哲学的自然主義


このエッセイは、元々、「社会生態学の哲学:自然主義的弁証法エッセイ集」改定第二版(Montreal: Black Rose Books, 1995)のイントロダクションとして執筆された。この書物は、「エコロジーと社会」(Remaking Societyの邦訳書)によれば、邦訳が進められているとのことだが、一刻も早い出版が待たれるものだ。哲学用語が多い論文のため、一度では内容を把握しにくいかもしれないが、内容は重要なものだと思われるため、何度か熟読してみていただきたい。このイントロダクションの原文は、"Philosophical Naturalism"で読むことが出来る。また、訳者は哲学にさほど明るいわけではないため、訳の間違いなどがあるかもしれない。誤訳に気が付いた方はお知らせいただきたい。
(2002年6月29日付記)雑誌に本翻訳を掲載するにあたり、潜在的可能性の哲学という稚拙な文章を書いてみたので、関心ある方は読んでみていただきたい。(訳者)

哲学的自然主義

自然とは何か?自然において人間の居場所は何処なのか?そして、自然界に対する人間社会の関係はいかなるものなのか?

生態系崩壊の時代において、これらの疑問に答えることは、私たちの日常生活にとって、私たちと他の生命とが直面する将来にとって、ゆゆしき重要性を持ったものになっている。これらは、形而上学的思弁という遠く離れた空虚な世界に属している抽象的な哲学的疑問などではない。また、私たちが、詩的メタファーや無分別で直感的な反応を持って、即席で答えることができるようなものでもない。人間社会が自然進化を創造的に促すようになるのかどうか、そして、私たちがこの惑星を私たち自身も含めた全ての複雑な生命形態にとって棲むことができないようなところにするのかどうかを決定するのは、結局のところ、これらの疑問に答えるときに使う定義と倫理基準であろう。

ぱっと見には、誰もが自然とは何かを「知っている」かのようだ。自然は私たちの身の回りにある。木々・動物・岩や石などなど。自然は「人間性」が破壊し、石油で覆い固めているものであるようだ。だが、こうした一瞥しただけの諸定義は、注意深く吟味してみれば、ガラガラと崩れ落ちてしまう。自然が実際に私たちの周囲にある全てのものだとすれば、次のように問うことは道理にかなっているだろう。郊外にある注意深く刈り込まれた芝生は自然ではないのだろうか?芝生が取り囲んでいる乱平面の住宅は自然ではないのだろうか?住宅にある家具は自然ではないのだろうか?

今日、この種の疑問を問うと、「野生的」・「原始的」・非人間的自然だけが本当の自然なのだ、と興奮した口調で話されるものだ。そうした人々に劣らず思慮深い人ならば、自然は本質的に物質である、とか、その形態全てに具象化された万物の素材−−哲学者が大ざっぱに存在と呼んでいるもの−−であると答えるだろう。事実はといえば、自然という言葉の正にこの定義に関して、哲学上の食い違いが西洋で数世紀にわたり存在しているのである。自然が、ほぼ全生命の将来にとって莫大な重要性を持っている環境問題ニュースのヘッドラインになっているときにも、こうした食い違いは今日まで解消されていないのである。

人間種をその一部に含めようとすると、自然の定義は更にもっと複雑な課題になる。テクノロジーと加工品全てを備えた人間社会−−競合する社会利権と社会制度といった口に出すのもはばかられる特徴は言うに及ばず−−は、人間以外の動物と同じように自然の一部なのだろうか?そして、人間が自然の一部ならば、人間は他の生物と同じ単なる一生命形態にすぎないのだろうか?それとも、人間は生物界にいる他の生き物に対して主たる責任を負っている、他の生物は分かち合っておらず、分かち合う能力すら持っていない責任を負っているという点で、特異的なのだろうか?

自然が何を意味していようとも、私たちは人間性がそれに「適合」するやり方を明らかにしなければならない。そして、社会関係−−具体的には、過去に出現し、現在も存在し、将来出現する可能性のある様々な社会諸形態−−という複雑で挑戦的な疑問に直面しなければならないのだ。こうした疑問に理性にかなった明晰さを持って答えない−−少なくとも十全にそれらを議論しない−−限り、環境諸問題を扱うときに、いかなる倫理的方向性をも失ってしまうだろう。自然とは何か、自然における人間性と社会の立場はどのようなものかを知らない限り、私たちは曖昧な直感と本能的感情で取り残されてしまい、明確な見解へと首尾一貫することも、効果的行動を導くこともないだろう。


こうしたやっかいな疑問を短気になって拒否したり、純粋に感情だけで反応したり、単に首尾一貫した解答を論理的に考え出そうとする努力の評判を落とす−−実際、理性そのものを「おせっかいだ」(ウィリアム=ブレイクの言葉を使えば)として攻撃する−−ことで、解答を回避しようとすることはたやすい。今日、感受性の高い人々の中にさえも、効率性・客観性・倫理的制限からの自由という冷淡な主張を持った理性の−−もしくは、原子核工学と造兵術のような特に破壊的なテクノロジーを助長してきた理性形態の−−数世紀にわたる栄光に裏切られたと感じている人が多くいる。人々のこうしたネガティブな反応は理解できる。だが、大部分が道具的で冷徹に分析的な特定の理性形態から逸れることは、私たちが逃れようとしているこうした疑問と同じぐらい歪んでいる諸問題を創り出すのである。

無感覚で無情な理性形態を嫌悪すると、一つの代案として、不明瞭な直観主義と神秘主義を選択しやすい。結局、道具的で分析的な理性とは異なり、感情と神秘的信念への服従は、自然界との「相互結合性(interconnectedness)」という協同感情を産み出し、おそらく、それを望ましいとする態度をも作り出すだろう。だが、直感と神秘的信念は非常に曖昧で気まぐれである−−つまり、余りにも理性的ではない−−という正にこの理由で、私たちが全く結びつくべきではないもの−−つまり、人種差別主義・性差別主義・カリスマ指導者の追従−−と私たちを「結合」させるかもしれないのである。

実際、この直感的代替案に従うことは、潜在的に、私たちの生態調和的見解を非常に危険なものにしてしまいかねない。「相互結合性」という考えが私たちの目に生き生きとして見えるのと同じぐらい、それは歴史的に、社会統制と政治操作の手段となっていた神話や超自然的信念の基盤となることが多かったのだ。20世紀の前半分は、その大部分、国家社会主義のような残忍な運動の物語だった。これは、他にもいろいろあるが、主に、民衆の反理性主義・反主知主義・私的疎外感に培養されていたのだった。この運動は、直感に基づいた反社会的で倒錯的な「生態学的」イデオロギー、つまり、地球・民族・「血と土(blood and soil)」の「相互結合性」を持って、何百万という人々を動員し、均質化したのだ。これは、自由で共同体集産主義的(communitarian)なものではなく、戦闘的で殺人的だったのだ。国家社会主義運動は、反主知主義と神秘的国粋主義のために、理性的批判からの挑戦を受けないように隔離され、最終的に欧州の大部分を墓場へと変えてしまった。だが、イデオロギー的には、このファシスト全体主義は一世紀前の浪漫主義運動が持つ直感的神秘的信条から糧を得ていた−−一世紀前には誰もそのようなことは予測出来なかったのだ。

道具的・分析的理性が私たちの真実への情熱を奪い去っていないのならば、感情・感傷・倫理的見解を私たちは確かに必要としている。だが、神話・精神を無感覚にさせる儀式・カリスマ的人格は、思考が与えている批判的才能を私たちから剥ぎ取ってしまいかねない。近年、カナダにあるグリーン組織は、「新しいパラダイム」の一部として「対決」よりも「協力」を模索すると軽薄にも宣言していた。「対決」は拒否された「古いパラダイム」の一部だと見なされているのである。もっとラジカルな時代には、対決は急進主義運動が公言していた目的だったのだ!対決を拒絶している「相互結合性」の神話的で無批判な側面は、カナダのこのグリーン組織を、現状との完全な適応レベルに還元してしまったようだ。そこでは、現代の諸悪に対峙するだけでなく、妥協せずにそれに反対することの必要性は、思慮のない「良い感じ」ニューエイジの泥沼へと消え失せてしまった。こうした「良い感じ」が私たちを導く妥協の「親愛なる」小道は、単なる日和見主義で簡単に終わりかねないのである。

