MASTERPIECES OF ISLAMC ARCHITECTURE
ラホール(パキスタン)
ラホール城ーラマール庭園

神谷武夫

ラホール

所在地:パキスタン東部、パンジャーブ州
首都イスラマーバードの南東約 260キロメートル
登録年および基準:1981年文化遺産

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 北インドを支配したムガル朝の皇帝はしばしばラホールに宮廷を移し、城壁や宮殿やモスクを造営して堅固で壮麗な都へと発展させた。パンジャーブ地方の栄枯盛衰のなかで生きつづけたラホールの建築遺産は、 ムガル帝国の最盛期の様式の移り変わりを余すところなく今に伝えている。一方、ラホールのかつての郊外につくられた 楽園としてのシャーラマール庭園は、ペルシアに起源をもつ造景術を受け継ぎ、夏の暑さに難渋する市民に今も安息の場を提供している。



パンジャーブの星

ラホール城と大モスクの衛星写真

「キムは皆の制止を無視して、ザム・ザマの大砲に馬乗りになった。その大砲は、今ではラホール・ミュージアムとなっている驚嘆すべき建物 アジャイブガルの前面の、レンガの台座の上に聳えていた。」1901年に出版された名作小説『キム』の著者 ラディヤード・キプリングは、その小説の冒頭をラホールの街から書き出している。1000年にわたって「パンジャーブの星」とうたわれたラホールの都は インド亜大陸の北部に位置して、この地方の文化的な中心地であった。伝説によれば、黄金でおおわれた巨大なザム・ザマの大砲は、この地方全体の安全を守り続けてきたという。この大砲ほど、紛争に明け暮れたパンジャーブ(五河)地方のドラマチックな歴史を雄弁に象徴するモニュメントはあるまい。

 けれどもザム・ザマの大砲は、1848年に 2回の砲撃を受けてひどく損傷した。そのちょうど 1世紀後、インド亜大陸はインドとパキスタンに分割され、パンジャーブ地方もまた両国に二分されてしまうのである。インドにとっての穀倉地帯であり、シク教による改革運動の地でもあったパンジャーブ地方は、その歴史的統一と血縁の絆が決定的に断ち切られてしまった。鉄条網の双方に軍隊が配備されたインドとパキスタンの国境は、現在、ほかのどこの国境よりも固く閉ざされている。

ザム・ザマの大砲(From Wikipedia)


ムガル朝の宮廷建築の継承

 その運命的な大砲からほど遠からぬラホール城塞の内部には、赤砂岩と白大理石で建造された多数のモニュメントがある。それらはデリーとアーグラにつづいて、ラホールがムガル帝国の新たな都となった幸福な時代をしのばせてくれる。幾度も征服や攻囲にさらされたラホールでは、21棟の歴史的建造物は しばしば被害を被り、城壁も数度の再建を余儀なくされた。それでも宮殿や城門、そしてモスク群は、1584年にムガル朝のアクバル帝(在位 1556〜1605)によって居城とされた当時の雄大な姿を、今もとどめている。
 16ヘクタールもの広さをもつ城内に残されているラホールの建築遺産は、17世紀から18世紀にかけて展開した最盛期のムガル建築の発展過程を、つぶさに見せてくれる。広大な版図をもつ帝国内においては、それぞれの地域が独特な地方様式を生んだものだが、パンジャーブの首都ラホールでは、もっぱらムガル朝の宮廷建築のスタイルをのみ移植したのである。

ラホール  ラホール
ハズーリ庭園とアラムギーリ門


多彩な宮殿群

 ラホールの城塞はラーヴィー川の岸辺に位置している。ここは かつてラハーワルとよばれ、11世紀初頭までヒンドゥ教徒の君主の居城であった。トルコ系のガズナ朝によってこの地が征服されると、ムスリム(イスラム教徒)はまずラホールに移り住み、その後1世紀にわたってデリーを攻略した。
 1241年には モンゴル族がこの地を襲い、日乾しレンガの古い城壁を破壊して 街を略奪した。その後城壁は再建されるが、1398年にティムールの軍隊によって再び破壊される。ムガル帝国の第3代皇帝アクバルは、古い日乾しレンガの城壁を焼成レンガと砂岩による堅固な城壁に建て替えた。さらに城壁を北側に拡張し、東側には半円形の稜堡(りょうほう)と銃眼をそなえたマスティ門を建設させた。彼の後継者の皇帝たちは、その後 12に及ぶ櫓を建設して城塞を堅固なものとした。

