アナキズムFAQ

付録−−アナーキーのシンボル

1 黒旗の歴史
2 なぜ赤黒旗なのか?
3 サークルAの起源

イントロダクション

 アナキズムは、広範で、時として曖昧な政治綱領に対していつも慎重な立場をとっている。その論証は深い。青写真を作ってしまえば、厳格なドグマを創り出すことになり、創造的な反逆魂を窒息させるからだ。同じ方向性に沿い、同じ問題を生じるため、アナキストは他の多くの左翼政治集団に見られる「規律正しい」リーダーシップも拒絶してきた。この論理も重要である。権威に基づいたリーダーシップは、内在的にヒエラルキー的だからだ。アナキストは固定的なものなら何でも忌み嫌うため、シンボルと偶像の重要性も忌み嫌うのだ、ということは論理的に思われる。

 このことが、アナキスト=シンボルの起源が捕らえ所がなく、決定的ではない理由を説明してくれる一方、実際には、アナキストは国家と資本に対する反逆において記号象徴を使ってきている。シンボルには、黒旗だけでなく、サークルAと赤黒旗もある。サークルAは、世界中で、壁や橋桁に落書きされている。パンクスはジャケットにサークルAを書いたり、半乾きのセメントにサークルAを走り書きしたりしている。黒旗と赤黒旗は国家社会主義崩壊後のロシアと東欧で復活し、世界中の大部分で飛び交い続けている。

 つまり、アナキスト運動は運動と関連した様々なシンボルを持っているのである。その中で最も有名なものは、サークルA・黒旗・赤黒旗である。この付録では、これらのシンボルの歴史を示そうと思う。充分皮肉なことだが、元々のアナキスト=シンボルの一つは旗だった(実際、アナキスト歴史家、ニコラス=ウォルターとヘイナー=ベッカーが示しているように、『クロポトキンはいつも赤旗を好んでいたものだった』(クロポトキン著、自分で行動せよ、128ページ))。これは、アナキズムが社会主義の一種であり、一般的な社会主義・労働運動から生じたものだから、驚くべきことではない。共通のルーツがあれば、共通の想像力を示すのだろう。しかし、メインストリームの社会主義は19世紀に改良主義的社会民主主義か革命的マルクス主義の国家社会主義のいずれかに発展したため、アナキストは、反逆に関する自分たちのイメージを、黒旗を使って発達させ始めたのだった。

 この付録では有名なシンボル、黒旗・赤黒旗・サークルAの小史を示す。この付録はジェイソン=ウェーリングの1995年のエッセイ、黒旗の歴史とアナキズムに基づいていることを示しておきたい。この付録がアナキスト=シンボル全てを網羅していないことはいうまでもない。例えば、近年、赤黒旗は、エコ=アナキズムの緑黒旗によって補完されてきている。IWW系の「ヤマネコ」・黒薔薇・皮肉を込めた「小型黒爆弾」も有名である。しかし、ここでは三つの最も有名なシンボルに集中することにする。


1 黒旗の歴史

 アナキストによる黒旗の使用に関する説明は数多くある。多分最も有名なものは、ロシア革命時代のネストル=マフノのパルチザンであろう。黒旗の下、その部隊は一ダースもの部隊を率い、二年間にもわたりウクライナの大部分を権力集中から解き放ち続けたのだった(この重要な運動の詳細は、ピーター=アルシーノフ著、マフノビチナ運動史を参照)。黒旗には、「死の自由」や「土地を農民に、工場を労働者に」という言葉が編み込まれていた(ピーター=マーシャル著、不可能の要求、475ページ)。1910年に、メキシコの革命家、エミリアーノ=サパタは、髑髏・骨十字・処女マリアが描かれた黒旗を使っていた−−そこには「土地と自由」(Tierra y Libertad)というスローガンも書かれていた。1925年、日本のアナキストは黒色青年連盟を作り、1945年にアナキスト連盟が再編されたときに、その雑誌の名前は黒旗であった(前掲書、525ページ〜526ページ)。最近では、パリの学生が、1968年の大規模なゼネストの最中に黒旗(赤黒旗も)掲げ、米国の民主的社会を求める学生組織も同じ年の全国大会で掲げていた。同時期に、英国の雑誌Black Flagが公刊を始め、今でも大いに活動している。今日、大規模なデモに行けば、そこにいるアナキストが黒旗を掲げているのを普通に目にすることだろう。

