「左翼でも、右翼でもない」の誤謬:

義勇軍フィーバー


この論文は元々、Green Perspectives、1996年4月、37号に載った。「左翼でも、右翼でもない」という表現が、内実を明らかにしていない場合に、実体を隠したまま極右化する傾向を持っていることを本論分は警告している。原文は、Militia Fever/a>で読むことができる。本文の原注で示されている「モンタナ義勇軍」のウェブサイトのURLは、www.militiaofmontana.com/http://www.barefootsworld.net/mom.htmlに移り、憲法協会は、www.constituion.orgに変更しているが、原注は原文のまま古いURLを載せておいた。(訳者)

ほぼあらゆる場所で政治という砂が大規模に右に傾いている時代、右翼が勝利感に酔っている一方で左翼がガラクタの中で衰えている時代に、「左翼でもなく、右翼でもない!」という叫びを次第に耳にするようになってきている。右翼の中でこの叫びを問題にするものはいない。それどころか、問題にする必要などあるだろうか?今日、右翼の政治的肩書きはいくつかの大陸で喝采を浴びている。事実はと言えば、強力な政治の風が、市場の賛美と保守主義に向けて、他の社会成員と同様に多くの左翼主義者を吹き飛ばしているのだ。

ソヴィエト=システムの崩壊以来、この叫びは次第に一般的になってきているが、現代に始まったものではない。レアロ(現実派の)グリーンズは、自分たちの党を、その形成期である1970年代後半と1980年代前半に「左翼でもない、右翼でもない」と定義したことで知られていた。もう少し前の今世紀初頭、二つの世界大戦の間の時代には、資本主義も共産主義も拒絶しようとしていた欧州ファシストは、彼らが想定した「第三の道」を見いだすために、一つの類似概念を使っていた。スペイン市民戦争中に、ファランジストは、自身を「左翼でも、右翼でも、中道でもない」と考えていた。ある農民は以下のように述べている:

我々は、自分自身の魂を持った運動だった。金持ちを擁護するためではなく、金持ちよりも貧乏人を上に置くためにでもない。多くの点で、社会主義者と同意していたが、社会主義者は唯物論的革命家であり、我々は魂の革命家だった。我々と他の大部分の人々との違いは、他の人々が示していた資本主義に対する憎しみが我々には欠けていたことだった。マルクス主義者は、富を持ったあらゆる人に対する戦争を宣言していた。だが、我々の考えは、他の人々がよりよく生きることができるように、右翼は富の一部を放棄しなければならない、というものであった。(原注1

ここ数ヶ月、左右二分法の拒絶は、反政府義勇軍運動によってさらにもたらされている。左翼主義のネイション誌において、アレキサンダー=コックバーンは、ミシガン州における『愛国主義』集会を『好意的だ』と述べている(原注2)。ボストン=グローブ誌(1996年3月30日号)は、読者に対して、次のようにアドバイスしている。モンタナ州の「自由人」運動は、義勇軍と黙示的な信心ぶりと結びついているが、『これまでのところ、一般的に受け入れられている政治尺度をはずれており、「左翼」と「右翼」といった言葉が適用されるようなものではない。』「アナーキー:武装した欲望」誌の前編集長であり、現在は「反体制報道評論」(オルタナティブ=プレス=レビュー)の編集長であるジェイソン=マックゥインは、左翼と右翼を同じ問題の表裏でしかない、と非難している:

左翼と右翼は、今世紀(20世紀)を通じて自分自身の破産を証明してきた。どちらも、我々の忠誠心について正当に主張することもできない。双方の伝統が、受けるに値するだけの痛烈な批判を受けたのは全くの過去の時代だったのであり、その結果、我々は双方の最も良い部分を受け入れ、無意味なものを切り捨てることができるのだ。左翼が、右翼が理解できた以上に、地域と国際連帯の擁護に対して多くの価値を加えてきたことは真実であろう。だが、右翼も左翼も究極的には、資本主義運動の「対立する」二つの側面を支援することに共謀してきたのだ。(原注3

一方、リバータリアン著述家であり、出版業者でもあるアダム=パーフレイは、左翼と右翼の区別を認める左翼主義者に対して異議を唱えている。左翼主義者は、究極的に支配システムの利権に使えているから、『反体制右翼主義者と左翼主義者との分断を演説してまわっている』、というのである(原注4)。オクラホマ市の爆弾事件が勃発したときに、彼は次のように論じていた。義勇軍は、嘆かわしいことに『スケープゴートになっており、諜報機関がテクノクラート的暗黒郷へとまっしぐらに突入することを正当化するために使われている。その暗黒卿では、全ての金融取引がフォーチュン500社と全能なる警察集団が操作しているコンピュータに容易く監視されるのだ。』反中傷同盟(Anti-Defamation League)・南部貧困法律センター(Southern Poverty Law Center)・政治研究組合(Political Reserch Associates)のように、義勇軍運動を批判している人々は、究極的には、この陰謀論それ自体に役立っている。政治研究組合のチップ=バーレトが『個々人間の分断を生み出』す『イデオロギー的純化』を要求している一方で、ホーリー=スクラーは日米欧委員会(Trilateral Commission)に関する著書の中で「クリプト社会主義神学」を押し進めている。そして、パーフレイの論法も同様に進むのだ。

パーフレイの「左翼でもなく右翼でもない」アプローチは、マックゥインの反体制報道評論に快適な居場所を見つけた。このことは、米国の重要なアナキスト編集者がアナキスト運動の左翼的ルーツから転向したことを示している。逆に、義勇軍メンバーの中には、右翼化する途中で、パーフレイとマックゥインに出会えて幸せに思っている人もいる。モンタナ義勇軍の主要伝道者であるボブ=フレッチャーは、次のよう述べている。『我々は、左だとか右だとか、保守的だとか進歩的だとか聞きたくはない。これらは、でたらめなラベルに過ぎない。良い奴と悪い奴、公正な政府−−正直で・公平で・適切な米国政府−−という考えに戻ろうではないか。我々は皆、こうした政府が維持されていると騙されて信じこまされているのである。』(原注5

