アナキズムFAQ

I.6 「コモンズの悲劇」についてはどうなのか?共有は本当に乱用と環境破壊をまねくのだろうか?

 最初に述べておかねばならないが、「コモンズの悲劇」のパラドックスとは、実際には、「コモンズ」(共有地)の問題に「無料の悲劇」を当てはめたものである。「無料」の資源は「コモンズの悲劇」と呼ばれることに関わる問題全てを含む。つまり、資源の乱用と破壊である。だが、残念ながら、資本主義者がこうした例に言及する際に、そこには真の「コモンズ」は含まれていない。

 資本主義者が使う例において「無料の」土地が使い果たされてしまう(「悲劇」)のは、想定上の羊飼い個々人が、仲間や土地を考慮せずに、自分の利益を最大にすることを追求するためである。個々人に合理的なこと(例えば、利益のために最も多くの羊を飼うこと)は、孤立して行動する個々の羊飼いが増加すると、結局は莫大な不合理(例えば、全ての羊飼いの生活が破綻すること)で終わってしまう。一人の人にとって有効なことは、一定地域にいる万人にも有効になるわけではない、というわけだ。だが、以下で論じるように、こうした土地は共同的に管理されて(真の共有地がそうであるように)いないのだから、いわゆるコモンズの悲劇は本質的には自由放任主義資本主義経済実践を批判しているのである!

 アラン=エングラーは次のように指摘している。『資本主義の支持者は、自分達がコモンズの悲劇と呼んでいることを引用して、森林・魚類・水路が放縦に略奪されていることを説明する。だが、問題は共有地ではない。土地が部族・氏族・村落によって共有されていた時代には、自分達の取り分以上を取ることはなく、他者の権利は尊重されていた。共有地の世話をし、必要となれば共有地を破壊しかねない人々から土地を守るべく共に行動していた。資本主義の下で共有地は存在しない。(公有地は私有地の一形態であり、法人としての政府が所有する土地である。)資本主義は私有地と無料の土地しか認めていない。無料の土地は、誰かが自分のものだと主張するまで、誰も責任を持たない。主張した人は、その土地を自分が望むように使う権利を持つ。これは、資本主義に特有の権利である。共有財産や個人財産とは異なり、資本主義の財産は財産それ自体や財産の使用によって価値付けられはしない。その所有者に対して財産が生む利益によって価値付けられる。資本所有者が財産を始末することで利益を最大のものにできるならば、その人はそうする権利を持つのである。』[Apostles of Greed, pp. 58-59]

 だから、コリン=ウォードは次のように論じているのだ。『地元管理・民衆管理はコモンズの悲劇を避ける最も確実な方法である。』[Reflected in Water, p. 20] 社会的アナキズム社会がコミューン型の分権型社会になるとすれば、コミューンが所有し使用する資源が非合理的に乱用されたり、不正利用されたりする恐れはほとんどなくなるであろう。

 よって、本当の問題は、多くの経済学者と社会学者が、管理されていない資源が無料で手に入るという筋書きと、「コモンズ」の使用に広がっていたような村落と部族コミュニティが共同で資源を管理していたという情況とを混同していることにある。例えば、E=P=トンプソンは次のように述べている。ギャレット=ハーディン(「コモンズの悲劇」という言い回しを作った人)は『歴史的知識がなかった』ため、コモンズは『万人が自由に使える放牧地であり、個々の牧夫はコモンズでできる限り多くの牛を飼おうとすると予想される。』と仮定していた。["Custom, Law and Common Right", Customs in Common, p. 108f] 実際には、コモンズは、そこを使う人々間の共同合意によって管理されていた。同様に、ソ連と東欧諸国の経験から「共有」財産は公害と資源破壊を導くことが示されている、と主張する人々は、実際に共有財産がどのようなものなのかを認識していない(リバタリアン資本主義者がこうした主張をしているのは偶然ではない)。そのようになったのは、当該資源が共同で所有もしくは管理されていなかったからである−−こうした国々が独裁制だったという事実が資源の民衆管理の余地を残していないのだ。よって、ソ連は実際には「コモンズ」を持つことの危険性を示してはいない。むしろ、資源を管理している人々を民衆管理下におかないことの危険を示している(米国が西欧よりもはるかに汚染されていることは偶然ではない−−米国では、ソ連同様、資源管理者は民衆管理下にはなく、従って、民衆を公害にさらしているのである)。東欧諸国は、共有資源利用ではなく、国有資源利用の危険を示している。特に、当該国家が、代議制民主主義が暗に示しているような臣民の限定的な管理下にすらない場合には、そうである。