Lahore Fort___ Lahore Fort
ラホール城内の庭院と公謁殿

 ラホールの城塞に現存する最も古い建造物はアクバル帝の時代にまでさかのぼるが、円柱が40本立ち並ぶことから「40本柱の間」ともよばれる公謁殿(ディーワーニ・アーム)は、第 5代皇帝のシャー・ジャハーン(在位 1628-1658)の建設になる。その大理石によるバルコニー状の謁見台では、歴代のムガル皇帝が毎朝、臣民の敬意と忠誠心に満ちた拝謁を受けたのち、彼らの請願を聞いたり、最高位の判事として訴訟の解決にあたったりした。この列柱ホールは1841年に砲撃を受けたため、40本の円柱のうち オリジナルな柱は 9本しか残っていない。奥の謁見台の石造の方杖(ほうづえ)には、おそらくヒンドゥの職人の手になるとみられる 動物のモティーフが刻まれている。

ラホール城
ラホール城の平面図

 やはりシャー・ジャハーン帝が、高官との謁見に用いるために 1645年に建設した内謁殿(ディーワーニ・ハース)は、アーグラ城のハース・マハル殿をモデルとした。チャールバーグ(四分庭園)に面してすべてが白大理石でつくられ、輝く黄金で惜しみなく装飾されている。内部はもちろん、柱や外壁の立ち上がり部分まで、ピエトラ・ドゥラとよばれる技法による貴石や半貴石の象嵌細工で華麗に飾られた。チャールバーグというのは、ペルシアに起源をもち、建物や塀で囲まれ、水路で田の字形に仕切られた幾何学的な庭園のことで、そこには「楽園」への志向がある。

Lahore Fort
ラホール城の塁壁に残る、モザイク・タイルの壁画

 いっそう大きな幾何学庭園の奥には、かつてジャハーンギール帝(在位 1605-1627)の寝室として用いられた、フワーブガー(夢の部屋)とよばれる建物があり、現在は貨幣と細密画の博物館になっている。数多くの貴重な展示品を収蔵するこの博物館の中でも、アクバル帝の詳細な日記帳とタージ・マハル廟の精緻な模型は特筆に値しよう。
 シャー・ジャハーン帝は、機能的でシンプルな造形の謁見殿とは対照的に、城内の北隅のシャー・ブルジュ(王の館)とよばれる後宮地区には自由な造形の建物群を建てた。メルヘンの世界のように幻想的で豪華な装飾がほどこされたシーシュ・マハル(鏡面殿)は、王妃の寝室である。その内部はシーシュガリとよばれる工芸技法によって無数の鏡の小片が貼り合わせられ、高い折り上げ天井や壁面をきらびやかに飾っている。かつては夜ごとに暖炉に火がたかれ、その光が凸型に湾曲した鏡の小片に反射して、王妃の居室を、鮮やかな色とりどりの星がきらめく空に変えたのである。

ラホール城  ラホール城
ラホール城内の シーシュ・マハルと 真珠モスク

 このそばにはベンガル風の、四隅が垂れ下がった曲面屋根をもつ特徴的な形のナウラハー・パビリオンがあり、その白大理石の壁面はピエトラ・ドゥラによる華麗な象嵌細工で知られている。同じくシャー・ジャハーン帝の時代に建てられたラール・ブルジュ(赤い館)は八角形の建物で、夏の館として用いられた。内部にはシク王国時代のフレスコ画が描かれている。

ラホール城
ラホール城内の ナウラハー殿


火薬庫になったモスク

 旧市内の最古のモスクは、ベグム・シャーヒ・マスジド(王母のモスク)の名からもわかるように、1614年にジャハーンギール帝の母によって建立された。レンガ造の上をプラスターで仕上げられたこの頑健な建物の内部は、美しいフレスコ画で飾られている。礼拝室の中央部は天井と屋根が別々になった二重殻ドームで、そのあいだは木製の支柱が支えている。ラホールではそれまで知られていなかった構法であった。ドーム天井は、その前面の半ドーム状のピシュターク(入り口部)と同様、スタッコの面取りと彩色で華やかに装飾されている。
 1645年には、3つのドーム屋根をもつ王室礼拝堂が建立された。これはすべてが輝く白大理石でつくられたので、デリーやアーグラのものと同じくモティ・マスジド(真珠モスク)とよばれる。小規模ではあるが、その均整のとれた形と清楚な仕上げは、まさに真珠のような軽やかな印象を与える。シャー・ジャハーン帝によるこのモスクは、盛期ムガル建築の典型例とみなされよう。

ラホール  ラホール
バードシャーヒ・モスク

 ラホールで最も重要なバードシャーヒ・モスクは、1673年にアウラングゼーブ帝(在位 1658-1707)によって、市のジャーミ・マスジド(金曜モスク)として造営された。小規模なハズーリ庭園を隔てて城塞と隣りあうこの巨大なモスクは、「4本のミナレットはまだ残しているものの、礼拝室はイスラム教に対して反感をもつシク教徒によって、火薬庫に変えられてしまった」と、1866年にこの地を訪れたフランス人旅行家、ギヨーム・ルジャンが書き残している。

