BAM, DESERT TOWN in IRAN

砂漠の城塞都市、バム

神谷武夫

バムの城塞都市


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イラン南東部大地震

 2003年 12月 26日の未明、イラン東南部のルート砂漠で大地震が起こり、震源地に近いバムの町は 壊滅状態に陥った。死者の数は4万人に達するようである。 バムとその周辺の人口 12万人の3分の1だという。世界には災害の種が尽きない。大地震は毎年のように 世界のどこかに起きて、そのたびに 数千人から数万人の人が命を失う。日本にも阪神大震災が起こったが、3年前には 西インドのグジャラート地方で大地震が起こり、死者は2万人、震源地に近い ブジの町が壊滅的被害をこうむった。その2年前にはトルコで大地震が起こり、死者は 1万7,000人にのぼっている。
 今回のイラン地震では バムの城塞都市の遺跡が大きな被害を受けた。そのバムの遺跡とはどのようなものかを、ここに建築面から紹介しておきたい。

バムの城塞都市   バムの城塞都市
     東の市壁から町を見る  城塞から城下町を見下ろす

 中東の多くの国と同じように、イランは国土の大半が砂漠である。砂漠の中にも人は住み、都市がある。紀元前の昔から ラクダの隊商による東西貿易が行われ、砂漠の中の中継点には 都市が形成された。隊商の通行税や 物資の補給基地としての役割によって こうした都市が栄えたのは、シリア砂漠のパルミュラや 西インドのタール砂漠における ジャイサルメルなどと同様である。
 そうした砂漠都市の地形的な成立要因は、地下水に恵まれたオアシスであることと、外敵からの防御のための要塞を築く丘があることの2点である。バムはその条件に合致していた。丘の上に城塞(シタデル)が造られ、その周囲に城下町ができ、町全体が市壁で囲まれたのは ジャイサルメルとよく似ている。水が得られることから、古来 オレンジとナツメヤシの栽培が行われた 農業都市でもあった。遺跡の手前の、緑豊かなオアシスは、土色一色の城塞都市と 鮮やかな対比を見せている。

 バムのオアシス 
オアシス都市としてのバム

 しかし、これだけの緑化地域は、ここの地下水だけでは足りない。イランの多くの村落と同じように、山から何kmもの距離にわたって水を引いてくる「カナート」(地下の暗渠水路)が用いられてきたのだが、今回の地震で、そのカナートも大きな被害をこうむり、オレンジやナツメヤシの栽培に 支障をきたすだろうという。


城塞都市、バムの歴史

 都市の起源は紀元前にまで遡り、ゾロアスター教の拝火神殿のある 聖地でもあったらしい。城塞都市として確立したのは ササン朝ペルシアの時代(3世紀から7世紀半ば)である。642年にはアラブに征服されてイスラーム化した。11世紀にはセルジューク朝に略奪され、14世紀末には モンゴルのティムールによる破壊、1722年にはアフガンの侵攻、1794年にはザンド朝の最後の王 カリーム・ハーンがここに避難したが カージャール朝のアーガー・モハンマドの追撃によって滅ぼされ、住民の多くが殺されたという。
 このように数々の受難をこうむってきたが、そのつど都市は再建されてきた。現在残る遺構に 16世紀以前のものはない。石造の町に比して 破壊するのもたやすいが、再建するのも比較的容易だった とは言えよう。

バムの城塞
丘の上にそびえる城塞

 木材がないことから、建物はすべて 日干しレンガで建てられた。日本に木の文化があり、ヨーロッパに石の文化があるとすれば、中東の砂漠地帯には 「土の文化」 が連綿と受け継がれてきた。粘土にスサを混ぜて固め、天日に乾かした日干しレンガ(燃料にするだけの木材が得られれば 焼成レンガ)で屋根を架けるには、アーチの発明が不可欠であった。メソポタミア(現在のイラク、シリア)では紀元前 20〜30世紀に アーチ、トンネル状のヴォールト、そしてドームの架構技術が発明された。それによって、小さなレンガを積み上げるだけで、どんな大きな建物も造れるようになったのである。
 千夜一夜物語で名高いバグダードの都も、762年に すべて土によって建設された。したがって、ひとたび破壊されてしまうと、すべては大地にかえり、あとかたもなく消え去ってしまう。アメリカ軍によって爆撃された 現在のイラクの首都 バグダードは、それより後につくられた ニュー・バグダードである。