理性に対する近代の反乱が、現在の現実に対する唯一の代替案は神秘主義である、という誤った信念に基づいているのなら、同時にそれは理性には一つの種類しかないという同じ誤った信念に基づいている。通常、理性そのものと同じだと見なされている道具的・分析的理性に対する反対は、有機的でありながら批判的性質を保持し、発展的でありながら分析的洞察を保持している種類の理性を見過ごしてしまっているのだ。「価値観を持たない」合理主義は、普通、物理科学・テクノロジーと同じだと見なされ、実際には西洋哲学が数世紀にわたって発展させてきた理性の一種でしかない。ここで私が述べているのは25世紀前のギリシアにおいて志向され、ヘーゲルの論理学の著作においてその高みに到達してはいるものの、未だ完成されてはいない弁証法理性という偉大なる伝統のことである。

ヘラクレイトス以来の弁証法思索者が様々なレベルで共有していたことは、現実性を発展的だと見なしていたことだ。永続的に展開する生成としての存在だと見なしていたのである。プラトンが様々な理念形相からなる超自然界と、不完全で知覚可能なコピーである儚い世界との二元論を創り出して以来、変化の中にある同一性と同一性の中での変化という混乱した疑問が、西洋哲学につきまとっていた。道具的で分析的な理性−−私はここでは総称的に慣例的理性と呼ぶ(原注1)−−は、有名な「同一性原理」すなわちAはAであるという根本原理に基づいている。つまり、いかなる現象も、それ自体で唯一のものとして存在することができ、そうある姿としてしか、つまり、ある時点のある瞬間にそうある姿として直接的に知覚するものとしてしか存在し得ない、というのである。この原理なくしては、慣例的理性の論理的一貫性は不可能となるであろう。

(原注1:慣例的理性という名前を私が選んだ理由は、それがあたかも同義語であるかのように交代可能のものとして言及されている論理学の二つの伝統を包含しているからである。実際、これら二つは区別可能なのである。一つは分析的理性であり、これはアリストテレスの分析学後書から綿密に作りだされ高度に形式化された抽象的論理である。もう一つは道具的理性であり、これはプラグマティズム的な哲学の伝統によって発展した、さらに具体的な合理性である。これら二つの伝統は、大部分の人々が日常生活で使う常識的理性へと、しばしば無意識のうちに、溶け込んでいる。だから、慣例的という言葉を使うのである。)

慣例的理性は、精密に定義された現象の分析に基づいている。そして、その真実は内的一貫性とその実際上の適用可能性に依存している。それは、固定し、分析の目的にとって不変的で明確な境界線を持ったものとしての事物や現象に焦点を当てている。広く受け入れられたこの理性概念では、私たちが還元不可能な諸要素に物体を分析し、どのようにしてそれが機能する全体として活動するのかを明らかにできたときに、実体を理解した、というのである。そのようにすることで、その実体に関する知識は、操作的応用性を持つことになる。発展しつつある事物を「定義する」境界線が変化する−−例えば、砂が土壌になる−−と、慣例的理性は砂を砂として、土壌を土壌として扱う。丁度、それらが互いに独立しているかのように扱うのである。この種の合理性が関心を持っているゾーンは、事象の固定性・独立性・類似の事象や異なる事象との基本的に機械的な相互作用である。それ以上に、慣例的理性が記述する因果関係は、動力学の問題なのである。例えば、一つのビリヤード球が、別な球に当たり、当てられたボールをある位置から別の位置へと動かす原因となる−−つまり、作用因によるのである。二つのビリヤード球は、当たることによって変化するのではなく、ビリヤード台での位置が変わるだけなのである。

だが、慣例的理性は、変化の問題を全く扱うことができない。例えば、慣例的理性は、哺乳類を、特徴として非常に不変的な諸特性を持った生物だと見なす。その諸特性が哺乳類ではない全てのものと哺乳類を区別しているのである。哺乳類を「知る」とは、その構造を探求し、哺乳類を分断することで文字通り分析し、その構成要素に還元し、臓器とその機能を特定し、哺乳類の生存と生殖を確たるものにするよう諸臓器が一緒になってどのように作用しているのかを突き止めることなのである。同様に、慣例的理性は、人間をライフサイクルにおける特定ステージという点で見ている。人はある時期幼児であり、ある時期子供であり、ある時期には思春期にあり、青年であり、最後に大人である、というわけだ。慣例的理性を使って幼児を分析すると、幼児は大人になる発展過程にいる何かだということは探求されない。疑いもなく、発達心理学者と解剖学者が個人のライフサイクルを研究するときに、全ての幼児は大人になるプロセスにあり、ライフサイクルにおけるこの二つのステージは様々なやり方で互いに関連してるという事実を無視する学者はまずいない−−学者の合理性がどれほど慣例的なものであろうとも。だが、AはAであるという原理は、基本前提のままであり続けている。その論理的枠組みは一貫性という権威なのであり、演繹法は前提にほぼ機械的に従う。従って、慣例的理性は、ある実体の同一性を記述し、その実体がそれ自体でどのように組織化されているのかについて教えてくれるという実際的な機能を果たしてくれる。だが、慣例的理性は生成プロセス、つまり、生きている実体はその発展の一段階から次の段階へと移行する潜在的可能性としてどのようなパターンを持っているのか、を体系的に探求することはできないのである。

慣例的理性とは異なり、弁証法理性は、現実の持つ発達的性質を認識するにあたり、AはAであり非Aでもある、と様々なやり方で主張する。人間のライフサイクルを検証している弁証法思索者は、幼児を自己維持的な人間的同一体として見なすと同時に、子供へと発達し、子供から思春期へ、思春期から青年へ、青年から大人へと発達するとも見なしている。弁証法理性は、実体がある特定時期にどのように組織されているのかだけでなく、その発達レベルを超えてどのように組織され、その同一性を維持しつつも、どのようにして現在の状態ではないものになるのか、を理解している。同一性の矛盾した性質−−特に、AはAであり非Aでもある−−は、同一性それ自体に固有の特徴なのだ。事実、対極にあるものの統一は、出現しつつある「他者」としての統一、ヘーゲルが「同一性と非同一性の同一性」と呼んだものなのである。

今日、慣例的理性思考は、大部分の標準化されたテストを構成している「真か偽か」の質問に例証されて−−悲惨なまでに強化されて−−いる。ある叙述が「真」か「偽」かを示すためには、箱を不明瞭にしなければならない−−これをすぐさま行うことにより、最小限の熟慮しか持てないわけだ。こうしたテストは、今日あまりにも当たり前になされており、いかなるニュアンスのこもった思索も移行状態に関する意識も許してはいない。現象や叙述が、当然、真偽のどちらでもある−−叙述それ自体を除けば、その文脈と生成過程でどの位置にあるかに依存する−−はずだ、ということは、こうしたテストが基盤としている論理的前提では排除されているのである。このテスト手続きは、若者に悪しき精神習慣を作りだしている。若者はこうしたテストをうまくこなすように教育され、その出世と将来の生活様式はテストの点数に依存している。しかし、こうしたテストが要求している思考過程は、そうでなければ芳醇であったはずの精神を区画分けし、本質的に電算処理してしまっているのである。有機的に考え、現実世界の発展的性質を理解するという本来の能力を剥奪しているのだ。

慣例的理性が持つもう一つの主要前提条件−−同一性概念・因果関係概念の結果として生じているものだが−−は、歴史は何層にも重なる別個の現象であり、単なる階層の継続にすぎず、先行するもの・後続するものはそれぞれ独立している、ということである。こうした諸階層は、段階ごとに一区分で扱われることもあるが、その段階はそれ自体で諸要素に分析され、互いに独立したものとして探求される。従って、中生代の岩石層は、新生代の岩石層とは別個のもので、それらをひとまとまりに結合している段階と同様、それぞれの層は正にそれ自体で存在しているというのである。人間の歴史において、中世は近代とは別個のものであり、前者は一連の独立した部分で後者とつながっており、部分部分は、先行する部分と後続する部分との関係からすれば、比較的自律しているというわけだ。慣例的理性の立場からすれば、歴史的変化がどのように生じたのか、どのような意味を歴史が持っているのかはいつも不明瞭なのである。慣例的理性を使って歴史を検証し、そのために歴史を破壊しているポストモダニズムと近代の歴史的相対主義にも関わらず、つい最近まで、大部分の歴史家が進化諸理論とマルクス主義に影響を受け、歴史を発展的現象として見なし、後続する時代を少なくとも先行する時代に依存していると見なしていた時代があったのだ。弁証法理性が支えているのはこの伝統なのである。

