THE WORK of HASSAN FATHY in EGYPT

ハッサン・ファティの仕事

神谷武夫


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エジプトの 近代建築

 イスラーム圏の諸国が 植民地支配から脱するのは 20世紀の半ばである。それまで ヨーロッパ列強から徹底的に富を搾取されたために、大半は貧困国になっていた。建築は 経済の安定なしには発展しないものであるから、欧米がモダニズムの建築の爛熟期を迎えようとしていた時、イスラーム諸国は 貧困との闘いから始めねばならなかった。また植民地時代には 自前の建築家養成機関も 持てなかった国が多いので、見るべき建築的展開は あまりなかった と言える。
 ところが、かつては不利だった砂漠的風土の土地に 石油が採掘されるようになると、産油国は急速に富裕国となり、先進国の建築家を招いて 建築や都市の開発を推し進めるようになる。そこでは 伝統に考慮しない 西洋的近代建築が風靡しがちである。ムスリムが人口の大半を占める国においても、もはや 新しく建てられる建物を ア・プリオリにイスラーム建築と呼ぶわけにはいかない。現代のイスラーム建築とは、宗教建築と、イスラームの伝統を強く意識した建築 のみをさすことになるだろう。

  
ニュー・グルナのモスク(エジプト/ルクソール)1946年



ハッサン・ファティ

 イスラーム建築の近代を語るときに 不可欠の建築家が、エジプトの ハッサン・ファティ (1900 -89) である。ところが 彼の作品の写真を見ると、それらは近代建築ではなく、伝統的な、それもヴァナキュラーな建物のように 見えることだろう。実際は ル・コルビュジエの3歳年下、ルイス・カーンの1歳年上の 同時代人である。彼らとの違いは、途上国に生まれ育った ムスリムの建築家だったことで、貧困国における環境の改善と建築の実現に 一生を費やしたことである。
 当時の「第三世界」への彼の影響力は、西側諸国における ル・コルビュジエのそれに匹敵するものだった。彼の著作 『貧者のための建築 (Architecture for the poor) 』は、日本では まったく知られていないが、イスラーム圏ばかりでなく、途上国の若い建築家たちにとっては、「バイブル」あるいは「クルアーン」のような役割を果たした。

      
   ニュー・グルナのモスク 平面図     ハッサン・ファティ『貧者のための建築』
(Plan from "Hassan Fathy" James Steele, 1988, Accademy Editions )


ニュー・グルナでの実践

 ファティは裕福な家に生まれたので カイロの大学で西洋の建築を学んだが、1926年に卒業後、村の人々の 貧しい住環境にショックを受けた。それを改善するのに ヨーロッパの鉄とコンクリートの近代建築は、経済的にも美学的にも まったく ふさわしくない。ローコストで 砂漠的風土にあった建築を探求するうちに、昔の日乾しレンガの建物では 型枠を用いずに 斜めにアーチを寄せ掛けて 半円筒形ヴォールト屋根をつくっていたことに気づいた。その技術は すっかり失われてしまった かと思われたが、アスワーン地方のヌビアの村々には残っている のを見出し、その職人をカイロに呼んで 日乾しレンガの家を建てた。

  
ニュー・グルナの小劇場 1946年

 この技術を用いて 新しい住区や町をつくることを提案し、ルクソールの遺跡群の近くの グルナ村を移転させるための ニューグルナを、これ以上 安い材料はない日乾しレンガで、風土にあった(つまり 夏に涼しく 冬に暖かい)ローコストの町を実現したのである。さまざまな障害のために、実施されたのは 計画の5分の1であったが、またローコストのゆえに 先進国の建築作品のような恒久性もないが、モスクは 今も人々に愛されて使われている 名作である。
 イスラーム建築の原理というのは 近代建築のそれに近い と何度も述べたように、これも 素材の正直な使い方による小ドーム屋根を連続させた、構造表現主義の 裸の近代建築である。わずかに ドーム下部のスキンチと 中庭に面する開口部の格子(ムシャラビーヤ)が 装飾の役割を果たしている のみである。このモスクは アフリカと中東における、新しい 地区モスクの手本となった。ファティが果たしたのは、荒廃した国土と 混乱した文明における、イスラームの建築伝統の 復興と近代化だったと言えよう。

  
ニュー・グルナのアブデル・ラーディ邸


ニュー・バリス計画

 ニューグルナのタウン・プランニングにおいても、彼は ヨーロッパの手法の引き写しはせず、イスラームの伝統的な方法や技術を活かすことに努めた。厚い壁の中庭型の住居群に、ハーン、ハンマーム、マーケット、工芸工房を計画し、さらには 定型舞台の野外劇場をつくっているのは 興味深い。この仕事が 展覧会や著作で知られるにつれて、個人住宅ばかりでなく、さらに大きな住区や町の計画も依頼されるようになったが、第2次世界大戦の影響で木材が不足したこともあり、彼は終生、日乾しレンガによる ヴァナキュラーな建築を つくり続けたのである。

  


ニュー・バリスのスークと住居棟(ハルガ・オアシス)

 1960年代には 農業開発コミュニティとして ニュー・バリス村の計画をしたが、第3次中東戦争のおかげで、これも中断してしまったのは 惜しまれる。荒野に放棄されたままの それら日乾しレンガの近代建築は 直角の秩序で構成され、アーチとドームと半円筒形ヴォールト、そして幾何学の格子窓が連続する、まぎれもないイスラーム建築の伝統である。

(2006年『イスラーム建築』第5章「イスラーム建築と現代」)


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