アナキズムFAQ


J.2.3 投票はどのような政治的意味を持っているのか?

 最も基本的には、投票とは、現状に対する同意を意味している。英国スコットランドのリバータリアン社会主義者、ジェームズ=ケルマンがこのことについて詳細に述べているのを引用すると分かりやすいだろう。

 『国家プロパガンダは、投票人口の少なくとも40%が全く投票していないのは、どのみち何の見解も持っていないからだ、と主張している。北米合州国においても同じことが言え、人口の85%は投票登録をする面倒をしたくないため、明らかに「政治に無関心」なのだ、とも述べている。政治システムを拒絶しているのだという考えは国家が関わっている以上承認しがたいのだ。(中略)無論、投票したときに実際には、誰か他の人に不公平な政治システムを継続保証してもらう、ということが起こっているのである。(中略)いかなる政党に対してであれ、個人に対してであれその一票は、政治システム支持の一票なのである。自分の一票は自分で好きなように解釈すればよいが、それは相変わらずその仕組みを保証しつづけるのだ。その仕組みがシステム変革を引き起こす可能性があるのであれば、即座に排除させられてしまうだろう。言い換えれば、政治システムは必要な国家制度なのであり、それ自体の存在を永久に維持するように作られ洗練されているのである。支配階級の権威は、民衆を「政治の土俵に入れ」ることが出来るように会議事項を調整している。それが彼らが与えている調整なのだ。』(「近年の攻撃」、87ページ)

 我々は幼い頃から、選挙で投票することは正しいことであり義務であると教えられる。合州国の学校では、子供たちは学級長などの学級の役人を選挙で選ぶ。ミニ総選挙が子供たちに「民主主義」を「教える」ために行われることも多い。定期的に選挙報道はメディアを独占する。我々は、自分が投票しないと、「市民の責任」を怠っていると罪の意識を感じるようにさせられている。全く選挙制度のない国々や形だけの選挙しかしていない国々は間違っているとみなされるのである(ベンジャミン=ギンスバーグ著、「同意の結末:選挙、市民のコントロール、民衆の黙認」、Addison-Wesley社、1982年)。その結果、選挙制度は、準宗教儀式的なものになっているのである。

 しかし、ブライアン=マーチンが指摘しているように、「実際の選挙は、私的所有、軍隊、男性優位社会、経済的不公平といった現在支配的な権力構造を維持する役目を充分に果たしている。これらのどれも、投票を通じて重大に脅かされることはないのだ。ラジカルな批評家の観点からすれば、選挙制度は最も制限の大きいものなのである。(「選挙のない民主主義」、社会的アナキズム誌、21号、1995年)

 ベンジャミン=ギンスバーグは、選挙が国家権力の利権に仕えていることを別な例で示している。まず、投票者は政府を正当化する手助けをしており、したがって、戦争中や革命中のように大衆の政府支持が厳しい場合を除き、政府に対する民衆の要望がほとんど無いときに選挙権は拡大することが多いものである。第二に、投票は政府によって組織され管理されているため、政治的参画の唯一の正当な形態と見られるようになるのである。したがって、圧制されている集団や孤立させられている集団による叛乱は一般大衆によって不当とみなされてしまうのである。(「同意の結末」)

 さらに、ギンスバーグは、「政治」に参加する人の数を増やし、キャンペーンと投票という「安全な」活動にその活動を転化させることで、歴史的に、選挙はもっとラジカルな直接行動が起こる危険性を減らしているのだ、と主張している。つまり、投票は、草の根運動からエネルギーをそらすことで、草の根をもぎ取ってしまっているのである。結局、選挙政治の目標は、我々の「ために」行動してくれる代表者を選ぶことなのである。したがって、問題を自身の手で解決するために直接行動をとるのではなく、行動は、間接的に政府を通じてなされるのだ。これは悪賢く仕組まれた簡単に落ち込みやすい罠なのである。丁度我々が、ヒエラルキー的社会で受身と服従という態度に当初から条件づけられ、「専門家」と「権力者」に重要な事柄を任せておくという傾向が我々の中に深く腰をおろしてしまっているのと同じである。

 アナキストも選挙制度を、政府が民衆に奉仕している、もしくは奉仕することが出来るという間違った印象を市民に与えるためになされているものだと批判している。マーティンが述べているように、『数世紀前に創られた近代国家は大きな抵抗に出くわしたのだった。民衆は税金の支払いや徴兵、挙国一致内閣が可決させた法律への服従を拒否したのであった。投票制度の導入と選挙権の拡大は、国家権力の拡大を大きく補助しているのだ。民衆は選挙システムを、支配する側と支配される側から成り立っているものとして見なすのではなく、少なくとも自分たちに仕える国家権力を利用する可能性と見なしているのだ。選挙への参加が増えるにつれ、税金、徴兵制度、行動を制限している数多くの法律への抵抗が大きく弱まっているのだ。』(前掲書)