 だが、アナキストの黒旗は、これよりもだいぶ以前に起源を持っている。最初の記録は実際には知られていないが、この名誉は、1871年のパリコミューンの有名な参加者、ルイズ=ミシェルに与えられているようだ。アナキスト歴史家、ジョージ=ウッドコックによれば、ミシェルは1883年3月9日にパリで失業者のデモの最中、黒旗をなびかせていた。総勢500人とともに、ミシェルは先頭で、「パンか、仕事か、弾丸を」と叫びながら、警察によって逮捕されるまでに、三軒のパン屋を略奪した(ジョージ=ウッドコック著、アナキズム、251ページ)。しかし、アナキストはそれよりもだいぶ前に赤黒旗を使っていた(次のセクションを参照)ため、ミシェルによる黒色の使用は全く先駆けがなかったわけではない。

 程なくして、黒色シンボルは米国へと渡った。ポール=アヴリッチは、1884年11月27日、黒旗はシカゴにおけるアナキストのデモで見られたと報告している。アヴリッチによれば、有名なヘイマーケット犠牲者の一人、オーガスト=スパイズは、『(黒旗が)米国の地に広げられたのはこれが初めてのことだ、と記していた。』(ポール=アヴリッチ著、ヘイマーケットの悲劇、144ページ〜145ページ)

 さらに物悲しい記録だが、1921年2月13日は、ソヴィエト=ロシアにおける黒旗の終焉に特徴づけられた日だった。この日、ピョトール=クロポトキンの葬儀がモスクワで行われた。大規模な民衆のマーチは数マイルにわたって続き、「権威があるところ、自由はない」と書かれた黒旗を持っていた(ポール=アヴリッチ著、ロシア革命におけるアナキスト、26ページ)。黒旗がロシアに現れたのは、1905年のChernoe Zhania(「黒旗」)運動の創立時だったと思われる。クロポトキンの葬儀マーチのたった2週間後に、クロンシュタット水兵の反乱が勃発し、アナキズムは、ソヴィエト=ロシアから長い間消えうせてしまったのだった。

 上記した出来事は非常に有名だが、それが関連付けられているほどにも、黒旗の本当の起源はよく分かっていない。1880年代初頭の大部分のアナキスト=グループが黒と関係した名称を採用していた、ということだけが知られている。1881年7月に、黒色インターナショナルがロンドンで設立された。その目的は、当時解散した第一インターナショナルのアナキスト派を再編成することだった(ジョージ=ウッドコック著、前掲書、212ページ〜214ページ)。1881年10月のシカゴでの会議において、国際労働者協会が北米に作られた。この組織が、黒色インターナショナルとしても知られ、ロンドンの組織と提携した(クリフォード=ハーパー著、アナーキー:図説ガイド、76ページ・ウッドコック著、前掲書、393ページ)。これら二つの会議の直後に、ミシェルのデモ(1883年)とシカゴにおける黒旗(1884年)が続いたのである。

 このシンボルの誕生としてこの時期(1880年代初頭頃)をさらに信頼できるものにしていることは、短命に終わった仏蘭西アナキストの出版物の名前、「Le Drapeau Noir」(黒旗)である。ロードリック=ケドワードによれば、このアナキスト新聞は、リヨンのカフェに爆弾が投げ込まれた1882年10月以前の数年間しか存在していなかったという(アナキスト:時代に衝撃を与えた人々、35ページ)。アヴリッチは、1884年に、黒旗は『新しいアナキストの象徴だった』(ポール=アヴリッチ著、ヘイマーケットの悲劇、144ページ)と述べている。それと同様に、マレイ=ブクチンは、1870年6月のスペインのアナキスト運動について言及する中で、『後年、アナキストは黒旗を採用するようになった。』(マレイ=ブクチン著、スペインのアナキスト、57ページ)と報告している。当時、アナキストは赤旗をよく使っていたものだった。黒旗がアナキズムと結びついたのはこの時期だった、ということは明らかだと思われる(決定的ではないが)。

 しかし、赤旗の使用が簡単に死滅したわけではなかった。クロポトキンの叛逆者の言葉(1885年に出版されたが、書かれたのは1880年〜1882年だ)には、『アナキスト集団は(中略)革命の赤旗を掲げるのだ。』と書かれている。ウッドコックが記しているように、『当時、アナキストは黒旗を普遍的に受け入れていたわけではなかった。クロポトキンのように、多くのアナキストが自身を社会主義者だと見なし、赤旗も自分たちのものだと考えていたのであった。』(叛逆者の言葉、75ページ、225ページ)さらに、シカゴのアナキストも1880年代を通じて黒旗と赤旗を使っていた。同様に、ルイズ=ミシェルは次のように述べている。

『赤と黒の旗が怒りの風に舞っているときに、私たちと共にいる怒れる人々、若者たちはなんと多いことか!赤と黒の旗が(資本主義社会という)古くさい残骸の周りに掲げられるとき、それは津波になるのだ!