もちろん、この混同は、金持ちと国家による共有財産の略奪を正当化するために使われてきた。金持ちと権力者は様々な前資本主義社会形態を攻撃し、共有資源を盗むことに既得権益を持つ。政治的議論においてこの「混同」が継続して受け入れられてきたのは、金持ちと権力者にとってこの理論が有用だからである。従って、「コモンズの悲劇」を正当化するために使われる例の大部分は、根底となる社会条件が真のコモンズを使用する際の文脈とは根本的に異なる状況に基づいた、誤った例なのである、

 現実に「コモンズの悲劇」が生じたのは、富と私有財産が、国家の支援の下で、共同生活を蝕み、破壊し始めた後からである。コモンズは数千年にわたって存在していたが、それが初めて消失したのは、資本主義−−そして、それに必要な強力な中央集権国家−−が勃興することでコミューンの価値観と伝統が蝕まれた後だったという事実が、このことを充分示している。富の集中の影響と国家がなくとも、人々は寄り合い、共有資源の利用方法について合意し、数千年にわたってこれを行い続けていた。これがコモンズを管理するやり方だったのであり、だからこそ、「コモンズの悲劇」は「私有財産の悲劇」と呼んだ方がよいのである。ディガーの(そして原初アナキストである)ジェラルド=ウィンスタンレーが次のように不満を述べた際、彼は民衆に広がっている感情を表現したにすぎない。『パリッシェズでは、コモンズは金持ちのノルマン人自由保有権者にあるか、新しい(もっと強欲な)貴族が羊と牛をコモンズに詰め込み過ぎるかしており、そのことで、下級の借地人と貧乏な労働者は一匹の牛を飼うこともできず、自分を半餓死状態にするしかない。』[Maurice Dobb, Studies in the Development of Capitalism, p. 173 で引用] コリン=ウォードは、フランコの勝利後のスペインにおけるもっと最近の例を指摘している。

 スペインの水の歴史は、コモンズの悲劇がギャレット=ハーディンが確認したようなものではないと証明している。共同管理によって、万人に公平な割り当てをする精巧で洗練されたシステムが発達していた。ハーディンが共同利用権に必ず伴うと考えていた利己的個人主義や大地主の高慢な無知を生んだのは、まさに、彼が推奨している私有財産制なのだ。[Colin Ward, 前掲書, p. 27]

 E=P=トンプソンは、この主題に関する包括的研究の中で次のように述べている。コモンズの悲劇の『主張は、共有している資源を誰も所有せず保護もしていなければ、容赦なき経済論理によって乱獲が運命付けられる、というものである。これは常識的な感じがするが、この主張が見落としているのは、庶民自身は非常識ではなかった、ということである。時間と共に、空間の広がりと共に、コモンズの使用者は、多様で豊富な制度と地域的制裁を発達させた。これが、使用を抑止し制限する効果を持っていた。古い諸制度が廃止されると、コモンズの使用は空白状態へと流れ込み、そこでは、政治的影響力・市場力・民衆の主張が共通のルールなしに互いに争い合っていたのだった。』[前掲書, p. 107]

 もちろん、実際に、政治的影響力と市場力とは富によって支配される−−『絶対的正確さを決定付けのは二つの出来事だった。法律に従った裁判と囲い込みのプロセスである。この二つの出来事がちっぽけな使用者よりも権力と富を持つ人々に有利な計らいをした。』民衆の主張は取るに足らないものとされ、国家は金持ちに有利なように所有権を施行した。究極的に『議会と法律が、土地の独占的所有権に資本主義の定義を押し付けたのである。』[E.P. Thompson, 前掲書, p. 134, p. 163]

 労働者階級は餓死するまで「置き去りにされ」るだけだ。現実に、共有地の私有化は、莫大な生態系破壊を引き起こしている。自由論議と自由合意の可能性は「絶対的」所有権の名において破壊されている。この権利に付き物なのが権力と権威なのだ。

 この主題については、ボニー=M=マッコイとジェームズ=M=アチソン編、「コモンズの問題 The Question of the Commons」(Tucson, 1987)とロバート=アクセルロッド著「協力の進化 The Evolution of Co-operation」(Basic Books, 1984)を参照していただきたい。

I.6.1 「世界中の全ての人が所有する」財産の使い方をどのようにして決定するのか、アナキストはどう説明するのか?