米国人は、どのような政治筋にいようとも、なにがしかのリバータリアン教育を受けている。合州国は、革命で生まれ、その最も敬愛する建国の父は、革命を行う権利を褒め称えていた。米国が約束していた大黒柱−−民主主義の理想−−があまりにもはっきりと裏切られたことは、資本主義が米国の社会生活に深く埋め込まれた時代にあってさえも、潜在的に叛乱を鼓舞しかねないものだった。民衆全体ではなく、特権を持った少数の利権に仕えている反民主主義的諸勢力は、自分たちの活動を完全に覆い隠してしまうか、さもなくば、マスメディアを使って民衆を麻痺させるかしかない、ということを分かっている。それでもなお、政府に対する疑念は存続し、米国共和制の諸制度が資本家のご主人様たちに歴然とさらに多くの借りをするほどの今日では、激化さえしている。だが、大企業の略奪は時として非常に極度で、1890年代に資本主義の「創造的破壊」を米国の約束に対する裏切り行為だと排斥していた人民党のような運動を作り出すほどだったにもかかわらず、資本主義に対する不信感は政府に対する不信感ほどではない。

一年前の同じ月、義勇軍運動は、『暴走し、制御不可能な政府の暴政』を非難することで、全国的な注目の的になった(原注6)。ルビー=リッジ(この場所では、FBIの狙撃手が二人を殺した)にいる一人の戦闘的独立主義者に対する政府の攻撃が失敗し、そしてワコにいる黙示的説教師とその追従者たちに対する政府の攻撃が失敗したことをきっかけとして、政府が、普通の米国人から市民としての諸権利を剥奪しようとしているという心情が高くなった。特に、武装する権利は、銃砲規制の開始を認めていたブレディ法の一文のために、危機に瀕していると思われていた。こうしたくすぶり続けている憤りが激化したのは、米国の保守的地域にいる労働者階級が感じていた本物の不満のためであった。そこでは、世界規模の構造改革と国内の構造改革が、経営合理化・実質賃金の低下・永久に続く一時解雇をもたらしていたのである。憤りは急激に燃え上がり、義勇軍の集団が少なくとも40の州で設立されたのだった。

この運動は、米国の支配権を減少させようとずらりと並んだ国際的力−−「新世界秩序」−−に対抗して、米国の支配権を維持する、と断言していた。日米欧委員会・外交関係会議(Councile on Foreign Relations)・連邦準備局・NAFTAやGATTのような国際貿易協定・国連は、様々な場面で、左翼によって激しく非難されていた。現在、義勇軍は、そうした諸機関を、米国の支配権を転覆させる「新世界秩序」の要素だと見なしている。市民軍は、目には見えない強力な手が、米国政府と米国経済を操作しているという世界規模の陰謀論を当時認めており、現在もまだ認めている。

陰謀論それ自体は長い歴史がある。マイケル=ケリーが最近ニューヨーカー誌に書いていたように、それは、18世紀後半まで遡ることができる。当時、以下のことを信じ始めていた人がいたのだった:

陰謀家は、長い時間と様々な文化にわたり秘密団体と非公表ながら衆知の団体を通じて自分の計画を永続させながら、2000年以上も陰謀を行い続けてきた。それは、キリスト教時代初期のグノスチックスとユダヤ=ヘブライ神秘哲学者たちから、12世紀のテンプル騎士団、15世紀のバラ十字会員、18世紀バイエルンのイリュミナティ、さらに、フリーメーソンを通じて、20世紀の陰謀家たち−−外交関係会議・ビルダーバーグ会員・日米欧委員会−−へと連なっている。この途中で、一世界主義(one-worldism)へと次第に向かいながら、策士たちは、フランス革命とロシア革命から連邦準備委員会・国連・湾岸戦争の創造まで全てを引き起こしてきた。(原注7

生まれたばかりの義勇軍イデオロギーにおいて、黒いヘリコプター・香港警察・皮膚に埋め込まれたマイクロチップ・気候変化プログラムは全て、世界の陰謀計画の一部になっている。「新世界秩序」を代表している軍隊は、国連軍と都市のスラム街のギャングから成り立っており、すぐさま、米国を占拠し、その市民を奴隷にしようとしていると見なされていた。モンタナ義勇軍は、義勇軍グループの中で最も古く最も影響力を持っているが、次のように警告している。『国連の下に社会主義的一世界政府を作り出すという陰謀が、(中略)モンタナ州の市民・北米合州国・社会主義同盟の世界(the world in a socialist union)を奴隷にするために、憲法を背信的に堕落させようと蠢いている。』(原注8

左翼の生き残りは、現在進行中の社会・政治・経済諸力のグローバリゼーションと中央集権化に対して同じぐらい熱心に反対している。だが、その根拠は、そうした諸力が米国の支配権を脅かしているからだというものではない。愛国主義に対するアピールは全くしてはいないのだ。旧式の左翼分析も、様々な出来事の方向を操作する邪悪な陰謀を認めはしないだろう。むしろ、それは正しくも、次のように論じるのである。特定の社会的力が、民衆の自分の生活に対する管理能力を吸い取り、その地域社会を粉砕し、社交生活を商品化し、生物圏を略奪し、懇親的諸関係を持つ気力を無くさせ、人々を仕事をしているときは賃金奴隷に、それ以外の時間は愚かな消費者に還元している。このシステムこそ資本主義なのである。

確かに、三者提携主義の著者ホリー=スクラーによれば、エリートの計画立案団体は存在する。だが、それは陰謀などではない:

