真昼の星 8

 

 お母さんとそれ以上話をしたくなくて、可奈は家を飛び出しました。可奈に見えるのは真っ黒いかげでした。そんなものがお母さんの体の中にも、可奈の体の中にもあるのです。
「お兄ちゃんに会わなきゃ」
 可奈は思いました。会って確かめなければいけないのです。そうしなければ、可奈の体の中にも真っ黒なかげがどんどん増えていくにちがいありません。
 夕日はずいぶんとかたむいてしまっていましたが、可奈はお兄ちゃんの住んでいるアパートへと急ぎました。家族が近くにいるのに、お兄ちゃんはひとりでアパートに暮らしているのです。可奈はそのことをひどく寂しく思いました。

 お兄ちゃんは可奈が来るのを知っていたようでした。可奈の好きなお茶とお菓子があらかじめ小さなテーブルに用意されています。そして、携帯電話を取り出して「お家にかけるよ」と可奈に言いました。可奈が息を切らしながら首を振ると、「どこにいるか知らせるだけだから」と言って連絡をしました。
 ずるいと可奈は思いました。お母さんたちとは違うと思っていたのに。すぐにお母さんたちが迎えに来て、可奈は家に連れ戻されるんだ。
 可奈の表情から読み取ったのでしょうか、お兄ちゃんは「飲みなさい」とお茶をすすめました。可奈はそれには答えずにお兄ちゃんを見つめます。それでもどんなに見続けても、お兄ちゃんからは真っ黒なかげなど見つからないのでした。
 可奈は大きく深呼吸をして、お茶の入った茶碗を手に取りました。お茶はもうぬるくなっていましたが、ハーブのやさしい味がしました。可奈の好きな葉っぱでした。

「可奈ちゃんが聞いた話は 本当のことだ」
 お兄ちゃんははっきりと言いました。可奈がお茶を飲み終わって、顔をあげたときでした。何と切り出してよいか、可奈はぐずぐずと迷っていたのです。
「でも、彼女は言ってくれたんだ。『あなたが笑っていると、わたしもうれしい』ってね。そして、最後まで笑っていたよ。」
 お兄ちゃんはどこかさびしそうで、でも、とてもうれしそうな顔をしました。
「だから僕は自分の進む道をもう一度自分で決めたんだ。彼女が信じてくれた道だから、最後まであきらめるつもりはないよ」
 可奈の目には、お兄ちゃんの中にきらきら光る星が明るく輝いているのが見えました。
 私の中にもあるのかな?真っ黒いものだけではなくて、あんなに輝いているものがあるのかな?
 可奈は思います。
 何かできることが、私にもあるのかな?
 可奈は言いました。
「お兄ちゃんは何も悪くないよ。だから、私もお兄ちゃんの好きなようにすればいいと思う」
 お兄ちゃんは可奈の言葉に笑ってくれました。だから可奈もうれしくなったのです。
 可奈は体のなかがぽかぽかとあたたかくなるのを感じました。
 あの井戸の底で、星を手の平にのせたときと同じです。とてもあたたかい何か。どこかなつかしいもの。 可奈の中にもお兄ちゃんと同じような星があったのです。
 可奈は自分の周りの人たちを思い浮かべました。
 いつも怒って心配ばかりしているお母さん。仕事で忙しいお父さん。仲のよい友だち。そして、まだ会ったことのない人たち。二度と会うことの出来ない人たち ―― 。
 きっと、誰の心の中にもそれはあるのです。
 ただ、 井戸の奥にあって、とじ込められてしまっているのです。
 それを掘り起こすことさえできれば、だれでも、ちゃんとそんな星を持っているのです。
 彼女がお兄ちゃんにのこした言葉のように、お兄ちゃんがわたしにくれた言葉のように。

「わたしね……真昼の星をみつけたよ」
 そう可奈が言うと、お兄ちゃんは静かにうなずいたのでした。

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 お母さんはそっと『真昼の星』という題名の本を閉じました。
 ななちゃんは途中で眠ってしまっています。
「あなたが生まれるのをお父さんも楽しみにしていたのよ」
 お母さんは、ななちゃんが目をさまさないようにつぶやきました。
 一度もななちゃんはお父さんに会うことができなかったけれど……。
「お父さんもお母さんもあなたのことがずっと大好きよ」
 部屋の照明が消され、扉が閉められました。
 ななちゃんは、きっと楽しい夢を見ていることでしょう ―― 。