 まず最初に、通常この反論の背後にある誤謬を指摘しておかねばならない。この反論は、万人が所有している以上、所有物を何に使うのかについて万人に相談しなければならない、と想定している。しかし、これは私有財産の論理を非資本主義社会形態に適用している。アナキズム社会で万人が集団的「財産」を所有することは真実だが、だからといって、万人がそれを使用するわけではない。無政府共産主義の創始者の一人カルロ=カフィエーロはハッキリと次のように述べている。

 この地球上に分散している共有の富は、当然の権利として人間全体に属しているが、それを共同で活用するのは、この富の手近に偶然いて、期せずしてそれを利用する立場にいた人々である。所与の国にいる人々は、その国の土地・機械・仕事場・住宅などを使用し、完全に共同で使うであろう。人間性の一部として、その人々は、実際に直接、人類の富の一部に対する自身の権利をそこで行使する。しかし、例えば、北京の住民がこの国を訪問した場合にも、その人は他の人と同じ権利を享受する。他の人々と同様に、丁度その人が北京でそうであったのと同じように、その国の富を全て享受するのである。[No Gods, No Masters, vol. 1, p. 250]

 従って、社会の富の一部を使用する人々がその富に何が起こるのかについて最も発言権を持っている、とアナキストは考える(例えば、自分達が使用する生産手段とその手段を使って行う仕事を労働者が管理するのである)。だからといって、それを使用している人々がそれを好きなように扱っても構わないという意味ではない。使用者は、自分の立場を乱用した場合には、地元コミュニティによってその立場を撤回させられることになろう(例えば、ある仕事場が環境を汚染していれば、地元コミュニティはその作業を止めさせるべく行動することができ、必要ならば、その仕事場を閉鎖することもできる)。従って、自由社会では、「地球規模で考え、地元で行動する」という強力な薬と共に、使用権(もしくは用益権)が所有権に置き換わるのである。

 無国家社会には私有財産もない。これは偶然ではない。マレイ=ブクチンは次のように指摘する。『物品の個人的占有、道具や土地などの資源を私的に要求する権利は、有機的(つまり先住民族)社会ではよくある。同様に、共産主義的だと呼ぶことができるほどの規模で共同作業を行い、資源を共有することもよくある。しかし、一見して矛盾した関係に見えるこれら二つにとって重要なことは、用益権の実践なのである。』[The Ecology of Freedom, p. 50]

 こうした無国家社会が基づくのは『用益権の原理である。コミュニティにいる自分がそれを使っているという事実に基づくだけで、資源を占有する個々人の自由である。その結果、機能が、現在の神聖なる所有概念に置き換わるのである。』[Bookchin, 前掲書, p. 50] アナキストが望んでいる未来の無国家社会もそうした原理に基づくことになろう。要するに、社会的アナキズムの批判者たちは所有を占有と混同し、所有を廃絶することは自動的に占有と使用権を廃絶することになると考えているのである。だが、セクション B.3において論じたように、所有と占有は全く違う。シャーロッテ=ウィルソンは次のように述べている。

 所有とは個人や個人の連合が物事を支配することである。これは、個人や集団が事物を使用すると主張すること−−これは用益権であり、全く異なる−−ではない。所有とは富の独占、所有者の必要如何に関わらず、富を他者が使用できなくする権利を意味する。用益権は、使用者が必要とする物資としての富の利用を要求することを意味する。仲間がその一部(自分が使っていない部分や使う必要のない部分)を使用できないようにしている個人は誰であれ、コミュニティ全体を騙しているのである。[Three Essays on Anarchism, p. 17]

 よって、アナキズム社会は、共有資源がどのように使われるのかを決定する単純で効果的な方法を持つ。それは占有と用益権に基づくのである。

 コモンズの一定領域を何に使うのかを決めることは、当該コモンズの近くに住む地元コミュニティの責任である。例えば、地元の自主管理型工場が工場を拡大したいと考え、コモンズに食い込む場合、地元のコモンズを使用している(従って、管理している)地元コミュニティがそのことについて議論し、それに関わる合意に至ることになろう。少数派が本当に反対する場合、自分達の主張を納得させるべく直接行動を行うことができる。しかし、平等者間での理性的議論はこうした事例をそれほど多くは生まないだろう、とアナキストは論じる。また、ある個人が、公園とはなっていない区画に家庭菜園を作りたいと思ったとしよう。その人は地域集会に適切なやり方(例えば、掲示板や新聞広告など)で告知し、次の集会や決められた期間内に反対する人がいなければ、この当該資源を使用したいと思う人が他にいないということなので、家庭菜園を作り始めるであろう。