 しかし、皮肉なことに、過去に国家の成長を可能にしていた参加形態による本来の民衆コントロールよりも、投票制度は国家権力の成長を正当化しているのだ。しかしながら、ギンスバーグが観察しているように、選挙への参加は政府の民衆コントロール手段であるという考えは、余りにも深く民衆の精神に植え付けられているために、『最も明らかに懐疑を表明している人であっても、その考えから自身を完全に開放することなど出来ないのである。』(「同意の結末」、前掲、241ページ)

 したがって、投票は、国家権力と一体化し、現状を正当化するように民衆を促すという重大な政治的意味を持っているのだ。さらに、国家は中立であり、職務に対して政党を選ぶことは民衆自身の生活を民衆が制御することになるという幻想を与えているのだ。もっと言えば、選挙は民衆を受身にし、自身の自己活動からではなく上からの救済を捜し求めさせる傾向を持っているのである。このようにして、選挙は、投票者を活動の参加者ではなく、傍観者へと変えてしまいながら、指導する側と指導される側との分裂を生み出すのだ。

 だからといって、アナキストが独裁制度や「啓蒙された」君主制を好んでいるわけではないことは明らかだろう。全く逆で、国家権力を民主化することは国家を排除するための重要なステップとなりえるのである。全てのアナキストは、バクーニンの『大多数の不完全な共和国は、最も啓蒙された君主制度よりも一千倍ましなのである。』(ガーリン著、「アナキズム」、20ページで引用)ということに同意する。しかし、だからと言って、物事をより良い方向へ変革するためにもっと効果的な手段を利用できるというのに、アナキストが選挙制度などという茶番劇に参加することなどないのだ。


J.2.4 革新政党に対する投票は本当に効果的なのか?

 疑いも無く、投票は政策に変化を引き起こすことが出来、それ自体良いことになり得る。しかし、そうした政策はヒエラルキー的資本主義国家の権威主義的枠組みの中で作りだされ、実施されるのだ。その枠組み自体は投票によって挑戦されるようなものではない。逆に、投票は国家の枠組みを正当化し、社会変革が急速で徹底的なものではなく、穏やかで段階的で改良主義的なものになるように保証している。実際、「民主的」プロセスはいつでも、全ての成功した政治政党に「同じようなこと」を行うようにさせてしまうか、良くても細かなところを下手に修繕する(これが通常、政策改革の限界なのである)ことに専念させてしまうのである(そしていつでもそうなるであろう)。

 しかし、指数的に加速している近代文明危機のため、徹底的で組織だった変革が早急に必要なのに、選挙システム内での段階的な改革に努めることは、絶望的な戦術上の誤りと見なさねばなるまい。加えて、選挙システムを使っても、問題の根源に手が届くことなどありえない。アナキストは、我々の問題を最初に引き起こしているまさにその制度によって、我々の問題が解決されるなどという考えを拒否しているのだ!我々の地域、仕事場、環境で起こっていることは非常に重要なため、政治家や政府を支配している支配階級のエリートどもに任せておくわけには行かないのである。

 この理由で、アナキストは政治政党と選挙制度を拒否しているのである。選挙制度はいつも急進主義の死であった。政治政党が革新的になるのは、選挙の機会に立候補しないときだけなのだ。しかし、多くの社会活動家は繰り返し選挙を使おうとしており、そのことで、民衆大多数の権能を奪い、自分たちの異議の対象となっている社会問題を作りだす手助けをしているシステムに参画しているのだ。

 『選挙は投票者ではなく政治家に権能を与える。これは自明の決まり文句であるが、多くの社会運動は繰り返し選挙政治にのみ込まれてしまっている。』とブライアン=マーチンは書いている(「選挙のない民主主義」、社会的アナキズム誌、21号、1995年)。これには数多くの理由がある。『一つは、社会運動に政党メンバーが参加するためである。もう一つは、運動の指導者が権力と影響力を熱望しているためである。大臣の聴覚を持つことは多くの人にとってうきうきするような感覚であり、内閣に選ばれることはもっとエゴを元気づけることにすらなる。この「感化の政治学」全てにおいて忘れ去られていることは、普通の活動家に対する効果なのである。』