 真珠モスク(モティ・マスジド)とバードシャーヒ・モスクのいずれも、ムガル建築の最も成熟した作品であることに疑問の余地はないが、ラホールの建築遺産はデリーやアーグラのムガル帝国の建造物に比べると、優美さの点において一歩譲っている。バードシャーヒ・モスクはインド亜大陸で最大の広さをもつモスクである。下部の赤砂岩の壁と上部の白大理石による3つの大ドームの対比は鮮やかであるが、同時代のムガル朝のモスク建築と比べると、このモスクのデザインや仕上げは、やや密度が薄い印象を与える。

 タージ・マハル廟のドームを模した中央ドームは、ペルシア風の2層分の高さのイーワーン(中央入り口部の半ドーム空間)の上にそびえている。中庭を囲む四方の隅には八角形のプランをしたミナレット(礼拝の呼びかけをする塔)が高く建ちあがり、ミナレットは先端にいくにしたがって細くなって、頂部にインド風のチャトリ(小塔)をいただいている。
 アウラングゼーブ帝はこのモスクと宮廷とをつなぐために、新たに城塞の西側に壮麗な門を建造した。このアラムギーリ門は入り口の左右に円形の稜堡をそなえ、その上部にも大きなチャトリをのせている。稜堡の基部が蓮の花をかたどっているのも興味深い。

悦楽の園、シャーラマール庭園

 ムガル帝国によるラホールの統治 (1527-1767) と分かちがたく結びついているのは、シャー・ジャハーン帝が 1642年に造営したシャーラマール庭園である。現在は市内に組み込まれているが、かつては旧市から8キロメートルの郊外にあった。この 16ヘクタールもあるみごとな庭園は、全体が3段の露壇状をしていて、ふたつの広大な(300メートル角の)正方形の四分庭園が、細長い矩形(くけい)の小庭園をはさむ構成をとっている。それぞれの庭園はまた、交差する水路と細い園路によって田の字形に分割され、完全な幾何学的プランとなっている。これは『コーラン』が描く天上の楽園の、現世における実現であった。

シャーラマール庭園の平面図
(From "Islamic Architecture of Pakistan" by Ahmad Nabi Khan, 1990, Islamabad)
純粋に幾何学的なシャーラマール庭園は、直線的な園路と水路で正方形単位に
分割されている。要所に園亭が建って日陰を提供し、水路には噴泉が一列に並ぶ。
諸処の床にはレンガや色石の寄せ木細工で星形のパターンが作られている。

 シャーラマール庭園を設計したのは建築家のアリー・マルダン・ハーンと伝えられている。このシャーラマール庭園と シャージャハーナーバード(現 オールド・デリー)郊外の同名の庭園とは、カシュミール地方のシュリーナガルにおいてアクバル大帝が始め、のちにシャー・ジャハーン帝が拡張した、やはり同名の有名な庭園に範をとったのであろう。

 ルジャンはこの庭園について次のように書き残している。「シャー・ジャハーンの庭園もまた、ムガル皇帝たちがいかに壮大なものを好んだかをよく示している。歩いて小半時もかかる広大な庭園は3段のテラスからなっていて、巧妙な給水装置が、ここかしこにある 400から 500もの噴水に水を送っているのである」

シャーラマール  シャーラマール
ラホールのシャーラマール庭園

 シャーラマール庭園の設計者は、庭園の舗装パターンと花壇をレンガによって星形の連続模様とした。タージ・マハル廟の庭園では、1本の果樹と 2本の糸杉がくりかえす構成をとっているが、シャーラマール庭園では 2本の果樹と 1本の糸杉がくりかえす配列になっている。

略奪された都

 ムガル帝国が衰退すると、ラホールはアフガンに奪われ、1770年にシク王国に売り渡された。シク教徒はこの都を保護するどころか、むしろ略奪をはたらき、シャーラマール庭園にも深刻な被害を与えた。彼らはシク教の聖地であるアムリトサルの町と寺院を飾るために、ラホールの城塞内の宮殿や旧市街の建物を仕上げていた白大理石を奪っていったのである。こうして、1866年にルジャンがラホールを訪れたとき、ムガル皇帝の大理石の宮殿群はまだ残っていたものの、すでに多くの建物が損傷を被っていた。

 1845年から 1849年にかけてのシク戦争の結果、ラホールの一帯が大英帝国に併合されたときには、「パンジャーブの星」は「崩壊した建物の残骸で一面おおわれていた」。ラディヤード・キプリングが最初にこの町を訪れたときには ひどい退屈と恐ろしい幻覚に襲われ、ここを「恐怖の夜の街」と形容したものだった。ラホール城は 19世紀に陰鬱な牢獄として用いられていたのである。1927年になってやっと城塞の保存計画が始まり、先に修復されたシャーラマール庭園は、今は市民の憩いの場所となっている。

(『ユネスコ世界遺産』インド亜大陸 1997 講談社)


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