頸城鉄道憧憬

〜愛すべき車両に会いたくて〜

 私が軽便に興味を持ち始めたのは高校生の時だったと思います。なかでも井笠鉄道とこの頸城鉄道にはとても惹かれるものがありました。しかし鉄道はすでに廃止。そのなかでも最大の魅力であったコッペル社製の機関車が、高校近くの西武山口線に復活していると知ったときには、タッチの差で機関車は台湾の製糖会社からのコッペルにバトンタッチし、両鉄道へ返還された後でした。いつものこととはいえ、後手後手にまわる我が身を切なく思いながらも、軽便の臭いを感じたくて、学校帰りなどに西武山口線に足を運びました。それでも、この頸城鉄道への憧憬は消えることなくふくらむばかり、コッペルやホジ3のいる美しい風景写真を雑誌に見ながら、とにかくこの鉄道の空気感みたいなものを感じてみたくなったのです。私は夏休みを利用して自転車で訪問することを決意するのでした。

 春休みにアルバイトをして、自転車を買いました。当時出たばかりのフジのファイネストという15段変速のランドナーでした。碓井峠を越えて、長野から直江津へ、日本海を見た後、この鉄道の起点であった新黒井駅を目指します。訪問は昭和55年8月。まだ本社も兼ねていた立派な駅舎は健在でしたが、客車の方は見あたりませんでした。

構内のはずれには鉄橋も残っています。ただその先の軌道跡は樹木に覆われ、とても軌道跡をたどれるものではありませんでした。沿道から軌道跡を追うものの、見失って方向を外し、迂回して車庫のあった百間町駅にたどり着きました。ここはバスの待合室として駅舎がそのまま使われており、今にもホジ3が現れそうでした。線路のない低いホームに立ち、複雑な気持ちになったものです。

(百間町跡:ほら、今にもホジ3が建物の向うに到着しそうでしょ。)

 百間町近くの小学校にはホハ3が保存されておりました。この時の旅というのが、お金も自転車購入でなかったこともあるのですが、「野宿」という言葉に憧れての、思えば「青春」なんて死語がぴったりきちゃうような旅でした。寝袋も持たずここまできてしまい、その日は陽も暮れてきて途方にくれた末、このホハ3を本日のねぐらとしたのでした。というのも馬鹿馬鹿しい話なのですが、この客車に寝ることで、夜中気がつくといつのまにか客車が動いており、薄暗い室内灯にぼんやり照らされながら、客車の前には森製作所のDB81がブリブリいいながら、銀河鉄道さながらに走っている。そんなありえもしないこととわかりつつも、自分は何んでもいい現役時代の感触にとにかく触れたかったからなのであります。しかし、現実は大量のヤブ蚊の襲来と、日中土地の人に聞かされた、死んだ人が年に1回帰ってくるという「迎え盆」という日に来てしまったことで、なかなか眠れない恐怖のどしゃ降りの1夜を過ごすことになるのでした。

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