La Nigreco

n-ro.3 2001.11.18


あーあ、「選挙」

水田 ふう


二十歳になったとき、「選挙」のことでちょっと悩んだ。誰にいれてよいかわかれへん。次善の人を選べというけど、「何」が次善かもわからん。で、投票にはいかんかった。

そのあとは田舎をはなれてあちこち住所不定みたいやったから、選挙があっても無関係やし、まるで関心がなかった。

ひとつおぼえているのは、都知事選。労組や市民運動してるひとたちがずいぶん応援して、美濃部さんが当選したんやけど、「革新派」の知事いうことになってるから、いままでより文句をつけにくなって、かえってやりにくなったと都庁で組合に勤めてた友人がこぼしとった。ようするに、何でもかんでもすべてお任せしますいうて、そんなこと頼むつもりもないのにわたしらの代表やいう議員を選ばされるのが選挙なんや。そんなんで(大阪に住むようになってから投票用紙がくるようになったけど)ついに一回も選挙にいったことがない。

そやけど、市民運動のなかから立候補をたてたり、それを応援する運動がすぐそばにあったりした時は、「反選挙」なんてよういわんかったし、なんやぐわい悪いここちでだまってた。

六ヶ所村の村長選には、これは、落選まちがいなしやけど「核燃白紙撤回一本槍」いうんで一週間泊まりがけで応援にいった。選挙にかかわった唯一の例外。

*

七、八年も前やったか、全国の「反原発」の市民グループが地方ブロックをつくって選挙にうって出た時、何かの集まりで、ついうっかり「わたしは投票にはいかへんねん」というたら、「そういうのは非国民や」と、はげしい感情的反発が会場から出て、びっくりしたことがある。

「あれはアナキストやから」という声も聞こえて「投票に反対するなら爆弾でもなげるんやな」とも云われた。ほんまに爆弾でも投げたいわい。でもそれはいっとき、自分のきもちの解消にはなっても事態はひとつも変わらん。もっとワルなるやろ。

いま思ったら、たしかにその時は、一票でもほしかった反原発の運動仲間にとっては、「非国民」よばわりしたいくらいに切羽詰った気持ちやったんやろ。

それにしても、選挙のカラクリなんてミエミエやと思うのに、本気で自分たちの「代表」が選べるなんて必死になったり、そうかと思えば、あきらめながら、「次善」?にいれて、歯止めをかけようとする真面目な人がおるから、みんなで選んだ国会とか政府なんてことにされるんや。わたしにはどうしたって、選挙制度というのが諸悪の根源に思える。(*註・1)

絶対反対してるのに、道路やダムや橋やゴルフ場や堤防や原発や飛行場や……みいんな選挙のたんびにできてきたんとちがうか。

そして、長い間のすったもんだの運動のあげく、一九一五(大正十四)年、三月〜四月にかけて、いわゆる「アメ」と「ムチ」の抱き合わせといわれて「普通選挙法」と「治安維持法」(以下普選法と治維法と略)が公布実施されたんやった。(*註・2)

「アメ」と「ムチ」というのは、第二次山本権兵衛内閣法相・平沼騏一郎(こいつ、幸徳秋水大逆事件を指揮した検事上がりの曰く付のワルや)が、――犬養毅の要求する「普選」にたいし、「それに同意してやるが、共産党などの結社を禁ずる法律を出すが賛成するか」ともちかけ、同意を得た、――と近刊の岩波新書『思想検事』(萩野富士夫著)にも書いてある。

冶維法はそんな経過で、「国体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ、マタハ情ヲ知ッテコレニ加入シタモノハ十年ノ懲役(これ、三年後には勅令で「死刑」にかわる)、マタハ禁錮ニ処ス」という第一条だけでもあきらかなように、戦前昭和の大狂気時代を現出する法律や。としたらそれと抱きあわせの普選法は、よっぽど甘いオイシイもんでなければならんワケになる。

さて、その普選法の公布によって、三年のちにはいよいよ選挙が実施されるというんで(女子、小人、朝鮮人、台湾人をのぞいて)、貧乏人も投票できることになった、というんやから、アナ派以外の無産派の殆どの運動体は、普選派はもとより、どっちつかずの中間派も、皆にわかに政党をつくって選挙運動へといっせいに流れていった。つまり猫も杓子も選挙に打って出て、世の中を変えよういうて、アメ?にとびついたわけや。(平沼らのしかけにひっかかった。これ、ほんまはフセンやのうて冶維法を通すための「伏線」やったんやな。)

そして昭和三年二月に行われた第一回普通選挙の結果は?というたら、全国に「無産政党」がいっぱいできて、数百人が立候補したあげく、当選したのはたったの八人!

