アナキズムFAQ

3.何故、マフノは「バチコ」と呼ばれていたのか?

 ネストル=マフノはこの運動で「バチコ」と呼ばれていた。ウクライナ語で「父親」の意味である。アルシノフはどのようにして、どのような情況でマフノがこの名を付けられたのか説明している。

 マフノがウクライナの革命反乱の指導者として、「バチコ」と呼ばれるようになったのは、このころ、1918年の秋からである。それは次のような状況でおこった。大都市に逃げ込んだ地主と、富農、ドイツ軍当局(当時、ウクライナを占領していた)は、なんとしてもマフノとその(パルチザン)部隊を殲滅しなければならないと決意した。地主たちは、マフノとの戦いのために、地主と富農の子弟からなる特別義勇軍部隊を編成した。9月30日、この義勇軍部隊はオーストリア・ドイツ軍とともに、マフノをボリシャヤ・ミハイロフカ(グリャイポーレの北東50キロ)に包囲し、村へ通じるあらゆる道に精強部隊を配置した。マフノには、このとき、30名のパルチザンと一台の機関銃しかなかった。退却して、圧倒的な敵の間をかいくぐって包囲から脱出することになったがジブリフキの森で困難な状況に立ち至った。退路はみな敵にふさがれていた。部隊として敵の包囲を突破することは不可能であり、ばらばらになって逃れることも革命反乱軍としての恥辱だった。また自分たちの指導者を見捨てることに同意するものもなかった。しばらく考えてから、マフノは、翌日にボリシャヤ・ミハイロフカ村(ジブリフキ)へ引き返すことにした。翌日、パルチザンたちが森を出たところで、数人の農民が駆けつけてきて、ジブリフキには敵の大部隊が駐屯しており、別の方向へ急いで抜けるべきだ、と警告した。(中略)パルチザンたちはボリシャヤ・ミハイロフカへ進んでいった。注意深く村に近づいてから、マフノが数人の同志とともに偵察に出ると、教会前の広場に敵の大野営地があり、数十の機関銃、数百の鞍を置いた軍馬と部隊ごとに並んだ騎兵が見えた。農民の証言によれば、村にはオーストリア軍の大隊と地主義勇軍部隊が野営しているとのことだった。もう退路はなかった。マフノは持ち前の沈着毅然とした態度で仲間に呼びかけた−−「さあ、みんな!いよいよここで俺たち全員が死ぬことになるようだ・・・」と。心の昂ぶりと静かな決意がその場を支配していた。30名全員が自分の前にあるただ一つの道−−数千の武装した敵への向かう道を見つめていた。誰もが動揺していたが勇気を失うことはなかった。

 この時、パルチザンの一人、シチューシが、マフノにむかって言った−−「これからはお前が俺たち全員のバチコだ、俺たちはお前と一緒に反乱の隊列で死ぬことを誓う」。

 ここで全員が反乱の隊列から決して離れないと誓い、マフノを革命反乱全体のバチコとすることを決めたのだった。シチューシ他、5〜7名が迂回して敵の側面を衝くことになった。マフノと残りのものは敵の正面に向かった。「ウラー」の吶喊とともにパルチザンは、敵の真正面にサーベルとライフルと拳銃を振り上げて突撃した。その結果は圧倒的だった。予想もしていなかった突然の攻撃に不意をうたれた敵は蹴散らされ、パニックに陥り、武器、機関銃、軍馬を棄てて逃げ惑った。相手に、我に返ってパルチザンの戦力を確かめ反撃に転ずる暇を与えず、パルチザンは分断された敵を追撃し、疾駆のうちに切り倒した。地主義勇軍部隊の一部はヴォルチヤ川に敗走し、そこで戦場に駆けつけてきた土地の農民たちによって川底に沈められた。敵の敗北は無残なものだった。

 土地の農民と駆けつけてきた革命反乱の部隊は英雄たちを歓呼のうちに迎えた。ここでマフノを全ウクライナの革命反乱のバチコとみなすという決定が全員の同意のうちに認められた。[アルシノフ、前掲邦訳書、55〜57ページ]

 このようにしてマフノに「バチコ」というニックネームが付き、それ以降彼はこのように呼ばれ続けたのである。

 強調しなければならないが、「バチコ」はニックネームであり、運動内部での独裁的立場や階層的立場の形成を示してはいない。

 内戦の最中、この言葉は、民間分野・軍事分野双方で特定地域とその地域住民を指導し管理していることを意味していた。「指導者」や「独裁者」ではなく、この言葉を使っている趣旨は、マフノの場合もそうだが、普段から尊敬されているから、そしてお膝下の地域を詳しく知っているから指導者としての地位にいるのだ、ということなのである。[Michael Malet, 前掲書, p. 17]

 これがニックネームだったことは、「1920年代からは彼は普通『マールイ』(ちび)と呼ばれていた。体の小ささを表すこのあだ名は反乱軍兵士の一人がたまたまマフノをそう呼んだことから広まった。」[アルシノフ、前掲邦訳書、203ページ] という事実からも分かる。農民がマフノを「バチコ」と呼んでいた事実を重大視する(ボルシェヴィキがそうだったように)ことは、マフノ叛乱運動とその社会環境に関する無知の表れなのである。

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