 自由を意味する赤旗、それは私たちの血で深紅に染まっているからこそ、死刑執行人どもを震え上がらせる。労働によって生活し、闘争の中で死にたいと思っている人々の血を積み重ねた黒旗は、他人の労働で生活しようとしている奴らを震え上がらせる。赤と黒の旗が、死人を悔やみながら我々の上に翻り、夜明けが訪れる希望の上に翻るのだ。』(赤い処女マリア:ルイズ=ミシェルの想い出、193ページ〜194ページ)

 フランスのアナキストは、1885年にルイズ=ミシェルの母が死ぬと、三本の赤旗を掲げた。もちろん、1905年にルイズ自身が死んだときもそうした。(前掲書、183ページと201ページ)つまり、かなりの間、アナキストは黒旗も赤旗もそのシンボルとして使っていたのだった。

 赤旗から黒旗への全般的な移行は、歴史の文脈におかれねばならない。1870年代後半と1880年代には、社会主義運動は変化していた。各地で、マルクス主義社会民主主義が社会主義の優越傾向となっており、リバータリアン社会主義は減少していった。そこで、赤旗は、権威主義・国権主義的(そして、次第に改良主義的になった)社会主義運動と次第に関連するようになったのである。自身をその他の社会主義者とは区別するために黒旗を使ったことは道理に適っている。それは、労働者階級反乱で認められたシンボルだっただけでなく、1831年のリヨン反乱に同じ起源を持っていたのだった(ブクチン著、第三革命、第二巻、65ページ)。ロシア革命とその独裁への移行(最初はレーニン下で、次にはスターリン下で)後、赤旗はもはや「自由を意味しては」おらず、共産党か良くても官僚制度的で改良主義的で権威主義的な社会民主主義と関係している、としてアナキストが赤旗を使うことは少なくなった。アナキストがその旗で赤を使うことはあっても、それは黒と組み合わせたときだけのことである(次のセクション)。このようにして、アナキストは自身をUSSRの専制政治と関連づけないようにしているのである。

 いつこの関係が生じたのかをはっきりさせることは、何故正確に黒が選ばれたのかを見つけだすことよりも簡単だと思われる。確実な情報を伝えているシカゴの「警鐘」は次のように述べていた。黒旗は『餓え・苦悩・死の恐怖のシンボルである』(ポール=アヴリッチ著、ヘイマーケットの悲劇、144ページ)。ブクチンは次のように主張している。黒旗は、『労働者の怒り・苦しみの表現としての、苦悩のシンボルである』(前掲書、57ページ)。歴史家ブルース=C=ネルソンも次のように述べている。黒旗は、1884年のシカゴで広げられたときには、『餓えの象徴』と見なされていた(殉教者を越えて:シカゴ=アナキストの社会史、141ページ、150ページ)。ルイズ=ミシェルは、『黒旗はストライキの旗であり、餓えた人々の旗だ』(前掲書、168ページ)と論じていた。

 こうした方向に沿って、アルバート=メルツァーは、黒旗と労働者階級反乱との関係は、『1831年の(フランス)ランスでの失業者デモ(「労働か死か」)に起源を持っていた』と主張している(アルバート=メルツァー著、アナルコクイズ、49ページ)。そして、実際、1883年のミシェルの行動こそが、その関係を確固たるものにした、と彼は主張している。フランスにおける叛乱からアナキズムへの繋がりはさらに強力なものである。マレイ=ブクチンが報告しているように、『1831年に、絹織り職人は(中略)よりよい tarif、つまり契約を商人から得るために、武装闘争を開始した。短期間に、彼らは赤黒旗の下に都市の管理を実際に奪った。このことが、その暴動を革命シンボルの歴史において記憶されるべき事件にしたのだった。自分たちが望ましいとしていた連合的社会傾向を示すために彼らが使った言葉mutuelismeも、同様に、その暴動をアナキスト思想史における忘れるべからざる出来事にしたのだ。何故なら、プルードンが、1843年〜1844年までその都市に短期間留まっている間にこの言葉を耳にしたと思われるからだ。』(第三革命、第二巻、157ページ)

 クロポトキン自身も、この言葉は蜂起後にもフランス労働運動で継続的に使われていた、と述べている。彼は、パリの労働者は『(1848年)6月に「パンか労働を」という黒旗を掲げていた』と記している(自分で行動せよ、100ページ)。

