メンバーの小屋

森川小屋

潜在的可能性の哲学


この文章は、ブクチンの哲学的自然主義を雑誌に載せるにあたって書いた序文である。引用は『』内で示してあるが、文献を示していないものはブクチンの本文からの引用である。(2002年6月29日)


まえがき

 本論文、「哲学的自然主義」を読むに当たって、多少なりともアナキズムを知っている人や、いわゆる「左翼」と呼ばれているもの一般(もちろん、これはブクチンが定義する「左翼」とは異なっているが)に愛想を尽かしている人ならば、論文の中で「弁証法」という言葉が一つのキーワードとして現れているのに拒否感を持つことと思う。一般に、「弁証法」と呼ばれるものは、必ずといってよいほどマルクス主義と共に示される。ヘーゲルから始まりマルクスが定式化した正・反・合という「歴史の一般法則」なるものによって国家やプロレタリアート独裁の正当性が示されるとなれば、これを拒否したくなるのも当然であろう。唯物弁証法を基礎にした「科学的社会主義」など何が科学的なのかよく分からないし、いわばマルクス主義が行ってきた自己正当化の総本山のように捉えられても当然だと思う。実際、クロポトキンは、次のように述べて弁証法を排撃し、自然科学の方法である帰納法を、未来社会を予見するときのアナキズムの方法である、と述べている。『われわれは、最近、社会民主主義者たちが、社会主義的理想を構成するうえで推奨する弁証法的方法なるものについて、多弁を弄するのを耳にする。しかしわれわれは、どの自然科学によっても、これが承認されないように、この方法を承認するものではない。今日の自然科学者にとって、この「弁証法的方法」なるものは、ずっと前に過ぎ去って死滅したもの、幸いなことに科学によってつとに忘れ去られたものを想起させるのだ。』(「近代科学とアナーキズム」、1912年、日本語訳は、猪木正道・勝田吉太郎編「世界の名著53 プルードン・バクーニン・クロポトキン」、中央公論社、1980年、482ページ)僕もブクチンを読み始めて、弁証法という言葉にずっと違和感を持っていた。

 弁証法は分けが分からない。ヘーゲル自身の本を読もうとしてみたが、難解で、最後まで通読できていない。長谷川宏さんの解説本(「新しいヘーゲル」)やフォービギナーズの「ヘーゲル」を読んでみたが、ぼんやりとした全体像はつかめるものの、どういう「法」なのかさっぱり分からない。というわけで、読めば読むほど分からなくなってきた。仕方がないので、ブクチンを翻訳しながら、ブクチンの弁証法にそって弁証法を何とか理解しようとしてみた次第である。こんな分からない人間が分からないなりに解説しようと言うのだから、とんでもない誤謬を犯している可能性もある。詳しくご存じの方は是非分かりやすくご教授していただきたい。

 分からないなりに解説しようとすれば、分かっていることから入るのが一番分かりやすいだろう。ヘーゲルの弁証法は多大なる影響を与えたし、現在も与え続けている。キルケゴール・ニーチェ・様々なポストモダニストに与えた影響も大きいが、これらの思想はヘーゲルの理性主義を攻撃し、非理性的側面を強調しており(長谷川宏著、「新しいヘーゲル」、講談社新書を参照)、根底となる前提そのものが全く異なると思われるため、弁証法と対比しながら提示したところで、双方を十全に理解していない限り意味がないだろうし、前提がかみ合わないのだからますます混乱すると思われる。実際、ブクチンは、様々な論文(特に、「The Philosophy of Social Ecology」に収録されている「History, Civilization, and Progress: Outline for a Criticism of Modern Relativism」や、著書「Reenchating Humanty」)でポストモダニズムを攻撃しているが、その議論がなかなか噛み合わないのも、そうした根本的違いによるのであろう。したがって、ここでは、あくまでも、我々が現在漠然と「理性」として見なし、時として攻撃している自然科学の論理(ブクチンは慣例的理性と呼んでいるため、ここでは総称的に慣例的理性と呼ぶ)を考察し、その後にブクチンが重きを置いている弁証法理性について慣例的理性と対比しながら考察してみようと思う。