20世紀初頭を振り返ってみれば、合州国の政策だけでなく、世界規模の政策を計画立案する上で根本的な役割を果たしていた組織がある−−陰謀ではなく、エリートの計画立案団体であり、それらは根本的に異なっている。私が日米欧委員会と陰謀理論とをどのように区別しているのか示しておこう。操り人形の紐を操作し、全てのこと・全ての人を統制することを陰謀とは呼ばない。それは、単一の最も重要な国際計画とコンセンサス構築組織なのであり、そこには地球規模の企業と銀行−−エクソン・ゼネラル=モータース・ソニー・トヨタ・シーメンスなどの企業−−の利権を代表している西欧・日本・合州国・カナダ出身の人々が混じっているのだ。(中略)あまりにも多くの人々が、全てのことをいつも統制しているという壮大な陰謀があるか、そうでなければ、自分たちが理解しなければならない動機と目標を持った重要機関など存在しないと思いこんでいるのだ。あまりにも多くの人々が、日米欧委員会をそのように見ている。それは陰謀か、ジョークかのどちらかだという。そんなことは完全に馬鹿げている。(原注9

左翼主義者の中には、義勇軍と特別な共感を見いだすために、社会的・経済的諸力に関するこの理性的理解を明らかに保留してきた人々もいる。陰謀主義が持つ魅惑の言葉は、その安易な説明と時折現れる暗黒郷の香りとともに、今日世界で苦難を産み出している圧倒的に構造的な社会的諸力を全く簡単に忘れ去ってしまうことができるようにしている。フィリップ=スミスが述べているように、『これは、リバティ=ロビー(反ユダヤ団体)が左翼と出会っている領域、日米欧委員会が世界を動かしている領域なのであり、かつてのヴェトナム戦争抗議者が新世界秩序を回避するために義勇軍に参加しているのだ。』左翼と右翼の区別は、『共産主義と資本主義が一つの大きな陰謀の単なる側面でしかないという思弁的絶頂に登りつめる』途中で、路傍に追いやられてしまう(原注10)。アナキストだと公言しているマックゥインは、我々はいつも自分たちの社会分析を忘れてはならないが、様々な陰謀に対しても心を閉ざしてはならないと述べ、彼は、『真の世界的活動』を調査し、暴露するが、『そのことが、後に、陰謀的説明を導くかもしれないし、構造的説明を導くかもしれないし、もしくはこれら二つ双方を導くかもしれない。』と述べている。一方、真の陰謀理論家であるパーフレイは、義勇軍を、自分たちと同類だが誤解した意見を持っている、と擁護している。なぜなら、『マニ教の陰謀と黙示的夢を持った義勇軍参加者』は、政府・私営企業・財団法人・大学・メディアからなる『連動したネットワーク』に挑戦しているからだというのだ。

義勇軍の反国権主義


義勇軍のメンバーは、左翼リバータリアンを含めた伝統的左翼主義者と幾つかの見解を共有している。実際、義勇軍イデオロギーは、「新世界秩序」(それがどのように定義されていようとも)に反対するだけでなく、個人の諸権利を防衛するために政府の暴政に抵抗することへのコミットメントをも伝統的アナキズムと共有している。モンタナ義勇軍は、その目的は、『民衆に対する政府の力を行使するために政府当局が構築したいかなる枠組みにも敵対する』ことだと述べている。この一節は、米国革命の遺産を真面目に受け取っている左翼主義者から生まれる可能性もあっただろう。

民衆の大多数にとって規約と法令が不公正である場合、民衆は正当に暴動を起こし、政府は、弾丸を一発も発射しないまま不本意ながらも従わざるを得なくなるだろう。なぜなら、義勇軍は、権利・リバティ・自由を防衛するにあたり、用心深く民衆の代わりにその意志を実行するからだ。政府の目的は、民衆の諸権利の保護にある。それを達成しないのならば、義勇軍は改革運動として名乗りを上げる。民衆の諸権利の衣鉢は義勇軍にかかっているのである。(原注11

伝統的左翼ならば突飛だと思われる様々な発言の中で、義勇軍運動は、個人の権利を守るために民衆が武装するように要求している。

自由国家の安全は(中略)訓練され、用意周到で、組織され、体制が整い、適切に指導された(原文のまま)市民に見いだされる。これにより、政府がその力を市民に行使したとしても、民衆は遙かに多くの武器を持って立ち向かい、自分の権利を適切に守ることができるのである。(中略)憲法修正第二条の主要目的は、最後の手段として、米国人が暴君的政府に対して自分を確実に防衛できるようにすることだ、というトーマス=ジェファーソンの言葉を思い出していただきたい。(原注12

今日、左翼の多くはこの概念に嫌気が差しているのだが、以前は、民衆武装の呼びかけは、政治的スペクトルの一方の極だとして充分認識されていた。1907年8月のシュトゥッツガルトでの第二インターナショナルの会合で、レーニンとルクセンブルグが共著した義勇軍の確立を求める決議案を年次総会は採択したのだった:

議会は、民主的軍隊組織を、常備軍ではなく民衆の義勇軍を、攻撃的戦争の予防、そして、国家間の差異の除去の促進の本質的保証だと見なす。(原注13

義勇軍運動は、構造的に、中央で管理された組織ではなく小規模集団の緩いネットワークであり、伝統的アナキスト運動を思い起こさせる。地元地域のグループは『伝統的な方法である連絡委員会を使って』調整を行うとされる(原注14)。『こうした委員会は、地方・州・全国の組織として活動せず、地域ユニット間のコミュニケーションを促すと共に、文献の共有や行動に対するコンセンサスの構築のために活動しようとする。』運動全体は、『同じ大義にコミットしていなければならない(中略)だが、特定の戦術は、個々の得意分野に任せておかねばならない。』(原注15)言い換えれば、義勇軍メンバーは、地球規模で考えるが地域的に活動するのだ。

