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二十歳になったとき、「選挙」のことでちょっと悩んだ。誰にいれてよいかわかれへん。次善の人を選べというけど、「何」が次善かもわからん。で、投票にはいかんかった。
そのあとは田舎をはなれてあちこち住所不定みたいやったから、選挙があっても無関係やし、まるで関心がなかった。
ひとつおぼえているのは、都知事選。労組や市民運動してるひとたちがずいぶん応援して、美濃部さんが当選したんやけど、「革新派」の知事いうことになってるから、いままでより文句をつけにくなって、かえってやりにくなったと都庁で組合に勤めてた友人がこぼしとった。ようするに、何でもかんでもすべてお任せしますいうて、そんなこと頼むつもりもないのにわたしらの代表やいう議員を選ばされるのが選挙なんや。そんなんで(大阪に住むようになってから投票用紙がくるようになったけど)ついに一回も選挙にいったことがない。
そやけど、市民運動のなかから立候補をたてたり、それを応援する運動がすぐそばにあったりした時は、「反選挙」なんてよういわんかったし、なんやぐわい悪いここちでだまってた。
六ヶ所村の村長選には、これは、落選まちがいなしやけど「核燃白紙撤回一本槍」いうんで一週間泊まりがけで応援にいった。選挙にかかわった唯一の例外。
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七、八年も前やったか、全国の「反原発」の市民グループが地方ブロックをつくって選挙にうって出た時、何かの集まりで、ついうっかり「わたしは投票にはいかへんねん」というたら、「そういうのは非国民や」と、はげしい感情的反発が会場から出て、びっくりしたことがある。
「あれはアナキストやから」という声も聞こえて「投票に反対するなら爆弾でもなげるんやな」とも云われた。ほんまに爆弾でも投げたいわい。でもそれはいっとき、自分のきもちの解消にはなっても事態はひとつも変わらん。もっとワルなるやろ。
いま思ったら、たしかにその時は、一票でもほしかった反原発の運動仲間にとっては、「非国民」よばわりしたいくらいに切羽詰った気持ちやったんやろ。
それにしても、選挙のカラクリなんてミエミエやと思うのに、本気で自分たちの「代表」が選べるなんて必死になったり、そうかと思えば、あきらめながら、「次善」?にいれて、歯止めをかけようとする真面目な人がおるから、みんなで選んだ国会とか政府なんてことにされるんや。わたしにはどうしたって、選挙制度というのが諸悪の根源に思える。(*註・1)
絶対反対してるのに、道路やダムや橋やゴルフ場や堤防や原発や飛行場や……みいんな選挙のたんびにできてきたんとちがうか。
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そして、長い間のすったもんだの運動のあげく、一九一五(大正十四)年、三月〜四月にかけて、いわゆる「アメ」と「ムチ」の抱き合わせといわれて「普通選挙法」と「治安維持法」(以下普選法と治維法と略)が公布実施されたんやった。(*註・2)
「アメ」と「ムチ」というのは、第二次山本権兵衛内閣法相・平沼騏一郎(こいつ、幸徳秋水大逆事件を指揮した検事上がりの曰く付のワルや)が、――犬養毅の要求する「普選」にたいし、「それに同意してやるが、共産党などの結社を禁ずる法律を出すが賛成するか」ともちかけ、同意を得た、――と近刊の岩波新書『思想検事』(萩野富士夫著)にも書いてある。
冶維法はそんな経過で、「国体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ、マタハ情ヲ知ッテコレニ加入シタモノハ十年ノ懲役(これ、三年後には勅令で「死刑」にかわる)、マタハ禁錮ニ処ス」という第一条だけでもあきらかなように、戦前昭和の大狂気時代を現出する法律や。としたらそれと抱きあわせの普選法は、よっぽど甘いオイシイもんでなければならんワケになる。
3
さて、その普選法の公布によって、三年のちにはいよいよ選挙が実施されるというんで(女子、小人、朝鮮人、台湾人をのぞいて)、貧乏人も投票できることになった、というんやから、アナ派以外の無産派の殆どの運動体は、普選派はもとより、どっちつかずの中間派も、皆にわかに政党をつくって選挙運動へといっせいに流れていった。つまり猫も杓子も選挙に打って出て、世の中を変えよういうて、アメ?にとびついたわけや。(平沼らのしかけにひっかかった。これ、ほんまはフセンやのうて冶維法を通すための「伏線」やったんやな。)
そして昭和三年二月に行われた第一回普通選挙の結果は?というたら、全国に「無産政党」がいっぱいできて、数百人が立候補したあげく、当選したのはたったの八人!
