしてしまうのか・苦笑)
                              やー萌えた萌えた。危うく新しくルイロイをノルマに上げるところでした。
                          何時か書こうとは思っているのですが、この二人はほのぼのになるよなーきっと。
                              途方もないリクエストに答えてくださって嬉しかったです。
                                        ありがとうございました♪

                                       しかし、やっぱりあれですか。
                               ルイさんは一度も致したりはしないんでしょうか?
                             人気もモノロイさんは、あっという間に借金を返し終わって
                                  ルイさんとめくるめく初夜を送るんでしょうか。
                                       うっとり(妄想暴走中)
                 

                                        今井さまのサイトには、
                          上記のようなロイ&ロイ子さん総受けのテキストがみっしりとありますので、
                                      ぜひ一度、伺ってみてくださいませ。





                                       
                                          RASPBERRY KISS様 




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