慣例的理性(自然科学の諸前提)

 慣例的理性の特徴については、プラグマティズムの創始者、チャールズ=S=パースの「探求の方法」(1877年、日本語訳は、上山春平編集「世界の名著59 パース・ジェームズ・デューイ」、1980年、53ページ〜75ページ)という論文が分かりやすいと思う。パースは、論理学の目的は信念の確定である、として、その信念の確定方法を四つに分けている:固執の方法・権威の方法・先天的方法・科学の方法である。

 固執の方法は、『ある問題にたいする解答として気に入ったものをとりあげ、それをたえず心にくりかえし、その信念を強めるたすけになりそうなものはすべて強調し、その信念の妨げとなるものには侮蔑と憎悪を持って背を向けることによって、望ましい目的を達するという方法』(前掲書、63ページ)である。だが、この方法では社会的な場で通用しないことが多く、『他人が自分とちがった考えを持つことに気づくようになるだろうし、気分の冷静なときには、他人の考えが自分の考えに劣らずよい考えだと思うようになりやすい。そうしたとき、「固執の方法」によってつくられた自己中心的な信念にたいする信頼がゆらぐだろう。(中略)そうだとすれば、問題はこうなる。個人の心のなかだけで信念を作るのではなく、社会の場で信念をつくりあげるにはどうすればよいか。』(前掲書、65ページ)

 そこで、権威の方法である。この方法は、国家の意志が働らくような機関を使い、『国家意志の実現のために国民の面前で正しい公認のイデオロギーを守り、それをたえずくりかえして説き、それを青年に教え込まねばならない。なお、その機関は、公認のイデオロギーに反対する説が教えられたり、支持されたり、発表されたりすることを阻止する権力を与えられていなければならない。こうして、考えを変える原因になりそうなものをすべて考慮の埒外に追いやり、国民が現行の考えとは異なった考えをいだく理由を教わることのないように、かれらを無知にしておく。そうしたうえで、公認のイデオロギーに反対する者に脅迫を加え、沈黙せしめる。また、国民がこうした反逆者を追放し、私刑を加えるようにし向ける。』(前掲書、65ページ〜66ページ)ここでの国家は、宗教団体など他の権威主義団体に置き換えて読んでもらって構わない。本書を読んでいる人ならば、このような方法を承認するわけには行くまい。また、個々人全員の生活全面に対する権力統制が不可能である以上、必ず、権力統制に疑問を持つ個人は生じてくる。したがって、このような方法が信念を確定させることなどなく、逆に疑念を生み出すことは必至である。

 ある信念に固執したり、他人に無理に押しつけたりすることは止めるべきであるとするならば、新しい信念確定の方法を採用することになる。『それは信じようとする衝動を生みだすばかりでなく、いかなる主義主張が信じるに値するかを決定する方法であるだろう。わたしたちのもって生まれた好みをなんの束縛もなくおもむくがままに放任し、その好みの影響のもとに、人々がたがいに話し合ったり、さまざまな視点からものごとを考察したりしながら、各人の信念を自然の道にさからわずに徐々に発展させるように仕向ける。』(前掲書、68ページ)これが先天的方法であり、パースはデカルト・カント・ヘーゲルなどの形而上学はこの方法に分類している。だが、ヘーゲル哲学をこの方法に分類することが正しいかどうかは議論の余地があり、後で見るようにブクチンは弁証法を『「方法」として語ることは弁証法のその正なる意味を歪めてしまうことになる』(「Thinking Ecologically」、「The Philosophy of Social Ecology」に収録、129ページ)と述べている。この点については後に論じることとして、パースによれば、こうした先天的方法もやはり欠陥を持っている。『この方法が学問的研究というものを好み(趣味)の発展に似たものと見る点にある。だが、好み(趣味)というものはつねに流行に左右されやすいものであるから、この方法を採る形而上学者たちは断固とした意見の一致に到達したことがなく、古来、唯物論と観念論のあいだを左右に揺れ動く振り子のような状態をつづけてきた。(中略)わたしたちは、さきに、この「先天的方法」を、わたしたちの意見から偶然的要素や気まぐれの要素を取り除いてくれるものとして検討してきたが、この方法が前提としている好みの発展というものは、ある種の偶然的事情から生じた結果をとりのぞくけれども、そのかわりに他の種類の偶然的事情にもとづく結果を拡大する。したがって、この方法は、本質的には「権威の方法」と異ならない。』(前掲書、69ページ)