ここで再び、ヒエラルキーと指導的エリートに対するアナキズム的反対をそのまま繰り返しながら、義勇軍イデオロギーは、『指導者のいない抵抗』という概念を擁護している。この概念に依れば、『全ての個々人・諸集団は、お互いに独立して運営され、中央司令部や一人の指導者に方向性や支持を求める報告をすることはない。』権力分散を反映しながら、この運動は、UseNetのニューズグループとFAXネットワークを通じて圧倒的に組織されていた。これが、その思想の広範囲な普及を可能にし、昔ならば必要だった扇動的で群衆を混乱させるような指導者などいらなくしている。『指導者のいない抵抗』の目的は、『国家の暴政を打ち負かす』ことであり、『諸条件が適切になれば形成され、不適切になれば消え失せてしまう霧のように、暴政に対する抵抗も斯くあるべきなのだ。』(原注16

構造的にも戦略的にも行動的にも権力分散であることにより、運動の目的だとされていることも、同様に地方分権的である。義勇軍メンバーは、地域の政治的単位を望ましいと見なし、事実、自分をその地域性という点で定義し、それ以上の政治的実体の正当性を否定している。「社会組織」に依れば:

市民権同様、義勇軍は本質的に地域的である。我々は、まず第一に、自分たちの地域社会の市民である。「市民」という言葉は、「都市」という言葉と同じ語源を持っている。人々は、州や国家といった大きな政治的存在の市民でもあり、こうした存在はその市民から成り立っていると見なされている。だが、そうした存在は、本質的に、諸地域から成り立っているのだ。社会的契約の基盤は、一定量の周辺領土も含まれると考えられるが、地域社会なのである。今日、我々は、地域性と郡(カウンティ)とを同じものだと考えるものである。(原注17

最高次の正当な政府としての郡(カウンティ)は、極右において長期にわたり流布されてきた概念である。究極的には、白人優位主義運動の民兵隊壮年団(Posse Comitatus)に由来している。それは、政府の権威を拒絶し、民衆の主権性を主張していた。今日、カウンティ至上運動は、公有地に対する連邦政府の権威をめぐって、それらの土地はカウンティ管理下におくべきだと主張して、直接の裁判闘争を起こしている。だが、義勇軍運動において、直接民主主義について語られることはほとんどない。保安官が選挙で選ばれた最高責任者になるとされているが、その権力の性質と説明責任については定義されていないため、権威主義的可能性を開いたままにしてある。コミュニティの自主管理に関して情報を集めてみたところで、ほのめかしてすらおらず、今日大部分の人々が生活している街と都市における自治政府についてもほとんど何も述べてはいないのである。

ここで、義勇軍イデオロギーを、社会生態学の政治的次元であるリバータリアン自治体連合論と比較することは有益であろう。社会生態学は、伝統的左翼の遺産を引き継いでおり、民衆の直接民主主義の舞台としての町内会・街・都市に目を向けている。その最初の政治的目標は、市民の教育プロセスを通じて、今日そうであるような有権者や納税者ではなく市民を創造し・集会で市民権が持つ力を権能を奪われた民衆に示し・国家を犠牲にして自治体に潜在する民主的諸制度や既存の民主的諸制度を拡充しながら、自由で民主的な諸都市を発展させることである。Green Perspectivesの読者ならば既に充分お気づきだろうが、リバータリアン自治体連合論は、都市を人間的規模に順次調整し、連邦化し、二重権力を構築し、究極的には既存国民国家を排除する自由で民主化された諸都市を希求しているのである。

これは、本質的に社会革命のプロセスである。一方、義勇軍運動は、そうしたプロセスについては何も語らず、市民権や公民教育という概念を提供してもいない。カウンティ優勢の政治形態において社会がどのように組織されるべきか−−社会的に・政治的に・経済的に−−について説明することもない。その代わり、戦術的強調が武装民衆におかれる−−武装民衆と述べることで、それは、納税拒否・社会保障番号拒否・運転免許使用拒否・ライセンスプレート使用拒否のような個人的行動を行っている個々人を武装させることを意味している場合がほとんどなのだ。そのヒーローは強く、ボー=グリッツのようなランボー的個人でさえもある。ボー=グリッツは、人民党(ポピュリスト=パーティ)として知られるネオナチ・KKKの選挙戦大部隊のおかげで、1992年の大統領選挙でデヴィッド=ドュークの副大統領候補だったのだ。

そうした活動の例をもう一つ挙げれば、地元地域を、個人の農場や住居−−合州国の法的管轄区域外にある−−さえをも、最上のものだと宣言していることに見られる。この曖昧な理論(「自由保有地の権利」allodial titleとして知られている)は、封建主義の時代に遡ることができ、モンタナ義勇軍の論文で押し進められており、公然と土地を所有している個々人は主権者だと見なすことができるという申し立ては妥当なものだと主張しているのである。だからこそ、モンタナ州北東部にあるいわゆる「自由人」居留地(「ジャスタス郡区」と改称した)など数十ヶ所の居留地がこの国に存在しているのだ。

義勇軍は、敵を特定しようとするときに、個々人と諸制度を混乱させてしまうことが多い。つまり、社会秩序ではなく、個々人に「狙いを定める」のだ。特定集団のメンバーを−−官庁に勤めているからというだけで公務員を−−殺すと脅すのである。義勇軍は、上院議員に対しても地元公務員に対しても殺害の脅迫状を送りつけてきた。1995年に、「自由人」の「ジャスタス郡区」メンバーは、百万ドルの「報奨金」をガーフィールド=カウンティの保安官にかけた。彼らによれば、自分たちの「慣習法法廷」に保安官をかけ、有罪となったら絞首刑にするつもりだったのだそうだ。彼らは、カウンティの弁護士を、素晴らしき「慣習法」裁判をすることなく、橋からローブで絞首するぞと脅してもいた。他の二つの「自由人」は、モンタナ州ビリングスの連邦地裁判事に対する殺害の脅迫状を公表した。こうした戦術は、社会革命ではなく、私的で冷血な殺人行為を呼びかけているのだ。