バムの城塞
城塞の広場を囲む建物の屋根

 バムの町もまた、はっきりした原因はわかっていないが、今から 150〜200年前に放棄されてしまい、風化作用によって 次第に大地にかえりつつあった。現在のバムの町は そこから少し離れて、近世になってつくられた ニュー・バムである。ちょうどインドのゴアが コレラやマラリアの蔓延によって オールド・ゴア(ゴア・ヴェルハ)が放棄され、海辺に ニュー・ゴア(現在のパナジ)の町が建設されたように、ここにも伝染病が猛威をふるったために、オールド・バム(アルゲ・バム)が放棄されたのかもしれない。
 20世紀になって、ここは軍隊の兵営として用いられたらしいが、1932年には完全に棄てられて、荒廃するにまかされた。しかし戦争で滅ぼされたのではないから、オールド・バムにはサファヴィー朝の時代(16〜18世紀)の都市の構成が 完全に保存されている。150〜200年を生き延びてこられたのは、ほとんど雨が降らないからである。中東の土の文化を、視覚的にこれほど鮮やかに見せてくれるところはない。私も大学で土の文化を講義する時は、必ず バムの町のスライドを映すことにしている。
 ハタミ大統領は 12月 30日に、バムの市街地を再建するともに、アルゲ・バムの城塞都市の遺跡も 復原するつもりであることを表明した。

鳥瞰写真
市壁で囲まれた都市の鳥瞰写真(上部が城砦部、下部が市街地)
(From Iranian Cities, Heinz Gaube, 1979, Yew York University Press)


平和憲法と海外派兵

 私がこの町を訪れたのは 1980年の5月だから、今から 24年も前のことである。当時は まだ観光化していず、訪れる人は稀だったから、崩れかけた建物が整然と並ぶ 無人のゴースト・タウンを歩くのは、少々不気味でもあった。その後、建物が修復されたり再建されたりして 観光地となり、イラン政府はこれを ユネスコ世界遺産に登録申請するつもりだったようだが、今回の地震で 無残にも破壊されてしまった。

 バムの城塞 
城塞の建物の内部空間

 私がトルコから 陸路でイランに入ったのは イスラーム革命の直後であり、イラクとの小競り合いが始まった時なので(まもなく全面的なイラン・イラク戦争となる)、トルコの観光局からは行くのを止められたものだった。当時テヘランのアメリカ大使館が学生たちに占拠され、大使館員全員が人質とされてしまい、それを救出しに行った米軍のヘリコプターが 大使館に至る手前で墜落してしまった、ちょうどその日に 国境を越えたのだった。
 外国人観光客はまったく見られず、どこの町でも 女たちがデモ行進をして、「アメリカ、殺せ!」とシュプレヒコールをあげていた。しかし日本人には何の危険もなく、どこでも歓迎された。イラン人は親日的である。バムの町に一泊すると、朝、日本人がいると聞きつけたイラン人が ホテルに訪ねてきた。私がパキスタン国境近くのザヘダンに行くと知ると、ザヘダンに行く乗用車を見つけてきてくれ、その助手席に座らせてくれたのである。

バムの城塞都市   バムの城塞都市
市街地の半壊した土の建物

 日本は平和憲法のおかげで、世界中どこへ行っても 敵対感情には会わず、歓迎されてきた。逆にアメリカは イスラーム圏のどこでも嫌われている。その淵源は パレスチナ問題に対するアメリカの姿勢にあるだろう。湾岸戦争の時には アルジェリアとチュニジアを旅したが、ホテルのレセプションに着くなり、あなたはアメリカの味方か敵かと、真っ先に問われたりもした。日本の新聞が イラクのフセイン非難の大合唱をしていた時にも、イスラーム諸国の人々の民衆感情は フセインを応援し、アメリカに敵意を見せていたのである。
 しかし、ついに日本はその平和憲法を反故(ほご)にして、同盟国アメリカに協力し、イランの隣国のイラクに 軍隊を派遣しようとしている。これまで日本が築いてきた、宗教や体制の違いをも超えた 諸国の信頼を、まさに棄て去ろうとしている。

 イスラーム教が他の宗教と違うところは、宗教が国家よりも上位にあることである。人々は一国家の住民であることよりも、イスラーム世界(ダール・アルイスラーム)の成員としての連帯感の方が強い。 日本の自衛隊がイラク人に銃を向ければ、これは イスラーム世界全体を敵にまわすことになる。
 平和憲法は、世界に誇れる 日本の文化遺産である。姫路城よりも 法隆寺よりも 価値の高い、現在も生きている世界遺産である。憲法違反の海外派兵をすることは、大地震がバムの城塞を破壊したのにも劣らず、情けないことだろう。

(2003年12月30日)

バムの若者たち
親日的だったバムの若者たち。 彼らは無事だろうか



参考文献
"IRANIAN CITIES" by Heinz Gaube, 1979, New York University Press
『 イスラムの建築文化 』 アンリ・スチールラン著、1987、原書房
『 楽園のデザイン ― イスラムの庭園文化 』 ジョン・ブルックス著、1989、鹿島出版会





地震の3年後の 2007年、28年ぶりに再訪しました。遺跡は その後 ユネスコの危機遺産に登録され、大部分を立ち入り禁止として修復工事を進めていますが、崩壊した日乾しレンガ造の街並み全体を元通りにするというのは 至難の業です。この先 10年かかっても終わらないのではないかと思いました。

修復工事   修復工事
2007年 3月28日 復旧工事中のアルゲ・バム


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