歴史に対する直感的アプローチは慣例的理性アプローチよりも進歩したものなどではない。実際、逆である。直感的アプローチは、文字通り、歴史的発展を分化されていない連続体へと、至る所に存在して全てを包含している「神」へと解消しているのである。唯物機械論的成層構造という神秘的片割れは、全てのものは「神」であるとか、丁度自分が拳骨でテーブルを叩くと、どれほど微かであってもシリウスが震えると信じていたヴィクトリア時代の物理学者のように、全ての現象は「相互連結して」おり、全ての現象は原始的エネルギーの波動から生じていると述べている還元主義なのである。世界が起源を−−それがなんであれ−−持っていたということは、世界を「本当に」構成しているのは未だに原初の源泉だけだ、という素朴な信念を正当化しはしない。そんな信念など、人間の成人がその両親に言及することで完全に説明され得ると言っているようなものだ。この思考方法は、慣例的理性の運動的因果アプローチと大差ないのである。全生命の「相互結合性」も、獲物と捕食動物や、本能的に導かれた生命形態と潜在的に理性的な生命形態との明らかな区別を除外してはいない。だが、こうした無数の区別は、進化の道程における数え切れない革新を、実際、多種多様な進化−−無機的であれ、有機的であれ、社会的であれ−−を反映しているのである。慣例的理性に対する神秘的代案は、事象を、分化しながらも累積的に関連しているものとして捉えずに、ヘーゲルの有名な言葉を使えば、「全ての牛が黒くなる闇夜」として見なす傾向があるのだ。

慣例的理性は、確かに有用な側面を持っている。内容に関わらず、その命題の持つ内的一貫性は、数理思考と数理科学・エンジニアリング・日常生活の基本的諸活動において不可欠な役割を果たしている。慣例的理性は橋を架けたり家を建てたりするときには不可欠である。こうした目的に対して、進化的、すなわち発展的方向性にそって考えることなど意味がない。もし、橋を架けたり家を建てたりするために、同一性の原理以外の何かに基づいた論理を使えば、間違いなく大災害が起こるだろう。私たちの体の生理学的作用は、鳥の羽ばたきや哺乳類の心臓のポンプのような働きは言うまでもなく、大部分、私たちが慣例的理性と関連づけている諸原理に依存している。機械的実体を理解し、デザインするためには、道具的で現実を要素と機能に分析する理性形態が必要である。慣例的理性の真実は、一貫性に基づき、生命に関するこうした領域については有用である。事実、慣例的理性は世界に関する私たちの知識に莫大に貢献してきたのである。

実際、数世紀にわたり、慣例的理性は教会のドグマ的権威・絶対君主制の気まぐれな行動・迷信という恐るべき亡霊を追い払うという約束を示していた。そして、確かに、その約束を果たすために数多くのことを行ったのだった。だが、その根本原理をなしている一貫性を確立するために、慣例的理性は、倫理をその論文と関心事から除外しているのである。ある目的を達するための道具なのだから、目的の持つ道徳的正確・価値観・理想・信念・人々が育んでいる理論は、慣例的理性とは無関係で、個人の気分と好みという恣意的事柄なのである。同一性と一貫性が真であるというそのメッセージと共に、慣例的理性は、それ自体が間違いだからではなく、現実を説明するときの妥当性に対する権利を余りにも広く主張しすぎているために、私たちを誤らせたのだ。丁度、多くの数理物理学が数学の用語で公式化しうるものとして現実を再定義したように、その主張に合致するように現実を再定義しさえしているのである。そして、私たちの非常に合理化された産業社会において、慣例的理性は嫌だと思われ始めてきているのも当然であろう。浸透している権威・非人間的テクノクラシー・冷徹な科学・無情で一枚岩の官僚制度−−これら全ての正にその存在が、理性それ自体のせいにされているのである。


ここで、私たちはある種の苦境に陥っている。慣例的理性という非常に軽蔑された信条なしでは日常生活をやっていくことなどできないことは明らかである。多くのテクノロジー−−鳥や鯨を見るための双眼鏡やそれらを写真に撮るためのカメラも含めて−−なしでもやっていくことなどできはしない。これが事実なのだから、自分の道徳的信念とスピリチュアルな信念を支援するためには、非理性的で・神秘的で・宗教的な私的世界に向かおう、という結論になるわけだ。生きるために株式会社で働いているときでさえも、神秘的「神」との霊的交渉を求めよう、というわけだ。つまり、二元論を罵り、より大きな意味での団結を嘆願しているときでさえも、私たちは自分たちの経験を明らかに二元論化しているのである。高尚な霊性・霊的交渉・関係性を求めることができそうなときであっても、むしろ俗世の導師・カリスマ的人格・崇拝される人物に向かっている。こうした人物は、道徳的完成を達成していて、金銭には無関心な指導者などではなく、神秘的インチキ薬を売りさばいているプロモーターのように行動しているのだ。唯物的で消費主義的なメンタリティを非難しているときでさえ、高価で、スピリチュアルだとかエコロジカルだということになっている商品、高慢ちきなメッセージを産み出している「グリーン」製品の貪欲な消費者になっているわけだ。つまり、理性の領域だと見なしているものの最も下卑た属性が、非理性的・神秘的・宗教的商品を装って、私たちの生活に浸食し続けているのである。

自宅の郵便受けはカタログで溢れ、本屋はペーパーバックでいっぱいだ。それらは、私たちを撤退させ、常に私たちを襲撃している荒々しい現実に背を向けさせる神秘的コミュニケーションとニューエイジに至る新しい道を提示している。この神秘的撤退は、社会的寂静主義という状態を作り出す。それは、現実的というよりも非現実的であり、能動的というよりも受動的なのである。社会変化よりも私的変化に心を奪われ、根元的諸原因よりも自分の力無く疎外された生に関心を持っているため、私たちは、私的生活を形成するときに非常に重要にも関わらず、自分の生の社会的諸側面に対するコントロールを放棄しているのである。

だが、社会的「救い」なしに私的「救い」など有り得ず、理性的生なしにいかなる倫理的生も有り得ない。神秘的内在を持ったメタファーが理解に置き換わることなどなく、反啓蒙主義が本物の洞察に置き換わることなどない−−これら全ては、慣例的理性の限界と価値を持たない思想形態の強調に対する反動である−−とすれば、私が既に紹介した別形態の理性が検証されねばならない。強調させていただきたい。これは、哲学的抽象問題などではないのだ。これは、倫理的存在として私たちがどのように行動するのか、そして、自然の性質と自然界において人間はどこにいるのかに関する莫大な示唆を持っているのだ。それ以上に、私たちが促そうと選択する社会・感性・生活様式の種類に直接影響するのである。

同一性・作用因関係・成層構造という原理は、特定の常識的現実に当てはまり、その現実はこれらの原理の利用によって理解可能になっている、ということは認めよう。だが、そうした特定の現実を越えたからといって、非常に豊富な分化・変動・発展・有機的因果関係・発展的現実を、曖昧な「神」に還元したり、同じぐらい曖昧な「相互結合性」という概念に還元することなどできはしない。有機的理性形態と現実の発展的解釈の基盤は、古代ギリシャにまで遡る非常に重要な文献に示されているのである。

いくつかの注目すべき例外はあるものの、同一性と変化に関するプラトン的二元論は様々な形で西洋哲学全般に反映されていたが、ヘーゲルの論理学の著作が19世紀にそのパラドックスを解消した。ヘーゲルは、同一性、つまり自己保持性は、彼の言葉を使えば「多様性の統一」という永続的に変化し続ける展開としての変化を通じて実際に表現されている、ということを体系的に示したのだった(原注2)。ヘーゲルの努力の偉大さは、西洋哲学史でも類を見ないものである。先達アリストテレス同様、ヘーゲルは因果関係の、内在のものがその潜在的形相と可能性を展開することで顕在的になる方法の、「発生的」(emergent)解釈を持っていた。二巻にも及ぶ莫大な規模で、ヘーゲルは、理性が現実を説明するときに使うカテゴリーのほとんど全てを収集し、明確で意味のある連続体の中に一つ一つを抽出したのである。この連続体は、彼自身の言葉を使えば、芳醇に分化され、次第に包括的になる、「適切な」(adequate)全体へと格付けされるのである。