やっぱりそれまでどうりに、民政党・政友会が絶対多数をとって、政治はちっともなにもかわらんどころか、冶維法ばかりが横行するようになった。
そんなら、当時のアナは何してたんか。
わたしはこのところ向井さんの手伝いで「運動史」をちょこっとかじってるんやけど、そんな普選へ普選へとなびいていく流れに対して、例えば昭和二年六月「反政党運動」いう新聞を江西一三、山本忠平(陀田勘助)らがつくったり、政党集会などへぶっこわしの殴り込みをしかけたり演説会を開いたりするんや。(そこで云うてる中身はあたりまえのことなんやで。自分らのことを、人にたのんだり、お願いしたりなんて、ひちめんどくさいことせんと、自分らのことは、自分らで直接にやろういうことを云うてるんや。)(*註・3)
それはすぐつぶされて、そのあとは冶維法の弾圧と軍国化の下で、力を殆ど失っていく。
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一九六七年に、アナキスト松村潔さん「無告窓」が、「棄権」を呼びかける五万枚のハガキを東京都内にくばった。
朝日新聞の命名では、「棄権勧誘事件」というのやけど、松村さんにしてみたら、バクダンなげるような思いやったやろ。この頃ハガキ一枚なんぼやったか。一枚十円にしても五十万円や。(わたし、この年高校を卒業して就職して、月給一万二千円やった。)五十万なんてごっつい金やで。でも、こんな大金つこても、マスコミをちょっと騒がしただけで、運動としてはぜんぜんひろがらんかった。むしろバカにされたぐらいや。
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普選施行以後、投票の意味をもっとはっきりさせてる例が敗戦後のアメリカ占領軍によって改正された選挙法や。
こんどは普選法以上にもっとひろげられて、国民の半分にあたる女が有権者になった。それで女たちは一体どういうことになったんか。それから五十年ほどたったけど、女たちはどれだけ自分らの世界を獲得できたんやろ。「リブ」の五年十年の方がもっと大きいものを生み出したとわたしは思う。
そして無告窓の棄権ハガキ運動以来、反政党はもとより反選挙の声もきかん。それはもはや運動にはならんのや。なにしろ投票を拒否するもんは非国民やもん。
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辺見庸さんが、「一九九九年問題」いうことをしきりに云うてはる。こんな事態になってんのに、景気の心配ばかりでなんも運動がおこらん。自分もまわりの人もだんだんと年とって、運動するのにくたびれてしもた、ということもあるけど、これは、やっぱり、選挙制度にみんなからめとられてしまったせいやと私は思う。制度の枠の外に出ることなんか、てんから考えられんようにされてるんや。
そして「ガイドライン関連法」たら、「盗聴法」たら、「国旗・国家法」たら、「改正住民基本台帳」たらいうエライもんが、あれよあれよというまにわたしらの選んだという代表によって通ってしまった。こんなもん、実際、だれが賛成しとるんや。
つくづく選挙制度いうのは、国民という名のわたしらが責任をとらされるという制度や。
無関心のおまえが悪い、投票したのはおまえたちやないかいうて。そやけど、投票しても何も変らへん。たまたま一人とおってもどうにもならんという仕組みになってる。
つまり投票は国民の権利というけど、ちょうど「刀狩」みたいなもんや。一枚の紙で全権委任させられ、国はそれを逆手にとって、なんでもしよる。文句言う奴は、合法的暴力――法律――で取り締る。国民の権利どころか、権利を取り上げ、文句いわさん制度が選挙制度なんや。(*註4)
まじめで、こころざしある人ほど、「みんな政治に無関心や」ゆうてなげく。そして、投票に行け、と説教する。左翼も、筑紫哲也も、加藤典洋も同じや。誰ひとり、投票するな棄権せよいう人はおれへん。
けど、わたしは、投票率が低いのかて、もっともっと低くなったらええ。十%切ったらおもろいで、と思ってるんや。
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アナなんてもんは、もうずっと時代おくれになって、バカにされ、ほんの一部のものずきの人にめずらしがられてるだけやけど、いまわたしらが手も足も出されんようなことになってるそのおおもとは、直接行動というもんをそもそも「普選」にからめとられてしまったことにはじまるんやと、運動史をみてつくづく思う。
アメと思ったものが実は、自分の首をやわらかく、じわじわと、自分で絞めるしびれ薬を染み込ませた真綿やったんや。そのしびれ心地をアメと思いこんで、アナ以外の社会主義はそのはじめから運動してきたんやった。
先号で中島君が言ってる「過去からやってくる未来」ということでいえば、いまから百年のむかし、自分らのことは自分らで決めようというあたりまえのことをあたりまえに云って普選と闘ったアナキストと呼ばれる普通の労働者たちがいた。
そのことはまさに過去からやってきた未来――いまの問題ではないんか。
人々の意識は、むかしは遅れてて、今のほうがずっと進んでるなんて思ってるけど、とんでもない。直接行動という言葉の意味をはっきりと自覚して自分たちのもんにしてたのは、百年もむかしのひとやった。
この後百年たってもまだ選挙制度なんてもんが残ってるかどうかしらんけど、まず政党という政党と選挙制度をつぶさんかぎり、どうにもならん、と、わたしはいいたい。