 したがって、アナキストによる黒旗の使用は、欧州、特にフランスにおける労働運動での自分たちのルーツと活動を表現しているのである。1880年代のアナキスト運動によって黒旗をアナキストが採用したことは、『餓え・貧困・絶望の伝統的シンボル』としてそれを使っているということ、そして、『いかなる服従もしない・命乞いもしないというサインとして、欧州での民衆蜂起で掲げ』られていたということを反映しているのである(ウォルターとベッカー著、自分で行動せよ、128ページ)。

 これは、アナキスト政策の性質を考えれば、驚くべきことではない。アナキストは、その思想が現実の労働者階級実践を基盤としているように、そのシンボルも実践によって創り出されたものを基盤にしている。例えば、プルードンは、『相互主義』という言葉を急進的労働者から取っているように、協同組合的『労働連合』は、『自発的に、他者からの鼓舞も資本もなく、パリとリヨンで形成された。(中略)その(相互主義、クレジットと労働の組織の)証明は(中略)現在の実践に、革命的実践に存している』と論じていた。つまり、彼は自分の思想を労働者階級の自主活動の表現だと考えていたのだった(神もなく、主人もなく、第一巻、59ページ〜60ページ)。実際、K=スティーヴン=ヴィンセントによれば、『プルードンの連合的理想(中略)とリヨンの相互主義者のプログラムとには密接な類似性』がある、という。そして、『(その思想間に)顕著な収束性』があり、『プルードンが自分の建設的プログラムを一貫して口にできたのは、リヨンのシルク労働者の実例があったからだという見込みが高い。プルードンが擁護していた社会主義的理想は、こうした労働者によって、ある程度まで既に現実のものとなっていたのである。』(ピエール=ヨセフ=プルードンとフランス共和国社会主義の勃興、164ページ)社会内部の諸傾向と労働者階級闘争の表現であるアナキズムに関して同様の主張をしているアナキストもおり(クロポトキンについては、セクションJ.5を参照)、したがって、伝統的な労働者のシンボルを使うことは、こうしたアナキズムの側面に関する自然な表現なのであろう。

 同様に、多分、黒旗は「ストライキの旗」だったというのはルイズ=ミシェルのコメントであろう。これが、1881年に設立された黒色インターナショナルという名前を(そして、1880年代初期にアナキスト=サークルで黒旗の使用が増加したことも)説明してくれるだろう。その設立会議の時期に、クロポトキンは、この組織は「ストライキ参加者のインターナショナル」(Internationale Greviste)になる−−「抵抗の、ストライキの組織」になる−−という考えを形成していた(マーティン=A=ミラー著、クロポトキン、147ページに引用)。1881年12月、クロポトキンは国際労働者連盟を「ストライキ参加者のインターナショナル」として復活させることを論じていた。なぜなら、『革命を行うことができるようになるために、労働者の大多数は、自分たちを組織しなければならないだろう。抵抗とストライキはこれを行うための優れた組織方法である』からだ。クロポトキンは『ストライキは連帯性の感情を発達させる』そして第一インターナショナルは『ストライキから生まれた。本質的にストライキ参加者の組織だったのだ』と強調していた(キャロライン=カーム著、クロポトキンと革命的アナキズムの勃興、255ページ、256ページ)。「ストライキ参加者のインターナショナル」はストライキ参会者の旗を必要とし、そして、黒色インターナショナルがその名を得たのであろう。

 「ストライキ参加者のインターナショナル」という考えは、黒色インターナショナルそれ自体のように、完全には成熟してはいなかったものの、アナキストはこの時期にストライキを奨励し、支援していたのだった。完全に証明されたわけではないが、黒色インターナショナルと黒旗の使用が生じた理由の一部には、クロポトキンの思想とその論文のためだったという見込みが高い。これはもちろん、アナキズムによって労働者抵抗のシンボルとして、その抵抗の政治的表現として、黒旗が使われていることと完全に合致しているのである。

 しかしもう一つ別な可能性もある。

 黒は、非常に強力なカラー、いわばアンチカラーである。1880年代は、極端なアナキスト活動があった時代だった。黒色インターナショナルはアナキスト綱領として「行動によるプロパガンダ」の導入を見た。

 歴史的に、黒は、赤旗同様、血−−特に乾いた血−−と関連づけられていた(ルイズ=ミシェルが指摘しているように、1871年に『リヨン・マルセール・Narbonne、全てが独自のコミューンを持っており、我々(パリにいる)同様、彼らもまた革命家の血に浸かっていた。だからこそ我々の旗は赤なのだ。旗をその色に汚さしめた人々が、我々の赤旗をひどく恐れているのは何故なのか?』(ルイズ=ミシェル著、前掲書、65ページ)。黒旗は労働者階級反乱と結びついているにも一方で、当時のニヒリズムのシンボルでもあったのである(1871年のパリコミューン陥落後に、フランス支配階級によるパリコミューン支持者の大規模殺戮によって産み出されたニヒリズムである)。