(原注2:ここで、警告しておかねばなるまい。私は弁証家であるかもしれないが、どれほど私がヘーゲルの著作から恩恵を得ていようとも、ヘーゲリアンではない。私は、実存的世界や人間性に具象化されている宇宙的精神(ガイスト)の存在など信じてはいない。人間の歴史を通じて綿密に組み立てられた宇宙的精神で武装することで、ヘーゲルは自分の弁証法が持つ重大な推進力を鈍くしてしまい、多くの場合、「現実」−−与えられたもの−−を「アクチュアル」−−潜在的なもの−−に一致させていたのだ。私は自然主義的方向性にそってヘーゲル弁証法の示唆を最後まで貫いているのである。したがって、私の観点−−お望みならば私の解釈といっても良いが−−からすれば、宇宙的精神を奪われたヘーゲルの計画は、非理性的であることの多い「現在の姿」と同時に、理性的な「あるべき姿」を含んでいる現実に関して、芳醇な見解を提供してくれるのである。だから、弁証法理性は弁証法的に論理的なだけでなく、認識論的に倫理的なのだ。存在に関する自然主義的説明だけでなく、理性的実践をも導いてくれるのである。)

ヘーゲルが「絶対的観念論」と呼んだもの・彼の論理からその自然哲学への移行・神のような「絶対者」における主体と客体の目的論的絶頂・宇宙的精神(ガイスト)という考えは、拒否しても構わない。ヘーゲルは弁証法理性を宇宙論的システムへと純化した。彼は、そのシステムを観念論・絶対知識・多くの場合彼が「神」と呼んでいた神秘的に展開するロゴスと一致させようとすることで神学に傾いていたのだった。生態学に不案内だったヘーゲルは、実行可能な理論としての自然進化を拒絶し、実在の静的ヒエラルキーを好ましいとしていた。同じ理由で、フリードリッヒ=エンゲルスは、弁証法理性を自然「諸法則」と混同していた。その諸法則は、柔軟な形而上学や有機体論的見解ではなく、19世紀物理学の諸前提に非常に近く、粗雑な弁証法的唯物論を産み出したのだった。実際、エンゲルスは物質と運動は実在が持つ還元不可能な「諸特性」だとして魅了されていたため、単なる運動に基づいた動力学主義が有機的発展に関する彼の弁証法を浸食していたのだった。

だが、ヘーゲルの観念論とエンゲルスの唯物論が持つ欠点のために弁証法理性を却下することは、弁証法理性が提供できる優れた一貫性と生態学に対する−−特に、進化的発展に根ざした生態学に対する−−優れた応用可能性を見失うことになるだろう。有機的進化に対するヘーゲル自身の偏見にも関わらず、彼の著作が持つ形而上学的で神学的なことの多い古語の中で傑出していることは、発展的現実性の主観的解剖学としての論理カテゴリーを全般的に抽出したことなのである。理性のこの形態を、疑似神秘的世界観と偏狭的に科学的な世界観双方から解き放つことが必要なのだ。こうした世界観が、過去において弁証法理性を現実世界から引き剥がしていたのだ。弁証法理性を、ヘーゲルの天空的で基本的に反自然主義的な弁証法的観念論と、正統派マルクス主義の融通が利かず、科学主義的なことも多い弁証法的唯物論とは区別することが必要なのだ。観念論・唯物論双方を剥ぎ取ることで、弁証法理性は、自然主義的で生態学的になり、自然主義的思考形態として理解されるであろう。

この弁証法的自然主義は、慣例的理性に対して正しく疑念を抱いているエコロジー運動の一選択肢を提供する。生態学思考に一貫性をもたらすことができ、気まぐれで反知性的な諸傾向を追い払うことができるのである。こうした諸傾向は、良くても感傷的で不明瞭で有神論的な、最悪の場合、危険なほど反理性的で神秘的で潜在的に反動的な方向に向かう。現実について論じる方法として、弁証法的自然主義は充分有機的なため、知性を犠牲にすることなく、相互結合性とホーリズムのような曖昧な言葉にもっと解放的な意味を与えるのである。私がこのエッセイの最初で提起していた疑問−−自然とは何か、自然における人間性の場所は何か、自然進化の推進力は何か、自然の世界と社会との関係は何か−−に答えてくれるのだ。同様に重要なことだが、一世紀前にヘーゲルは自然進化を拒絶し、エンゲルスは機械論的進化論に頼っていたが、弁証法的自然主義は生態学思考に進化論的観点を付け加えているのである。弁証法的自然主義は、進化現象を流動的かつ柔軟に認めるが、進化から理性的解釈を剥奪しはしない。最終的に、「生態学化」された−−つまり自然主義的中核を与えられた−−弁証法と現実の真に発展的理解は、生き生きとした生態調和倫理の基盤を提供できるであろう。

弁証法理性の全般的解説は、ヘーゲルの論理に関する著作を読めばよい。ある論理カテゴリーを別なカテゴリーから抽出するときのこじつけ的分析と疑わしい推移はあるものの、ヘーゲルの大論理学は最も綿密で力強い弁証法理性形態なのである。この著作は、現実の性質という際だった見解を持ちながら、アリストテレスの分析学後書が持つ慣例的論理を、この同じギリシャ思想家の形而上学へと併合していた。したがって、私は弁証法の広範にわたる記述が、ヘーゲルが押し進めた詳細にわたる提起に取って代わることができるなどと偽るつもりもなければ、その理論的展開を、思想を解説するときに通常まかり通っている短い「諸定義と諸結論」へとこじつけようとしているわけでもない。ヘーゲル自身がその精神現象学で述べていたように、『なぜなら、事柄は目的のうちではなく、展開過程のうちに汲みつくされるものであり、したがって、結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなすのだから。目的それ自体(「諸定義と諸結論」)は生命のない一般観念であり、一方また、目的をめざす衝動も、いまだ現実性を欠いたたんなる意欲にすぎず、裸の結論は、これまた衝動をぬきさられた屍にすぎないのだ。』(原注3)その結果、ヘーゲルの弁証法は、辞書型の定義の必要性を拒んでいるのである。それは、弁証法理性それ自体の達成という点でのみ理解可能なのだ。丁度、洞察ある心理学が、私たちは、心理学テストと物理的測定の単なる数値結果ではなく、人の全バイオグラフィーを知ったときにのみ、その個人を真に知ることができると主張しているように。

(原注3:ヘーゲル著、精神現象学、長谷川宏訳(作品社、1998年)3ページ)


最低限、世界には秩序があることを前提にしなければならない。この前提は、通常科学でさえもが存在するためには作り出さねばならないことである。また、最低限、成長とプロセスがあり、分化を導いているということを前提にしなければならない。これは押し−引き・重力・電解力などの力から産み出される類の単なる動きではない。最後にまた、最終的には、永続的に増大する分化や全体調和性に向かう何らかの方向性がある、と前提にしなければならない。これは、潜在的可能性がその十全なるアクチュアリティに実現されるためなのである。この方向性を受け入れるために、実在のヒエラルキーにおけるゆるぎない宿命という中世の目的論的概念に戻る必要などない。むしろ、現実世界には全般的に秩序だった発展がある、哲学的言いまわしをすれば、それがそうなるように作られているものになる中で発展が継承されているときに「論理的」発展がある、という事実を指摘すればよい。

アリストテレスの形而上学と同様、ヘーゲルの論理学的著作においても、弁証法は現実性を扱うための優れた「方法」以上のものである。広範囲にわたる発展的因果関係の論理的表現として認識されることによって、論理は、ヘーゲルの著作では、存在論と手を結んでいた。同時に、弁証法は、存在論的因果関係を持った推論方法であり、客観的世界の説明なのである。推論の一形態として、最も基本的な弁証法カテゴリー−−「実存」や「無」のような曖昧なカテゴリーでさえも−−は、もっと十全で、もっと複雑なカテゴリーへとそれ自体の内部論理によって分化される。さらに、それぞれのカテゴリーは潜在的可能性なのである。その潜在的可能性は、その潜在的・暗黙的可能性の探求に向かう推論的思考によって、自己実現という形での論理的表現、つまりヘーゲルが「アクチュアリティ」(Wirklichkeit)と呼んでいるものを産み出すのである。

正に、弁証法は、因果関係システムでもあるため、理性の一形態であると同時に、存在論的で客観的で、故に自然主義的なのである。存在論から見れば、弁証法的因果関係は、単なる動き・力・形態の変化ではなく、発展における事象なのである。実際、全ての存在は生成であるが故に、弁証法的因果関係は、それぞれの新しいアクチュアリティが、次の分化とアクチュアル化に対する潜在的可能性になる中で、潜在的可能性をアクチュアリティへと分化させるのである。弁証法は、プロセスが自然界だけでなく社会でもどのように生じるのかを説明するのである。