護憲論


カウンティとその下位レベルの政府に対して信念を持っているにも関わらず、義勇軍メンバーは、合州国憲法と権利章典を支持している、と口をそろえて述べている。新世界秩序による合州国乗っ取りと戦うために、モンタナ義勇軍は、その目的を、『国内外双方のあらゆる敵に対して、北米合州国の憲法と、モンタナ州の憲法を守ること』だとしている(原注18)。その制定から200年間憲法を基本的に保持し続けてきている国において、こうした言葉は、慣例的政治論議の範囲内に充分含まれている。事実、義勇軍は、憲法を非常に熱心に支持しているため、モンタナ義勇軍の有力なグループは護憲論者だと自称しているほどである。パーフレイのようなリバータリアンにとって、市民の自由に対する義勇軍の明確なコミットメントは、好ましい点である。『義勇軍は、非常に防衛的であり続けている』と彼は書いている。『憲法上の諸権利の腐食に抗議するために設立された(中略)義勇軍は、武器を所持する権利を放棄したり、フリースピーチの権利を窒息させたり、民衆集会を開く権利を制限したりするといったように、政府が憲法を転覆させようとするとき、確実に反撃するであろう。』(原注19)進歩主義者は、権利章典を支持することにコミットしている運動にはある程度の共感を感じさえするであろう。たとえそれが、命を犠牲にすることを意味していたとしても。

だが、こうした忠誠の主張は、内実を伴ってはいない。モンタナ州のもののような義勇軍は、銃規制や環境保護法案や堕胎に関する攻撃のような人気のある保守的な大義名分を広く支持しながら、正にこうした非の打ち所のない言葉を使って、新しいメンバーを募っている。義勇軍メンバーが実際に支持している憲法と権利章典は、今日、合州国の基本法ではない。護憲論者は、この基本法を違法文書だと信じている。彼らの見解によれば、1787年のフィラデルフィア会議で成立した元々の憲法と権利章典を作り出した最初の修正10箇条だけが、妥当だと見なされるのである。原理主義者が聖書を読むときのように、憲法は、元来書かれたときと同じように、厳密に解釈されねばならないとされる。後年の司法解釈にそってではなく、成立した時代の文脈で読まれねばならないというのである。元々の憲法が採用された時代に、大部分の市民は、白人でキリスト教徒の男性であり、神から授かった諸権利を享受していた−−彼らこそが、義勇軍が「州」市民・「有機的」市民と呼んでいる人々だったのだ。モンタナ義勇軍が、憲法は『北米合州国の(中略)全市民の自由の保護に捧げられている』(原注20)と述べるときに示している市民がこれらの市民であることはほぼ間違いない。ユダヤ人はキリスト教徒ではないため、元来の憲法が定義している政治形態の一部にはならない。だが、保守的信念の広がりとは逆に、元来の憲法は、キリスト教という宗教にいかなる優先傾向も与えていない。修正第一条は、「宗教組織に関して」議会が法律を創ることを禁じているのである。

第十条以降の憲法修正条項−−新たに解放された奴隷の権利や女性の参政権を保護したものなど−−は、元来の憲法には含まれておらず、従って、合法にもならず拘束力も持たなくなる。その後の修正条項になってから市民権を得た人々は「修正第十四条」市民と呼ばれ、「修正第十四条」市民は修正憲法の下だけで権利と義務とを持つ。だが、第十条以降の修正条項は元々の憲法を無効にしてしまったため、兎も角も、白人はそれに服従したり、従ったりする必要などない。事実、修正第十四条によって権利も義務も付与されていないのだから、修正憲法の下で、白人男性は必ずしも市民ではないのである。

実際、現行政府システムとの関係をさらに劇的に否定するため、多くの義勇軍メンバーは、公然と自分の市民権を放棄してきた。そのようにしたあるグループは、モンタナ州ラヴァリの地元紙にその理由を次のように説明している。

神であるイエス=キリストの名において、コロンビア特別区、民主主義の地方自治体として知られる国外管轄権から絶対的な私の「財産」を解放するために、(私は)私の米国での立場(American National Status)と諸権利とを厳粛に公開し、宣言する。ありとあらゆる過去と現在の政治的繋がりは、法律操作によって導かれているか、さもなくば、上述の民主主義に委託しており、だからこそ、消滅するのだ。この解放により、私は、あらゆる政府よりも前から存在している本来の主権性と自由の状態に戻るのである。(原注21

多分、彼らは、「自然の状態」−−「慣習法」・自分たちで作り出した政府・聖書以外にいかなる法律にも従う必要のない、究極的な主権を持った個人−−に戻るつもりだったのだろう。実際、キリスト教徒の白人男性は、連邦政府に所得税わなくてもよい、とされる。多分それは、国税収入局(IRS)がその修正条項を創ったからなのだろう。『国税収入局の規約は、完全に憲法違反なのだ』から、個々人は、自分の主権を持った領域にIRSが侵入してきたときに、自身を防衛する権利をもっている、というのである(原注22)。IRSは、もちろん、国家の道具であり、社会生態学徒が邁進している貨幣なき欲望充足社会の一部にはならない。「税」は、集会にいる民衆が、何らかの形態で必要だと決定し、顔を付き合わせた民主的なやり方で課したときにだけ、適切なものになる。だが、「自由人」は別な理由で納税は必要ないとしている。1995年のモンタナ農家包囲攻撃における「自由人」の一人ロドニー=スカーダルは1994年に次のように説明していた。『我々が白人で神に選ばれた人民だとすれば、(中略)そして、神が「地球は自分のものである」と述べておられるのに、何故、我々は「神の土地」に税を払わねばならないのか?』(原注23)(自身の納税拒否のため、スカーダルの所有する土地は、以前、IRSによって没収されたことがあった。)だが、「自由人」が納税免除されるならば、「修正第十四条」の市民は全く運が悪かったことになる−−所得税を払わねばならないのだから。事実、黒人の自由を保障した修正条項を法外なほどねじ曲げて読解すれば、黒人は奴隷に戻らねばならないという意味で解釈されてしまうのだ。

