鹿児島交通今昔物語

 

 鹿児島交通といえば、現役当時はローカル私鉄の代表的な存在で、憧れの鉄道であった。朱色の気動車の独特の雰囲気と、中でもキハ07タイプの卵形気動車の存在。そしてなんといっても、車庫のあった加世田駅にそのままになっていた、蒸気機関車をはじめとする廃車体のワンサカある風景。それが浮き世離れしていて、私の心を捕らえていた。しかし、鹿児島の最南端という地理的な遠さが、訪問をなかなか許してくれず、いよいよ廃止のうわさが出てきた。友人が一足先に廃線の情報をかぎつけ訪問してしまい、私も半分もう行くことは出来ないだろうとあきらめていたところ、廃線が若干延期になったことで、私は最終日ギリギリに訪問を果たすことが出来た。

 

 

 

 行程は九州ワイド周遊券を使用して、東京発大垣行で23:00過ぎに出る。そのまま列車を乗り継ぐと、門司から翌日の23:00頃発の夜行急行「かいもん」に乗れた、それを使って翌日の早朝、鹿児島交通の接続駅「伊集院」に着いたのだから、丸1日以上列車に乗っていたことになる。今から思えばすごいことだが、あのころは車窓風景が面白く、気になる車両や私鉄がゴロゴロしていたので、退屈した記憶がない。さすがにお尻は痛くなり、尾骨がどこにあるのか触らなくてもわかるくらいであったけれど・・・。早朝の伊集院のホームには月に照らされたキハ300がアイドリングしていた。しかし、この頃はもう鹿児島交通は台風の影響で分断されていたので、日置までは代行バスで、途中から同行した増田氏にくっついて日置へ向かった。氏は鉄道ピクトリアルなどで活躍中の人であったことから、撮影地など任せるがままにくっついて行ったので、それなりのところで撮ることが出来たのだが、自分の判断ではないというのは怖いもので、どこをどう動いたのか定かではなくなってしまった。加世田で撮ったもの以外、撮影地もわからないのであるから情けないものである。途中の駅で、お別れに来た園児と出会った。記念撮影をしてあげ、後日焼き増しして年配の園長先生にお送りした。この子たちも今は大きくなっているんだろうなと思うと、だれかが偶然このページにアクセスして、「幼い自分を見つけてびっくりしてくれないかな。」などと思ったりする。

 

(小さすぎて顔わかりませんネ。)

 

 陽も傾き始めた頃、最初で最後といわれる気動車4両の長編成の列車が走り、

いよいよ最終列車に引き継がれていった。

 

 

 本当の最終列車に立ち会うのはこの時が始めてで、たくさんの人のあふれる加世田駅構内で、必死になって花束贈呈などを記録した。この列車が何時頃だったのか覚えていないし、それまで何をして時間を過ごしていたのか、その後どうやって「かいもん」に乗り込んだのが思い出せない。(いつか増田氏に会ったら聞いてみよう・・・。)

 

 

 数カ月のち、写真を送った園長先生より思いがけず荷が届いた。写真の返礼として「薩摩白波」という焼酎が、何本も入っていた。当時はまだ高校生、「そんなに老けて見えるんかいなぁ・・・。」家族で笑ったが、なんともうれしかった。一口だけなめてみたが、とてもきつくて苦笑い。部屋に並べていつまでもニヤニヤしていた。

 今でも酒は強くないが、「薩摩白波」の名前を見つけるとこの時の思い出が、芋焼酎の独特の臭いとともによみがえる。それは背伸びをしても大人になれなかった時代の、少しだけあったかい思い出である。

 

 

「再び加世田へ」に続く