 そこで新しい方法が必要となる。この方法は、『信念を、人間的なものによってではなく、人間の外の永遠なもの、つまり人間の思考によって左右されないものによって決定する』(前掲書、70ページ)のである。神秘主義者も霊感という言葉を使ってそれが科学の方法だと言うかも知れないが、霊感は「固執の方法」の一形態であり、それは、『真理というものを公的なものと見る考え方がまだ熟していないからである。(中略)「外的に永遠なもの」は、すべての人に作用をおよぼすものでなければならない。その作用は、作用を受ける個人の側の条件に応じて、当然、種々相を示すが、新しい方法においては、すべての人の究極の結論が同じものにならねばならない。』(前掲書、70ページ)これが「科学の方法」と呼ばれる。

 現代の思考方法は、大部分、この「科学の方法」である。あらゆる結論は事実によって証明されねばならないのである。従って、「科学の方法」には必ずと言っていいほど実験が伴われる。実験は大まかに次のような手続きで行われる:
(1)実験者が対象とする独立変数(実験において操作される変数)と従属変数(独立変数の操作によって変化すると仮定される変数)を、量的に測定可能な形で定義し、データの測定方法を決定する。
(2)剰余変数が介入しないようにしてから、独立変数の操作を行い、結果のデータを収集する。
(3)実験の繰り返し(再現)や統計操作などによってその実験結果が信頼性を持っている(偶然に得られたデータではない)か、そして、一般性を持っているかを検証する。
実験の結果によって事実として証明され、それが一般性(つまり、他の実験者が同じ手続きで実験を行えば同じ結果が得られるということ)を持ってはじめて理論や概念の正当性が検証される、と見なすのである。

 この方法は、自然科学という学問分野だけでなく、日常生活においても普及している。逆に、日常生活の方が甚だしくなってきているとも言える。自然科学分野では、古典力学ではなく、不確定性原理に代表される量子力学での事実の認識不可能性の議論のため「科学の方法」での信念確定が曖昧になってきているが、日常生活は、未だに古典力学が通用し、人を取り巻く環境や(科学の産物だとされる)テクノロジーが未だに「科学の方法」に対する疑念をはさませていないように見せている。逆に言えば、「科学の方法」は強力な事実を社会的に我々の現前に突きつけているのである。日常生活では、すでにブクチンが「慣例的」と述べることができるほど真に慣例になってしまったかのようだ。日常生活においてある主張に対しては、必ず根拠が求められる。現前の事実によって証明することで、自分の主張を正当だと見なす。もちろん、このこと自体が間違っているわけではない。だが、慣例的理性には以下のような問題点がある。

慣例的理性の前提とその問題点

 ブクチンは次のように書いている:

『慣例的理性は、精密に定義された現象の分析に基づいている。そして、その真実は内的一貫性とその実際上の適用可能性に依存している。それは、固定し、分析の目的にとって不変的で明確な境界線を持ったものとしての事物や現象に焦点を当てている。広く受け入れられたこの理性概念では、私たちが還元不可能な諸要素に物体を分析し、どのようにしてそれが機能する全体として活動するのかを明らかにできたときに、実体を理解した、というのである。そのようにすることで、その実体に関する知識は、操作的応用性を持つことになる。発展しつつある事物を「定義する」境界線が変化する−−例えば、砂が土壌になる−−と、慣例的理性は砂を砂として、土壌を土壌として扱う。丁度、それらが互いに独立しているかのように扱うのである。この種の合理性が関心を持っているゾーンは、事象の固定性・独立性・類似の事象や異なる事象との基本的に機械的な相互作用である。それ以上に、慣例的理性が記述する因果関係は、動力学の問題なのである。例えば、一つのビリヤード球が、別な球に当たり、当てられたボールをある位置から別の位置へと動かす原因となる−−つまり、作用因によるのである。二つのビリヤード球は、当たることによって変化するのではなく、ビリヤード台での位置が変わるだけなのである。』