可能性を潜在的に持ちつつも比較的分化していない形態である内在が、その潜在的な形態が作られているやり方に対して真である、もっと分化した形態にどのようにしてなるのかは、ヘーゲル自身の言葉の中で明確にされている。ヘーゲルは『植物は、わけもわからず変化して消滅していくものではない。』と書いている。植物は明らかな方向性を持っているのだ−−意識を持った存在の場合には、目的も持っているのである。『一見しては見て取れないときでも、胚種から多くのものが産み出されています。産み出されるもの全体は、発展していないにせよ、未だに隠れていて、それ自体の中に観念的に含まれているのです。』この文章の中で特筆すべきは、「産み出される」可能性のあるものが発展するとは限らない、ということである。例えば、ドングリは、潜在的にそうなるべきもの−−樫の木−−へと発達するのではなく、リスの食べ物となるかもしれないし、コンクリートの歩道で枯れてしまうかもしれないのだ。ヘーゲルは続ける。『こうした存在への射出という原理は、胚種が単に内在のままでとどまることはできず、発展への衝動を持っている、ということです。なぜなら、胚種は、単なる内在状態にあるという矛盾を示しているのですから。』("The principle of this projection into existence is that the germ cannot remain merely implicit," Hegel goes on to observe, "but is impelled towards development, since it presents the contradiction of being only implicit.")(原注4)

(原注4:G.W.F. Hegel, Lectures on the History of Philosophy, vol. 1, trans. E. S. Haldane and Frances H. Simson (New York: Humanities Press, 1955), p. 22. 訳注:この引用箇所について、邦訳書の翻訳では以下の通りになっているが、ここではブクチンが引用している英訳と異なる部分があったため、英訳から日本語訳にしておいた。『植物は、わけもわからず変化して消滅していくものではない。胚種のうちに変化の先行きはふくまれている。胚種をながめても見てとることはできないけれども。胚種は発展しようとする衝動を持っていて、いつまでも潜在状態にとどまることはたえられないのです。潜在状態にとどまりながら、それをよしとしないのが衝動ですが、それは矛盾したものです。その衝動が現実に力を発揮すると、さまざまな変化が現れてくるが、それらはすべて胚種のうちにすでにふくまれていたものです。むろん、発展しない状態で、かくれて観念的に含まれているのですが。』ヘーゲル著、哲学史講義、上巻、長谷川宏訳(河出書房新社、1992)、27ページ)

発展の自己展開を産み出している「内在的」要因と曖昧に呼んでいるものを、ヘーゲル主義弁証法は、単に隠れているだけもしくは不完全なだけという意味での、完成されていない存在が持つ矛盾した性質だと見なしている。全くの潜在的可能性として、いわばそれは「それ自身になって」いるのではない。弁証法的因果関係における事象は、その全体調和性と十全性において、そう「なるべき」ものへと発達するまで−−丁度、誕生に向けて円熟している胎児が、そう作られているようなやり方で生まれようと努力しているように−−緊張の中で、不安定で変化しやすいままなのである。歪んだり、破滅したりすることなく生成するように組織化されたものを持ったまま、終わりのない緊張すなわち「矛盾」に止まることはできはしないのだ。それは、存在の十全性に向かって円熟しなければならないのである。

近代科学は、ほぼ全ての現象を、作用因、すなわち事象に及ぼす運動的インパクトで記述しようとしている。それは、目的因という点での−−特に、「神」自身の「完成」という点でのみ、発展を押し進めていた神性の存在という点での−−中世的因果関係概念に反対してのことである。発展の推進力としての「未完成」−−もっと適切に言えば、「不適切性」もしくは矛盾−−というヘーゲルの概念は、作用因概念も目的因概念をも部分的に超越していた。ここで「部分的に」というのには特別な理由がある。自然主義的観点からすれば、ヘーゲル弁証法を通じて流れている哲学的古語がその立場を貧弱にしているからである。プラトンの時代から近代の始まりまで、完成・無限・永遠という神学概念が哲学思想に浸透していた。プラトンの「観念形相」は、「完成」であり、「永遠」であり、全実在物はコピーだった。アリストテレスの神、特に中世スコラ哲学者によってキリスト教化された神は「完全」神であり、有限の「未完成」で本来限界のあるものだと仮定された全事物が向かう努力目標なのだった。このようにして、超自然的な理想が、自然現象の「未完成」を定義しており、だからこそ、「完成」に向けた努力をするようにそれらを活性化していたのだった。ヘーゲルの矛盾概念には、この疑似神学的思考という要素がある。「絶対者」における弁証法的絶頂という全過程は、その十全性・全体調和性・統一性という点で「完全」だとされているのだ。

弁証法的自然主義は、逆に、有限性と矛盾こそが、明らかに自然なのだと認識している。それは、事象はその発展において不完全でアクチュアルされていないという意味でであって、観念主義や超自然的な意味での「未完成」などではない。それらが生成すべきものに生成するまで、動的な緊張の中に存在しているのである。したがって、弁証法的自然主義の観点は、有限の事象はプラトン的観念やスコラ哲学的神に近づくことができないといった前提とは何の関わりもない。むしろ、有限の事象は、常に生成的、もっと俗な言い方をすれば、発達的なプロセスにあるのだ。従って、弁証法的自然主義は、宇宙的発展行路の終点をヘーゲル派の絶対者に終えるのではなく、永遠に増大する全体調和性・十全性・分化と主観の芳醇性というヴィジョンを推し進めているのである。

弁証法的矛盾が事象の構造内に存在するのは、そう「あるべき」ものとの関係における、不完全で不適切で内在的で未達成な形式的配列(formal arrangement)のためである。自然主義的枠組みは、機械論的傾向をもつ作用因に私たちを限定しない。ほとんど磁気的に誘発される発展を説明するために、有神論的「完全性」に頼る必要もない。弁証法的因果関係はすばらしく有機的なのだ。その関係は発展−−事象の形態レベル・形態が組織される方法・その形式的総体が生み出す緊張つまり「矛盾」・新陳代謝である自己保持と自己発展−−の中で作用するからなのだ。多分、この種の発達について最もぴったりくる言葉は、成長であろう。単なる加速度的増大ではなく、段階的で次第に分化していく有機的自己形成という真に内在的なプロセスによる成長だ。

弁証法的因果関係からは、はっきりした連続体が生じる。ここでは、原因と結果は、単に共存する現象つまり、一般的実証主義者の言葉を使えば「相関」などではない。原因が外的に事象に対して影響し、機械的にある結果が生み出されるといったようなお互いを明確に区別できるようなものでもない。弁証法的因果関係は、累積的なのだ。内在、つまり、ヘーゲルの言葉を使えば「即自」(an sich)は、もっと発展した顕在、つまり「対自」(fur sich)によって単純に置き換えられたり、否定されたりするものではなく、むしろ、顕在に吸収され、顕在を越えて、さらに十全で、もっと分化し、もっと適切な形態へと発展するのである。ヘーゲル派の言葉では「即自対自」(an und fur sich)である。内在が、そうなるものに成ることで、十全に実現される限り、このプロセスは真に理性的、つまり、その内的論理という点で完成されているのである。発展の連続体は、累積的であり、その発展の歴史を含んでいるのだ。


現実は、単に私たちが経験していることだけではない。理性がそれ自体の現実性を持っているということでもあるのだ。従って、非理性的な現実が存在し、実現していない理性的現実が存在する。人間の幸福と進歩に対する潜在的可能性を実現できていない社会は、それが存在しているという意味では充分「現実的」だが、それは真に社会的ではない。それが持続している限り、そうした社会は不完全で、歪んでおり、従って非理性的なのだ。そうした社会は社会的にあるべき姿などではない。丁度、大きな欠損を持った動物が生物学的にそうなるべきものにはなっていないのと同じである。実存的な意味では「現実的」なのだが、その潜在的可能性という点では未完成であり、したがって「非現実」なのである。

弁証法的自然主義は、未完成で未熟で非理性的な「現在ある姿」と、完全で十全に発達し理性的な「そうあるべき姿」とのどちらが真に実在的なのかを問う。理性は、弁証法的因果だけでなく弁証法的論理の形でも投げかけられ、現実の非慣例的理解を生み出す。論理的アクチュアリティへの内在的自己発達に従うプロセスは、未発達に終わったり、歪められたりする「現在の姿」、つまりヘーゲル派の言葉を使えば、可能性に対して「不実な」現在の姿よりも、もっと適切に「現実的」なのである。理性はあらゆる社会発展に潜んでいる潜在的可能性を探求し、新しくもっと理性的な社会制度を通じた本物の実現・達成・「真実」を推論する義務があるのだ。