 他のコミュニティもこのコミュニティと連合し、共同活動が討論されることになろう。コミュニティは(個人同様に)、望むならば、連合しないのも自由である。他のコミュニティは、生態学的に・個人的に破壊的な実践に対して反論することができるし、そのようにするであろう。生態系と自由との相互関係は周知のものであり、自由な個人が、自分達の中の誰かに自分達の惑星を破壊するがままにさせておくなど考えにくいのである。

 つまり、使用する人が管理するのである。これは、二人以上の人が使用する資源を管理するために「ユーザーグループ」が作られることを意味する。仕事場の場合、これは(本質的に)そこで働く人々である(場合により、消費者グループと協同組合からのインプットもあろう)。借家人で構成される住宅協会は、住居と修繕を管理する。社会の中にある様々な協同組織が使用する資源−−例えば、共有の学校・仕事場・コンピュータネットワークなど−−は、それを使用する人々が日常的に管理する。ユーザーグループが、利用規則(例えば、タイムテーブルと予約の規則)と、どのように使用・修繕・改善するのかを決める。こうしたグループはその地元コミュニティに対して説明責任を持つ。従って、もし、そのコミュニティが、その中の一グループの活動が共同資源を破壊したり、その利用を制限したりしていると見なすと、関連集会においてこの問題が議論されることになる。このようにして、私有財産がなく、私有財産がもたらすヒエラルキーや自由の制限も存在せずに、関係者が、自分達自身の活動と使用する資源を管理する(そして、その適切で効果的な使用を保証することに関心を持つ可能性が非常に高い)のである。

 最後になるが、使用権の衝突について吟味してみよう。つまり、二人以上の人々やコミュニティやコレクティヴが、同じ資源を使用したいと思った場合である。一般に、こうした問題は、当事者による議論と意志決定によって解決できる。このプロセスは大雑把に言って次のように行われるであろう。競合する関係者が分別をわきまえていれば、自分達が信頼できる判断を行うことのできる相互の友人に争議を解決してもらうように相互合意するであろう。もしくは、あるコミュニティや当該の幾つかのコミュニティからランダムに選ばれた陪審の手にこの問題を任せるだろう。当該資源を共有する際に、こうした関係者間で合意に至り得ない場合には、こうしたプロセスが行われる。

 だが、こうした争議は、権威が干渉したり、私有財産を再創造したりせずとも、ずっと上手く解決されることは確かである。関係者が上記した分別ある経過をたどらず、その代わりに、固定した権威を配置すると決めた場合、最悪の事態が生じるのは必至である。まず第一に、この権威は、こうした問題に対してその判断を強制する権力を持つことになる。これが生じれば、新しい権威が、争議されていることの最良のものを自分で保持し、残りを友人たちに割り当てることは疑いもないのだ!私有財産を再導入することで、こうした権威主義機関は、ゆっくりとというよりも、すぐさま発達し、新しい二つの抑圧者階級が創り出されるのである−−財産所有者と「正義」の強制者である。

 平等だという条件で会って合意に至らなかった二者が分別を持ち得ないとか公正であり得ないとか、暴力を盾にした権力を持つ第三者が正義の具現化そのものになるとかいうようなことは、奇妙な誤謬である。常識的に考えれば、こうした幻想は明らかにおかしい。平等を前提に話し合う人々が分別を持たなかったり公正ではあり得なかったりすると主張する歴史的「反証」が疑わしいのは、不公正な結果や不合理な結果(例えば、戦争をもたらすといったような)には、一般に、私有財産とヒエラルキー型諸制度の範囲内で不平等の権力を持つグループ間の対立が含まれているからである。

 さらに記しておかねばならないが、レーニン主義者が主張しているような、中央集権化だけが共同利用を保証できる、ということも同様に誤りである。中央集権化は、管理を使用者から「社会」を代表すると公言する団体へ移してしまうことで、一労働者集団の乱用の危険を労働者に対して権力と権威を持つ官僚制による乱用の危険に置き換えてしまう。一般の労働者がその立場を乱用でき、自身の利益のために使用権を制限できるならば、中央集権型機関に集まった人々もできるわけである(この機関が、理論的に、選挙によって説明責任を持っていようといまいと)。実際、このことが生じる可能性は非常に高い。つまり、共有と使用権にとって重要なのは、分権であって、中央集権ではないのだ。

 共有「財産」が機能するためには共有構造が必要である。自由社会では、使用権と平等者間での議論が所有権に置き換わる。公共国家や私設国家が強制する法律の陰に入れらてしまうと、自由は生存できないのだ。

I.6.2 いかなる共有形態であっても個人の自由を制限することはないのだろうか?