今日、合州国において、幅広い政治的対話の中で、明らかに人種差別的な言葉は受け入れられないことになっている。従って、人種差別的憎しみを表現したい人々は、その代わりに隠語を使わねばならない。つい最近では、共和党の大統領予備選挙において、パトリック=ブキャナンは、ラテン系米国人を「ホセ」という隠語を使って示し、ユダヤ人に対しては「ゴールドマン=サックス」と「ブランダイス大学の学生」を引き合いに出していた。彼は、自分の民族的嗜好を、黒人に対する中傷を使わずに、南部連合軍の旗がはためいていることを支持することで表現していた。同様に、義勇軍イデオロギーの「護憲論」は、本質的に、人種差別主義を表現する遠回しの方法なのだ。莫大な数の白人優位主義者は、今日、この方法を利用し、キリスト教愛国者だと自称し、「護憲論者」が黒人・ユダヤ人・女性を米国政治体制から疎外していることを支持しているのである。

モンタナ農家の「自由人」も、キリスト教愛国主義グループや護憲論のグループであり、それらの信念に基づき、カウンティ当局者を「逮捕」するために報奨金を出すという自身の「慣習法」司法システムを持っている。スカーダルによれば、キリスト教愛国者も既存米国法に従う必要はないのである。

どれほど多くのイスラエル人民(アダム・白人種)が、全能の神の言葉を拒絶してきたことか。全能の神に対する「信仰」(保証)を拒絶してきたことか。彼らは、社会保障カードや番号・結婚許可証・運転免許証・車両登録証・企業からの福利厚生・電気点検・私宅建設の認可・所得税・固定資産税・相続税などなどの申し込みのような、人間が作り出した法律、「color of law」を崇拝しているのである。(中略)こうした給付金に申し込んだが最後、(中略)自発的に、彼らの自由で税を請求される新しい「奴隷」になるのだ。なぜなら、君は、もはや「自由」ではない、つまり「自由人」ではないからだ。(原注24

この文章において、FBIに包囲攻撃された「自由人」は必要ならば自分の土地を武力によって防衛することが予告されていた:『我々の特別命令は、(中略)特別に任命された我々の警官と我々の法で定められた民兵隊が、私的所有権を乗っ取ることに関わるいかなる行為であっても、それに従事して捕らえられた公僕や修正第十四条市民を撃ち殺すためのものである。』(原注25)ここで、「護憲論」は、「自由人」が、自分が軽蔑しているという理由だけで、人を撃ち殺すことができる許可証になっているのである。

義勇軍は法律にも反対している。なぜなら、彼らが拒否している州の法律とは自分たちだからだ。だが、その宣言と行動で判断する限り、州に置き換わろうとしている新しい政治組織は、少なくとも、既存組織と同じぐらい酷いものになりそうである。死刑が依然としてまかり通り、私的所有権は保護される。人々は民族に基づいて排除され、女性は市民権を失う。環境保全・土地利用計画・都市計画(ゾーニング)は、ぼんやりとした記憶の中に薄れてしまう。個人は、地域社会の義務と責任から解放されすぎて、古典的自由主義政治理論が示していたような原始化され、私利私欲を最大にし、我が儘な個人の方が、かなり慈悲深い精神であるかのように見えるほどになろう。同時に、キリスト教原理主義が確立され、あらゆる権威の行使を、神々しく認可されているものとして正当化するために利用されるだろう。

キリスト教徒のアイデンティティと反ユダヤ主義

何か疑いが残るといけないので述べておくが、これは左翼イデオロギーではないし、左翼主義者が嫌々ながらも関わりを持たねばならないようなものでもない。だが、義勇軍の人種差別主義について知らない人々もいるだろうし、「新世界秩序」に対する反逆者として義勇軍に共感する人もいるだろう。彼ら−−もしくは、ジョージ=ブッシュ−−が湾岸戦争中に「新世界秩序」というフレーズが何を意味しているのかを実際に理解していたのかどうかはともかく、これは、左翼の資本主義批判とは無関係な、ケリーが述べている新しいバージョンの陰謀理論と非常に関係している一群の意味と共に急成長しているのである。陰謀理論の歴史において非常によく見られることなのだが、世界の出来事を共謀して操っている目に見えない秘密のエリートはユダヤ人で構成されているという。ワシントン州の「キリスト教愛国者」の一人ドナルド=エルワンガーは、1994年にこのシナリオを次のように示していた。

「英国銀行カルテル(ロンドンとベルリンのロスチャイルド銀行)」は、「連邦準備制度」という欺瞞的銘柄の株式を52%所有している。「連邦準備制度」は「外国の私有企業」であり、IRSを管理している。IRSは、「連邦準備制度」の民間集金代行業者である。「連邦準備制度」株式の残り48%は、国内外にあるロンドン=ロスチャイルド銀行子会社が保有している。(原注26

義勇軍が存在している極右環境によく見られる反ユダヤ主義に従えば、このユダヤ人管理の国際銀行システムは、その「集金代行業者」と共に、合州国国内の「支持者たち」を含め、全てを犠牲にして戦わねばならないとされるのである。

ケネス=スターンは、北米ユダヤ人委員会に対する煽動グループについて研究しており、次のように論じている。多くの人々は、ユダヤ人と黒人を憎んでいるといったこととは何ら関係のない理由で、邪心を持たずに義勇軍に参加しているが、それでもなお、反ユダヤ主義と人種差別主義は義勇軍運動にとって「本質」なのである。

