「はい」
迷うまい、今は。
死なない為にも。
一度遠のいた敵の怒号が再びハウリングにも似て、耳を劈いた。
音も無くゆるやかに腰を落としながら突き進む閣下の周りには、ぞっとするほどの血煙が舞
う。
まるで、常に身体に纏っている衣服か何かのように違和感がなくて、背筋が怖気だった。
唇を噛み締めて、恐怖を殺す。
敵に感じた事の無い恐れを、味方にこそ覚える私は、既に正気ではないのかもしれない。
正気でないのだとしたら、生きて還る意味も、ないのかもしれない。
またしても、陰鬱な思考がひたひたと忍び寄ってきた。
脊髄反射のように、閣下の歩く数歩先に炎の矢を放ちながらも。
足は、滑るように歩く閣下に遅れまいと、懸命に小走りでついてゆく。
実際遅れを取ってはいない。
閣下に悟られるような、へまを、これ以上するわけにはいかないだろうという危機感が、最後
の最後で私を踏み止まらせている。
気が付けば、敵の本拠地へ躍り込んでいた。
敵も、よもやたった二人きりの無謀な特攻をしかけてくるとは思わなかったに違いない。
また、その二人がどれほど化け物じみた力を保持しているかも。
目の端で映るぎりぎりの位置。
私と閣下を指差した男は、右手で私達を指差して、左手でカードを持ちながら大笑いしてい
た。
そう、どう考えたって死を覚悟した無謀すぎる特攻でしかないのだ。
本来は。
目の前に閣下が駿足で詰め寄り、首を跳ね飛ばしても、その男の大口は笑いの形に固まっ
たままだった。
「ロイ君?」
ああ、何故私は。
閣下に名前を呼ばれる度に、自分が何をしなくてはならないのか、理解してしまうのだろう。
根の部分で、私は、閣下と同じモノだというのか。
真っ直ぐに両腕を伸ばして、同時のタイミングで指を擦り合わせる。
ごうっと周囲の空気が一点に集中する音がして、まばゆい閃光と共に、巨大な炎を柱が立ち
上がった。
「美しい、光景だね。とても、綺麗だ」
うっとりと細めた隻眼の横顔が赤々と炎で照らされている。
閣下の立ち位置では、かなりの高温に晒されるはずなのに、汗一つかいてはいらっしゃらな
い。
操っている術者の私ですら、膝から砕けそうな熱さを必死に、耐えているというのに。
何の前触れもなく、閣下がくるりと振り返り、私の腰を抱き締める。
『何をされるのですか?』
と言いたかった唇は、閣下の唇に塞がれた。
驚いて薄く開いたままだった唇から、舌までもが入り込んできた。
これではまるで、ディープキスだ!
男にされる口付けなんて、無論初めてで。
抵抗も許されない蹂躙も、初めてで。
溺れるしかない技巧の中に、屈するのも、初めてで。
いわゆるファーストキスよりも性質の悪い口付けは、離れていく閣下と私の唇の間、光る
糸ができるほどに、濃厚だった。
息苦しさに浮かんだ涙を、指先で拭われる。
その指から何時の間にか、滑り止め防止を兼ねた手袋が外されて、素手で触れられたの
に気が付いたのは、もう一度軽く、唇の上に掠める感触を覚えた時。
「見たまえ、ロイ君」
閣下は、私に向かって大きく手を広げてみせる。
さあ、飛び込んでおいで?とでも言いそうな雰囲気だ。
「これが、勝ち戦というものだよ」
私は、閣下の背後に広がる光景を見た。
見た。
そこには、何も。
残っていなかった。
ただ、人の気配が。
実際先ほどまで存在していた気配だけが、まるでゴーストのようにゆらゆらと漂っているだけで。
自分が、それを成したのだとは認めたくなくとも。
見てしまった。
以上は、認めねばなるまい?
閣下の背後、目の届く範囲は全て。
砂埃だけが舞う、更地と化していたのだ。
「何一つ残らない。残さない。残る事を許さない……それが、勝ち戦というものさ」
私は唇を噛み締めて、吐き気と悲鳴を殺す。
これが勝ち戦というものならば。
私は二度と戦などに。
勝ちたくないと、心の底から思う。
心に擁く野望を果たす為には、この先ずっと勝ち続けなければならないのだとしても。
END
*ブラロイ。
ちなみに閣下はロイたん激ラヴです。
その後もロイたんに地獄を見せ続け、ロイたんの憎悪が自分に向けられているの
を感じて悦に浸るお方です。
憎悪が愛情よりも、より強い感情だと思い込んでいるからです。
そんな閣下の夢は、ロイの為にロイに殺される事。
書きたいけど、むつかしそうですね。