 この論点は様々な形で表明される。ジョン=ヘンリー=マッケイ(個人主義アナキスト)は次のようにこの点を述べている。

 君たち(社会的アナキスト)は、君たちが「自由共産主義」と呼ぶ社会システムにおいて、個々人が自身の交換媒体を使って個人間でそれぞれの労働を交換できないようにするのではないだろうか?さらに、君たちは、個人的利用を目的として土地を占有できなくするのではないだろうか?この問題を避けることはできない。「そうだ」と答えるならば、社会は個人に対して支配権を持つと認めることになり、君たちが常に熱心に擁護していた個人の自律を見捨てることになる。逆に、「違う」と答えるならば、君たちが断固として否定している私有財産権を認めることになる。[Patterns of Anarchy, p. 31]

 だが、上述し、セクション B.3 と I.5.7 でハッキリと説明したように、アナキズム理論はこの問題に対して単純明快な答えを持っている。この答えがどのようなものか見るためには、使用権が所有権に置き換わることを思い出すだけでよい。つまり、個人は自分が適していると思うように自身の労働を交換でき、自分が使用するために土地を占有することができるのである。これは、私有財産の廃絶と少しも矛盾しない。占有と使用は私有財産と直接対立するからだ。従って、自由共産主義社会において、個人は土地を利用できるし、道具や器具も自分が望むように個人的に「使用・占有」することができる−−個々人が自由共産主義社会に参加しなければならないというわけではない。ただ、個人が自由共産主義社会に参加しない場合、その人は、協同組合や共同生活から他の人々が受け取る利益を求めることはできないのである。

 シャーロッテ=ウィルソンは、マッケイがその「避けることのできない」問題を公刊する数年前にアナキズムに関する論考を書いており、この論考からも上記の問題について見ることができる。ウィルソンは次のように述べている。アナキズムは『生産器具−−土地も含む−−の用益権は、全ての労働者・全ての労働者集団に対して無料にすべきであり』、『様々な産業間で必要となる繋がりは、自主の原則に基づいて管理されねばならない、と提案している。』彼女は次のように問うている。『ならば、アナキズムは個人的財産を認めていないのだろうか?』彼女は次のように記して答えている。『万人が自分に必要なものを自由に取ることができ』、従って『個人的必要物と便利な物を占有しなくなるとは考えにくい。』というのも『法律制定や武力支援がなくとも財産が保護され、財産によって個人的サービスを買うことができない場合に、社会に対して危険なほどの規模で個人的財産が蘇生するなど恐れる必要はない。個々人が占有する量は、その人自身の良心に委ねられねばならず、同時に、同義心と町内の人々の明確な関心による圧力がその人に及ぼされることとなる。』この理由は以下の通りである。

 所有とは個人や個人の連合が物事を支配することである。これは、個人や集団が事物を使用すると主張すること−−これは用益権であり、全く異なる−−ではない。所有とは富の独占、所有者の必要如何に関わらず、富を他者が使用できなくする権利を意味する。用益権は、使用者が必要とする物資としての富の利用を要求することを意味する。仲間がその一部(自分が使っていない部分や使う必要のない部分)を使用できないようにしている個人は誰であれ、コミュニティ全体を騙しているのである。[Anarchist Essays, pp. 22-23 and p. 40]

 自由社会では占有が私有に置き換わるのである。これは、自由共産主義社会に参加すると決めた人々にも、その外部に留まりたいと思う人々にも当てはまる。このことは、クロポトキンの主張にハッキリと示されている。無政府共産主義革命は、自営の職人と農民が自由コミューンに参加したくないと思っているのであれば、自由にさせておくのである(「自主行動論 Act for Yourselves」, pp. 104-5 と「麺麭の略取 The Conquest of Bread」, p. 61 と pp. 95-6 を参照)。このように、自由共産主義の主導的理論家は、個人的利用のための(すなわち、住宅や生産手段としての)土地の占有が「私有財産権」を必要とするとは考えていなかったのである。明らかに、ジョン=ヘンリー=マッケイはお得意のプルードンを読んでいなかったのだ!

