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  どうして


 
 俺が握り締めた阿修羅の向こう。
 距離にしてほんの数メートル。
 ゆっくりと、そう。
 テレビで目にするスローモーションの動きで、紅葉の身体が倒れた。
 「みっ!……紅葉っつ!」
 まだ、反射的に壬生、と呼んでしまうぐらい不慣れではあったけど。
 俺の愛しい恋人が、己の身体から噴出す血に塗れてゆく。
 天井からぼたぼたと落ちてくる異形を滅多切りにしながら、紅葉の側へ近
寄って腰を下ろす。
 「蓬莱寺、さ?」
 右目は完全に血潮で塞がってしまった。
 薄く開けた左眼で、ようよう俺を確認した紅葉の口の端が僅かに上がる。
 無理を強いて、快楽よりも痛みを与えてしまう俺に見せる、安堵させてくれる
微笑にとてもよく似ている笑顔は、何時になく寒気を催す不安を駆り立てる。
 「紗代ちゃん!どこだっつ!ひーちゃん!!紗代ちゃんはっつ!」
 紅葉の血を頭から被って、ぼんやりと焦点のあわない瞳をさまよわせてい
るひーちゃんの身体をがくがくと揺さぶる。
 ひーちゃんをかばって紅葉が倒れるのは、一度や二度じゃあない。
 これまでだってあったコト。
 何もそんなに泡を食う必要はないのに。
 焦りが俺を狂気に誘う。
 「落ち着け、俺っつ!」
 いつもの通り、絶大な回復技を持つ紗代ちゃんに、癒してもらえばいいだけ
の話なんだから。
 「紗代ちゃーん!どこだあっつ!大怪我してる奴がいるんだ!俺の声を頼り
  に、大急ぎで来てくれっつ!!」
 『はーい。今、参ります』
 この毒霧に被われた場所では、視界も覚束ないが、微かに、返事が聞こえ
る。
 「大丈夫だからな、紅葉。すぐに、紗代ちゃんが助けにきてくれる」
 「比良坂、さん」
 「そう、万が一、一端死んだって黄泉路から呼び戻してくれるから」
 決して人が踏み入れてはいけない死者蘇生すら操る仲間がいたのは、僥
倖以外の何物でもない。
 紗代ちゃんの治療が失敗したのを見たのは一度だって無い。
 だから、きっと。
 紅葉の怪我だって、すぐに治る。
 ちょっと、照れたように笑って。
 『心配性なんだよ、京一は』
 って言ってくれるはず。
 「蓬莱寺、さん?龍麻、は?」
 己の状態なんて、なんのその。
 これほどの状況下にあっても、紅葉はひーちゃんを案じる。
 「ん。様子を見てみる」
 右手を紅葉の手に絡ませながら、目線をひーちゃんに走らせて、左手でそ
の肩を揺さぶる。
 「おい、大丈夫か、ひーちゃん?」
 誰かが自分の代わりに倒れるのは、初めてのことじゃあない。
 いつもだったら、やっぱり己の体なんか、気にかけようともせずに、自分を
庇った人間を心配するはずなのに。
 「京、一……すまない。すまない。俺を、許してくれ!せっかく、紅葉と通じ
  合ったのに……すまん。俺は、俺は知っていたんだ」
 「ひーちゃん??どうしたんだ?許してって、俺が許すことじゃねーだろうよ」
 庇ったのは紅葉。
 許しを請うのなら、紅葉だろう?
 「……紅葉は、もう……助からない……」
 「なんだって?悪い冗談!紗代ちゃんがいれば平気だろ!」
 パニクってたって、言っていい事と、悪い事がある
 
 「紅葉は、俺の身代わりに死にすぎた」
 「あ?」
 「……魂の黄泉返りにも、限界があるんだよっ!」
 見開かれたひーちゃんの瞳から、大粒の涙がぼろぼろっと零れ落ちる。
 「器の俺が死んだのだったら、まだまだ生き返れるさ?でも紅葉はっ!
  俺の双龍はっ!結局の所、人間でしかないんだ」
 震えるひーちゃんの手の甲を、必死に伸ばした指先で紅葉があやすように、
摩った。
 「龍麻。龍、麻。興奮したら、駄目だ。黄、龍が暴走、するよ?」
 「紅葉を殺してまで、どうして俺は生きなきゃなんないんだ!」
 「それが。黄龍、だからだよ」
 痛いはず。
 死の間際の苦しさなんて想像もつかないけれど。
 紅葉は脂汗を浮かべながらも、ゆったりと微笑んでいた。
 俺の目から無意識の涙が伝うほどに、綺麗すぎる透き通った瞳。
 は、もう。
 「蓬莱寺、君……ああ、違う。京、一?」
 「ん?」
 ひーちゃんの手を離して、紅葉の手を両手でぎゅっと握り締める。
 「泣かない、で……龍麻を、龍麻を頼む、ね」
 「言われなくとも、ひーちゃんは大事だ。俺なりに面倒だってみるけども。紅
  葉の代わりは、双龍の代わりなんざできねーよっつ!!」
 「そんな、こと。僕の代わりになって、なんて。望まない、よ。僕は少しでも、
  龍麻の命数を増やしたかっただけ。黄龍にだって、限界はあるから、ね」
 すっと眼を閉じる紅葉の身体を必死に揺り起こして、覚醒を促す。
 「紅葉っつ!紅葉!これからだろ、俺達。まだまだ、お前とやりてーこといっ
  ぱいあるんだぜ?」
 世間一般が言う恋人の、細々としたイベントや約束事。
 デートすら、満足にできていない。
 想い出にしたくとも、想い出にできるほど、一緒にいた時間がないというのに。
 「僕も、君といっぱい、したかった、なあ」
 遠くを映す瞳は、既に彼岸へと逝きかけている。
 俺にできるのは、きっともう……笑いながら送り出すこと、だけ?
 「……すけべ?」
 言葉を繋げれば繋げるほど、縋る言葉になりそうで。
 ひーちゃんを責めかねない。
 切ないセリフを囁いてしまいそうで。
 茶化すぐらいしか。もう。
 「はは。そう、だね。そういう意味でも、あるかな。君とずうっと……抱き合って、
  いた、かった」
 こんな時じゃない無かったら、飛び上がってしまいそうな嬉しい言葉。
 きっと死が足元まできているからこその、紅葉の、甘え。
 「京一。京、一……ごめん、ね。僕はどうしても、龍麻より、君、より。  後に
  死にたくはなかった、んだあ」
 死を見すぎてしまったから、誰にも先に逝って欲しくは無いのだと。
 ベッドの中、一度だけ聞いた。
 「だから、後悔はしていない……ふふ。僕、ね。こんな穏やかに死ねると、
  思ってなかったから……嬉しいなあ」
 額に張り付いた髪の毛を払ってやれば、紙より白い顔が現われる。
 「好きな、人の。君、の、腕の中で死ね、る……なんて、さ?」
                    
  



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