 パリコミューン支持者を殺戮したことも、アナキストによる黒旗の使用を示しているのかもしれない。黒は『喪に服す色(少なくとも、西洋文化では)であり、死んだ同志を、戦場(国家間の)で、路上闘争やピケットライン(階級間の)で、戦争に生命を奪われた同志の哀悼を象徴しているのである。』(チコ著、「書簡集」、フリーダム、48巻、12号、10ページ)コミューンで25000人が死に、その多くがアナキストやリバータリアン社会主義者だったことを考えれば、この出来事の後にアナキストが黒旗を使うようになったことは納得がいく。ニカラグアのリバータリアン社会主義者サンディーノ(彼が赤黒旗を使ったことについては、次のセクションで論じる)も、黒は哀悼を意味している、と述べていた(『自由の赤、哀悼の黒、死を賭した闘争の髑髏』(ドナルド=C=ホッジス著、サンディーノの共産主義、24ページ))。

 黒色の使用の裏には哲学的根拠があると思われる。アナキストが黒旗に傾いたもう一つの理由は、「否定」のサインというその性質のためかもしれない。黒旗に関する著作者の多くがこの側面について述べている。例えば、ハワード=J=エーリッチは、黒は『否定の色合いである。黒旗は全ての旗の否定なのである。』(もう一度アナーキーを再構築する、31ページ)否定のシンボルとして、黒旗はバクーニンの思想のいくつかとうまく合致している。特に進歩に関する彼の思想とである。ヘーゲルに影響されたバクーニンは、ヘーゲルの弁証法を受け入れてはいたが、いつも、の側面が弁証法の中での動機力である、と強調していた(詳細は、ロバート=M=カルター著、バクーニン入門の前書きを参照)。つまり、バクーニンは初期状態の否定として進歩を定義しているのである(例えば、神と国家において彼は『あらゆる発展は、(中略)出発点の否定を含んでいる』、48ページ(中央公論社版、日本語訳では、285ページ)と述べている)。他の全ての旗を否定するもの以上に、より高次な社会生活形態へと運動を意味しているしているこの否定以上に、アナキスト運動を表すよりよいサインがあるだろうか?つまり、黒旗は既存社会の、既存国家全ての否定をシンボライズしており、新社会、自由社会への道を開いていると言えるのだ。しかし、これが黒旗採用の一要因なのか、それとも、単なる偶然なのかは、現時点では分からない。

 黒旗と海賊との興味深い関連性もある。不確かな報告だが、ルイズ=ミシェルは、1871年パリコミューンで女性の大軍を率いながら、髑髏と骨十字を靡かせていたかもしれない。しかし、この関連性にはもっと深い可能性がある。

 海賊は、反逆者・自由な魂と見なされ、無慈悲な殺人者と見なされることも多かった。それぞれの海賊は非常に異なるものだったが、多くは海賊船の船長を選んでいた。当時としては非常に珍しいことだが、船長が男性ではなかった場合もあった。船長は「簡単にリコールされる」ようになっており、英国・米国・仏国海軍の船上での生活−−商業船はともかく−−よりも、海賊船における船上生活は明らかに民主的だったのだ。

 海賊にとって、黒旗は死のシンボルだった。黒旗上に髑髏と骨十字がある捨て身の(give-away)存在だった。「降服か、死か!」と同じ意味のサインだったのである。その被害者を、戦うことなくして服従させるために怯えさせようと意図していたのだった。チンギス=ハーンの軍隊と同じやり方で運営されていたのであった。

 多くの人も、黒旗は「降服か、死か!」のサインだとして取り上げている。米国南北戦争中のクアントリル(Quantrill)という連合軍司令官は、黒旗の下に戦っていた。彼は、敵に対して慈悲を示そうとはせず、逆に彼もいかなる慈悲も期待してはいないということで知られていた。また、メキシコのサンタ=アンナ将軍は、黒旗の悪名高きflyerだった。アラモでそれらをたなびかせさえもしたのだった。黒旗に伴って彼は自分のラッパ手に「The Deguello」という名の音を吹かせていた。それは、「命乞いはしない」(捕虜にはならない)という意味の音だった。黒旗のこうした使用は、黒色インターナショナルの北米アナキストが模倣した。黒旗は『アナキスト=サークルでは死・空腹・悲惨のシンボルとして解釈されていた』が、『同時に、「報いの象徴」だとも言われて』おり、1885年1月のシンシナチにおける労働者行進では、『黒旗に書かれた「命乞いはしない」という言葉によって示されているように、労働者階級の非妥協の旗であるとさらに認められたのだった。』(ドナルド=C=ホッジス著、サンディーノの共産主義、21ページ−−また、アヴリッチ著、前掲書、82ページも参照)

