コミュナリズムとは何か?:アナキズムの民主主義的次元


本論分は、元々、Green Perspectives、第31号(1994年10月、現在ではLeft Green Perspectivesと名前が変わっている)で発表された。また、AK Pressから出版されているAnarchism, Marxism, and the Future of the Left(1999)にも、「コミュナリズム:社会的アナキズムの民主主義的次元」と改題され、加筆修正されて収録されている。本翻訳の原文はWhat is Communalism? : The Democratic Dimension of Anarchismで読むことが出来る。「社会的アナキズムか、ライフスタイル=アナキズムか」と重複部分もあるが、「社会的〜」が主に批判中心だったのに比べ、本論文は、ブクチンの社会運動論のもっと建設的側面、民主主義を扱ったものである。「哲学的自然主義」同様、最重要論文の一つではないかと思う。(訳者)

現代ほど、社会的に重要な言葉が混乱し、その歴史的意味を剥奪されている時代はない。忘れ去れていることが多いものだが、二世紀前には「民主主義」は「暴徒の支配」だとして君主制支持者からも共和制支持者からも非難されていた。今日、民主主義は「代議制民主主義」として歓呼されている。これも矛盾語法なのであり、権力を持たない多数者に対して表向き話し掛けている選ばれた少数者の共和制寡頭政治程度のことしか示していないのである。

「共産主義」について言えば、以前は共同的社会のことを意味し、その社会は、相互尊敬倫理に基づき、各人の能力に応じて社会の労働資金へ貢献し、各人の欲望に応じて生活手段を受け取るという経済に基づくであろうとされていた。今日、「共産主義」は、スターリン主義的強制収容所に関連づけられ、全体主義だとして完全に拒絶されている。その従兄弟である「社会主義」--以前は多様な形態の集産主義と労働に対する平等な物質的分配とに基づいた政治的自由社会のことを意味していた--は、現在では、ある程度人道主義的なブルジョア自由主義と言い換え可能なっている。

1980年代と1990年代に、社会的・政治的スペクトル全体が右翼へとイデオロギー的に変わっていくと、「アナキズム」それ自体も再定義から免れはしなかった。英国系アメリカでは、アナキズムは、私的自律の強調のために、その社会的理想が剥奪されている。私的自律の強調がアナキズムの歴史的活力を奪い取っているのである。シュティルナー主義個人主義--ライフスタイル変革を擁護し、行動的特異性を培養し、全くの神秘主義を受け入れさえもしていることがその特徴だ--は、次第に顕著になってきている。こうした私事本位主義的「ライフスタイル=アナキズム」はアナキズム的自由の概念が持つ社会主義的中核を着々と侵食しているのである。

強調しておくが、英米の社会伝統では、自律自由は同義語ではない。個人に対する支配を除去する必要性を主張することで、自律は、社会の構成要素・所在地としての個人に焦点を当てている。逆に、自由は、そのルーズな語用にも関わらず、個人がその一部となっている社会における支配の欠如を表しているのである。個人主義的アナキストが、集産主義それ自体を、地域成員に対する地域社会の暴政と同等視しているときに、この対比は非常に重要なものとなる。

今日、L=スーザン=ブラウンのようなアナキズム理論家が、アナキズムの根源は抽象的個人にあるとしながら、「集団は個々人の集積であり、それ以上でもそれ以下でもない」と主張できるのなら、私たちが懸念するのは当然である。それは、この観点がアナキズムにとって全く新しいからではない。様々なアナキズム歴史家が、この観点を、リバータリアンの見解に内在しているものとして論述してきた。つまり、個人はab novoだと、自然の権利を賦与され、社会や歴史的発展のルーツを失っている、と思われているのである(原注1)。

だが、この「自律的」個人はどこから現れたのか?アプリオリの前提とぼんやりした直感以外に、「自然の権利」に対する基盤は何か?この形成について歴史的発展はどのような役割を果たしているのか?個人に生を授け、生を維持し、実際個人を育成している社会的前提は何なのか?他者の「リバティ」を害することのないようにする--アイザイア=バーリンの言葉では、「ネガティブ=リバティ」であり、これは、我々の立場では社会主義的方向性にそって創りだされている本質的な自由である「ポジティブ=リバティ」とは対比されている--ためにだけでも自律性以上のものが必要になるのだが、「個々人の集積」は如何にしてそれ自体を制度化できるのだろうか?

思想の歴史において、「自律性」は、厳密に個人的な「自己ルール」のことを差し、古代にその絶頂期を向かえたのは、ローマ帝国のlibertas崇拝においてだった。ジュリアス皇帝やクラウディウス皇帝の支配期、仕事や国家の義務で邪魔されなかったため、ローマ市民は、いかなる権威からの咎めもなしに、自分自身の願望--そして、肉欲--を満足させるために莫大な自律性を享受していたのだった。ジョン=ロックとジョン=スチュワート=ミルがさらに理論的に発展させた自由主義の伝統において、自律性はもっと拡充的な意味を獲得し、過剰な国家権威に対してイデオロギー的に敵対したのだった。19世紀に、古典的自由主義者の関心を得た主題を一つ挙げるとすれば、それは政治経済学であった。それは、商品やサービスの研究としてだけでなく、道徳システムとしても認められることが多かったのだった。実際、自由主義思想は、一般に、社会を経済へと還元していたのである。過剰な国家権威は、前提とされる経済的自律性にとって、敵対するものだったのだ。皮肉なことに、自由主義者は、自由という言葉を「自律」の意味で使うことが多く、それは現在でも同じである(原注2)。

