47歳からの鉄

 

 

「駒形石灰2012」 

 

 

 駒形石灰と言えば、ナローにはまって調べていく内にたどり着いた憧れの軌道であった。一体何年まで走っていたのだろう。私はここもタッチの差で現役を見ることはかなわなかった軌道である。

 

 

  

 

 

 

 

 

 今回再び訪れるきっかけとなったのは、Rail Magazine2012-3に田中義人氏の写真が掲載されたことにある。何度か廃線跡には行くのだが、どうにも軌道跡がはっきりしない。これだろうと思って歩いていくと、へんなところに流れてしまうし、突き当たりになったりする。すっきりしない日々を送っていた自分にとっては、今回の資料はまたとない連続カットであった。(さすが名取編集長〜。)

 東武の1800系を撮り始めたら、午前中の撮影だけのつもりが面白くて、午後の返しまで撮影。到着が夕刻になってしまった。まずは当時電車で訪れては降り立った、思い出の葛生駅を見に行く。「変わってないな〜。」ちょっとホッとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 起点か終点の端から確認したかったが、とにかく狭い道なので、かつての記憶から、中間の路地を入って行ってみる。あたりをつけるが、やはり全く違う工場に行ってしまう。「そういえば、さっき火の見櫓があったな・・・。」文中にも火の見櫓が載っていた。(p89)

車を戻してウロウロしていると、おばあちゃんが不思議そうに見ている。路地を軌道跡に仮定し位置関係を見るのだが、どうにも合わない。「この櫓じゃないのかな・・・。」自信なくなってきたとき、櫓の脇の掲示板が気になって、本の写真と方向性を合わせてみた。なるほど軌道跡は道路ではなく、櫓を挟んで反対の土盛りの所であった。

「何か良いものありましたか?」おばあちゃんに話しかけられて、本を見せたが、こんなトロッコなど、夢中になるのはとうてい理解してもらえないだろうと、余計なことは言わずにいた。案の定、おばあちゃん達はトロッコに興味を示すこともなく、「フムフム。」と当時の写真に軽くうなずいて終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一箇所見つかると後は早い。まずは東武への積み出しホームのあった方へ向かってみる。p90の小道と合流するところ、倉の前にあった木が成長してわかりにくいが、当時のままの倉もちゃんと残っている。この先へ車を進めると、軌道跡は今でも盛業中の東京石灰の敷地になり、門扉に阻まれる。仕方なしに引き返して工場側へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 火の見櫓へ戻って工場側、軌道跡は砂利道になっている。p89にあるカット。左側の家は当時の写真にも写っている。この先、道路は鋭角に曲がっていて、車で抜けるのはとてもきびしい。

 

 

 

 

 

 

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