 「システム内で」努力することが、どのようにして80年代初頭における独国で草の根の緑の活動家から権能を奪い去ったかについては、ルードフ=バーロが例示している。バーロは、独国国会内で緑の諸団体が社会民主党と組んだ同盟は、そうしていなければそのエネルギーがもっと革新的で効果的な活動主義の形態を取っていたであろう緑の諸団体を吸収したために、多くの場合、現状を強化する効果を持っていた、と指摘している(「緑の運動の構築」、New Society Publishers刊、1986年)。

 国家が、マルクス主義者が描いたような単純な「支配階級の実行委員会」よりももっと複雑であることは疑いもない。国家官僚制度内外で継続的な闘争があり、その闘争が政策に影響を及ぼし、様々な民衆集団に権能を与えている。このため、多くの革新政党は国家の中で運動することに意味があると信じ、例えば、労働者保護、消費者保護、環境保護の法律を作ろうとしているわけだ。しかし、この論理は、国家の組織構造が中立ではないという事実を無視しているのである。

 マーティンをもう一度引用してみよう。『中央集権化された行政機構としての国家は、人間の自由と平等という観点から見て、本来的に欠点だらけである。これがアナキストの基本的洞察である。国家が大切な目標のために使われることも時としてありえるとしても、手段としての国家は欠点だらけなのであり、改良不可能なのである。国家の非改良的側面に、「正当な」暴力の独占と戦争・内部支配・課税・所有と官僚特権の保護のための必然的権力強制があることは明らかである。

 『投票の問題は、国家の基本的前提に議論の余地があると思わせず、ましてや挑戦できるものだとも思わせない点にある。戦争時の暴力の使用を国家が独占していることにも、内部からの叛乱に対する国家の暴力の使用に対しても一度たりとも問題にされない。人々から経済資源を引き出すという国家の権利も、(資本主義下での)私的所有権や(国家社会主義下での)官僚特権いずれか、またはその双方を国家が保証していることも疑問視されたことは一度たりともないのだ。』(前掲書)

 しかし、新しい政治集団が充分革新的であれば、国家権力を良い目的に使うことが出来るだろうということも言われる。このことについてはセクションJ.2.6でもっと詳しく議論しているが、ここでは緑の諸団体の場合を考察してみよう。多くの人々は、緑の諸団体が目的を達成する最も良い方法は代議制政治システム内で動くことである、と信じている。

 変革を達成するために選挙システムを使うように公言することで、必然的に緑の諸団体は自分たちの計画書を国会の議題項目として公式に示すと宣誓しているわけだ。しかし、一度法律が可決されると、国家の強制メカニズムがその法案を施行するために必要になるだろう。したがって、緑の諸団体は国家権力を是認すると誓っていることになる。
 しかし、セクションB.2における我々の分析によれば、国家とは支配階級のエリートが社会と個々人を支配するための一連のヒエラルキーである。そして、我々がセクションEのイントロダクションで見たように、緑の運動の鍵となる支持者であるエコロジスト、フェミニスト、平和活動家は皆、各々の目的を達成するためにヒエラルキーと権力支配とを取り除く必要がある。したがって、国家は最も巨大で最も強力な権力を持ったヒエラルキーであるばかりでなく、社会における全主要制度のヒエラルキー的形態を維持する役目を果たしているため(この形態は支配階級が利権を得るのに最も適しているため)、国家それ自体が緑の運動の鍵となる支持者の成功にとって主たる障害物なのである。よって、入閣した緑の諸団体が緑の運動の根本目的を達成することは「原理的に」不可能なのだ。同じ議論が、社会正義(これもフェミニスト、ラジカル=エコロジスト、平和活動家の目標と同様、ヒエラルキーの除去に依存している)に主たる強調点を置いているいかなる革新政党に対しても適用できるであろう。

 そして、少しでも歴史に親しみがある人であれば、「革新的」政治家が国家を排除できるなど、たとえ何らかの奇跡が起こって国会において大多数を獲得したとしても、絶対に口にはしまい。「革新的」政治家(例えば、レーニン)が投票者に「私と私の党に国家権力を与えてくれたまえ。さすれば、我々は弱体化するであろう。」と言うとき、それは単なるキャンペーンの美辞麗句でしかなく(レーニンの場合、究極のキャンペーン公約だった)、したがって、真面目に取り上げてはならないものなのだ。これは自明の理である。そして、以前のセクションで論じたように、革新政党は経済的国家官僚制度からの圧力下にあり、このため真摯な革新政党であっても重要な改良を導入するほどの権力を確実に持てなくされてしまうのである。

 代議制民主主義の諸問題に対する唯一の回答は、民衆が投票しないよう駆り立てることである。このことは他者に現行システムの限界を気づかせる重要な方法となり得る。我々がこのFAQで概略を示してきたアナキストの代替社会を民衆が真剣に考えるための必要条件なのである。投票拒否の持つ意味は次のセクションで議論する。


J.2.5 何故アナキストは投票拒否を支持しているのか、そしてその意味は何か?