だが、自律性の主張と国家権威の不信にも関わらず、こうした古典的自由主義思想家は、結局、個人が法則的な手引きから完全に解放されているという考えを持ってはいなかった。事実、彼らの自律性の解釈は、個人を超えた非常に明確な社会装置を実際に前提としていたのだった--つまり、市場法則である。個人の自律性とは逆に、こうした法則が、社会的に組織されたシステムを作り出しているわけだ。そこでは、「個々人の集積」全ては、競争という有名な「目に見えぬ手」の支配下にあるのだ。逆説的だが、市場法則は、市場法則がなければ「個々人の集積」を構成することになるその同じ主権者個々人の「自由意志」の行使を無効にするのである。

理性的に形成された社会ならば、制度ぬきで存在することなどできず、「個々人の集積であり、それ以上でもそれ以下でもない」という社会が出現していたとすれば、それは簡単に解消されてしまったことだろう。こうした解消は、確かに、現実には生じ得ないであろう。にもかかわらず、自由主義者は、政治経済学の「冷酷な法則」に導かれた「自由市場」・「自由競争」という概念にしがみつくことができるのだ。

逆に、自由は、ドイツ語のFreiheitと語源を共有している言葉(ロマンス言語にはそれに相当するものはない)であり、個人にではなく、地域に、もっと幅広くは、社会にその出発点をもっているものである。前世紀と今世紀の初頭に、偉大な社会主義理論家達が自由という概念をさらに洗練したように、個人とその発達は社会進化--特に、単なる動物的集まりと社会とを区別する諸制度--と意識的に絡みあっていたのだった。

その焦点を驚くべきほどに倫理的にしたことは、社会革命家として、彼らが重要な問題--理性的社会を何が構成するのか?--を提起したという事実にあった。自由社会において経済の求心性を廃絶するという問題である。自由主義思想は一般に社会を経済に還元していた一方で、様々な社会主義(マルクス主義は別だが)は、中でもクロポトキンはアナキズムを「左翼」として示したのだが、経済を社会に解消していたのだった(原注3)。

18世紀と19世紀には、啓蒙思想とその派生思想が、変化可能な諸制度という考えをこの社会思想の前面に持ち出し、個人も変化可能だと見なされるようになった。当時の社会主義思想家にとって、「集積」は、社会を示すやり方としては全く相容れぬものだったのだ。彼らは、個人の自由は社会の自由と調和すると適切に考え、非常に大切なことだが、自由を統一的概念としてだけでなく、進化する概念としても定義していたのだった。

つまり、社会も個人も、この言葉の最良の意味で、歴史化されていたのである。それぞれが他者の中で、他者を通して存在している、永続的に発展し、自己創出的で、自己創造的なプロセスとして見なされていたのだ。望むらくは、この歴史化は、永久に拡充する新しい権利と義務を伴うだろうとされていたのだった。第一インターナショナルのスローガンは、「義務のない権利はなく、権利のない義務もない」という要求だった--その後、今世紀に入るまで、スペインなどのアナルコサンジカリスト雑誌の発行人欄に現れた要求である。

したがって、古典的社会主義思想家にとって、社会のない個人を想像することは、個人のない社会を想像することと同様に意味のないことだったのである。彼らは、社会生活の全側面において自由な表現を最大限促す、理性的な制度的枠組みにおいて社会と個人の双方を実現しようとしていたのである。

II

個人主義は、古典的自由主義が理解しているように、まず第一に、フィクションに頼っていたのだった。市場競争によって維持されている社会的「法則性」が持つその正なる前提条件は、完全に主権を持ち、「自律した」個人という神話からほど遠かったのだ。それ自体を支援するためのさらに少ない前提と共に、マックス=シュチルナーの悲惨なまでに不十分に理論化(undertheorize)された著作は、同様の分裂を共有している。エゴと社会とのイデオロギー的分裂である。

この分裂--実際、この矛盾--をつまびらかにしている中枢的論点は、民主主義の問題である。もちろん、ここでの民主主義とは、あらゆる形態の「代議制政府」の意味ではなく、むしろ、顔をつき合わせた民主主義のことである。古典的アテネにおけるその起源に関していえば、私がここで使う民主主義とは、民衆集会におけるその市民によるポリスの直接管理という形相(idea)なのである。確かに、アテネの民主主義は、家父長政治・奴隷・階級支配があり、アテネで生を受けたと推定される男性だけに市民が限定されていたという傷跡を残しているが、だらかといって、このことを軽視してはならない。私が述べていることは、進化する制度的諸構造という伝統であって、社会的「モデル」ではない(原注4)。従って、総称的に定義されている民主主義とは、顔をつき合わせた集会における社会の直接的管理なのである--政策は、居住している市民が作り、行政は委任・委託された評議会が実行するのである。

この意味であっても、リバータリアンは民主主義を「支配」の一形態だと共通に考えている--意志決定を行うときに、大多数の見解が蔓延するため、従って、少数に及ぼす「支配」だというわけだ。そのようにして、民主主義は、真にリバータリアンの理想とは一致していないと言われる。非常に広い知識を持っているアナキズム歴史家ピーター=マーシャルでさえもが次のように述べている。アナキストにとって、「少数が多数に命令する権利など持っていないように、大多数は少数派に、たった一人の少数派であっても、命令する権利など持ってはいない。」(原注5)リバータリアンの大多数は、この考えを幾度も口にして来た。

