大慈弥崇 1993年1月に渋谷アピアでソロ活動スタート。毎月1回のアピアLIVEは現在まで続いている。また同時に「大慈弥崇と時の人」というバンドも活動中。これまでに2枚の自主制作アルバムを発表。こよなくチャボを敬愛し、生涯唄うたいを目指す。ソロとしては今回が初の音源化。
ハモニカ楽団 1998年、前身の「くれいじー・らくーん」結成。今年より「ハモニカ楽団」に改名。大槻智美、作詞/作曲/ボーカルを核としたポップ・ユニット。新宿シアターPOOを中心に演奏活動。今回は大槻泰永アレンジ、トーマス市川エンジニアの布陣で初のレコーディングに挑戦。
生がき 1982年、ロック不毛地帯岩手にて鮮烈デビュー。過激で笑えるLIVEが圧倒的な支持を受ける。上京後はドラムが転勤の為、やむなく活動を中止。最近はマイペースに年に1〜2回の演奏活動。今回収録のうちの1曲は、秋山氏(元オリジナルラブ)が特別参加でドラムを叩いてる。
真黒毛ぼっくす 1985年結成。太陽レコードにて一躍有名になる。その後、自らのレーベル青空レコードを設立しアルバム2枚発表。活動休止を経て大槻泰永のソロユニットとして復活。去年、3rdアルバム「歓びのダンス」を発表し健在ぶりを示す。今回は打ち込み&アコースティック編成にて收録。
Midnight Telephone 1989年にMidnightTelephone結成。打ち込みユニットとして活動するも半年で活動休止。1997年10月再始動。初心に帰り、アコースティック・デュオ形態。そして今回初の音源化。渋谷GIG-ANTIC等を中心にLIVE活動中。来年にはフルアルバム作成を予定している。
作者による真黒毛ぼっくす曲解説
○ウェディングソング
「結婚式には結婚をする」ってまさか結婚式に離婚する奴はいねえだろう、と自分で突っ込みたくなるほどの赤裸々な真理を唄った名曲。
確か1995年の夏頃に大学時代の先輩M氏の結婚式がありまして、二次会で何故か私が1曲唄うということになった。それでこの「ウェディングソング」作ったわけだ。思えば過去2回、友人の披露宴でも自作の曲を作って唄ってるんだよね、すっかり忘れてたけど。2回とも直前に作ってアカペラで唄ったんだけど、もう無茶苦茶寒かった。親族、友人の方々は訳分からず唖然って感じだったよ。まあ当時は二人の為に曲を作れば喜んでくれるだろう、という勝手な勘違いもあったりして。いやあ、今思うとよく唄ったなあとね、逆に自分をほめてやりたいよ。そんなわけで、以前の習作を経てこの「ウェディングソング」ができたのかもしれん。披露宴が横浜だったんで「港の見える丘の上で」みたいな歌詞を入れたのかな。
披露パーティー当日。横浜線で桜木町駅についた途端、サイフが無いことが発覚。すられたのか落としたのか分からないが、ガックリ落ち込んで吉田氏(カラッハレコード主宰)とパーティーまでの間、山下公園を朦朧と歩いたのを覚えてる。そして結婚披露パーティー。佳境に入った頃、私は司会の柳平氏に呼ばれ、失意を隠しつつ「ウェディングソング」を半ば自棄っぱちで弾き語り。タンバリンはもちろん柳平さんね。そして我々の後の余興が、何とあのバイオリンの葉加瀬太郎氏だった。ベースとあでやかにデユオ演奏。どうやら新婦側親族にクライズラーカンパニーの方がいたらしい。もう段違い平行棒のハイカラハイテク。結果的には新郎代表が私と柳平さんで、新婦代表がハカセ太郎氏だったわけだからこりゃ勝負にならないよ。新郎ゴメンナサイ。
その後もこの「ウェディングソング」は、オサムさん、自分の時、そして先日は宮川氏の披露宴でと重宝して唄っております。特に自分の披露宴では厚かましくも二次会と2回も唄っちゃったわけで、つくずくおめでたいわな。
このレコーディングでは打ち込みとさとみ殿という小人数編成。ジョンレノンの「平和を我らに」みたいに皆でワイワイやってる感じにしたかったんだけど二人じゃねえ。初めてMD4トラMTRをおにいさんに借りて使ったのだけど、カセットみたいにウォームな感じがでなくてちょっと悩みました。今になればチープな感じの仕上がりはそれなりに気に入っております。
○東京の空の下1998年夏の作品。LIVEではいろんな編成で演奏してるが、本レコーディングでは打ち込みを使ってみた。頭の中のサウンドイメージとしてはデビッドボウイの「スペースオディテイ」のような宇宙的なサウンドにしたかったのだが、残念ながら私の拙い打ち込みではなかなかスペイシーにならなかった。でも何となく感じはでたような気がする。ギターは長さんであるが、アコーデォンフレーズを録音する前にギターをとった為、多くの個所でバッティングしてしまい、ミックスダウン時にだいぶカットしてしまった。ボーカルは仮唄をそなまま使ったが、まあこんなもんである。曲を作った時、大慈弥氏に「あがた森魚」っぽいですねと言われたが、作るときかなり意識した。もちろんあがた氏には1万光年及ばない曲ではあるが、氏への敬意をこめたつもりである。