やっぱりそれまでどうりに、民政党・政友会が絶対多数をとって、政治はちっともなにもかわらんどころか、冶維法ばかりが横行するようになった。

そんなら、当時のアナは何してたんか。

わたしはこのところ向井さんの手伝いで「運動史」をちょこっとかじってるんやけど、そんな普選へ普選へとなびいていく流れに対して、例えば昭和二年六月「反政党運動」いう新聞を江西一三、山本忠平(陀田勘助)らがつくったり、政党集会などへぶっこわしの殴り込みをしかけたり演説会を開いたりするんや。(そこで云うてる中身はあたりまえのことなんやで。自分らのことを、人にたのんだり、お願いしたりなんて、ひちめんどくさいことせんと、自分らのことは、自分らで直接にやろういうことを云うてるんや。)(*註・3)

それはすぐつぶされて、そのあとは冶維法の弾圧と軍国化の下で、力を殆ど失っていく。

*

一九六七年に、アナキスト松村潔さん「無告窓」が、「棄権」を呼びかける五万枚のハガキを東京都内にくばった。

朝日新聞の命名では、「棄権勧誘事件」というのやけど、松村さんにしてみたら、バクダンなげるような思いやったやろ。この頃ハガキ一枚なんぼやったか。一枚十円にしても五十万円や。(わたし、この年高校を卒業して就職して、月給一万二千円やった。)五十万なんてごっつい金やで。でも、こんな大金つこても、マスコミをちょっと騒がしただけで、運動としてはぜんぜんひろがらんかった。むしろバカにされたぐらいや。

普選施行以後、投票の意味をもっとはっきりさせてる例が敗戦後のアメリカ占領軍によって改正された選挙法や。

こんどは普選法以上にもっとひろげられて、国民の半分にあたる女が有権者になった。それで女たちは一体どういうことになったんか。それから五十年ほどたったけど、女たちはどれだけ自分らの世界を獲得できたんやろ。「リブ」の五年十年の方がもっと大きいものを生み出したとわたしは思う。

そして無告窓の棄権ハガキ運動以来、反政党はもとより反選挙の声もきかん。それはもはや運動にはならんのや。なにしろ投票を拒否するもんは非国民やもん。

*

辺見庸さんが、「一九九九年問題」いうことをしきりに云うてはる。こんな事態になってんのに、景気の心配ばかりでなんも運動がおこらん。自分もまわりの人もだんだんと年とって、運動するのにくたびれてしもた、ということもあるけど、これは、やっぱり、選挙制度にみんなからめとられてしまったせいやと私は思う。制度の枠の外に出ることなんか、てんから考えられんようにされてるんや。

そして「ガイドライン関連法」たら、「盗聴法」たら、「国旗・国家法」たら、「改正住民基本台帳」たらいうエライもんが、あれよあれよというまにわたしらの選んだという代表によって通ってしまった。こんなもん、実際、だれが賛成しとるんや。

つくづく選挙制度いうのは、国民という名のわたしらが責任をとらされるという制度や。

無関心のおまえが悪い、投票したのはおまえたちやないかいうて。そやけど、投票しても何も変らへん。たまたま一人とおってもどうにもならんという仕組みになってる。

つまり投票は国民の権利というけど、ちょうど「刀狩」みたいなもんや。一枚の紙で全権委任させられ、国はそれを逆手にとって、なんでもしよる。文句言う奴は、合法的暴力――法律――で取り締る。国民の権利どころか、権利を取り上げ、文句いわさん制度が選挙制度なんや。(*註4)

まじめで、こころざしある人ほど、「みんな政治に無関心や」ゆうてなげく。そして、投票に行け、と説教する。左翼も、筑紫哲也も、加藤典洋も同じや。誰ひとり、投票するな棄権せよいう人はおれへん。

けど、わたしは、投票率が低いのかて、もっともっと低くなったらええ。十%切ったらおもろいで、と思ってるんや。

アナなんてもんは、もうずっと時代おくれになって、バカにされ、ほんの一部のものずきの人にめずらしがられてるだけやけど、いまわたしらが手も足も出されんようなことになってるそのおおもとは、直接行動というもんをそもそも「普選」にからめとられてしまったことにはじまるんやと、運動史をみてつくづく思う。