マーシャルのような主張に印象深いことは、その非常に軽蔑的な言葉である。大多数は、まるで、「決定」も「議論」もしないかのようだ。むしろ、大多数は「支配」し「独裁」し「命令」し「強制」するといったぐあいである。だが、自由社会では、十全なほどに意見の相違を可能にするだけでなく、意見の相違を促すのである。その集会の演壇とメディアは、あらゆる見解の十全なる表明に対してオープンで、その諸制度は真の議論の場なのである--こうした社会が、公的福祉に関する決定に到達しなければならないときに、実際に誰かを「独裁」するものとなるのだろうか、と問うことは理に適っているであろう。

それならば、社会は、単なる個人契約は除き、公的事柄についてダイナミックな集団的意志決定をどのように行うのだろうか?意志決定手段としての多数決に対して、一般に提示されている唯一の集団的代替案は、コンセンサスの実施である。実際、コンセンサスは、「無政府原始人主義」を公言している人々によって神秘化されている。彼らは、氷河期と近代の「原始人」もしくは「原始的」人々を人間の社会的・精神的達成の絶頂だと見なしている。私も、コンセンサスが、お互いに徹底的に知りあっている人々の小集団内での意志決定形態として適切だと見なすことができる、ということは否定しない。だが、実際的条件でコンセンサスを検証してみると、私自身の経験が示すところでは、より大きな集団がコンセンサスによる意志決定をしようとすると、知性的に最低の共通見解にしか到達せざるを得なくなるものだ。大規模な民衆集会が達成できる、最小限の論争しか巻き起こさない、最も凡庸な決定が採用される--正確には、誰もがそれに同意するか、さもなくば、その議題に投票することを止めるかのどちらかしかないからなのである。さらに不穏なことだが、私は、コンセンサスが陰険な権威主義と莫大な操作をできるようにしているのを目にしてきたのだ--自律性もしくは自由という名で使われているときでさえも。

非常に際立った実例をここで挙げておこう:合州国における最近の最大規模のコンセンサス型運動(数千人の参加者を巻きこんでいた)は、クラムシェル同盟であった。これは、ニュー=ハンプシャー州で1970年代中期に、シーブルック原子炉に反対して作られた同盟であった。この運動に関する最近の研究で、バーバラ=エプスタインは、クラムシェル同盟を、1960年代の公民権運動以外で、「米国史において非暴力直接行動に大衆運動を基づかせた初めての活動」だと呼んでいる。同盟が目に見えて組織的に成功したために、原子炉に反対する多くの地域同盟が合州国全土で形成されたのだった。

私は次の事実を個人的に証言できる。クラムシェル同盟内部のコンセンサスを促していたのは、多くの場合、皮肉屋のクエーカー教徒によって、そして、マサチューセッツ州モンタギューに存在していた怪しげな「アナーキー的」コミューンのメンバーであった。この小規模で、堅く結束した派閥が、自身の秘密の議題で団結し、多くの同盟メンバーを、その善意と理想主義的コミットメントを、自分達の日和見主義的議題に従わせるよう操作できたのだった。同盟の事実上の指導者は、同盟に参加し、自分の士気と意志を傷つけられた無数の個々人が持つ権利と理想とを踏みにじったのだ。

一つの決定について十全なるコンセンサスを創り出そうとしたその派閥のために、少数派の反対意見は、自分の異議がたった独りの拒否権と実質的に等しくしなってしまうため、煩わしい議題に対して投票しないよう巧妙に促されたり、心理的に強いられたりすることが多かった。この実践は、米国コンセンサス過程においては「脇へ寄る」(standing aside)と呼ばれているが、意志決定プロセスから完全に撤退するまで、全くもって、異議者を脅迫することが余りにも多かったのだ。少数派であっても自分の観点にそって投票することで、自分の異議を立派に、継続的に表明できるようにはしなかったのである。意志決定から撤退することで、異議者は政治的存在であることを止める--そのことで、「決定」ができるようになるわけだ。クラムシェル同盟における一つの「決定」は、反対意見を圧力をかけて静めることでなされ、そうした脅迫の連鎖を通じて、「コンセンサス」は、究極的に、意見を異にするメンバーをそのプロセスへの参加者として無効にした後でのみ、確立されたのであった。

もっと理論的なレベルについて言えば、コンセンサスは、あらゆる対話が持つ最も活力ある側面、意見の相違(ディセンサス)を静めてしまった。継続的な異議は、少数派が大多数の意志決定に一時的に応じた後にも継続する情熱的な対話なのだが、クラムシェル同盟では、退屈な独白--そして、論駁のない、精彩の欠いたコンセンサスのトーン--に置き換えられてしまったのだった。多数決意志決定では、敗北した少数派は自分が敗北した決定を覆そうと決意できる--少数派は、論理的に考えられ、潜在的に説得力を持っている異議をオープンに一貫して声にすることができるのである。一方、コンセンサスの場合には、少数派を尊重せず、「コンセンサス」集団の形而上学的「統一」の利益となるように、少数派を黙らせるのである。