 このことをもっとハッキリと示しているのは、クロポトキンが次のように論じたときである。『万物は万人に属している。男女が、必要物資を生産するために自分の労働の一部を貢献するならば、その人たちは、全体としてのコミュニティが生産する全てのものを共有する権利を持つ。』[The Place of Anarchism in Socialistic Evolution, p. 6] 続けて、彼は次のように述べている。『自由共産主義は、共同で収穫したり製造したりする産物を万人の自由にし、自分の家で自分が好きなようにそれらを消費する自由を個々人に委ねるのである。』[前掲書, p. 7] このことは明らかに、「占有と使用」という情況(実際に資源を利用する人がその資源を管理する)を意味している。

 クロポトキンの伝記の著者等が記しているように、このことは、タッカーやマッケイのような個人主義アナキストがクロポトキンを『部分的に誤解している』ことを明らかに示している。タッカーは『コミューン型組織という(クロポトキンの)考えは、個人が、自ら望んで自分で働くことを妨げるだろう、と示唆している(クロポトキンの理論の基盤は自主性原則だったのだから、彼はこの事実を常にハッキリと否定していた)。』[G. Woodcock and I. Avakumovic, The Anarchist Prince, p. 280]

 よって、自由共産主義のメンバーではない人々のケースついてはハッキリとしているのである。こうした人々も自分の生産物を消費したり、自身の生活の場で(つまり、自身の「私的利用」のために使う土地で)他者と生産物を交換したりするであろう。だが、土地と資源が私有財産となることはない。単に、それらが「占有と使用」されなくなると、共有状態に戻されるからだ。言い換えれば、占有所有に置き換わるのである。無政府共産主義者は、個人主義的アナキストであるジョン=ビヴァリー=ロビンソンが次のように書いていることに同意する。

 土地保有形態には二種類ある。一つは所有もしくは財産であり、この形態では、土地を使用するか使用しないままでいるかについて、所有者は絶対的領主である。もう一つは占有であり、使用し占有している以上、占有者の保有権は確保されるが、使用しなくなるとその権利は失われる。作物・建物・その他の産物の保有権が確保されるため、占有者は自分が使用する土地の占有以外に何も必要とはしない。[Patterns of Anarchy, p. 273]

 記しておかねばならないが、このシステムは、スペイン革命中に田舎のコレクティヴで採用されていた。そして、自分の労働で「占有・使用」可能な限りの土地と器具で作業を行いながら、コレクティヴの外に居続けることも可能だった。同様に、コレクティヴ内部にいる個人は、共同で働き、コミューンの店から必要物を受け取っていた。詳細は、ガストン=レヴァル著「スペイン革命におけるコレクティヴ Collectives in the Spanish Revolution」(そして、セクションI.8)を参照して頂きたい。

 マッケイのコメントは興味深い点をもう一つ提起している。個人主義的アナキストが現行の土地私有システムに反対していることを考えると、彼らのシステムでは「社会が個人の統制権を持つ」ようになってしまう。タッカーのような人々が好んでいる土地「占有・使用」システムを見てみると、それは、土地所有を(従って、土地の所有者を)制限することに基づいていることが分かる。タッカーは論じる。『占有と使用』に関わる『アナキズムの見解』が優勢になれば、あらゆる防衛組織は、個人的に使用できる以上に保持している人を保護しなくなり、また、借家人が家主に家賃を払うよう強制しなくなるだろう。[The Individualist Anarchists, pp. 159-62] つまり、「優勢な見解」すなわち社会が、個々人の行動を統制し、その自律性を侵害しながら、個人が獲得できる土地の量を制限するというわけである。言っておかねばならないが、これは驚くべきことではない。個人主義においては、所有物(つまり「財産」)の所有権と使用に関わるルールに関して、個人よりも社会の残りの部分が優越していることが必要なのだから−−お分かりだろうが、個人主義アナキスト自身は暗にこれを認めているのである。