 最も基本的には、アナキストが投票拒否を支持している理由は、『選挙への参加は、自分の意思と決定を他人に譲渡してしまうことを意味しており、それはアナキズムの根本原理に反する』からである(エマ=ゴールドマン著、「アナキストと選挙」、Vanguard III、6・7月号、19ページ)

 ヒエラルキーと政府を拒否するのであれば、自分を支配する人々を選ぶことでシステムに参加するなど、既に傷ついている人に追い討ちをかけるようなものだ!ルイジ=ガリアーニが指摘しているように、『しかし、自分の支配者を選ぶだけの政治的能力を持っている人なら誰でも、支配者抜きで物事を行う能力もあるということを暗示している。』(「アナキズムの終焉?」、37ページ)言いかえれば、アナキストは権威という考えを拒絶しているがために、権威(ボスであれ政治家であれ)を選ぶことで自分たちを自由にしてもらおうという考えを拒絶しているのである。したがって、アナキストは自己管理と自由な連合という名において、政治的選挙を拒否している。我々は、投票は権威主義的社会構造を保証することになる、として投票を拒否するのである。我々は(実際には)、仲間の市民にではなく、政府に対して義務を果たすように請われており、したがってアナキストは自分の自由を自分自身から阻害してしまうような象徴的なプロセスを拒絶するのである。

 アナキストから見れば、君が投票するときに、君は支配者同士の中から選んでいる。民衆を投票するように駆り立てるかわりに、我々は、君自身で自己を支配し、仕事場であれ地域であれどこでも、平等な者として他者と自由に組織を作ることを選ぶという選択肢を掲げるのだ。投票することなどできない選択肢、それが新たな社会なのである。そして君のために他の人が何らかの変革を引き起こしてくれるのをただ待っている代わりに、アナキストは君が自分で変革を引き起こすよう主張しているのだ。これがアナキストが投票拒否を支持する根幹なのである。

 加えて、アナキストによる反国家主権主義の立場からのこの選挙の基本的拒絶以上に、アナキストは投票拒否を、選挙の時期に我々の考えを理解させることが出来るようにしてくれるとして、支持しているのである。事実、選挙の時期に人々は平時よりも政治に関心を持っているものである。そこで、投票拒否の議論をすることにより、我々は現行システムの性質(どのような経緯で当選した政治家が国家の官僚主義を統制しないのか、現在国家は資本主義を保護するように行動しているなど)についての我々の考えを分かってもらうことが出来るわけである。さらに、直接行動という考え方も提示でき、政治党派と現行システムに幻滅している人々に、政治の茶番劇に対する実行可能な代替案を提示することでアナキストになるように勧めるのである。

 現在、非常に大きなパーセンテージの反投票者と投票者が現行機構に幻滅している。以下の文章は米国の新聞「The Nation」(1997年2月10日)からのものである。

 『抗議は消滅していない。それは増加している非投票者によく見られ、現在では多数派になっている(昨年秋の投票者数は48.8%であった)。ワシントンの会社であるポーリング=カンパニーによる400人の非投票者に対して行われた、ほとんど注目されなかった選挙後の調査によると、38%が基本的に政治的な理由で投票しなかった。その内訳は、候補者が誰であろうとどうでもよかった(16%)、政治システムにはうんざりしていた(15%)、候補者が自分のような人間に関心を持っているようには思えなかった(7%)、であった。これは、少なくとも三千六百万人の人々である。ほぼボブ=ドールが獲得した票数と同じぐらいの数である。非投票の大多数は投票した人々と比べて不釣り合いなほど自由主義的傾向を持っている。』

 アナキストの投票拒否は不公正なシステムに対する否定的反応を肯定的活動に変える手段なのである。したがって、アナキストの選挙に対する反対は、深い政治的意味を持っているのだ。ルイジ=ガリアーニがこのことを扱っており、彼は次のように書いている。「アナキストの選挙棄権は代議制の原理(これはアナキストが完全に拒否しているものである)に反している概念であるだけでなく、結局のところ国家への信頼の絶対的な欠如を意味しているのである。(中略)さらに、アナキストの投票拒否は、嘲笑を浮かべた「科学的社会主義」(つまり、マルクス主義)の出世主義者どもがその原因としている無気力な無関心などではさらさらない。アナキストの投票拒否は、国家を国全体の真の代表として騙されやすい側に見せている憲法上の詐欺を国家から剥ぎ取るのだ。そのようにすることで、支配階級の代表者、売春周旋者、警察官としての国家の本質的特長を暴露するのである。