異議の創造的役割は、継続的な民主主義的現象として価値あるものなのだが、コンセンサスに必要な退屈な画一性の中で、それは消えうせてしまうものだ。いかなるリバータリアン思想体であっても、マーシャルの「たった独りの少数派」さえにも、地域、実際、地方や国家規模の連合にいる大多数による意志決定を妨げることをできるようにすることで、ヒエラルキー・階級・優越的支配・搾取を解消しようとしているのなら、知的・精神的順応という悪夢の世界を伴うルソー主義の「一般的意志」へと本質的に変異することになろう。もっと注目すべき時代には、ルソーが述べていたように、簡単に「人々を無理やり自由にせしめる」ことができたのだった--丁度、ジャコバン主義者が1793年〜1794年に実践していたように。

クラムシェル同盟の事実上の指導者は、自分達の行動について言い抜けることができた。それは正に、充分に組織された少数の操作に対抗できるほど、クラムシェル同盟は、充分に組織され、民主的に構造化されてはいなかったからなのだ。事実上の指導者は、自分の行動に対する説明責任の構造をほとんど持っていなかったのである。指導者がどれほど簡単に、コンセンサス意志決定を自分の目的のために抜け目なく使っていたのかは、部分的にしか語られてはいない(原注6)が、コンセンサスの実践は、最終的にはこの大規模でエキサイティングな組織を、ルソー主義的「美徳の共和国」で破滅させたのだった。付け加えるなら、単なる通行人もが意志決定に参加できるようにした組織的放縦性によっても破滅に追いやられ、そして、組織は無脊椎状態にまで破壊されたのである。これが、数年間、能動的に同盟に参画して来た私やバーモント州の多くの若いアナキストが、呪われたものとしてコンセンサスを見るようになった確固たる理由なのである。

コンセンサスが異議者に対する脅迫なしに確立できる、小規模集団で実行可能なプロセスだったなら、誰が意志決定プロセスとしてのコンセンサス方式に反対できるだろうか?だが、リバータリアンの理想を、少数派--「たった独りの少数派」はともかく--の、「個々人の集積」による決定を中止させるという無条件の権利に還元することは、反対、対決、そして、そう、決定によって活力を保っている思想の弁証法を窒息させることなのだ。こうした決定は、社会がイデオロギーの墓場にならないようにするために、全ての人が同意する必要もなければ、全ての人が同意してはならないものなのである。このことが、異議者の持つ損なわれることのない論議と弁護によって多数決をひっくり返すあらゆる機会を無視することはないのだ。

III

ここまで、長々とコンセンサスについて論じてきたのは、それが民主主義に対する一般的な個人主義的代替案だとされ、大多数の「支配」に対する「無支配」--もしくは言質に縛られない個人的自律性--として一般に対峙されているからだ。合州国と英国のリバータリアン思想が個人的自律性の肯定に向けて次第に遷移している以上、私の観点では、個人主義と反国権主義集産主義の亀裂は架け橋不可能なものになっているのだ。私事本意主義的アナキズムが今日青年達の間に深く根を張っている。それ以上に、「アナーキー」という言葉が、私事本意主義的スタンスだけでなく、反理性主義的・神秘主義的・反テクノロジー的・反文明的観点をも表現するように使われてきている。このことで、社会主義の中に自分の思想を定着させているアナキストは、自分を修飾形容詞抜きに「アナキスト」と呼ぶことができなくなってしまった。最も才能があり最も憂慮している米国の同志の一人、ハワード=エーリックは、自分の雑誌のタイトルに、「社会的アナキズム」という言葉を使い、自由主義イデオロギーや、多分もっと悪いイデオロギー的に根ざしているアナキズムとは、自分の観点をはっきりと区別している。

私は、自由の概念をもっと拡充的に練り上げようというのであれば、修飾形容詞以上のことが必要だということを示そう思う。今日のリバータリアンが、個人の単なる集積ではなく、社会を文字通り信じていることを説明せねばならないなど、本当に不幸なことなのだ!一世期前、この信念は前提であった。今日、古典的アナキズムの集産主義的肉体が剥ぎ取られてしまったため、この信念は、青年にとっての個人的ライフステージ・その中年助言者にとっての道楽・「自己実現」への道・「ラディカル」版エンカウンター=グループのように見えるものになろうとしているのである。

今日、政治的スペクトルには、真の社会生活--有名な「コミューン群からなるコミューン」--に到達するという人間性の痛々しい闘争を前進させている反権威主義思想の一群を、イデオロギー的にだけでなく、制度的にもはっきりと声にできる場所がなければならない。社会的に懸念を持っている反権威主義者が、単に自分の精神だけでなく、世界を変革しようというプログラムと実践とを発展させ得る手段がなければならないのだ。民衆を動員でき、民衆が自身を教育する手助けができ、反権威主義政治(この言葉をその古典的な意味で使うならば)を発展させることができる闘争の場が、実際、国家と資本主義に対して新しい公的領域を敵対させる闘争の場がなければならないのだ。

つまり、我々は、アナキズムの社会主義的次元だけでなく、その政治的次元、民主主義をも復活させねばならないのである。この民主主義的次元と、その共同体的・自治体的な公的領域を奪われると、アナキズムは、実際に、「個々人の集積であり、それ以上でもそれ以下でもない」程度のものしか示さないだろう。無政府共産主義でさえ、今のところ、リバータリアンの理想の形容詞的修正の中で最も好ましいものではあるが、物品の共産主義的分配を促すために必要な諸制度について何も語っていないという構造的曖昧さを残しているのである。無政府共産主義は広大なる目標、希望要件(desideratum)--嗚呼、ボルシェビズムと国家に、「共産主義」が関連づけられてしまうことで、ぞっとするほど薄汚くなってしまったのだ--を綴っているが、その公的領域と制度的連合の諸形態は、良くて不明確なままであり、最悪の場合には全体主義的責任の影響を受けやすいままなのである。