その潜在的可能性から論理的に生じる「そうあるべき姿」に照らし合わせて考慮することなく、事象の「現在の姿」が「現実」を作り出しているものだと捕えることは哲学的に浅はかであろう。通常、私たちが実践においてそのように行うこともない。私たちは個人をその既知の潜在的可能性という点で正しく評価し、その個人が真に自分自身を「完成」させてきたかどうかについて理解可能な判断を作り出している。実際、私生活で、個々人はこうした自己評価を繰り返し行っており、それが自身の行動・創造性・自尊心に重大な影響を与えていることもできるのだ。

厳密に実存的だと考えられている「現在の姿」は、当てにならない「現実」なのである。その資格もないのに経験的に受け入れられることで、この「現実」は過去を排斥する。厳密に言えば、過去はもはや「現在」ではないからだ。同時に、「現実」は未来との不連続性をも生み出す。ここでもまた厳密に言えば、それはいまだに「存在」していないからだ。もっと言えば、厳密な経験主義的言葉で知覚されている「現在の姿」は、主観性−−明らかに概念的な思考−−を、世界の傍観者的役割以外のいかなる役割からも排斥しているのだ。これが行動における「力」となるかどうかは定かではないが。

厳密な経験論哲学の論理では、精神は経験を単に記録したり、調整したりするだけである。「現実」は、見せかけの連続体の中で経験された部分部分として存在する一定の一時的瞬間なのだ。「現実」は凍りづけられた「今ここで」なのであり、「現実」に対して、私たちは偶然に生じた過去に付け加え、現実性を明瞭に経験するために未来を仮定しているだけのことなのだ。デヴィッド=ヒュームによって推し進められた徹底的経験論の類は、生成としての実在という概念をある瞬間の経験と置き換え、過去について考えることを未来について推論することと同じぐらい「非現実的」なものにせしめていた。この種の「現実」は、ヒューム自身が十全に理解していたように、日常生活の中で耐えることなどできはしない。そこで、ヒュームは連続性を定義しなければならなくなったのだ。ただし、彼は、因果関係という点ではなく、習慣や習性という点で定義したのだった。即時的で経験論的現実を「現実」の全体だと見なすことは、本質的に後知恵と先見の明とを追放してしまう。単なる利便性と何ら変わりはないのだ。確かに、厳密に経験論的なアプローチは、過去の持つ有機的で累積的な連続性を現在と統合し、未来のそれを現在・過去と統合する論理組織を消滅させているのである。

逆に、自然主義的弁証法では、過去と現在双方が、現在を含めた累積的で論理的で客観的な連続体の一部である。理性は、現実を分析し解釈する手段だというだけではない。即時的に経験された現在を越えて現実性の境界を拡張するのである。過去・現在・未来は、累積的に段階を持ったプロセスなのであり、そのプロセスを真に解釈し意味あるものとすることができるのは思考なのだ。私たちは、その潜在的可能性が実現されているか、未発達に終わっているか、歪められているかという点でそうしたプロセスを正当に探求することができるのである。

そこで、自然主義的弁証法では、現実性という言葉は二つの全く異なる意味を持つ。必ずしも潜在的可能性の達成ではない即時的現前的経験的な「現実性」−−すなわち、ヘーゲルの言葉を使えば、Realitat−−があり、また、理性的プロセスの完全なる達成である弁証法的「アクチュアリティ」−−Wirklichkeit−−がある。Wirklichkeitが未だに実存的に実現していない未来への思想の投影として出現しているとしても、Wirklichkeitが発展することから生じる潜在的可能性は、直接的で即時的な通常経験の中で私たちが感じている世界と同じぐらい実存的なのである。例えば、卵は、それが含んでいる潜在的可能性である鳥が未だに発達しておらず、成熟に到っていないとしても、存在している。全く同じように、あらゆるプロセスに一定の潜在的可能性は存在し、実現されるべきプロセスの基盤となっているのである。したがって、潜在的可能性は経験論の観点からさえも客観的に確実に存在しているのだ。Wirklichkeitは、弁証法的自然主義が客観的に与えられた潜在的可能性から推論するものである。それは、内在的にだけであったとしても、実存的事実として存在し、弁証法理性が分析でき、過程推論の対象となるのである。思弁的理性が持つもっとも主観的な投影だと思われることにさえも、Wirklichkeit、つまり、「そうあるべき姿」は、客観的な潜在的可能性から生じる連続体、つまり、「現在の姿」に根をおろしているのである。

したがって、弁証法的自然主義は、客観的世界−−存在が生成となっている世界−−と完全に結びついているのだ。ここで強調しておきたいが、弁証法的自然主義は現実性を実存的に展開している連続体として把握しているだけでなく、倫理的判断を行う客観的枠組みをも形成しているのだ。「そうあるべき姿」が、真実つまり客観的「現実の姿」の妥当性を判断する倫理的基準になっているのである。したがって、倫理は単なる個人的好みや価値観の問題なのではなく、自己実現の客観的基準としての世界それ自体に事実上根ざしているのである。社会が「良い」か「悪い」か、例えば道徳的か不道徳的かといったことは、社会が合理性と道徳性に対するその潜在的可能性を達成してきたかどうかによって客観的に決定できる。それ自体で弁証法的連続体の実現である潜在的可能性は、単に、精神という私的な部分だけでなく、過程的世界という現実の中で、倫理的自己達成という挑戦を提示しているのである。ここに、真に倫理的社会主義つまりアナキズムの唯一意味ある基盤が存しているのだ。これは、意見と嗜好に依存する一群の主観的「好み」以上のものなのである。

Wirklichkeitという概念と、それがRealitatよりも適切であるという主張に挑戦することで、弁証法理性の妥当性が疑問視されても当然である。実際、私は、よく次のように問われるものだ。『あなたが「歪められ」、真実ではない、もしくは「不適切な」現実と呼んでいるものが、潜在的可能性の本物の実現であるご自慢の「アクチュアリティ」ではない、などとどうやって分かるのですか?』『あなたは、何が「真実ではない」とか「不適切だ」ということについて私的な道徳判断を行い、「真実」や「適切」に関する自分の私的概念を支持していない即時的事実の重要性を無視してはいませんか?』

この疑問は、分析的論理が使っている純粋に慣例的な妥当性諸概念に基づいたものだ。「即時的事実」−−もっと話し言葉的に言えば、「残酷な事実」−−は、慣例的理性がそれ自体を制限している経験論的現実と同じぐらい当てにならないものだ。まず第一に、あるプロセスの妥当性を、固定性に基づいた哲学の認識論的産物である「残忍な事実」に対して「テストする」ことで決定することは無意味である。同一性原理、AはAである、が前提としている論理は、AはAであり非Aでもある、という原理が前提としている論理の妥当性をテストするために使うことなどできはしない。これら二つは、単純に同じ単位で計ることなど不可能なのである。分析的論理にとって、弁証法論理の諸前提はナンセンスである。弁証法論理にとって、分析的論理の諸前提は、防御設備に囲まれた普遍の論理的「原子」に事実性を硬化させているのである。弁証法理性では、「残酷な事実」は、現実の歪みである。なぜなら、存在は固定した実体と現象の塊などではなく、いつも流動的で、生成状態にあるからだ。弁証法理性の原理的目的の一つは、生成の性質を説明することなのであって、単に、固定された存在を探求することではない。

したがって、「残酷な事実」からではなく発展プロセスから導き出された概念の妥当性は、その発展的プロセスを、特に、プロセスが出現する根本である潜在的可能性の構造と、その潜在的可能性から推論されうる論理を、吟味することでのみ「テスト」されねばならないのである。慣例的理性と経験から導き出される諸結論の妥当性は、固定された「残酷な事実」によって確かにテストすることができる。例えば、構造的エンジニアリングの莫大な成功などその良い例だ。しかし、「残酷な事実」を使って、潜在的可能性とその内部論理を弁証法的に探求することから導き出されるアクチュアリティの妥当性を検証しようとするなど、胎児の出現を分析するために、橋のデザインと建築構造を分析するのと同じやり方を使うようなものだ。真の発展的プロセスは、プロセスの論理を使ってテストされねばならないのであって、データと固定した現象に基づく分析的な「残酷な事実」の論理を使ってではない。


ここまで、弁証法理性の評価において自然主義という言葉を強調してきた。これは、弁証法を、その観念主義的・唯物論的解釈から区別するためだけでなく、もっと重要なことに、弁証法が自然の解釈と自然界における人間の場所をどのようにして芳醇にしてくれるのかを示すためでもあった。これらの目的を達成するために、連続体としてだけでなく、数多くの段階における発展的現実という永続的見解としての弁証法理性の全般的一貫性を強調しなければならないと思われる。