 慣例的理性の特徴の第一は、その還元主義であり、同一性に基づいた事象の定義である。慣例的理性において物事を考察するときには、まずその構成要素を考える。そして、その構成要素はそれ自体では変化しないものでなければならない。それ自体がそれ自体だけで変化してしまうと定義できなくなってしまう。いわゆるシステム理論にしても、個々の不変の要素がどのように組み合わされることで一つの系を創り出しているのかを説明するのだが、その前提としてはやはり還元主義と同一性が用いられていると言える。システムを構成している個々の要素がそれ自体で発達したり、発展したりするとは考えられてはいない。個々の要素は不変で同一なのである。ただ、構成要素の組み合わせが変わることにより、系全体の質が変化すると見なすわけである。

 第二の特徴は、慣例的理性の因果関係は、動力学的だ、ということである。上記の定義によって、諸要素そのものは変化しないとされるため、それぞれの要素の組み合わせやお互いに対する効果で因果関係が示されることになる。科学実験の上でも、独立変数を操作したことで、従属変数が変化することをもって、因果関係や相関関係が証明された、と述べられる。慣例的理性ではある区分区分を個別に扱い、分析することはできるが、それが全体としてどのような流れ・繋がりなっているのかを示そうとすると、お互いに無関係な個々のものが一方は原因になり、他方が結果になり、そしてまた結果となったものが別なものに対する原因となり、といった明確に区分できる要素要素の関連や相関を示すことになる。あくまでも個々の要素はそれ自体で変化しないとされているのである。だからこそ、科学実験での事物の定義は、操作的定義と呼ばれるように、その操作と関連して定義づけられるのである。実際、無機物に対してはこのことは真である。無機物がそれ自体で変化するのであれば、我々の生活は混乱を引き起こしてしまうだろう。

 第三の特徴として、慣例的理性には時間軸がない。何度も述べたことだが、定義されるものは、環境が変化しない限り、いつまでも固定したものだと見なされる。時間と共に、それ自体が変化するとは見なされない。時間の変化と共に変化するものを実験にかけることはできない。観察し、記述するだけである。したがって、どの方向に向かうのか、といった未来を予見する問題については、何も語ることはできないし、語ることができるとしても、「現在と同じ条件ならば、10年後には、〜になるであろう」、もしくは、「こういう環境変化が生じれば、10年後には、〜になるであろう」ということぐらいなのである。これは非常に消極的な予測でしかなく、変化を引き起こすものの主体性はどこにもない。対象となっているものそれ自体がそれ自体で変化する可能性は考慮されないのである。そして、環境を変化させるテクニックがすなわち事物を変化させるテクニックを意味することになり、知識の積み重ねとは、環境変化テクニックの積み重ねになるわけだ。慣例的理性では、時間による累積的変化ではなく、即時的な環境変化が重要視される。

 これら三つの特徴から言えることは、慣例的理性には倫理や方向性は存在しない、ということである。つまり、慣例的理性では、固定した不変のものを変更させるテクニックや現状を維持したままでの予測は持てるものの、どの方向に向けてそれを使うべきなのか、は示されないのである。『だが、その根本原理をなしている一貫性を確立するために、慣例的理性は、倫理をその論文と関心事から除外しているのである。ある目的を達するための道具なのだから、目的の持つ道徳的正確・価値観・理想・信念・人々が育んでいる理論は、慣例的理性とは無関係で、個人の気分と好みという恣意的事柄なのである。』パースが述べていた信念確定の方法にそって言えば、無機物の世界に対しては「科学の方法」を、有機物に対しては「固執の方法」を取っているのではないだろうか。

 このように慣例的理性について数々の問題があり、多くの人が慣例的理性について問題を感じているが、逆に、問題を感じている多くの人は、理性を全否定し、神秘主義や宗教といった「権威の方法」や「固執の方法」へと向かってしまうものだ。だが、神秘主義にせよ、宗教にせよ物事の真理や倫理を単一の源泉に帰すという点では、還元主義であり、発展的に物事を見てはいないという点で、慣例的理性と構造的には何ら変わらないのだ。しかも、その源泉を推論したのは(そう、事実ではなく推論だ)誰かと言えば、人間なのである。