私は、リバータリアンの目標が持つ民主主義的で潜在的に実行可能な次元を、コミュナリズムとして示すべきだ、と提案したい。この言葉は、過去に急進的社会変革を明確に表していた政治用語とは異なり、言葉の乱用によって歴史的に汚されてはいない。ここで述べておくが、コミュナリズムの一般的な辞書的定義でさえも、「コミューン群からなるコミューン」のヴィジョンをかなり把握しているのである。このヴィジョンは、現在の英国系アメリカの諸傾向によって失われてしまっている。その諸傾向は、アナーキーを「カオス」だとか、「自然」との神秘的「一体性(oneness)」だとか、自己達成だとか、「絶頂」などと様々に賞賛してはいるものの、結局のところ私事本意主義的なものでしかないのだ(原注7)。

コミュナリズムは、「実質的に自律的な(原文の誤り!)地域共同体が、緩い連合を形成している政府(原文の誤り!)の理論もしくはシステム」と定義されている(原注8)。政治的に非常に洗練された英語辞典は存在しない。「政府」と「自律的」という言葉がこのように使われたからといって、国家と地方根性--個人主義はさておき--を受け入れろというわけではない。さらに、連合(federation)は、私がリバータリアンの伝統との一貫性をもっと持っていると見なしている言葉、連邦(confederation)と同義で使われるものだ。この(未だに)汚されていない言葉について注目すべきことは、私が別な著作で詳細にわたり示してきた社会生態学の政治的次元、リバータリアン自治体連合論と非常に近接しているということだ。

コミュナリズムは、リバータリアンが、理論だけでなく、経験によっても芳醇にすることができる有効な言葉である。最も重要なことだが、この言葉は、我々が反対していることだけでなく、賛成していることをも、つまり、リバータリアン思想の民主主義的次元と、社会のリバータリアン形態をも表現できるのである。この言葉こそ、アナキズムを文化的異国趣味と心理的内向性へと次第に監禁しつつあるゲットーの壁を取り壊すことのできる実践を意味しているのだ。この言葉は、窒息しかかった個人主義にはっきりと敵対しているのだ。個人主義は、ブルジョアの自己中心性と道徳相対主義とあまりにも快適に結託しているため、あらゆる社会行動を無関係で、実際、制度的に意味のないものにしているのである。

リバータリアン自治体連合論--ここでは、コミュナリズムと呼んでいるが--は、発展的見解、「コミューン群からなるコミューン」を最終的には確立しようという政治見解なのだということを強調せねばなるまい。それ自体で、国家と中央集権型官僚社会に対する直接民主主義的連邦的代替案を提供しようとするのである。多くの自由主義者とエコ社会主義者がそうであるように、既存都市の本体規模が、その実践の成功に対する克服できない論理的障害を提起していることを前提として、リバータリアン自治体連合論の妥当性に挑戦することは、リバータリアン自治体連合論をチェスの「戦略」へと変質させ、所与の社会諸条件の範囲内で凍結させ、「成功」・「有効性」・「高い参画レベル」などに対するその潜在可能性を明らかにするために、貸借を照らし合わせることになる。リバータリアン自治体連合論は、現在そうあるものとしての諸条件に対する社会的簿記の一形態などではなく、理性的社会におけるそうあるべき姿を確立するための妥当な出発点として、既存条件内部で変革することができるものから始める変換的(transformative)プロセスなのである。

リバータリアン自治体連合論は、結局のところ、元来のギリシア的意味での政治見解なのだ。それは、「選挙区民」だとか「納税者」だとか現在呼ばれていることを、能動的な市民に再構築する、そして、現在は都市の雑多な集まりにすぎないものを、連邦を通じて互いに関係し合う本物の地域社会に再構築するプロセスに従事しているのである。連邦は、国家の存在に対抗し、究極的には異議を申し立てる。このように見なければ、この多面的で、プロセス的発展は風刺画に還元されてしまう。また、リバータリアン自治体連合論は、絆(association)それ自体の--生の家族的・経済的側面の--代替物となるように意図されてもいない。それ抜きでは、いかなる社会においても人間は存在不可能である(原注9)。むしろ、衰弱しつつある公的領域となっているもの--国家が侵害し、多くの場合実質的に消滅されてしまっているもの--を復興し、前例のないほどの規模にまで拡大するための見解であり、発展的実践なのである(原注10)。大規模な自治体の存在と公的領域の衰退が変えることのできない所与のものであると受け入れられているなら、我々は希望もなく、人間活動の領域に与えられているもので活動しなければならなくなる--こうした場合に、アナキストが社会民主主義者との共同活動に参加し(全くの実際的目的のために、非常に数少ないが、それを行ったことがある)、国家機関・市場・商品関係システムを単に修正するだけにとどまるとしても当然であろう。実際、こうした常識的推論を基に、さらに強力な議論が、都市の凝集を単に分散させるためだけではなく、国家・市場・金銭の使用・世界規模の企業を保護するためになされる可能性があるのだ。事実、多くの都市の凝集は、すでに、その規模の重みの下に物理的にも兵站術的にも苦しみもがいており、その人口と物理的管轄区が、単一のメトロポリスの名の下に未だに分類されているものの、我々のまさにその現前で、衛星都市へとそれ自体を構成し直しているのだ。