 ハーン・クアントリル・サンタ=アンナ将軍はアナキズムとの関係は少しもないが、一方で海賊との関係はもっと込み入っている。海賊は反逆者としてみられていた。国家のない反逆者、自分たちの中で即興で作っていた間に合わせのルールを除き、いかなる法律規定に対する忠誠も負ってはいなかったのだ。明らかに、海賊は意識的なアナキストではなかったし、野蛮人と同じような行動をとることも多かった。だが、重要なことは、海賊がどのように考えられていたのかである。海賊のシンボルは反逆の具現化であり、無法と反逆の魂だったのである。海賊は支配階級から憎まれていたのだった。

 飢えて、失業中の者が叛乱において黒旗を掲げることは容易だったのかもしれない。実際、暴動において赤や黒の服の切れ端を手にすることはすぐさまできただろう。この素材を手にすることは容易い。布の上に複雑なシンボルを描くには時間がかかる。そこで、暴動において掲げられた即興の叛逆旗は、単一色である可能性が高かったのではないか。その結果、暴動での必然的間に合わせとして、髑髏と骨十字の無い黒旗が翻ったのであろう。

 黒旗に関するこの疑問に対して、ハワード=エーリッチは、著書もう一度アナーキーを再構築するにおいて優れた文章を提示している。それは詳細に引用するに値するものである。

『何故、我々の旗は黒色なのか?黒は否定の色合いである。黒旗は全ての旗の否定である。人間を人間に敵対させ、全人類の団結を無視している国家の否定である。黒は、国家に対する忠誠という名の下に犯されている人間性に対する忌まわしい犯罪全てへの憤怒と激怒の感情である。政府の虚偽・偽善・安っぽい誤魔化しに暗示されている人間知性への攻撃に対する憤怒と激怒なのである。(中略)黒は、哀悼の色でもある。国家を相殺する黒旗は、血生臭い国家に偉大なる勝利と安定性を与えるために国内外での戦争で殺された何百万人という数え切れないほどの犠牲者を哀悼してもいる。他の人間を殺害し抑圧するために、自分の労働から賃金を強奪(税金を払わ)されている人々を哀悼している。肉体的な死だけでなく、権威主義とヒエラルキーシステム下で不具にされた魂をも哀悼している。世界を照らし出す機会もなく、光を消された何百万という脳細胞を哀悼している。黒は、慰めようのない悲嘆の色なのだ。

 『だが、黒は同時に美しい。黒は意志決定の、解決の、強さの色なのだ。この色のおかげで他の色は明瞭になり、定義されるのだ。黒は発展の、肥沃の神秘的環境なのであり、暗闇の中で進化し、再生し、回復し、再生産するのである。地中に隠れている種子、精子の奇妙な旅、子宮における胎児の隠れた成長、これら全てを黒色性が取り囲み、保護しているのである。

 『つまり、黒色は否定であり、憤怒であり、激情であり、哀悼であり、美であり、希望であり、この地球上の、そしてこの地球と共にある人間生活と人間関係の新しい形態を育て、保護しているのである。黒旗は、これら全てのことを意味している。我々は黒旗を掲げることを誇りとし、それを掲げねばならないことを残念に思い、このようなシンボルなど不要になる日を心待ちにしているのである。』(もう一度アナーキーを再構築する、31ページ〜32ページ)

 

2 なぜ赤黒旗なのか?

 赤黒旗はアナキズムと関連していることがある。マレイ=ブクチンはこの旗の起源をスペインだとしている。

『赤旗と共に黒旗が存在していたことが、欧州と北米のアナキストデモの特徴となっていた。(1910年における)CNTの設立と共に、黒と赤が斜めに区切られて一つになっている旗が、スペインで採用され、主として使われていた。』(スペインのアナキスト、57ページ)