 パースが述べているように、「科学の方法」は、確かに現時点において信念を確たるものにすることはできる。だが、時間軸を持っておらず、現実だけを分析して得られる信念とは、すなわち適応の信念でしかないのではないか。現状を肯定する信念にしかならないのではないか。社会システムについて現状を否定する疑念がわいたところで、疑念の正当性を確信することなど、「科学の方法」に依拠する限りとうてい不可能なのだ。未来の問題・変化する問題に対して「科学の方法」を適用することは出来はしないのだ。『同一性と一貫性が真であるというそのメッセージと共に、慣例的理性は、それ自体が間違いだからではなく、現実を説明するときの妥当性に対する権利を余りにも広く主張しすぎているために、私たちを誤らせたのだ。』

弁証法理性

 慣例的理性のこうした問題に対して、ブクチンは理性のもう一つの形態−−弁証法−−を再評価するように勧めている。これは、パースが規定したような「信念を確定する方法」としての弁証法ではない。もちろん、マルクスのような「正・反・合」に定式化されうるものでもない。ブクチンはヘーゲルの弁証法に対して生態学的観点を加えることで、その弁証法を「絶対者」から解き放っている、と言う。では、ブクチンの言う弁証法とはどのようなものなのか?その前提として、ブクチンは、次のように述べている:

『最低限、世界には秩序があることを前提にしなければならない。この前提は、通常科学でさえもが存在するためには作り出さねばならないことである。また、最低限、成長とプロセスがあり、分化を導いているということを前提にしなければならない。これは押し−引き・重力・電解力などの力から産み出される類の単なる動きではない。最後にまた、最終的には、永続的に増大する分化や全体調和性に向かう何らかの方向性がある、と前提にしなければならない。これは、潜在的可能性がその十全なるアクチュアリティに実現されるためなのである。』

 ブクチンは、まず第一に、その前提として自然界には秩序がある、と見なす。これは、慣例的理性、自然科学も同様である。もし、自然界に秩序がなく全てが偶然だとすれば、自然科学がこれほどまでに一般性を導き出すことはできないであろう。日常生活でも過去を振り返ることも、現在を把握することも、未来を予測することも、いかなることに対する推論すらできなくなるであろう。世界は本質的に無秩序であり、それを秩序だって再構成しているのは人間の精神だ、という唯我論もあるが、では、その精神はどこからやってきたのか、また、唯我論の基盤である精神だけが何故秩序を持ちうるのか、を述べることができず、最終的には神秘主義的にならざるを得ない。

 そして、第二の前提では、成長とプロセスがあり、分化が導かれている、ということである。上記したように、慣例的理性も弁証法理性も世界には秩序がある、という前提を持っている。だが、慣例的理性が前提としている秩序とは、固定的で、数式で量的に示すことができる秩序であるが、ブクチンの弁証法では、その秩序はプロセス、つまり常に発展する生成として捕らえられる。自然科学では、AはAとして定義され、それ以外のものになることはないが、弁証法では、A=AでありつつA≠Aでもあり、それ以上にBやCやDなどに変化することを既にそのA自身が持っていると見なされる。定義の仕方そのものが違うのである。慣例的理性で自然を考察する場合には自然は固定して不変の何かだと見なされ、外的な何か(例えば、人間行為)によって変化させられると考えるが、弁証法的理性で考察する場合には自然は自ら変化するものであり、人間もその変化する自然なのだと見なされるのである。

 ブクチンは自分に向けられる批判、「どのようにして、ある事柄が理性的か理性的ではないと判断するのか?」という判断基準の問いかけを拒絶する。なぜなら、この判断基準を問うている背後には、慣例的理性が存在するからなのだ。慣例的理性では、この種の判断を実例をもって証明するように強いてくる。だが、ブクチンの弁証法理性では、その事柄そのものに内在している潜在的可能性を使って判断をするのである。慣例的理性を使って弁証法理性を判断することはできない、とブクチンは言う。『したがって、「残酷な事実」からではなく発展プロセスから導き出された概念の妥当性は、その発展的プロセスを、特に、プロセスが出現する根本である潜在的可能性の構造と、その潜在的可能性から推論されうる論理を、吟味することでのみ「テスト」されねばならないのである。』

