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 生還


 マースが帰ってくると。
 生きて帰ってくると、連絡が届いたのは一週間前。
 先ほど駅に着いたと連絡があって。
電話で聞く久しぶりの声は、疲れきっていたけれど、私のよく知っているマース・ヒューズの声
音に他ならず、私は電話口にへたり込んで、会話をした。
 『久しぶりに、君の手料理が食べられるのが嬉しいよ』
 「ええ、マース。食後には貴方の好きなアップルパイも焼いてあるわ」
 『それは、楽しみだ。シナモンはたっぷりなんだろう?』
 「勿論よ!」
 涙で声が掠れないようにするのは難しかったけれど、後一時間もしない内に、生きた彼に会
えるのだ。
 笑顔で出迎えてあげたい。
 『そうそう。ロイも一緒にいるから。奴にも食わせてやってくれ』
 「マスタングさんも、いらっしゃるのね?」
 マスタングさんは、マースの一番の親友だし、ご家族とは縁が薄いと聞いている。
 悲惨この上も無かった戦場から帰ってきて、一人暮らしの冷えたベッドに潜り込むのは味気
ないだろう。
 一緒に食事をするのに、何の問題もなかった。
 『俺より疲弊が激しいからベッドも用意してやってくれるか?』
 客用の部屋に泊まる率が実に七割を超えるマスタングさんのために、好みの寝具も揃えて
ある。
 私への花束と一緒に全部マースが買い揃えたものだ。
 「わかったわ。お泊りになるのかしら」
 『俺は泊めちまいたいんだけど……本人次第だな』
 「食事は、多めに作っておいたから、大丈夫だと思うわ。マスタングさん小食だし」
 『……軍の食事はほとんど食えないんだ。君の手料理なら喜んで食べてくれると思う』
 私は電話口で小さく悲鳴を漏らした。
 きっと、食事ができないほどに心が病んでいるのだ。
 「気をつけて、早くお戻りになってね、貴方」
 『ああ、じゃあ。また後で。愛しているよ、グレイシア』
 「私も、愛しているわ、マース」
 電話口、ちゅっと軽いキスの音。
 マスタングさんが側にいらっしゃるだろうに、恥かしい、人。


 「おかえりなさい!貴方!」
 チャイムの音がするのと同時にドアを開ける。
 抱きつこうとした身体は、ぎこちなく止まった。
 「……ただいま、グレイシア」
 伸ばしてきたマースの腕が、変わらない優しさに私を抱き寄せる。
 その、腕の中には。
 マスタングさんの体があった。
 マースは勿論、私にも心を預けてくれて、弱っている姿すら見せてくれたこともある。
 とてもプライドの高い人で、マースからも幾度か会ったことのある部下のリザちゃんからも、
無様な自分の姿を見せたがらない人だと聞き及んでいたので、それだけ、私達を信頼してく
れるのが、とても嬉しかった。
 ……けれど。
 「……ロイ、着いたぞ」
 まるでマースの腕に抱えられるようにしていた、マスタングさんの顔がゆっくりと上がる。
 「久しぶりだね、グレイシア……」
 あの、綺麗だった瞳の中に。
 何よりも鮮やかに輝いていた、揺らめく焔が、ない。
 「……ロイさん……」
 思わず、マースが呼ぶように呼んでしまった、私の動揺を悟ったのか。
 マスタングさんが、もう一度笑う。
 寂しくなるほどの、切ない微笑に、涙が浮かぶ。
 瞳の中に輝く焔を失っても、まだこの人は、優しいのだ。
 「……グレイシア?」
 マースも気がついて、指先で涙を掬ってくれた。
 「ごめんなさい……帰って来てくれて、本当に嬉しいわ」
 己に言い聞かせるようにして、穏やかな風に、微笑を浮かべてみせる。
 そう、生きて還って来てくれた。
 それだけでもう、十分。
 「食事の用意、できてるわ。それとも先にお風呂に入る?」
 「……ロイ?」
 様子を伺うマースに、マスタングさんは掠れた声で応えた。
 「汗臭いのは嫌われるからね。申し訳ないが、風呂をいただきたい」
 「わかったわ。お安いご用よ」
 部屋へと招き入れる側から、マースの腕に抱えられて、マスタングさんが風呂場へと向かう。
 バスタオルと部屋着を用意して、大慌てで駆けつけるとちょうど、服を脱ぎ終えたマスタングさ
んの身体を抱え上げたマースが、ガラス戸の向こうに消えてゆくタイミング。
 私の姿を認めたマースが笑顔と共に。
 「ありがとう、グレイシア。そこに、置いておいてくれ」
 脱衣籠を指差した。
 「はい。貴方」
 頷く私にもう一度笑顔をくれたマースは、マスタングさんを心配そうに見つめて、ガラス戸の向
こう側の住人となった。
 決して広い風呂場ではなかったけれど、過去にも二人は良く一緒に風呂に入っている。
 士官学校時代どころか、もっと古い頃からの習慣みたいものだと、マースは言う。
 二人は幼馴染なのだ。
 私とも一緒に風呂に入ることはあったけれども、少なくとも笑い声が上がるような入浴だった
例はない。
 
 男同士裸の付き合いというし、ましてや幼い頃からの付き合いならば、そんな事も普通なの
だろうと思っていた。
 押し殺したマスタングさんの、艶やかな色を帯びた甘い声音を漏れ聞くまでは。
 
 君を愛している。とても、愛している。
 でも俺には、一人だけ、君よりも優先してしまう相手がいる。
 それでも、いいのなら。
 その存在を許せるのなら。
 俺と一緒になってくれ。

 マースのプロポーズの言葉。
 私より優先する唯一の相手が、マスタングさんだなんて、教えて貰わなくてもわかっていた。
 迷わなかったといえば、嘘だ。
 ましや、マースとマスタングさんに肉体的な関係があったのだから。
 それもただの欲求不満解消とか、そんな生易しいものじゃなくて、きっと私に向けられた愛情
とは質すら違う、優しくて甘い物だと気がついていたので。
 少し考えさせて欲しいとの返事を、マースがマスタングさんに言ったわけではないだろうが。
 マースの落ち込みの原因に思い至る程度の話は、聞かされていたのだろう。
 電話がかかってきた。
 本当なら直接訪れてお話をしたいけれど、婚約者のいる女性の家へ一人伺うのは失礼だか
らと、前置きを述べて。




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