47歳からの鉄

 

 

「駒形石灰2012」 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 この小川の辺りは今まで全然配線がわからなかった所だった。写真とよく似た橋が残っていて、初めはそこを渡っていたものと思ったが、よく検証してみると軌道は右側のカーブミラーのある植え込みの所を走っていた。なるほど今までわからなかったわけだ、今回の写真でやっとすっきりした。当時の橋は上の写真、一番奥の辺りになるが、道路の拡張工事で造り直されてしまったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 橋を渡った軌道は、併用軌道で道路を走り、工場へと入っていった。その工場にはKATOが保存されている。ノッポの方で、私が大好きなタイプだ。きれいになったKATOは大切にされているのだろうけど、何か私の求める心中のものとは、別物となってしまったようだ。この機関車の後を追いかけて、喜々として走り回ることは、もうないのかと思うと、残念でならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 傍らにはトロッコが転がっている。写真に写っているものとは、違うタイプだ。工場内は建て替えられているので私の訪問した頃の面影はない。

 

 

 

 

 

 

 一棟だけ埃をかぶった建物があったので、何か手がかりはないかと思って本を見てみたら、軌道脇に写っていた。道路の拡張で事務所のあった敷地がなくなった様子で、軌道跡は道路脇の植え込みあたりだと分かった。

 

 

 

 

 

 

 今回の写真は昭和50年の撮影だから、私の初訪問の5年ほど前、本当にわずかな差で撮影できなかったことになる。あの日、KATO会いたさに訪れたのは、自転車を輪行しての訪問だったか、夏の日差しの強い日で、木造で味のある事務所で来意を告げると、事務員のお姉さんが冷たい麦茶を振る舞ってくれた。セミの鳴く声と青空と、白く光った街。あの印象が葛生として私の心に焼き付いている。いまでも写真を掻き集めることで、当時を取り戻せないものかとあがいている。あの感覚が心地よくて追い求めている。無駄とはわかっているのに・・・。

 沈黙した2台のKATOを前に、もう少し生まれが早ければとため息ついたものだ。それも海外へ機関車を追い求めることでようやく踏ん切りもついた。かろうじて出会えた、あの埃まみれの昭和復興期の戦士は、今は心の中でしか走っていない。それが何とも口惜しい。

 こんな専用線の写真がいっぱい載った本が出ないものかと思う。RMライブラリーの別冊で、専用線ものはさすがに無理だろうか。

 今回の訪問で長年のモヤモヤは霧散し、とてもすっきりしたが、またナロー熱が上がり始めた。また海外へ行かなくては。のどがカラカラだ。

 

 

 

(2012.4.30記) 

 

 

 

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