 この「潜在的可能性」がブクチンの弁証法的自然主義を特徴づけているのである。ブクチンは、進化のプロセスを潜在的可能性の発現として示している。だが、その潜在的可能性は必ずしもいつも現実になるわけではない。これまでの通俗的に理解されている弁証法では、法則として、必然的に、例えば共産主義社会が出現する、などと述べられてきた。だが、ブクチンはそのようには述べないし、ヘーゲルもそのように述べてもいない。ヘーゲルを引用しながらブクチンは次のようの述べている。『「一見しては見て取れないときでも、胚種から多くのものが産み出されています。産み出されるもの全体は、発展していないにせよ、未だに隠れていて、それ自体の中に観念的に含まれているのです。」この文章の中で特筆すべきは、「産み出される」可能性のあるものが発展するとは限らない、ということである。例えば、ドングリは、潜在的にそうなるべきもの−−樫の木−−へと発達するのではなく、リスの食べ物となるかもしれないし、コンクリートの歩道で枯れてしまうかもしれないのだ。』もちろん、ヘーゲルは、この文章の後で次のように続けている。『精神の場合はちがいます。精神が意識であり、自由であるのは、精神にあってははじまりとおわりが合体するからです。自然界の胚種は他のものへと変化したあとで、ふたたび単一な自分をとりもどす。精神も同様で、潜在的なものが顕在化し、精神はおのれを自覚する。が、果実や種子を対象化するのは最初の胚種ではなく、植物の観察者たるわたしたちだけであるのに反して、精神の場合は、はじまりとおわりが観察者の目におなじものと見えるばかりでなく、たがいにそのことを意識し、まさにそのことによって自覚的な存在たりえているのです。』(長谷川宏訳、「哲学史講義」、河出書房、27〜28ページ)だからこそ、ブクチンは次のように警告している。『実際、私の観点からすれば、「精神」が「自由」であるという結論は、知的存在は、気紛れで、特異的で、偏ったものになり得、さらに、人間以外の存在とは異なり、残虐なもの、乱暴に言ってしまえば悪にもなり得るということをも意味することにもなり得るのだ。』(」Thinking Ecologically」、「The Philosophy of Social Ecolgy」に収録、22ページ)

 潜在的可能性はあくまでも可能性として扱われるのである。潜在的可能性を扱うからこそ、弁証法はパースが規定した方法以上のものと見なされる。『アリストテレスの形而上学と同様、ヘーゲルの論理学的著作においても、弁証法は現実性を扱うための優れた「方法」以上のものである。広範囲にわたる発展的因果関係の論理的表現として認識されることによって、論理は、ヘーゲルの著作では、存在論と手を結んでいた。同時に、弁証法は、存在論的因果関係を持った推論方法であり、客観的世界の説明なのである。推論の一形態として、最も基本的な弁証法カテゴリー−−「実存」や「無」のような曖昧なカテゴリーでさえも−−は、もっと十全で、もっと複雑なカテゴリーへとそれ自体の内部論理によって分化される。さらに、それぞれのカテゴリーは潜在的可能性なのである。その潜在的可能性は、その潜在的・暗黙的可能性の探求に向かう推論的思考によって、自己実現という形での論理的表現、つまりヘーゲルが「アクチュアリティ」(Wirklichkeit)と呼んでいるものを産み出すのである。』

 そして、ブクチンは、ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的なものである」と一般に述べられている格言は、誤訳だと述べる。本来ならば、『理性的なものはアクチュアルであり、アクチュアルなものは理性的である』というべきもので、アクチュアルは、現実(リアル)とは全く区別されねばならない、潜在的可能性なのだ(「Thinking Ecologically」、「The Philosophy of Social Ecology」に収録、p.144-145の注22を参照。)。潜在的可能性を推論するという理性の働き、これこそが進化によって人間に与えられた能力なのであり、だからこそ自然の進化を促すように働くべきところが、現代の慣例的理性や神秘主義、もっと言えば、ブクチンの言う既存の「第二自然」によって破壊されてしまっている能力なのだ。

