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  嗤う


 
 けたけたけたと、遠くで声が聞こえる。
 
 「奈涸殿、一体どうなされたっつ!」
 
 それに紛れて愛しい人の声。

 「貴方の愛しい人は、私ではないでしょう!」

 そう、私も長く思っていた。
 同じ女の、あの憎んでも憎みきれない女の腹から生まれた、モノを。
 どうして私はあんなにも、慈しんでいたのか。
 偽善もいい所だと今更に思う。

 「落ち着かれて下さい!」

 修羅場慣れした人だ。
 悲しいくらいに。
 身食いすら厭わない私と同様の世界にあったと、聞いている。
 確かにその通りであったのだろう。
 数度忍んだ新撰組内部は、必ずしも一枚岩ではなかった。
 この孤独な青年は、特に幹部から純真無垢な信頼を得ていたけれども。
 本来ならこんな風に、声を荒げる人ではなかった。

 「奈涸殿!」
 「霜葉……」
 何時ものように壬生殿と呼ばず、龍斗が呼ぶように優しく囁けば、その名前は甘くて儚い砂糖
菓子のように、ほろほろ、舌の上に蕩けた。
 「助けては、頂けませんか?」
 数多の人間を救ってきたというのに、自分は誰も救えなかったと勘違いしているこの人は、
助けを乞われる言葉にとても弱い。
 致命的な程に。
 「貴方にしか、できないんです……どうか、私を助けて下さい」
 実際、この頭の中にへばりついてしまった、笑い声を消す事ができるのは、霜葉殿だけで
あろう。
 そう、私が決めてしまった。
 自己暗示に長けた忍びの技で。
 私ですらもう、解けないほどに強く、深く。
 「何故、私ですか?あの愛らしい妹御ではないのですか?」
 「妹と交われと?」
 「そうではありません!……そうでは、ない」
 どうして、と必死の目が訴えていた。
 何より大切にしていた妹に抱いていた、優しい感情を忘れてしまったのかと。
 「笑い、声がするのですよ」
 「笑い声?」
 「頭の中で、けたけたけたけたと。貴方にも時折。聞こえませんか」
 「……死人の声ですか」
 「そうです。自分が殺した人間が、自分を嘲う声です」
 宿生の名の下に集う前から、私は。
 人を殺し過ぎていた。
 仕事なのだと、己に言い聞かせて長く。
 ほんの幼い頃から。
 ずうっと。
 後悔をした事はなかった。
 するのは、屠った人間への冒涜だと思っていたから。
 「何故、今。お前は。その汚らしい姿で、何よりも誰よりも愛しい人の前に立てるのだと」
 けれど、霜葉殿への執着を自覚して。
 それが恋着なのだと、思い至って。
 初めて、後悔したのだ。
 こんな汚れた手では、私と同じ道を歩みながらも歪まなかった、この人を。
 穢してしまう。

 「笑い声が止まらないのですよ……」
 「しかし……」
 躊躇う霜葉殿が、実は誰とも経験がないのを知っている。
 幼い頃から、村正に縛された身では、人を愛する事も。
 抱き締める事すら、叶わなかったのだ。
 相手が、村正に吸収されてしまうか、反発されるかの。
 どちらかだったから。
 「私は、その……」
 この年で初めてだとは、さすがに言いにくいのかもしれない。
 事情を知る人間であれば誰しも皆。
 男女問わずに、勿体無い事を!と不憫に思えども。
 軽蔑なんてできもしないのに、やはり恥ずかしいのだろう。
 「全部。私が良いようにしますから。痛みなぞ。与えなぞしませんから」
 「痛みなら!……痛みなら、耐えられますが……」
 「快楽は、難しい?」
 「知らないので、よくは、わかりませんが」
 さすがに自慰の一つもしないとは思わないが、性的な行為に淡白なのは万人の知る所だ。
 龍斗が悪所などに誘っても、意味がないからと寂しく笑って断りを入れるのが常だったから。
 「では、私で覚えて?」
 「奈涸殿……」
 「私なら、村正に踊らされる事もない」
 つい、と手を伸ばせば届く所に置かれた村正を見やる、霜葉の目線を強引に戻す。
 「だから、ね。私を助けて?霜葉……」
 今度の口付けは拒否されなかった。
 噛んだ下唇は、想像していたよりも薄く、やわく。
 破れてしまいそうだ。
 息継ぎの仕方もわからないのか、苦しそうに眉根を寄せるので、わざと鼻で大きく息を
繰り返す。
 すぐに気付いた霜葉も、それに合わせて小さく鼻で呼吸を始めた。
 頑なに閉ざされた唇を舌先で擽れば、おずおずと唇が開く。
 が、そこにはがっりちと閉ざした歯の壁があって、私はひっそりと苦笑した。
 舌先で歯の上をなぞれば、何とも居心地が悪そうに、少しだけ歯が開く、その隙を狙って
舌を滑り込ませた。
 「つつ!」
 驚いたのだろう、反射的に舌を噛まれてしまい、私は一旦彼から離れざるえなかった。
 「申し訳ない!奈涸殿!」
 真っ赤になったり、真っ青になったり。
 こんな彼を見たことがあるのはきっと、私だけに違いない。



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