 『改良、公的権力、代理の権威に対する不信感は、(階級闘争における)直接行動を導くことが出来る。(中略)この不信感により、この(中略)行動の革命的特長が決定づけられる。したがって、アナキストは直接行動を、民衆が自身の個人的・集団的利権を管理する心構えを持つために現在利用できる最善策だと見なしている。さらに、アナキストは、現在でも、労働者が自身の政治的行政的利権を十全に扱うことが出来ると感じているのである。』(「アナキズムの終焉?」、13ページ〜14ページ)

 投票拒否は、自己活動と自己開放の重要性を強調している。それと同時に、国家は中立ではなく階級支配を保護する役割を果たしており、意味ある変革は直接行動を使って下からしかなしえないのだ、ということを強調した重要な教育的効果をも持っているのである。なぜなら、いかなる階級社会においてもその支配的な考えはその社会の支配階級エリートの見解を反映し、したがって、投票拒否賛成論や投票がなぜ茶番劇なのかを示している選挙時のいかなるキャンペーンも明らかにこうした支配的考えに挑戦することになるからである。言いかえれば、投票拒否に直接行動と社会主義代替社会の構築とが組み合わさることで、民衆の考えを変え、自己教育、究極的には自己開放のプロセスを促す非常に有効な手段となるである。

 アナキストは、選挙が政府を正当化する役目を果たしていることに気づいている。国家は、貧困・不平等・人種差別・帝国主義・性差別・環境破壊・戦争を永続させているシステムの本質的部分であるため、小数の名ばかりの国家指導者を四、五年ごとに変えることでこれらの問題のどれかが解決されるなどとは期待できはしないのだ、と我々はいつも警告しているのだ。(ピョートル=クロポトキン著、「代議制政府」、The Commonweal誌、第7号、1892年・エンリコ=マラテスタ著、「投票:何のために?」、Freedom Press刊、1942年を参照)したがって、アナキストは(通常)選挙時における投票拒否を、「民主主義」の茶番劇、選挙の持つ権能剥奪的性質、国家の本当の役割をさらけ出す手段として支持しているのである。

 したがって、アナキストは、無気力のためではなく、活動を「促す」ために投票拒否を主張する。民衆が棄権する「理由」がその行為よりも重要なのである。ほぼ50%の人々が投票していないから合州国はアナーキーに近いという考えはナンセンスである。この場合の投票拒否は無気力とシニシズムの産物であって、政治的な考えのそれではないのだ。アナキストは、無気力の投票拒否は革命的でもアナキストへの共感のしるしでも「ない」ということを認識している。それは政治的考えの「全」形態と変革可能性とに対する無気力と全般的なシニシズムが生み出したものなのである。

 投票しないことだけでは充分では「ない」。同時に「組織を作り」、「反抗する」ことをアナキストは人々に要求する。投票拒否が効果的になるためには、それが階級闘争・自己活動・自己管理の政治的側面でなければならない。そうでなければ投票と同じぐらい投票拒否も無意味になってしまうのだ。


J.2.6 急進主義者が選挙を使う効果はどのようなものか?

 選挙と投票の限界に関する我々の分析に同意したいと思っている急進主義者は多くいるだろうが、アナキストの投票拒否論に自動的に賛同するものはほとんどいないだろう。そのかわりに、彼等は直接行動と選挙制度を組み合わせるべきだ、と論じているのである。そのやり方ならば、自主活動を伴う運動を活発にすることで選挙の限界を克服できる、というわけだ。さらに、国家は余りにも強力すぎて、労働者階級の敵の手中に留まっていることなどありえないとも論じられている。急進的政治家ならば、右翼資本主義賛同型政治家ならば行うような、社会抗議を打ち壊すための指令を出しはしないであろう、というわけだ。

 この改良主義的考えは、1900年代(社会民主主義がまだ革命的だと考えられているときであった)に薄汚い結末を迎えた。1899年、社会主義者アレクサンダー=ミレランドは、フランス政府の内閣に参加した。マルクス主義的社会主義の第二インターナショナルはこのことをほめたたえ、レーニンやカウツキーといった指導者が1904年の総会でその支持を表明していた。しかし、物事は何も変わらなかったのだ。

 『ストライキをしている何千人という労働者が、(中略)ミレランに助けを求めていた。政府に彼がいるならば、国家は自分たちの側についているはずだと確信していたのだった。この確信の大部分は、数年のうちに消し飛ばされてしまった。政府が労働者のためにやったことといえば、それ以前の政府がやっていたことと何も変わらなかった。重大なストライキを抑え込むために、兵士と警官をなおも送り込んでいたのだ。』(ピーター=N=スターンズ著、「革命的サンジカリズムとフランスの労働者」、16ページ)