義勇軍運動の有力者の多くは、反ユダヤ主義者(例えば、ジョン=トロックマン)である。(中略)反ユダヤ主義の歴史や議題項目を持っていないグループが主催していたとしても、合州国における義勇軍ミーティングに参加することはほぼ不可能であろうし、反ユダヤ主義で白人優位主義の個人や集団(例えば、ボー=グリッツや反ユダヤ主義リバティ=ロビーである「スポットライト」)の文献に遭遇しないこともほとんどないだろう。(中略)この運動の根底にある陰謀理論は、シオン長老の議定書に根を持ち、それは(中略)ユダヤ人が世界を動かすことを秘密裏に謀議していると断定しているのである。(原注27

義勇軍の反ユダヤ主義は、クリスチャン=アイデンティティから、大部分、導き出されている。それは、「アーリア人」こそがイスラエルの失われた部族であり、したがって正統派ユダヤ人であり、自分自身をユダヤ人だと呼んでいる人々は、実際には悪魔の卵なのだ−−そして、有色人種は「泥人間」なのだ−−と主張している。どれほどの数の義勇軍メンバーがクリスチャン=アイデンティティを順守しているのかをはっきりと知ることはできないが、これは、義勇軍運動を促している環境に特有のものある。アーリア民族軍・白人アーリア民族抵抗軍(White Aryan Resistance)・民兵隊壮年団(Posse Coomitatus)の生き残り・キリスト教再建運動(宗教的独裁を求めている)・戦闘的反中絶運動家・護憲論者、これらは皆、この環境の中で成立しているのである。従って、キリスト教右派のメンバーも、パット=ロバートソンによる1991年の新世界秩序の世界観を受け入れているのである。この本は、秘密のエリートの陰謀が、国連を道具として使い、世界を支配していることを示そうと書かれているのだ。「愛国者」(Patriots)として漠然と知られているが、こうしたグループは、そのイデオロギーの鍵となるポイントとして義勇軍を示している。そのイデオロギーの先祖には、ジョン=バーチ=ソサイエティやKKKがいるのである。チップ=バーレトによれば、義勇軍は『愛国者運動の武装部門』なのである(原注28)。実際、「指導者のいない抵抗」という概念はルイス=ビームが立案したものだった。彼は、アーリア民族軍の指導者・理論家であり、KKKの私設軍であるテキサス緊急予備軍(Texas Emergency Reserve)の前隊長であった。

そして、反ユダヤ主義と人種差別主義は、1970年代の初めからこの環境に特徴的なものであり続けていたのである。当時、カリフォルニアのネオナチ、リチャード=バトラーがクリスチャン=アイデンティティ「教会」のメンバーをアイダホに引き連れていったのである。彼の教会の別名は、アーリア民族軍だったのだ。「人種」は別々に生活すべきだ、というのがバトラーの主張で、ユダヤ人が米国を統制するために使っているシオニスト占有政府(Zionist Occupational Government)に対抗し、全世界を乗っ取り「新世界秩序」を構築するというユダヤ人の計画に対抗すると暴言を吐いていたのだった。彼は、キリスト教徒の白人男性はユダヤに対抗するために武器を取って立ち上がるべきだ−−「ユダヤ人を抹殺せよ」−−と主張した。アイダホ州ハイデン=レイクに作られていた事務所の壁には、鍵十字とヒットラーの肖像が掛けられていたのだった。

義勇軍のリバータリアン擁護者、陰謀理論家のアダム=パーフレイは、様々な愛国主義グループが反ユダヤであることに同意している。『キリスト教右派によるへブル人アイデンティティの剥奪は、ユダヤ人に対する脅威と正しくも同一視されている。アイデンティティ信奉者が、ユダヤ人は悪魔の詐欺師だと信じているからである。』だが、彼は、ユダヤ人もその他の人々も、この公認の脅迫に対する異議を申し立てるべきではない、と述べている。

不幸にして、監視団体がアイデンティティ=グループをセンセーショナルに取り上げ、政府当局が迫害したところで、単に、アイデンティティ=キリスト教(Identity Christians)が持つ迫害信仰と千年王国的信仰を正当化するに過ぎない。私の意見では、アイデンティティ=キリスト教徒は、イスラム国家(Nation of Islam)イデオロギーの信奉者が、同じレベルの嫌がらせを受けない程度に自身の宗教を実践することを許されているのと同じように放っておかれるのが一番よいと思われる。継続的な摩擦は、予測しがたい反動を引き起こす見込みを増加させるだけにしかならないだろう。(原注29

イスラム国家の反ユダヤ主義、特にルイス=ファラカーンのそれが、よく知られ、広く批判されていることはどうでもよいのだが、義勇軍が何故同様の吟味をされていないのかは不明確なままだ。パーフレイは、続いて次のように述べている。『義勇軍陰謀文献における反ユダヤの付帯的意味合いを理解すること』は、『少なくとも部分的には、ユダヤ人過敏症のため』なのであり、『義勇軍運動における反ユダヤ主義は誇張されている。』(原注30

義勇軍運動を創立したと言われている人を一人挙げるとすれば、1994年2月にモンタナ義勇軍を共同設立したジョン=トロックマンである。トロックマン自身は、反ユダヤ主義者でも人種差別主義者でもないと述べていたが、義勇軍運動に彼が吹き込んだイデオロギーは、反ユダヤ主義で充満している。米国の主権性に対する脅迫の裏に誰がいたのか問われたとき、彼は次のように答えていた。『ワールブルグとロスチャイルド。国際金融。連邦準備金とその責任者アラン=グリーンスパン。「反キリストの銀行家」だ。』(原注31)トロックマンは、アーリア民族軍の会合における主要講演者であり、アーリア民族軍の敷地にあしげく通っていた。クリスチャン=アイデンティティの支持者として、彼は、義勇軍とその「信仰」を連結しようとしている。『私は神の法に従っている。』と彼はインタビュアーに語っていた。『黒人やユダヤ人は歓迎しよう。だが、米国が新しいイスラエルになるときには、母国に戻ってもらわねばならない。これが自然の法則というものだ−−種族は種族のもとへ行くべきなのだ(kind should go unto kind)』(原注32