 しかし、赤黒旗が他の国々、特にスペインと密接な関係のあった国々(例えば、他のラテン系諸国)に広まっていったことを示す証拠が数多くある。例えば、1920年の工場占拠で頂点に達したイタリアの「アカの二年間」(セクションA.5.5を参照)で、反乱を起こした労働者は赤黒旗を掲げていた(グゥイン=A=ウィリアムズ著、プロレタリア秩序、241ページ)。同様に、ニカラグアの急進的全国解放闘士、アウグスト=サンディーノは、メキシコ革命中のメキシコのアナルコサンジカリストの実例に刺激され、自分の運動の旗を赤黒のものにしていたのだった(ただし、サンディニスタの旗は、斜めではなく、横に赤と黒が区切られている)。歴史家ドナルド=C=ホッジスは次のように記している。サンディーノの『赤黒旗は、アナルコサンジカリズムに起源を持ち、スペイン移民によってメキシコに導入されていた』。彼の旗が『解放を求めた闘争を象徴している労働者の旗』だと考えられていたことは驚くに当たらない(ホッジスは、サンディーノの『無政府共産主義という独特のブランド』について言及し、この旗の充当は、彼の政策に強力な解放的テーマを示していた、と示唆している)。(ニカラグア革命の知的基盤、49ページ、137ページ、19ページ)

 英語圏世界において、アナキストによる赤黒旗の使用は1936年のスペイン革命と市民戦争によって産み出された世界的評判から生じているように思える。世界中に広まったCNT-FAI関係情報と共に、CNTに刺激された赤黒旗の熟知度は、全世界で共通のアナキスト・アナルコサンジカリスト=シンボルになるまでに広がっている。

 赤黒旗は、アナキズムよりもアナルコサンジカリズムと関連している、という人々もいる。アルバート=メルツァーが述べているように、『労働運動(社会主義的なものだけには限らない)の旗は赤である。スペインのCNTは,アナルコサンジカリズム(アナキズム+労働運動)の赤黒旗を創造したのだ。』(アナルコクイズ、50ページ)ドナルド=C=ホッジスも同じような指摘をしており、以下のように述べている。『メキシコの世界労働者の家(メキシコのアナルコサンジカリスト組合)が持つ記章に、赤の縞模様は所有階級に対する労働者の経済闘争を意味し、黒は、暴動的闘争を意味している。』(サンディーノの共産主義、22ページ)

 ジョージ=ウッドコックも赤黒旗のスペイン起源説を強調している。

『スペインにおけるアナルコサンジカリスト旗は、斜めに区切られた黒と赤だった。(第一)インターナショナルの時期に、アナキストは、他の社会主義セクト同様、赤旗を掲げていたが、その後、アナキストは黒旗を代わりに持つようになった。黒赤旗は後年のアナキズムの魂とインターナショナルの大衆アピールとを団結させようという試みをシンボライズしていたのだった。』(アナキズム、325ページのフットノート)

 しかし、赤黒旗の使用についてはもっと以前の記録もある。つまり、スペインのアナキストは旗を発明したというよりも、再発見したのではないか、ということを示しているのである。1877年4月、26人のアナキストが、革命を企てる(失敗に終わったが)ために、『赤黒のアナキズム旗を目立つように示しながら、レティノ(イタリア)の小さなコミューンに入った。』(T=R=ラヴィンドラナサン著、バクーニンとイタリア人、228ページ)ジョージ=ウッドコックも同じ出来事を記録し、同じ旗が使われていたことを示している(アナキズム、285ページ)。その数年後にメキシコでアナキストによって赤黒旗が使われていたという報告もある。1879年12月14日、メキシコシティのコロンバスパークにおけるアナキストの抗議集会で、『そこに集まっていた5千人ほどの人々は、おびただしい赤黒旗で埋め尽くされていた。その中には、「La Social, Liga International del Jura」と書かれたものもあった。講演者のステージの前を、「La Social, Gran Liga International」という文章が書かれた大きな黒旗が覆っていたのだった。』(ジョン=M=ハート著、アナキズムとメキシコ労働者階級、1860年〜1931年、58ページ)

 メキシコと欧州のアナキスト運動の繋がりは強かった。歴史家ジョン=M=ハートが記しているように、『19世紀のメキシコ都市部労働運動は、欧州型の第一国際労働者協会(中略)のジュラ支部と直接接触し続けており、ある段階では公然とそれと提携していたのだった。』(前掲書、17ページ)従って、メキシコとイタリアの運動において同じ旗が使われているのを発見したとしても何ら驚くべきことではないのである。どちらもジュラ連合という同じ反権威主義インターナショナルに属しており、それと密接に関係していたのである。

 イタリア・メキシコ双方のアナキスト運動は、第一インターナショナルとその反権威主義的子孫に参加していた。どちらも、スイスにおけるジュラ連合同様、組合組織作りとストライキに大きく参与していた。第一インターナショナルの集産主義的アナキズム(その最も有名な擁護者はバクーニンだった)とアナルコサンジカリズムの明らかな繋がりと類似性を考えれば、彼らが同様のシンボルを使っていたからといって、驚くべきことではない。クロポトキンは以下のように論じていた。『サンジカリズムはインターナショナルの再生に他ならない−−連合主義・労働者・ラテン系なのである。』(マーティン=A=ミラー著、クロポトキン、176ページに引用)従って、シンボルの再生は偶然の一致ではなかっただろう。