 ジョン=ヘンリー=マッケイは続けて次のように述べている。『全ての真面目な人は、本体を現さねばならない。社会主義に味方するのか、つまり強制に賛同し自由に反対するのか、それとも、アナキズムに味方するのか、つまり自由に賛同し強制に反対するのかを。』[前掲書, p. 32] 記しておかねばならないが、これは奇妙な言明である。ベンジャミン=タッカーのような個人主義アナキストは自身を社会主義者だと考え、資本主義の私有財産に反対しているのだから(その一方で、ややこしいことに、個人主義アナキストの多くは、自身の占有システムを「所有」だと呼んでいる−−セクション G.2.2 を参照)。

 マッケイの言明は論点をはぐらかしている。私有財産は自由を支持するのだろうか?彼は、私有財産は、必ずや、その財を所有せずに使用する個人に対する財産所有者の統制力の獲得を導き、従って自由を否定する、という事実を扱っていないし、認めてすらいない(セクションB.4を参照)。プルードンは次のように論じていた。

 購入者は境界線を引き、その中に閉じこもり、言う。「これは私のものだ、各自は自分の手で、各自は自分のために」と。そして、そこから先には誰も足を踏み入れる権利を持たず、所有者とその友人を守る土地の一区画が出現する。これは誰の利益にもなり得ず、所有者とその召使いを守るだけである。これらを増殖させよう。そうすれば、民衆は休む場所もなく、住む場所もなく、耕す場所もなくなるであろう。民衆は所有者の家の戸口で、自分達の生得権だった土地の間際で、飢え死にするであろう。そして、所有者は、民衆が死んでいくのを見ながら叫ぶのだ。「このように怠け者と放浪者は滅びるのだ」と。[What is Property?, p. 118]

 もちろん、非所有者は、財産所有者に自分の自由を売ることで、所有者の権威への服従に合意することで、その財産を手にすることができる。プルードンが『所有の副作用は専制政治である』と述べたのは不思議ではない [前掲書, p. 259]。それ以上に、タッカーが、国家は『一定領域とその内部にいる万人に対する独占的権威という条件』である、と述べていることを考えれば、マッケイの主張は所有が持つ否定的側面と所有と国家との類似性を無視していることが分かるだろう [The Individualist Anarchists, p. 24]。結局、マッケイは、財産所有者がその財産の統治者でなければならない(そして、いかなる管理の対象にもならない)、と率先して認めていたのである。言い換えれば、財産所有者は一定領域とその内部にいる人々に対する独占的権威を前提としなければならないのだ。エミール=プージェが、プルードンに同意しながら、次のように論じていたのは不思議ではない。

 所有と権威は、全く同じ「原則」を別なやり方で表明・表現しているに過ぎない。この原則とは、要約すれば、人間の奴隷状態の強化と神聖化である。従って、所有と権威は、何処から見るかによって異なるだけのことである。奴隷制は、一つの角度で見れば所有の犯罪として見え、別な角度からは権威の犯罪となるのである。[No Gods, No Masters, vol. 2, p. 66]

 マッケイは、私有財産は、財産を所有せず使用している人々や使用する可能性のある人々から財産を守るために莫大な武力(つまり、国家)が必要となるという事実も扱ってはいない。

 つまり、マッケイは私有財産の持つ二つの重大な側面を無視しているのである。まず第一に、私有財産は武力に基づいているという事実である。この武力は所有者が他者を排除する権利を保障する(これが国家の主たる存在理由である)ために使われる。そして、第二に、彼は、「所有」の持つ反リバータリアン性質を無視している。「所有」は賃労働−−「私有財産」のもう一つの側面−−を創り出す。賃労働において、従業員は所有者の財産を使用するために雇われ、所有者によって従業員の自由は明らかに制限される。コミューンのメンバーが自主管理型組織の中で平等な権利・権力・発言権を持つ自由共産主義社会とは異なり、「私有財産」の下では、財産所有者が使用者を支配する。所有者と使用者が同一人物の場合(つまり、占有が所有に置き換わっているとき)には問題ないが、一旦、占有が所有になると、プルードンが述べているように、専制政治が創り出されるのである。

 従って、「自由」の名において、ジョン=マッケイとその他多くの「個人主義者」は、結局の所、権威を支持し、(事実上)ある種の国家を支持していることになるのだ。私有財産が個人的占有に敵対するものであり、個人的占有の基盤ではない以上、これは驚くべきことではない。

 よって、共同所有は個人の自由を(資源の個人的利用さえもを)制限するなどということからはほど遠く、実際には、個人の自由を防衛する唯一の方法なのである。

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