アメと思ったものが実は、自分の首をやわらかく、じわじわと、自分で絞めるしびれ薬を染み込ませた真綿やったんや。そのしびれ心地をアメと思いこんで、アナ以外の社会主義はそのはじめから運動してきたんやった。

先号で中島君が言ってる「過去からやってくる未来」ということでいえば、いまから百年のむかし、自分らのことは自分らで決めようというあたりまえのことをあたりまえに云って普選と闘ったアナキストと呼ばれる普通の労働者たちがいた。

そのことはまさに過去からやってきた未来――いまの問題ではないんか。

人々の意識は、むかしは遅れてて、今のほうがずっと進んでるなんて思ってるけど、とんでもない。直接行動という言葉の意味をはっきりと自覚して自分たちのもんにしてたのは、百年もむかしのひとやった。

この後百年たってもまだ選挙制度なんてもんが残ってるかどうかしらんけど、まず政党という政党と選挙制度をつぶさんかぎり、どうにもならん、と、わたしはいいたい。


註

*註1 「普選まで」
  1. イ・明治二十二年の憲法発布、二十三年の国会開設で、明治専制政府は、一応近代国家の形をととのえる第一歩を踏み出す。とはいうものの「年十五円以上の国税を払う二十五才以上の男子のみ」が有権者で、つまり絶対多数の貧乏人は、「政治」のカヤの外で何も文句が云えんというかたちやから「貧乏人に参政権を!」というのは、自由党以後、明治社会主義に共通するスローガンやったともいえる。

  2. ロ・明治三十九年、出獄した幸徳秋水は、身動きもできぬ閉塞した状況のまま、むしろ脱出のおもいで海外の旅へと出た。しかし半年ほどの滞米だけで帰国、早々「帰国演説会」を開いた。

    それが「世界革命運動の潮流」と題して運動の大転換をといて、内外へ大衝撃を与えた――「経済的同盟大罷工を主張する直接行動論」――やった。

    それについて吉川守圀は、

    「この演説にしばしば引用されたのは、三百五十万の投票を有する独逸社会党に始まる議会政策への批判であり、果然社会党としてはそれこそ寝耳に水とも称すべき、全然予期せぬ一大波浪に見舞われた形であった」―荊逆星霜史―

    とかきのこしている。

  3. ハ・この幸徳が主張する直接行動論に対し、堺・山川らは、幸徳寄りのやゝあいまいな中間的立場をとる一方、田添鉄二、片山潜らは専ら「普選」を掲げて、社会主義運動内に二つの流れが顕著にでてくる。

  4. ニ・それが大正の中期になると「大杉らアナ派サンジカ派」と「一応アナ寄りの中間派」それと「普選派・のちそれにまぎれ込んだボル派の政治運動派」という三区分になる。あっさりいうたら、「反選挙派」と「普選派」。

*註2 「治維法第一号」

ちょっと脱線。「冶維法」の第一号適用は、大正十五年一月の京大学連事件とよばれる「社研」の活動禁止に始まるといわれてる。ところが、岩波の『近代日本総合年表』には、冶維法施行まだ一ヶ月そこそこの大正十四年欄に「六月十七日・警視庁、大阪の秘密結社〈黒社〉(ブラック社)の幹部二人を、最初の治安維持法で検挙。」と載ってるんや。これ多分、戦後の『平民新聞』編集をやってた久保譲さんのことやろ。

久保譲さんは、大正十二年三月、明大を卒業して、実家の大阪に帰り、『黒社』をつくって活動をはじめるんやけど、もちろん秘密結社とか、幹部なんていうようなたいした組織やない。年表の出典や資料がわからんのでなんともいえんけど、大正十二年十二月十六日、大阪でひらいた大杉栄の追悼集会に、久保さんは発起人の一人になってる。開会の辞を述べ、さらに『黒社』の代表として弔辞を読んだと記録されている。

その時の弔辞が激越で、秩序を乱すとして岡部よし子、矢野準三郎その他二人と共に中止を命じられてる。そんなことでずっと目をつけられて、無政府主義者やから、私有財産否定やろ、いうて早々まず狙われた――のとちがうか。