 もう二つの要因が、赤旗と黒旗の組み合わせは論理的発展だった、ということを示唆している。黒旗「と」赤旗が、1831年のリヨン蜂起に関連していたということを考えれば、赤黒旗の発展はそれほど奇異ではない。同様に、黒旗は「ストライキの旗」だった(ルイズ=ミシェルによれば)−−前のセクションを参照−−ということを考えれば、労働運動の赤旗と共に黒旗が使われたことは、アナキズムとアナルコサンジカリズムの傾向を持ち、直接行動を基盤とし、階級闘争におけるストライキを重要だと見なしていた運動の自然な発展だと思われる。

 しかし、1870年代後期において赤黒旗が使われたにも関わらず、それは次第に使われなくなり、30年後のスペインでCNTが設立されて初めて、再び広いスケールで使われるようになったのだった。

 次第にアナルコサンジカリズムとの関係がそれほど記されなくなり、多くの非アナルコサンジカリスト系アナキストが、赤黒旗を喜んで使うようになった(例えば、多くの無政府共産主義者は赤黒旗を使っている)。社会的アナキストは個人主義的アナキストよりも赤黒旗を使う傾向が高く、個人主義的アナキストよりも自身をより広い社会主義的労働運動と同調させたがっている(少なくとも現代では)、と述べても構わないだろう。

 つまり、赤黒旗は労働運動におけるアナキストの経験から生じ、アナルコサンジカリズムと特に関係しているのである。黒はリバータリアン思想とストライキ(つまり、直接行動)を意味しており、赤は労働運動を意味しているのである。しかし、年月が経過するに従って、赤黒旗は標準的アナキスト=シンボルになった。そこでは黒はアナーキーを意味し、赤は社会的共働や連帯を意味している。つまり、赤黒旗は、他の単一シンボル以上に、アナキズムの目的(『個人の解放と地域社会全体の社会共働』(ピョトール=クロポトキン著、自分で行動せよ、102ページ))と手段(『革命を起こすために、多数の労働者は自身を組織しなければならないだろう。抵抗とストライキは組織がそれを行うための素晴らしい手段なのである』そして『ストライキは連帯の感情を発達させる』(キャロライン=カーム著、クロポトキンと革命的アナキズムの勃興、255ページ、256ページにおけるクロポトキンの言葉))を象徴しているのである。


3 サークルAの起源

 サークルAは、アナキズムのシンボルとして黒旗や赤黒旗よりもさらに有名である(多分、それは落書きによく書かれているからだろう)。ピーター=マーシャルによれば、『サークルA』は、プルードンの格言『アナーキーは秩序である(Anarchy is Order)』を意味しているという(不可能の要求、558ページ)。ピーター=ピーターソンは、『団結と意志決定のシンボル』であり、『国際アナキスト連帯という明言されてはいない思想を支援している』と付け加えている(「旗・松明・拳:アナキズムのシンボル」、フリーダム、第48巻、11号、8ページ)。

 しかし、アナキスト=シンボルとしての「サークルA」の起源は、はっきりしていない。多くの人々は、1970年代のパンク=ムーブメントで始まったと考えているが、それよりもだいぶ前の時期にさかのぼることができる。ピーター=マーシャルによれば、『1964年に、フランスのグループJeunesse Libertaireは、サークルAをシンボルとして創り出すことで、プルードンのスローガン「Anarchy is Order」に新しい推進力を与えた。それが世界中に急速に広がったのである。』(前掲書、445ページ)これは、このシンボルが見られた最古のものではない。1956年11月25日、ブリュッセルでAlliance Ouvriere Anarchiste(AOA)が設立された際、このシンボルが採用されたのである。さらに古いものもある。スペイン市民戦争に関するBBC放送のドキュメンタリーは、アナキスト義勇軍のメンバーが、明らかに「サークルA」が後ろに書かれているヘルメットをかぶっていたことを示している。これ以上には、「サークルA」の起源についてはあまり知られていない。

 今日、サークルAは政治的シンボル全体でも最も成功したイメージの一つである。その『素晴らしいほどの単純さと率直さが、1968年の反乱後に再び強められたアナキスト運動の一般に受け入れられたシンボルとなさしめたのである』(ピーター=ピーターソン著、前掲書、8ページ)それは、特に、ほとんどではないにせよ、世界中の言語の多くで、アナーキーという言葉はAの文字で始まっているからである。

 

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