奇妙なことだが、多くのライフスタイル=アナキストは、ニューエイジ夢想家のように、全ての物事を変革することを夢想する優れた能力を持っており、既存社会で実際に何かを変えようと言われると、強力な反対を持ち出すものである--より大きな「自己表現」を求めること、より多くの神秘的夢想をすること、自分のアナキズムを社会的寂静主義へと退却させながらアートの形態へ転化することは例外であるが。リバータリアン自治体連合論を批判する人々が、ニューヨーク・メキシコシティ・東京といった大規模都市で、自治体集会に参加したり、そこで能動的参加者として活動しようとしている法外なほど数多くの人々を嘆き悲しんでいる--そして、そうした集会がどれほど「実際的に」可能なのかを疑問視している--のなら、私は、コミュナリストのアプローチは、我々が、既存社会を全く変革し、「コミューン群からなるコミューン」を確立できるかどうか、という問題を提起しているのだ、と示しておきたい。

もし、こうしたコミュナリストのアプローチが、どうしようもなく手に負えないものであるように見えるのなら、私は、ライフスタイル=アナキストにとって、闘争はすでに敗北しているのだ、としか思えない。私にとって、アナーキーが、「自己教化」の美学・興をそそる暴動・スプレー缶落書き・我が儘な「空想」によって育成されている私事本意主義の英雄的行為程度のものを意味するようになるのであれば、私は、アナーキーとほとんど共通項を持っていないことになる。芝居じみた人格主義は、60年代の対抗文化が70年代のニューエイジ文化に変わったときに、あまりにも派手になりすぎたのだった--そして、ブルジョア=ファッションデザイナーとブティックのモデルになってしまったのだ。

IV

アナキズムは現在、退却状態にある。アナキズムの民主主義的次元を苦心して作り出すことができなければ、我々は、活力ある運動を形成することだけでなく、将来における革命的社会プラクシスを民衆に準備する機会をも失ってしまうであろう。嗚呼、我々は偉大なる伝統の莫大なる乾燥を目撃しているのだ。したがって、新シチュアシオニスト・ニヒリスト・原始人主義者・反理性主義者・反文明論者・公言している「カオス趣味者(chaotics)」は、公的政治活動に似ているものなら何でも子供じみた道化に還元しながら、自分のエゴの中に閉じこもっているのである。

リバータリアン文化の、美的で、遊び心があり、幅広い想像力を持った文化の重要性を否定することなどできはしない。今世紀の一部と前世紀のアナキストは、多くの革新的アーティスト、特に画家と小説家が、現実と道徳に関するアナーキーな見解と自分自身を提携させていたという事実に対して、真っ当にプライドを持っていたのだった。だが、犯罪・反社会性・知的支離滅裂性・反知性主義・混乱のための混乱を神秘化することに向かう行動は、単にルンペンなのだ。それは、資本主義の残りかすで成長しているのだ。だが、こうした行動が、政治を個人に解消したり、個人を超越的カテゴリーへと膨張させたりしながら、エゴの「権利」をどれほど訴えようとも、エゴは、潜在的にそれを支援するためにさえも、その起源は精神以外にないという意味で、アプリオリなのだ。バクーニンとクロポトキンが繰り返し論じていたように、個性が社会と別個に存在することなどなく、個人の進化は社会進化と共に拡充するのだ。その社会的ルーツや社会的関わり合いと切り離して「個人」について語ることは、民衆や制度を含んでいない社会について語ることと同じぐらい意味がないのである。

存在するためだけでも、諸制度には形態がなければならない。私が三十数年前に「自由の諸形態」というエッセイで論じたように、自由それ自体が--社会的自由だけでなく個人的自由も--その定義可能性を失ってしまわないようにするためである。諸制度は、薄っぺらな学問的空気の中を漂うカント派のカテゴリーに抽象化されるのではなく、機能を与えられねばならないのである。諸制度は、個人主義的リバータリアンにとって構造という言葉がどれほどしゃくにさわるものであろうとも、触知可能な構造を持っていなければならないのだ。具体的に言えば、決定事項に到達するための手段・政策・実験的プラクシスを持っていなければならないのである。誰もが心理的に均一になり、社会の関心事があまりにも同じ性質しか持たず、その結果、反対意見が単に無意味になってしまわない限り、葛藤する企図・議論・理性的説明・多数決--つまり、民主主義--の余地がなければならないのだ。

好むと好まざるとに関わらず、こうした民主主義は、それがリバータリアン的であれば、コミュナリズム的になり、顔をつきあわせた、直接的で、草の根のやり方で、制度化されるであろう。我々の思想をネガティブ=リバティからポジティブ=リバティへと前進させる民主主義となるであろう。コミュナリズム的民主主義は、公的領域を--アテネ的意味での政治を--発展せしめるのである。それは、緊張関係の中で、究極的には、国家との決定的対立の中で成長するのだ。

連邦主義的で、反ヒエラルキー的で、集産主義的で、生活手段を既得権益によって管理する(例えば、労働者管理・私的管理・さらに危険なことだが国家管理)のではなく自治体によって管理することで、民主主義は、日常的プラクシスとしてだけでなく、リバータリアンの理想のプロセス的実現として正しく見なすことができるであろう(原注11)。

