村樫石灰工業のKATO

 

このKATOの存在を知ったのは、今となってはとてもラッキーな出合いからでした。

立山砂防軌道を訪問したおり、武蔵工業大学の鉄研の二人に出会いまして、軌道脇の小屋に許可を取って泊まることになったときのこと、ナロー談義に花が咲き、立山の夜は更けていきます。当時駆け出しの私はその二方の話しに興味津々、さまざまな質問をしたのでした。時間が経つにつれ「ナローのKATOに会いたい!」と話す私に、「そんなに会いたいの?」と意味ありげな問いかけ。うなずく私に、秘密の情報を話してくれたのでありました。

「日鉄工業のダブスで有名な葛生の奥の方にムラカシというのがあって、住友セメント専用軌道で使われていたKATOが払い下げられて今も使われている。」

---驚きでした。葛生と言えば石灰で有名な里、その昔は葛生の駅手前に駒形石灰工業の専用線が来ていて、そこにもKATOが走っていたらしいのですが、時すでに遅くこれも廃止となっており、住友セメントのナローの軌道ぐらいしか葛生には残っていないものと思っていました。さあ大変!!!はるか遠く長崎の高島でもなく、電車で2〜3時間の栃木の葛生にKATOがいる。それもナローの小形。東京に戻ると早速、葛生行きの機会をうかがいました。

 

 

 どっひゃ〜〜!!想像もしなかった環境にKATO君は居ました。

永福町から浅草へ1時間、浅草から葛生まで3時間、そこからバスで40分ほど、ムラカシは村樫石灰という会社名でした。事務所でおそるおそる来意を告げると、「危ないから許可してない。」との返事、困惑していると何やらサイレンが鳴り響きあわただしい様子、お昼のサイレンかと思いきや、「いま発破があるから、ちょっとまって。」とのこと。なんだなんだと思っている間に、一瞬、空気がひずんだかと思った途端、ものすごい爆音が響きました。「こりゃ〜許可でないわな・・・。」納得してしまいました。

 しかし絶滅寸前のKATOへの思いは強く、おじさんの帰りを待って再び交渉。「今昼休みになるから、その間にちょっと撮ってくるなら・・・。」という話しになりました。もうなんでもKATOが見れるならと二つ返事で許可を乞いました。しかし事務所の窓から奥を見渡すにKATOの姿などどこにも見えません。「あの〜それで機関車はどこに・・・」との問いかけに、「ほら山の中腹に少しだけ黄色い屋根が見えるだろ、あれがそうだからダンプの道に沿って登って行って。」 おお〜!!見上げた中腹に確かに機関車らしき屋根が見える、エライとこにいたもんだ。こんなん初めてと、私はKATOを目指します。

 

 

 

 ま〜本当にいい形のままのKATO君です。昼休みのためエンジンは切られているので、本当の意味では生きてはいないのですが、この風景を前にして私は見れただけでもと興奮してシヤッターを切ります。途中興奮のあまり巻き上げをしない間に裏蓋を開けてしまったのを思い出しました。とにかく嬉しかったのです。

 

 

 2号は1号よりも古いタイプでこちらが今日動いているようでした。それにしても坑道からは30mほどの軌道が出ているだけで、車庫もなにもなく、加えてこんな高い所にいるKATO君。わずかにポイントの跡があり、昔はもっと線路が延びていたのでしょうか。何もかもが不思議であります。

 


 時は過ぎ、あれから20年近く経ったようです。計算した自分がびっくりしてしまいました。ある日書店にてRail Magazineをパラパラやっていると、この機関車の廃車体の記事が載っていました。ショックでした。ボロボロになった車体はとてもあわれでしたが、まだあるものならもう一度、会ってみたいと思いました。「葛生」そう聞くだけで、私の胸はときめきます。ひょっとしたら、まだあの街のどこかにものすごい機関車が咆哮しているような、そんな気がするときがあります。それほどあの地帯はミステリアスで私の心を離しません。

 いつかかなうものなら、私はナローの機関車を所有したいと考えております。無くなった心象風景を自らの手で再現してみたい。そう思うようになりました。もちろん先立つもの、購入+運搬費用という大問題はありますが、夢は夢として実現させる気持ちが大事であります。

 今私が住んでいる家には線路を引くことを夢見たわずかな空間があります。とりあえずそこに機関車が現れる日を夢見て、日々がんばってみたいと思います。


         

 

再会2003

 

表紙  MENU