*註3 「反政党運動」など

普選反対のためアナ派は、たとえば大正十四年十二月のボル系農民労働者党の結党式にいっせいにおしかけ、会場占拠する。その共同行動を契機に全国組織「黒色青年連盟」(黒連)が結成され、さらに、十五年五月に「全国労働組合自由連合会」(自連)がつくられる。

その機関紙「黒色青年」や「自由連合」をみると、組織の中心として印刷工組合は当然としても、アナならではの分野として「関東自由労働者組合連合」「東京新聞労働連盟」(配達人)などの活動が目立つ。

なかでも、関東自由の中心、江東自由労組の動きはめざましい。「自連」紙十号までにあげられている人名だけでも、大沼、山本、歌川、斎藤、高田、守下、時永、古江、横山、田中(玄)、宮崎、鈴木、滝沢、窪田、武森、荒井、安西、平尾、牧野、大野、久保、武田、彦坂、らと二〇数名に及び、たまたまひらいた六号には(復刻版六〇頁)「横死労働者鎖供養―検束二〇余名―」とか「北海道、監獄部屋打破のための調査に派遣していた宮崎、十月末帰京」の記事がみられる。

そして昭和二年六月、この「江東自由―(アナ活動をする時は「黒旗社」を名乗った)」の有志が中心となって刊行されたのが「反政党運動」で、新聞型2頁、大衆啓蒙・宣伝紙として発刊された。

執筆者は、山本忠平、横山煤太郎、難波正雄、江西一三(署名人)。(江西さんは、七〇年ごろ、サルートンのアジトへきはった時、何度か見かけた。たしかその時は、総評の中小企業争議対策部長で、そやから生涯、労働運動ひとすじの人や。)

「反政党運動」の発刊の趣意を一部抄出すると、

「…闘争手段として採用されつゝあるものに二様の手段がある。一つは政治運動に依る…共産主義者及び改良主義諸政党であり、一つは非政治的結束に依る…自主自治的…闘争手段とである。…

代議政体は政党に原動力を置く。政党とは中央集権的絶対制組織である。少数幹部の政権獲得闘争の集団である。…無産階級の国家、労働者独裁…を宣伝している「ソビエト・ロシア」も実質的には、共産党の少数幹部の絶対専制独裁である。…

「労働者の解放は、労働者自らに依ってのみ達成される」われらはこの自からの力を信ずる。…

われらは現下の政治闘争による力の分散より、経済的分野における戦闘力の集中をはからなくてはならぬ。分裂と攪乱以外に何もない政党運動を廃し、経済的共同戦線による全国的総連合こそわれらは望む。それは反政党的結束になる直接的経済行動によってのみ達成される。…」

その第二号紙上に発表した支局は、東京十一、大阪六、その他茨城、福岡、水戸、名古屋、横浜、静岡、旭川、等にあり、大阪では新世界、東京では新宿、渋谷、銀座の街頭で辻売りが行われた。 その他東京帝大仏教青年会館で演説会も開かれた。…(「反政党運動」なんて、今ではちょっと考えられん積極的な提起やないか。)

*註4 「擬似非暴力体制」

「現代暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か」(向井孝)に疑似非暴力体制ということがしきりに出てくる。

今の体制は、改めて云うまでもなく専制国家ではない、軍事国家でもない、民主主義国民国家ということになってる。とは云うても、国家の本質である暴力性はなんも解消されていない。たしかに国の政治は選挙―投票によって、選ばれたわたしらの代表と呼ばれる人達によって行われている。そして、その人たちがとりきめた法律によって、裁判所も監獄も警察も軍隊も暴力装置にちがいないのに、いかにも非暴力の顔つきをして、合法的にわたしらを支配してる。

けっして暴力による支配ではなく、自縄自縛のこの疑似非暴力体制。これが現代社会の国家の特質や。その疑似非暴力体制をなにより保証しているのが選挙制度なんや。

かって革命とは、暴動・反乱・一揆にはじまるもんで、「暴力革命」の謂やった。暴力的でない「平和革命」は、空想的・非科学的社会主義としておとしめられるものやった。

そのことにおいて、幸徳秋水が提起した、非政治的な「直接行動」の現代史的な意味は大きい。

向井さんは、その「現代暴力論ノート」で、直接行動の本来的意味として、生産・創造・遊戯・そのよろこびとおもしろさを挙げてる。それはまさに、人民のみがもつ「暴ニ非ザル力」なんやけど、その直接の享受を妨げ疑似化して収奪するシステムが、現代の選挙投票に外ならんのや。


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