コミュナリズムの政治では自治体選挙への参加を必要とすること--はっきりさせておくが、これは民衆集会とその連邦の形成を要求する断固としたプログラムに基づいているのである--は事実であるが、だからといって、既存市町村の議会への参入は、国家機関への参加を意味してはない。丁度、私有の工場でアナルコサンジカリスト組合を作ることが資本主義の生産形態に参加することを意味しないのと同じである。1789年から1794年のフランス革命を見るだけで分かるだろう。そこでは、一見して国家諸制度に見えるものが、三部会に対する選挙を手早く済ますために1789年の君主制下に確立された自治体「行政区」のように、その4年後には、大規模な革命的実体、つまり、「セクション(地区)」へと変換され、「コミューン群からなるコミューン」をほとんど勃興せしめたのだ。地区的民主主義を求めたその運動は、1793年6月2日の蜂起の最中に敗北してしまった--君主制の手によってではなく、ジャコバン派の裏切り行為によってである。

資本主義は、我々が必要としている民衆民主主義諸制度を気前良く提供してくれはしない。今日、社会に対する資本主義の統制は、いたる所に存在し、数少なくなってしまった公的領域にだけでなく、多くの自称急進主義者たちの精神にも存在している。革命的民衆は、自分の公的生活にとって基本的な諸制度--バクーニンは正しくもそれは民衆の自治体議会であると理解していたのだった--に対する自分の制御力を主張しなければならない。さもなくば、民衆には選択肢などなく、今現在すでに流行とも言える規模で生じているように、自分の私的生活に引きこもらねばならないだろう(原注12)。実際、もし、個人主義的アナキズムと、学術学会や超越的道徳家からカオス趣味者とルンペンまでのその様々な突然変異が、「たった独りの少数派」のために民主主義を拒絶しながら、リバータリアンの理想の周囲で一貫して成長しているドグマの壁をさらに高くしようというのなら、そして、故意であろうとなかろうと、アナキズムが、疎外され、商品化され、内向化され、エゴ中心的な社会にぴったり合った、ある種のナルシシズム的カルトに転じてしまうなら、それは、実際、皮肉なのであろう。

-- 9月18日、1994年

1 L. Susan Brown: The Politics of Individualism (Montreal: Black Rose Books, 1993), p. 12. 私は、ブラウンのリバータリアン見解の誠実さを疑問視してはいない。彼女は、自身を無政府共産主義者だと見なしており、私も自分をそう見なしている。だが、彼女は、自分の個人主義的見解をいかなる種類の共産主義とも調和させようとする直接的試みをしてはいない。バクーニンもクロポトキンも、何が「集団」を形成しているのかに関する彼女の公式には強く反対するであろう。だが、マーガレット=サッチャーならば、明らかに彼女自身の理由があって、むしろそれを気に入るであろう。なぜなら、英国前首相の悪名高き言明、社会なるものは存在しない--個人がいるだけだ、によく似ているからだ。明らかに、ブラウンはサッチャー主義者ではないし、サッチャーもアナキストではない。だが、他の点でどれほど異なっていたにせよ、二人とも古典的自由主義の素性を持っており、それが、個人の「自律性」の肯定を二人が共有できるようにしているのである。だが、私は、バクーニンの観点もクロポトキンの観点も私の観点も、ブラウンの本では全く深く扱われておらず(156ページ〜162ページ)、我々の観点に関する彼女の説明は、重大な誤りで満ちている、という事実を無視するわけにはいかないのである。

2 自由主義者は、いつも、お互いに一致しているわけではなく、はっきりと一貫した学説を持っているわけでもない。ジョン=スチュワート=ミルは、自由思想の人道主義者・功利主義者であり、事実、社会主義に多少なりとも共鳴していた。私は、ミルであれ、アダム=スミスであれ、フリードリッヒ=ハイエクであれ、特定の自由主義理論家をここで抜擢しているわけではない。それぞれが、自分の個人的奇癖や個人的な思想の方向性を持っている。私は、全体としての伝統的自由主義について述べているのであり、その一般的特徴は、市場の「諸法則」と「自由」競争に対する信念なのである。マルクスは、決して、この影響力から逃れてはいなかった。彼もまた、チャールズ=フーリエのようなユートピアンも含めた前世紀の多くの社会主義者同様、社会の「諸法則」を発見しようとたゆまなく努力していたのだった。

3 有名な「エンサイクロペディア=ブリタニカ」に掲載されているクロポトキンの「アナキズム」を参照してほしい。この論文は、彼の著作の中で最も幅広く読まれたものの一つである。Roger N. Baldwin, ed., Kropotkin's Revolutionary Pamphlets: A Collection of Writings by Peter Kropotkin (Vanguard Press, 1927; reprinted by Dover, 1970)にも、転載されている。

4 私が、古典的アテネ民主主義を理性的社会に再興されるべき「モデル」だとか「理想」などと見なしたことは一度もない。私が長々とアテネを賞賛して引用してきた理由はたった一つである。ペリクレス時代のポリスが、ある種の構造--集会による政策決定・公務員のローテーションと制限・専門家ではない武装民間人による防衛--が存在可能だという著しい証拠を示しているのである。紀元前5世紀の地中海世界は、君主制的権威と抑圧的慣習に大きく基づいていた。当時の地中海社会全てが、家父長制度・奴隷制度・国家(専制主義的形態の場合が多かった)を必要としていたり、用いていたりしていたということは、前例のないほどの自由な表現をも含め、アテネの構造が社会生活に唯一導入されたものであるがために、アテネの経験を尚更注目すべきものにしているのである。2400年もの隔たりから、現在、我々が醜いとか非人間的だと判断する特権を持っている現在、アテネが当時、古代社会の最も基本的な特質を超越できた、と仮定することは素朴であろう。残念なことに、今日、現在で過去を判断しようとする人は少なくない。