弁証法的自然主義を使って事象を適切に説明しようとする場合、単なる運動と相互結合性以上に、その存在論と諸前提を理解しなければならない。連続体は、現象の運動や相互依存性以上に、弁証法理性と関連した前提である。弁証法の前提を、物質と運動(ここから発展が何らかの形で出現すると処理されていた)という19世紀物理学に基づかせたのは、「弁証法的唯物論」の誤りの一つであった。丁度、分化と潜在的可能性の実現に含まれるエンテレケイア的プロセスを、「相互結合性」と置き換えた程度だったのだろう。「相互結合性」という概念に単純に基づいた弁証法は、推論的というよりも記述的になる傾向があり、相互依存がどのようにして段階的エンテレケイア的発展−−つまり、潜在的可能性の自己実現を通した自己形成−−を導くのか、を明確に説明することなどできないだろう。

バイソンと狼は互いに「依存」しあっている(一見すると「敵対者の同盟」的に)とか、「岩のように考える」−−神秘的エコロジーから拝借してきたヴィジョンだ−−などと主張することは、無機的な鉱物世界でのより大きな「結合性」をもたらしてくれるかもしれないが、何の説明もしてはくれない。しかし、バイソンと狼が進化の道程において共通の哺乳類祖先からどのように分化してきたか、とか、有機的世界がどのようにして無機的世界から出現したのかを研究することは、数多くのことを説明してくれる。後者の場合、私たちはどのようにして発展が生じ、どのようにして分化が一定の潜在的可能性から生じ、こうした発展はどの方向へ向かっているのかについて何がしかのことを学ぶことができる。同時に、弁証法的発達は累積的、つまり、それぞれの分化レベルは以前のレベルに基づいている、ということを学ぶのである。一定レベルに直接突入する発展もあれば、それに近づいているものもあり、未だに全く遠くにあるものもある。古いものが完全に消えうせてしまうことなどなく、何らかの新しいものへと再作用しているのである。例えば、化石が示しているように、哺乳類の毛と鳥類の羽毛は、爬虫類の鱗が後に分化したものであり、全動物の顎は、えらが後に分化したものなのである。

エコロジー運動に蔓延している非弁証法的思考は、通常、「アメリカスギが人間に匹敵するほどの意識を持っているとすれば、どうなのだろう?」という疑問を生む。弁証法的連続体に何ら根を持たない乱雑な「〜ならどうだろう」を使って弁証法理性に挑戦するなど馬鹿げている。すべての明確な「もし」は、それ自体で、発展の産物として説明できる潜在的可能性でなければならない。発展的連続体に根を持たず、孤立して漂っている仮説的「もし」は、馬鹿げているのだ。ドニ=ディドロの悪漢者の対話である運命論者ジャックとその主人の素晴らしい登場人物ジャックは、その主人がランダムな仮定疑問を使って彼を懲らしめたとき、次のように叫んだのだ。「もし、もし、もし、.....もし海が沸騰したら、さぞかしすごい数の煮魚ができることだろうさ!」

弁証法理性が研究している連続体は、高度に段階づけられ、芳醇にエンテレケイア的で、論理的に推論され、自己方向的なプロセスなのだ。このプロセスは、特定の発展範囲の中でそれぞれの潜在的可能性が十全に実現される限り、永久に拡充する分化・全体調和性・適切性に向かう展開なのである。外的要因・内的再配列・偶然・大規模な非合理性さえも、潜在的発展を歪めたり、阻害したりし得る。だが、現実の中に秩序が存在し、それが精神によって現実に押し付けられたものでない限り、現実は理性的次元を持っているのだ。もっと話し言葉的に言えば、現象の発展には「論理」が存在するのである。有機性に向かう内在的能力の結果として無機的なものが有機的になったという事実を説明し、高度に発展したホルモン系と神経系を作り出した潜在的可能性の結果として、有機体がもっと分化し、新陳代謝という点で自己維持的・自己意識的になったという事実を説明する一般的方向性が存在するのだ。

スティーブン=ジェイ=グールド(「ワンダフル=ライフ」・「パンダの親指」・「ダーウィン以来」(全て早川文庫)の著者で、生物学・進化学者)は自然のランダムさ−−実際には多産性−−を楽しんでいるかもしれないし、ポスト構造主義者は自然進化と社会進化双方を無関係な出来事の集合体へと解消しようとしているかもしれない。だが、有機的進化の方向性は、こうした「残忍な事実」の無秩序な集合にさえも、絶え間なく浮上しているのである。好むと好まざるとに関わらず、人類・類人猿・哺乳類・脊椎動物・もっとも原初的な原生生物にいたるまで、化石の記録それ自体の中で系列を示しているのである。それぞれが先行する生命形態から生じているのだ。グールドが主張しているように、ブリティッシュコロンビア州のバージェス頁岩は様々な種類の化石を示しており、化石を直線的な「存在の連鎖」に分類することなど不可能である。だが、バージェス頁岩は、より大きな主体性に向かう進化の方向性の存在に異議を唱えているのではない。むしろ、自然の多産性の優れた証拠を提示しているのである。自然の多産性は、機会(chance)の存在に、実に多様性の存在に、依存しているのだ。それは、有機体と生態系の複雑さ(本書にあるエッセイ「自然における自由と必然」で論じているように)の前提条件であり、その多産性のために、それは主観性の増大といった様々な潜在的可能性から人間性が出現する前提条件なのである。

だが、弁証法的自然主義の認識論的・推論的前提は、私が既に書いてきたような段階的連続体である。バージェス頁岩は言うに及ばず、明らかに人間も連続体に含まれている。それだけでなく、私たち人間の進化も説明されうるのである。弁証法理性は、自然界に関する慣例的思考方法とも自然界の神秘的解釈との性質とも異なっている。自然は、先行するものと後続するものから切り離されて、ガラス窓ごしに眺める単なる風景ではないし、そびえ立った山の頂上からの展望でもない(本書に収められている「生態学的に考える」というエッセイで私が指摘しているように)。自然は確かにそうしたこと全てでもあるが、全く持ってそれ以上のものなのだ。生物学的自然は結局のところ、活気に満ち相互作用的な無機的世界と共に、永続的に分化し、次第に複雑になっていく生命の累積的進化なのである。少なくともキケロまで遡れる伝統にしたがって、この比較的無意識の自然発展を「第一自然」と呼ぶことができる。それは、哺乳類・霊長類・人間−−他の生命形態が持つ莫大な多産性は言うまでもなく−−まで明らかに到達している化石記録という第一義的な意味で第一自然なのである。そして、第一自然は、より複雑で自己意識的、つまり主体的な生命形態に向かう潜在的可能性をアクチュアルにする中で、高度に秩序だった連続性を示しているのである。この連続性が明確である限り、その結果という点で意味も合理性も持っているのである。次第に象徴的な言葉で互いに概念化しあい、理解しあい、コミュニケーションをとることができる生命形態が入念に形成されたのである。

最も分化し十全に発展した生命形態では、こうした自己思索・コミュニケーション能力とは概念的思考と言語である。人間種は既存生命形態の中でも先例のないほどこうした能力を持っている。人間性の自己意識、この意識を哲学・科学・倫理学・美学という形で高次な体系的理解レベルへと一般化する能力、そして最後に、知識とテクノロジーという手段を使って体系的に自分自身とその環境を変容する能力は、第一自然に存在する主観性の領域を超越した場所に人間をおいているのだ。

人間性は第一自然の全領域を意識的に変えることができる唯一無二の生命形態だと指摘したからといって、「人間中心主義」に批判的なエコロジストが時折非難しているように、第一自然が人間によって「搾取」されるべく「作られて」いるなどと主張しているわけではない。作られた世界という考えは、神学に起源を持っている。特に、人間の欲望のため、超自然的存在が自然界を創造し、進化は有神論原理で鼓舞されているといった信念にである。同じ理由で、人間が、自然に対して仮定された「ヒエラルキー」において「指揮する」立場にいるから、自然を「搾取」するなど不可能なのである。指揮・搾取・ヒエラルキーといった言葉は実際には社会的言葉なのであり、人々がお互いに関係するやり方を記述しているのである。それを自然界に適用するなど、単に人間中心主義的なのだ。