 1910年、社会党の首相ブリアンは、フランス鉄道のゼネストを再び打ち壊すべくスト破り(組合非参加労働者)と兵士を使った。これらの出来事が起こったのは、社会民主党と社会主義政党が自分たちのことを革命集団であると述べ、ストライキ中に労働者に対抗して軍隊を使わないようにさせるために、労働者は労働者自身の代表を当局に置く必要があるという論法を使ってアナルコサンジカリズムに反対していたときだったのだ!

 1945年〜1951年の英国労働党政府を見ても、同じ行為を見い出せる。今までで最も左翼系だと見られることの多かった労働党政府は、要職に付いて以来毎年ストライキを打ち壊すために軍隊を使っていた。そしてまたもや1970年代に、労働党はストライキを打ち壊すために軍隊を使ったのだ。実際、労働党はストライキを打ち壊すために、右翼の保守党よりも軍隊を使うことが多かったのである。

 言いかえれば、急進主義者の選挙使用論には重要な論点があるものの、そうした人々は究極的には国家の性質と国家が急進主義者に及ぼす破滅的効果を考慮していないのだ。歴史が物事を評価する基準とすれば、選挙を利用している急進主義者の純粋な結末は、要職に選ばれると、急進主義者は、右翼が行ってきたと自分達が非難していたことを大喜びで行う、ということなのだ。多くの人々は、自分たちは「もっと良い」政治家、「もっと良い」指導者を選ぶ必要があったと論じながら、要職に選ばれた人々を裏切り者として非難している。アナキストからすれば、そこに参加している個々人ではなく、使われた手段ほど悪しきものはないのであって、その手段こそが問題なのである。

 最も基本的には、選挙はそれを使っている政党をさらに中庸で改革主義的にせしめる。実際、政党はその成功の犠牲者となる場合が多いものなのだ。得票を得るために、政党は「中庸」で「実際的」に見せかけねばならず、それはシステムの中で努力することを意味しているのである。これは(ルドルフ=ロッカーの言葉を使えば)次のことを意味する。

『ブルジョア国家の政治への参加は、労働運動を髪の毛の厚さほども社会主義に近づけはしない。ただ、この方法のおかげで、社会主義はほぼ完全に破壊され、意味がないと審判を下されてしまった。(中略)議会政治への参加は、社会主義労働運動が狡猾な毒であるかのような印象を与えてしまった。それは、救済はいつも上からやってくるという破滅的な誤りを民衆に植えつけることで、社会主義者の建設的活動が必要であるという信念だけでなく、何よりもまして悪いことに、自助努力の衝動をも破壊したのだった。』(「アナルコサンジカリズム」、49ページ)

 この腐敗は一夜にして起こったわけではない。アレキサンダー=バークマンは、以下のように書いて、それがどのように緩やかになされているのかを示している。

『(当初社会主義諸政党は)自分たちがプロパガンダのためだけに政治を使っており、(中略)そして社会主義を擁護する機会を持つために選挙に参加するのだ、と主張していた。

 『これは害の無いことのように見えるかもしれないが、社会主義の破滅だと明らかにされたのだった。自分の目的を達成するために使っていた手段がすぐにそれ自体目的と化してしまうこと以上の真実はないからだ。(中略)この毎度毎度見られる裏切りには(性格の曲がった人が選ばれること以上に)もっと根源的な理由がある。(中略)いかなる人間も一夜にしてどうしようもなくなったり、裏切り者になったりはしないのだ。