 その一例として、慣例的理性が可能性について考察するときに使っている「もし〜ならば、〜だろう」という構文についてもブクチンは次のように批判している。『エコロジー運動に蔓延している非弁証法的思考は、通常、「アメリカスギが人間に匹敵するほどの意識を持っているとすれば、どうなのだろう?」という疑問を生む。弁証法的連続体に何ら根を持たない乱雑な「〜ならどうだろう」を使って弁証法理性に挑戦するなど馬鹿げている。すべての明確な「もし」は、それ自体で、発展の産物として説明できる潜在的可能性でなければならない。発展的連続体に根を持たず、孤立して漂っている仮説的「もし」は、馬鹿げているのだ。』

 『従って、弁証法は「気紛れな」運動、単なる変化の動力学ではない。理性的な「目指すところ」があるのだ。神学的な観点ではなく生態学的観点からこの点について述べるなら、「目指すところ」は運命によって定められているのではなく、その潜在的可能性の中に隠れているものをアクチュアルにするのである。あらゆる「if-then」構文はその前提を、ifが、まるでギャンブラーの直感のように頭の中にひらめくということにではなく、それに先んじる弁証法プロセスに自身の生成発展過程を持つ潜在的可能性を前提としているのだ』(「Thinking Ecologically」、「The Philosophy of Social Ecology」に収録、126ページ〜127ページ)

 既に、お分かりだと思うが、ブクチンの弁証法には、徹底的な進化論が組み込まれている。過去、無機物から有機物へ、単細胞生物から多細胞生物へと長い時間をかけて多様な生物が出現してきた。生物の進化によって人間が生じたのであり、人間の意識が出現する以前から生物進化が行われていたという化石証拠が存在している以上、進化そのものの過程は客観的なものだと見なしうる。つまり、自然の持つ傾向として、単一性から多様性へ、無意識から意識へそして自己意識へという分化は客観的なプロセスとして見なしうるのである。進化論の研究者間では、進化に方向性があるか否か、それが連続的なのか断続的なのか、自然淘汰なのか別のメカニズムが働いているのかなどが論争になっている(講談社ブルーバックス参照)が、進化が分化を産み出しているという点は一致している。人間は純然たる進化の産物であり、人間の存在そのものが自然の一部であると見なす以上、人間を自然から区別したり、自然進化を分断してしまう試みをブクチンは却下する。化石が発見されたからと言って、慣例的理性だけを使うならば、その化石の時代・化石となった生物がどのようなものだったのか、を示すことができても、その化石と別な地層の化石との進化的繋がりが導き出されることはない。人間の理性が行う推論の働きこそが、進化の連続性を示すのである。そして、その推論能力は進化の結果なのだ。この点が、弁証法的自然主義をこれまでの弁証法と区別している。ブクチンは、理性は自然進化の賜だ、という観点を持っているのである。人間以外の生物の進化の場合は、進化の方向性の選択は環境にあったが、人間は環境を変化させることができ、その変化の方向性を考えることができる以上、進化の方向性の選択の主体になれるのである。

 進化の結果としての主観性の増大は、分化と多様性を基盤にしている。自然進化による種の分化と多様化が、生態系を複雑にし、最終的には主観性を持った生物、人間が出現することとなったのである。『エココミュニティの多様性は、農業の観点からは、より大きな安定性の源泉となるかもしれない。だが、進化論の観点からは、原初的ではあるが自然内部での永続的に拡大する自由の源泉、様々な程度で「選択」・「自主独往性」・「自身の発展への生命体の参画」を提供する媒体でもあるのだ。』(「Freedom and Necessity in Nature」、「The Philosophy of Social Ecology」に収録、77ページ)そして、この多様性と分化を持ちながらも生態系として全体調和する、この方向性を進化が持っているとすれば、それこそが倫理になる。進化に基盤をおいた潜在的可能性こそ客観的倫理基準となるものだ、とブクチンは主張するのである。主観性を持った生物である人間は、この自然が持つ方向性を主体的に押し進めなければならないと言うのである。