弁証法的自然主義の観点からもっと遥かに関係していることは、人間性が持つ第一自然を変える莫大な能力は、それ自体で自然進化−−神や宇宙精神の具現化ではなく−−の産物なのだという事実である。進化論の観点からは、人間は無類の効果性を持って能動的・意識的・目的的に第一自然に介入し、惑星規模で第一自然を変容させるように作られている。この能力を汚すことは、有機的複雑さと主観性に向かう自然進化それ自体の推進力−−自己意識的知性にそれ自体を実現する第一自然の潜在的可能性−−を無視することなのだ。この推進力について、宇宙神の産物として容赦なく確実に前々から決定されていたのだと論じることも、厳密に言って単なる偶然であると主張することも、(私のように)第一自然には、事物のまさにその相互作用から現れる、より大きな複雑さと主観性に向かう自然の傾向が、実際、自己意識に向かう衝動があると主張することもできよう。だが、ここで明らかなことは、第一自然に意識的に介入しそれに影響を与えるという人間性が持つ自然の能力は、「第二自然」、今日第一自然をほぼ吸収してしまっている文化的・社会的・政治的「自然」を生じさせた、ということなのだ。

人間の活動に深く影響を受けていない領域など世界のどこにもない。南極大陸の遠く離れた人が近づけないほどの場所であれ、深海に潜む峡谷であれ。原生領域でさえも、人間の介入による保護を必要としているのだ。今日、原生地帯だとみなされている場所の多くが、既に、人間の活動によって深く影響を与えられているのである。実際、原生地帯はそれを保全しようと人間が決定した結果、存在していると言うことも出来るのだ。今日存在している人間以外の生命形態のほとんど全てが、好むと好まざるとに関わらず、ある程度まで人間の保護下にある。そして、その野生の生活様式が保持されているかどうかは、人間の態度と行動に大きく依存しているのだ。

第二自然は、第一自然の進化の結果であり、したがって、自然だと見なすことができるからといって、第二自然が必ず創造的だとか、あらゆる進化論的意味合いで十全に自己意識を持っているなどということは意味してはいない。第二自然は人間内部の自然や社会と同義である。どちらも良かれ悪しかれ進化を経験しつつあるのである。社会進化は有機的進化に基づいている−−実際、段階的に有機的進化を脱している−−が、有機的進化とは根本的に異なっている。意識・意思・変更可能な諸制度・経済諸力と技術の操作は、有機的世界を促すために行使されるかもしれないし、破滅を導くことになるかもしれない。既存の第二自然は怪物的な特質、特にヒエラルキー・階級・国家・私有財産・競争的市場経済を特徴として持っている。それは、経済的敵対者同士を、相手を犠牲にして成長するか、自分が破滅するかのどちらかに強いているのである。この倫理的判断は、私たちが、有機的進化にはより大きな主観性・意識性・自己再帰性(self-reflexivity)に向かう潜在的可能性と自己方向性があると仮定しているときにのみ、そして、推論によって、最も意識的な生命形態−−人間−−の責任は、口のきけない自然の「声」になり、有機的進化を知的に促すように行動することだ、と仮定したときにのみ、意味を持っているのだと言えよう。

有機的進化におけるこの傾向や努力を無視するのであれば、人間種は、他の種と同様、自身の欲望のためにその能力を使うべきではなく、その関心と願望を妨げる他の生命を犠牲にして自身の「自己実現」を得ようとしてはならない、という根拠が無くなる。有機的自然を「搾取して」おり、「堕落させて」おり、「乱用している」として人間性を非難することは、単に、第二自然が、第一自然の領域には存在しない道徳的責任の運搬者であるということを認める遠まわしのやり方でしかない。全生命が尊重されるべき「内在価値」を持っているとするなら、それは人間の知性・道徳・審美的能力−−他の生物は持っていない能力だ−−がそれを他の生物に対して付与しているからに他ならない。「内在価値」などという概念を形成し、倫理的責任をそれに賦与することができるのは人間だけだ。人間の持つ「内在価値」は専売的に例外的な、事実、ものすごいものなのだ。

強調しておかねばなるまい。実際、第二自然は、全体としての自然からすれば未完成で、全く不適切なものなのだ。ヘーゲルは人間の歴史を屠殺台だと見なしていた。ヒエラルキー・階級・国家などは、自己意識的に創造的な自然としてアクチュアルになる潜在的可能性が達成されていないという証拠−−決して、純然たる偶然の痕跡などではない−−なのだ。既存の人間性は、自己意識的になった自然ではない。生態圏の未来は、第二自然が社会・自然の調停をする新しいシステム、私が「自由自然」と呼んでいるものへと超越できるかどうかに圧倒的にかかっているのだ。それは第一自然にも第二自然にも存在している苦痛と苦悩を減少する自然なのだ。自由自然は、その結果、意識的で倫理的な自然、生態調和社会になるだろう。これについて、私は拙著「生態調和社会に向けて」において詳しく探求し、「自由の生態学」と「エコロジーと社会」の最終章において探求している。


20世紀終わりの25年間で、理性が直感主義へと、自然主義が超自然主義へと、リアリズムが神秘主義へと、人道主義が地方根性へと、社会理論が心理学へと恐ろしいほど回帰している様が目撃されている。明晰な諸概念がメタファーに置き換えられ、人道的理想主義が私利私欲に置き換えられていることがあまりにも多すぎる。人口が増えていく中で、人々は、見解それ自体の理性的内容よりも、表明された見解の根底にあると見なされる動機を見つけ出すことにかかずらうようになってきた。考えをはっきりさせるために必要な論争は、「調停」に道を譲ってきた。特に、本物の知性的違いを格下げし、全ての論者が共通点を持っていると仮定される最小限の、多くの場合陳腐なレベルにまで社会への関心を破壊しているのである。したがって、真の違いは、創造的統合でも、明確で開放的な分岐でもなく、最低レベルの対話で表面をとり繕われてしまうのだ。

あたかも人間の「内在価値」が例えば蚊の「内在価値」と等価であるかのように、「生命中心主義」・「内在価値」・もっと隠喩的になると「生命中心的民主主義」(神秘的エコロジーの嘆かわしい言葉を使えば)を軽薄にも主張すること−−それでいて、お次には生命界に対して道義的責任を持つように人間に要求すること−−は、意義ある生態調和倫理という全事業を堕落させることなのだ。本書の中で私は、自然は確かに倫理的意味−−客観的に基盤を持った倫理的意味−−を獲得できると主張している。私事本位主義的で恣意的なことも多い無定形の価値観よりもむしろ、この倫理的意味には、拡充された現実的観点・自然進化に関する弁証法的観点・自然進化における人間性と社会の明確な−−だがヒエラルキー的では決してない−−場所を含んでいるのである。社会を生態系から引きはがすことなどできず、同様に人間性も自然から分離することなどできはしない。「生命中心主義」を「人間中心主義」と対比させることで自然と社会を二元論化している神秘的エコロジストは、生態調和思考の形成における社会理論の重要性を次第に減少させてきた。政治行動と教育が、個人の救済・儀式的行動・人間意思の酷評・人間的非合理性の賛美という価値観に譲歩している。人格それ自体ではないにせよ、人間のエゴが均質化と権威主義的操作によって脅かされている時代に、神秘的エコロジーは自己抹消・受動性・「自然法」への服従というメッセージを推し進めてきた。これらは、人間の活動と実践の要求よりも至上のものだと見なされているのだ。哲学は、理性・行動・社会的関心に対する茫漠たる嫌悪との断絶を発展させなければならないのである。

私は本書を「社会生態学の哲学」と題した。なぜなら、弁証法的自然主義は社会生態学の最も根本的メッセージの土台を形成していると信じているからだ。そのメッセージとは、私たちの根本的生態系諸問題は、社会的諸問題から派生している、というものだ。読者が本書を社会生態学に関する私の著作への導入手段として使ってほしいと心から願っている。社会生態学は、私の著作が提起している諸問題と提示している諸解決策を案出する有機的方法を備えている。実際、「生態学的に考える」ことが社会と将来像に対する哲学・倫理からの直接の移行を作り出すのである。生態系諸問題と生態調和思想に関する数十年に渡る思索が教えてくれたのだが、哲学、特に弁証法的自然主義は、社会理論と生態系諸問題の理解を妨げはしないのだ。逆に、一貫した全体へとそれらを統合する手段を提供してくれ、この全体をもっと肥沃で革新的な方向へと拡充する枠組みを作り出しているのである。−−1989年12月31日。

付記

この論文は、「社会生態学の哲学:弁証法的自然主義エッセイ集」、改定第二版(Montreal: Black Rose Books, 1995)のイントロダクションである。