 『不正行為をさせているのは「権力」なのである。(中略)詳しく述べて見よう。最も良い意図を持っていたとしても、(当選した)社会主義者は(中略)社会主義的性質を持った何かを成し遂げるだけの権力を全く持っていないということに気づく。(中略)(このことがもたらす)道義の乱れと政治腐敗は、誰もそれに気づかないほどゆっくりと段階的に引き起こされる。(中略)当選した社会主義者は、(他の政治家によって)物笑いの種と見なされていることに気づく。(中略)そして、その議員席を確保することがだんだん難しくなっていることが分かり、(中略)自分の発言によっても投票によっても、その議事進行に影響を与えることなど出来ないのだと知ることになる。(中略)自分の発言が民衆に届くことすらない。 (中略)したがって、もっと多くの仲間を選ぶように投票者に対してアピールする。年月が過ぎ、(中略)多くの仲間が(中略)選ばれる。それぞれが同じ経験をし、すぐさまある結論に到達する。(中略)自分達は実際的な人間でなければならず、(中略)選挙区民に対して何かを行っているということを見せねばならないのだ。(中略)このようにして、状況は、彼らが議事進行上の中で「実際的な」ことを行い、「ビジネスの話をし」、国会で実際に扱われている事柄に合意せざるをえなくする。(中略)この雰囲気の中で、良い仕事と良い給料を楽しみながら数年過すと、成功した社会主義者たちは政治機構の本質的部分となってしまうのである。 (中略)選挙に何度も当選し政治権力を確保するに従い、彼らは次第に保守的になり、既存条件に満足するようになるのである。労働者階級の生活と労苦から引き離され、ブルジョアの雰囲気の中で暮らすことで、(中略)彼らは「実際的」だと呼ばれるようになる。(中略)権力と立場は次第に彼らの意識を窒息状態にし、彼らは現在の流れに抗して泳ぐだけの強さも正直さも持たなくなる。(中略)彼らは資本主義の最も強力な防護壁となりはてるのだ。』(「共産主義アナキズムとは何か?」、78ページから82ページ)

 そして、『社会主義諸団体が征服しようとしていた政治権力は、跡形も無くなるまで、社会主義を段々と征服していったのだった。』(ルドルフ=ロッカー著、前掲書、50ページ)付け加えて言えば、こうした主張は先見の明の無さのためなどではなかった。バクーニンは1870年代の初頭に次のように論じていた。『(選挙を使うことによる)不可避的な結果は、労働者の代理人が、純粋なブルジョア環境へと移され、純粋なブルジョア政治観念の雰囲気へと入ってしまうことで、(中略)その見解がブルジョアそれ自身よりももっと中流階級的になってしまう、ということになろう。』(「バクーニンの政治哲学」、216ページ)歴史はバクーニンの予測が正しかったことを示していたのだった(マルクス主義がエリート支配をもたらすだろうという予言も的中していたように)。

 歴史には政党がシステムの一部となる実例が散乱している。19世紀転換期のマルクス主義社会民主党から、1980年代の独国緑の党まで、直接行動と閣外活動の必要性を賛美していた革新政党がいったん権力を握ると、それらの活動を公然と非難しているのを我々は目の当たりにしてきた。国会を自分たちのメッセージを広める手段だとして使い始めても、国会に参加している諸政党は投票をそのメッセージよりも重要なことと考えるようになってしまうのである。ジャネット=ビールは、直接行動と革新的選挙を組み合わせようとしたドイツ緑の党の結末をまとめている。

『ドイツの緑の党は、世界中の緑の運動で最重要団体だったが、その「事実上の」ボス自身が認めているように、現在では悪臭漂うフツーの団体と見なされねばらなくなった。今や出世主義者の貯蔵庫となり果てた緑の党で目立っているのは、原理原則を妥協し裏切るという彼等なりの物語の中に、余りにも早く出世主義・政党政治・お決まりの仕事という大昔の枠組みが再びその役割を演じるようになったことだけである。彼等の古い価値観でできた表面的ベール(今では全く非常に薄いベールになってしまった)を隠れ蓑に、彼等は地位を求め、自身の心の中身に妥協することが出来る。(中略)彼らは「実際的」「現実的」「権力志向的」になってしまった。この旧態然とした新左翼世代は、悪いことに、ドイツだけでなくどこにでもいるものだ。
 だがそれなら、これは1914年の八月にSPD(ドイツ社会民主党)で起こっていたのだから、1991年のDie Grunen(緑の党)で起こらない訳があろうか?そして実際に起こったのだ。』(「政党か運動か?」、グリーンライン誌、89号、14ページ)

 悲しいかな、このことは、こうした試み全てにもたらされる結末なのである。結局のところ、政治行動の使用を支援したところで、候補者の持つ善意と性格に訴えることしか出来ないのだ。だがアナキストは、当選した候補者の性格の変貌を決定する構造とその他の影響の分析を提起する。言いかえれば、マルクス主義者などの急進主義者とは逆に、アナキストは選挙のダイナミクスの唯物論的科学分析を示すのである。大部分の理想主義諸形態と同様、マルクス主義者とその他の急進主義者の主張は現実という岩盤の上でもがいている。というのも、その理論が『政治的戦略という口実の下、不可避的にその党員を、政府や政治政党との絶え間ない妥協へと引きずり込み、陥れる。つまり、その理論は党員を全くの反動になるように後押しているわけだ。』(バクーニン著、前掲書、288ページ)からである。