自由自然

 弁証法を唱えるからと言って、ブクチンはヘーゲルの絶対者や神のようないわゆる固定的な「合」の地点を定めはしない。現在を発展的に捕らえ、未来も発展的に捕らえている。『有限の事象は、常に、生成的、もっと俗な言い方をすれば、発達的なプロセスにあるのだ。従って、弁証法的自然主義は、宇宙的発展行路の終点をヘーゲル派の絶対者に終えるのではなく、永遠に増大する全体調和性・十全性・分化と主観の芳醇性というヴィジョンを推し進めているのである。』

 もちろん、ブクチンも「自由自然」といういわば「合」にあたると見なされても仕方のない概念を使ってはいるが、それは、何か固定した最終ゴールではない。ブクチンは「自然」ということで「進化する自然」を述べているのである。従って、彼は「第一自然」(自然進化)と「第二自然」(社会進化)とを必ずしも対立した意味では使ってはいない。「第二自然」は「第一自然」が持つ潜在的可能性から出現したのだが、だからといって、現在の「第二自然」は必ずしもその潜在的可能性が「理性的に」顕在になったものとは言えない。『第二自然は、第一自然の進化の結果であり、したがって、自然だと見なすことができるからといって、第二自然が必ず創造的だとか、あらゆる進化論的意味合いで十全に自己意識を持っているなどということは意味してはいない。第二自然は人間内部の自然や社会と同義である。どちらも良かれ悪しかれ進化を経験しつつあるのである。』

 「第一自然」から「第二自然」への移行過程でヒエラルキーが出現してしまい、それが現代社会が持つ怪物的な特徴である国権主義的諸制度と資本主義による日常生活の支配まで及んでいる。このことが歴史的に必然だったのかどうかなど現在では分かりはしない。だが、この現代の「第二自然」が「あるべき姿」ではないことは確実である。それは、分化・多様性・全体調和性という自然進化が持つ方向性に反しているのである。自然進化の主体としての人間が、自然の方向性にそって、「第一自然」と「第二自然」に介入することをブクチンは必要だとしているのである。人間が理性的に自然の方向性を押し進める社会、人間以外の生物も人間個々人も多様になり、永続的に分化していきながらも、全体調和している社会、これが「自由自然」として示されているのである。

 進化に基づいた理性的推論をせず、人間理性を発展せしめた第一自然に配慮することなく、未来社会を想像したところで、昔のSF小説などで原子力がもてはやされたり、化学工学を使えば何でも可能なように述べられたり、現在のように、遺伝子操作がもてはやされたりしているように、最終的に、その未来社会は第一自然との対立を招くことになるであろう。逆に、原始人主義や一部のエコロジー運動が示しているように、原生的な自然のみを崇拝することも同様に第一自然との対立を招くであろう。なぜなら、理性も第一自然の産物だからだ。理性を否定しながら、第一自然を崇拝することはできないのである。

 進化が持つ成長・分化・全体調和するというこの方向性をブクチンは弁証法の中に取り入れ、実践的には、リバータリアン自治体連合論という、個々人が地域政治的に参画しながら地方自治的に分化し、連合的に全体調和するというヴィジョンの中で顕在化させようとしているのである。

参考文献

  • 「The Philosophy of Social Ecology: Essays on Dialectical Naturalism」(第二版)、マレイ=ブクチン、Black Rose Books, 1996年
  • 「知の再発見双書99 ダーウィン」、パトリック=トール著、平山廉監修、南條郁子・藤丘樹実訳、創元社、2001年
  • 「進化論が変わる」、中原英臣・佐川峻著、講談社ブルーバックス、1991年
  • 「新しいヘーゲル」、長谷川宏著、講談社現代新書、1997年
  • 「For Begginers シリーズ77 ヘーゲル」、R=スペンサー文・A=クラウゼ絵、椋田直子訳、現代書館、1996年
  • 「哲学史講義」(上巻)、G=W=F=ヘーゲル著、長谷川宏訳、河出書房新社、1992年
  • 「世界の名著53 プルードン・バクーニン・クロポトキン」、猪木正道・勝田吉太郎編、中央公論社、1980年
  • 「世界の名著59 パース・ジェームズ・デューイ」、上山春平編集、中央公論社、1980年

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