5 Peter Marshall, Demanding the Impossible: A History of Anarchism (London: HarperCollins, 1992), p. 22.

6 Barbara Epstein, Political Protest and Cultural Revolution: Non-Violent Direct Action in the 1970s and 1980s (Berkeley: University of California Press, 1991), especially pp. 59, 78, 89, 94-95, 167-68, 177. 私は、エプスタインの本に載っているいくつかの事実と結論には同意していない--クラムシェル同盟に関する一般的知識だけでなく、個人的な知識にも基づいて--が、彼女は、この運動のコンセンサスの失敗を生き生きと描いている。

7 「カオス」・「ノマディズム」・「文化的テロリズム」と「存在論的アナーキー」との関連は、ハキム=ベイ(別名ピーター=ランボーン=ウィルソン)著、「T.A.Z. 一時的自律ゾーン」、箕輪裕 訳(インパクト出版会、1997年)で十全に説明されている。ヤッピーのWhole Earth Reviewは、資本主義に対する慣例的なアナキスト攻撃から適切に自由になっていると賛同を示しながら、このパンフレットを、北米対抗文化の若者の最も影響力があり、幅広く読まれている「宣言」だと賞賛している。1960年代からのこの種の岩屑は、まだ「大人になる前に、楽しんだ」(1968年のパリ学生活動家から数年前私が耳にしたコメントだ)ことがなく、まだ不動産代理人や会計士になっていない若者の仲介をしている大部分の北米アナキストの会報によって、様々な形で繰り返されている。

「絶頂経験」について言えば、ニューヨークのローワー=イーストサイド(セント=マークス=プレイス近く)を訪れた人が私に話をしてくれたのだが、そこのアナーキー=カフェで食事をしてみればよい。この施設は、美味しい食事を高価なメニューから提供し、多分消化を助けてくれるためだろうが壁には有名な壁画第四権力の複製があり、ヤッピー常連客を出迎える召使い頭がいるそうだ。ギ=デボール・ラウル=ヴァニジェム(Raoul Vaneigem)・フレディ=パールマン・ハキム=ベイの著作がそこで売られているのかどうかとか、Anarchy: A Journal of Desire ArmedThe Fifth EstateDemolition Derbyをそこで熟読できるのかどうかは分からないが、幸せなことに、その近くには風変わりな書店が充分あるためそうした本や雑誌を買うことができるだろう。

8 The American Heritage Dictionary of the English Language (Boston: Houghton Mifflin Co., 1978)からの引用。

9 歴史は、ペリクレス時代のアテネにせよ、部族にせよ、いかなる市町村にせよ--ヒッピーのコミューンや仏教の修行所であっても--、リバータリアン自治体連合論にいかなる「モデル」も提供してはくれない。「親和グループ」もモデルではない。これは、スペインのアナキストが、FAIの組織的ユニットを差すために使っていた「行動グループ」と言い換え可能な形で使われていたのであり、リバータリアン社会の制度的基盤を差してはいなかったのである。

10 我々が現在では個人的・経済的目的と関連させているやり方を含めた社会的領分(domain)、公的領域(sphere)や政治的領分、そして様々な発展段階や発展形態全てにおける国家との違いに関する詳細な論述は、拙著Urbanization Without Cities(1987; Montreal: Black Rose Books, 1992;訳注:現在では、From Urbanization to Cities, Cassell, 1995)を参照していただきたい。

11 強調しておかねばならないが、私は、コミュナリスト民主主義を協同組合・民衆クリニック・コミューンなどの企図に対峙させているのではない。だが、そうした企図が民衆管理の練習以上のものであり、高度に原子化された社会において民衆を引き合わせる方法だ、などと幻想を抱いてはならない。資本主義の下で巨大リテール食品マーケットに置き換わることのできる食品共同組合などないし、多くの棟を持った病院に置き換わることのできるクリニックもない。手作り工房が工場やプラントに置き換わることができないのと同じである。スペインのアナキストが、ほとんどその発端から、1880年代--実際、こうした運動が現代よりも実行可能だった時代だ--の協同組合運動の限界を十全に知っており、プログラム的に協同組合論と自分達とをはっきりと区別していたことは明記しなければなるまい。

12 バクーニンにとって、民衆は、「共同体の事柄については、健康で、実際的な常識を持っている。民衆は充分情報に通じ、自分たちの中から最も能力のある公務員をどうやって選べばよいか知っているのである。これが、自治体選挙がいつでも民衆の本当の姿勢と意志とを最も良く反映している理由なのだ。」(Bakunin on Anarchy, Sam Dolgoff, ed. (New York: Alfred A. Knopf, 1972; republished by Black Rose Books: Montreal), p. 223)ドルゴフがバクーニンの文意を「修正」して挿入している不快な加筆語句を削除しておいた。前世紀のアナキズムは今日のものよりももっと塑造可能で柔軟だった、ということを明記しておいたほうが良いだろう。