 しかし、多くの急進主義者が歴史のこの教訓を学ぼうとせず、新しい政党を作りだそうとし続けている。新しい政党は、その他全ての革新政党が経験してきた妥協と裏切りの物語を繰り返さないだろうというわけである。そして、彼らによれば、アナキストは空想家なのだ!『ごみ溜に飛び込んで綺麗なままでいることなど出来ない』(アレキサンダー=バークマン著、前掲書、83ページ)と考えていることが真の空想家だというのだ。こうしたことは、物事を変える手段として直接行動を拒否している(もしくは、選挙の「補足」と捕らえている)結果なのである。
 何故なら、いかなる社会運動であれ、『直接行動に対する自分の言質を「システムの中で努力する」ために放棄することは、社会的に革新的な運動として自身の人格を破壊することになるからだ。変化ではなく尊敬を求める「多数派組織(mass organisations)」の絶望的泥沼へと逆戻りし解消してしまうのである。』(マレー=ブックチン著、「生態調和社会に向けて」、47ページ)ためである。

 それ以上に、選挙の使用は、それを使っている運動を中央集権化させる効果を持っているのだ。政治行動は国会活動であり、受身のサポート以外の役割を持っていない「平の兵卒」を使って、その代表者によって民衆「のために」なされるものだと見なされるようになる。指導者だけが能動的に参加し、主たる強調点は指導者に置かれ、すぐさま、政策は指導者が決めるべきだということを正しいと見なすようになる(必要とあらば会議での決定を無視することさえも。何度政治家は、くるりと向きを変え、自分たちが公約していたことと正反対のことを行ったり、政党の政策と全く反対のことを導入したりしたことだろう?)。最終的に、党員がある指導者を支援することで、党会議は単に国政選挙のようになってしまうのである。

 すぐに政党は、資本主義システムの要件である肉体労働と精神労働との分断を映し出すようになる。労働者階級の自主活動と自己決定の代わりに、代理人が用意され、民衆の「ために」活動する非労働者階級の指導力が、社会闘争と政党内部における自主管理に取って替わるのである。有権者優先主義(electoralism)は政党に対する指導者の支配と、政党が代表しているはずの民衆に対する政党支配を強めているのである。そして、もちろん、我々が直面している問題に対する本当の原因と解決策など、指導者によってごまかされてしまい、議題は指導者を当選させてくれるような通俗的問題に集中するため、めったに議論されないのである。

 そしてもちろん、このことは急進主義者に次のような結果をもたらしている。『間違いを少なくし、法律と政府に対する信仰の奴隷となる代わりに、(中略)強制的な権威と政府に対する人々の信念を「強める」ように実際には働きかけている』(A.バークマン、前掲書、84ページ)叛逆者の魂を勇気づけているといつでも証明されているもの、自主管理と自助努力、これこそが社会に変化をもたらす鍵なのである。

 いかなる理由であれ、国家の支配力を手に入れようとするのではなく、アナキストは社会の中で、国家を外的圧力の対象とする抵抗の文化を促そうとする。アナロジーを使えば、選挙賛同型の急進主義者は、国家は君と君の友人に対して使おうとして棒を持った人に似ている、と論じる。そして、君はその棒を彼らが握っているかどうかはっきりと分かってはおらず、君はその棒を彼らから取り去ることも出来る。君がその棒を彼らから取り去ってしまえば、君は彼らを打つ必要など無いわけだ。その武器を君が彼らから取った後で、君はそれを半分に折りほうり投げてしまうことも出来る。彼らはその武器を使うことも出来なくなり、そのことが重要なのである、というわけだ。

 それに対して、アナキストは、その棒を取ろうとするのではなく、自分自身の筋肉と技術を発達させて、棒を必要としないように、自分自身で彼らを打ち倒すことが出来るようにする、と主張する。確かに、本物のリバータリアン労働者階級機関を構築することは時間が長くかかるが、我々の力は我々の一部であり、「我々のために力を使って」やろうと申し出て(つまり、棒を手に入れ次第壊してやろうと言って)くれる人に渡すことなど出来ないからこそ、そうする価値があるのである。
 ならば、社会主義者と革新政党が行っていることは何なのか?我々のために戦うと申し出ているのであり、我々が我々のために行動してくれる他者を頼りにするなら、彼らが行動してくれない時(そしてその代わり、我々に向けて棒を使おうとする時)には、我々は武装解除されてしまっていることになるのだ。権力が腐り切っているという事実から鑑みて、国家権力という棒を政党に与えてしまえば、それを完全に排除することが出来るという主張は、結局のところ、ごく控えめに言っても、愚直なのだ。

 そして我々は、歴史が何度でも我々が正しいと証明してくれる、と感じている。

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