トロックマンの反ユダヤ主義と人種差別主義は、最も懸念すべきものである。なぜなら、彼は、義勇軍イデオロギーを攻撃的に広めてきたからだ。ケネス=スターンに依れば、『1994年と1995年に合州国中で結成された全ての義勇軍グループの中で、トロックマンの義勇軍は、初めての顕著な組織であっただけでなく、国中に義勇軍プロパガンダを最も活動的に普及させたものでもあった。』(原注33)彼のグループは、その展開的な通信販売プログラムを通じて様々な文献とヴィデオを発送し、ラジオのトーク番組・テレビ・インターネットでその思想を普及させた。トロックマンとその仲間は、ミシガン義勇軍を設立する手助けをし、そのスポークスマンであるマーク=ケルンケ(ミシガンのマーク)は、自分の短波放送でモンタナ義勇軍を褒め称えていたものだった。

新兵募集文献で、トロックマンは、自分のプロパガンダを劇的に水で薄め、修正第二条について語り、政府を痛烈に批判していた。彼は、その結果、銃規制・ワコ・ルビー=リッジを危惧している人々を魅了している。そうした人々が反応してくれた後で初めて、彼は、「シオン長老の議定書」に基づいた反ユダヤ主義陰謀理論を示している文献を送っている。つまり、多くの義勇軍メンバーは自分がどのような運動に属しているのか正確に知らない可能性があるのだ。人種差別主義で反ユダヤ主義の理論を受け入れた人々は、次第に、自分たちが単なる銃規制活動家ではなく、人種差別煽動グループに参画していることを理解してきているであろう。

結論

全ての義勇軍メンバーがトロックマンの人種差別イデオロギーを十全に分かち合っているわけではないし、全ての義勇軍が差別煽動グループと関係しているわけでもない。実際のところ、義勇軍グループの中で、この運動が元々基づいていたイデオロギーがどれほど一般的に受け入れられているのかは誰にも分からないのである。だが、それを受け入れているものが差別煽動グループだということは確かである。この運動を産み出した文化とその鍵となる組織者の見解を考えれば、非常に多くの人々が、実際に、キリスト教徒の白人男性が排外政策と関わっていた時代に北米社会をもどそうとしていることは確かだと思われる。

左翼リバータリアン自身がライフスタイルと文化的な関心へ次第に撤退している時代に、反国権主義が叛逆的憎悪の運動に採用されることは非常に問題である。左翼が死んだも同然だと宣言されている時代に、義勇軍運動の正にその存在が、左翼の必要性を非常にはっきりとさせている。左翼リバータリアンは、この運動がどのようなものであるか知るべきであり、この運動との結合を求めるのではなく、批判するべきなのだ。

陰謀理論に説明を求めるなど鎮痛剤のようなものでしかない。鬱を避けるためにプロザックを求めることと同じなのだ。だが、陰謀理論という薬を飲みたいと思うことは、それ自体で、症状なのである。左翼理論が欠如している中で、今日生き残っている左翼主義者が行っている活動の大部分は、悪用と不公正−−IMFと世界銀行・多国籍企業・米国政府・CIAが行っている−−について報告する程度なのだ。こうしたジャーナリズム活動が必要であることは疑いもない。だが、こうした悪用を説明する、理性的な理論的枠組みにそって説明する理論と分析抜きにしては、陰謀理論、そして右翼へのドリフトは驚くほど単純に生じてしまいかねないのである。

グローバリゼーションと経営合理化というこの時代において、これまでになく、リバータリアンの伝統を持った真面目な左翼主義的表現が、ポピュリスト的表現を反動的にではなく進歩的にするために必要なのである。そうした表現が欠如していれば、左翼の潜在的ダイナミズムは右翼に表現を見いだし続けるであろう。事実はと言えば、左翼は偏執狂的人種差別主義者から学ぶことなど何もないのだ。どれほどその陰謀理論がサイケデリックであろうとも。


原注

1:ファランジストの農民であるアルベルト=パスターが、ロナルド=フレイザー著、スペインの血:スペイン市民戦争の口述史(ニューヨーク:Pantheon Books, 1979)で述べていた言葉である。この一節を指摘してくれたグレイ=シスコに感謝する。

2:アレキサンダー=コックバーン著、「誰が左翼か?誰が右翼か?、悪魔を打ち負かせ」、ネイション、6月12日号、1995年、820ページ

3:ジェイソン=マックゥイン著、「陰謀理論 vs 反体制ジャーナリズム?」、反体制報道評論、1996年冬号、2ページ

4:パーフレイは、オクラホマ市爆破事件(彼はこの事件をライヒスターク放火事件と同じだと見なしている)と義勇軍が無関係だと立証することで、義勇軍を弁護している。彼の突飛な憶測は、義勇軍運動をマクベイから引き離し、マクベイが爆破事件に関して無罪であることを示すために、様々なやり方で企図されている。例えば、マクベイと義勇軍のテリー=ニコラスを関係させるために諜報機関が影武者を使い、マクベイの臀部には自分の居場所を図示できる「マイクロチップ」が移植されている、と述べられているのである。パーフレイは、単に、自分が主張しているように、企業−政府−技術カルテルに対して、義勇軍を理にかなったやり方で防衛する以上のことを行っているのだ。実際、彼は義勇軍の見解の多くを共有しようとしているように思えるのである。彼は、悪名高い黒いヘリコプターの存在を支持するだけの証拠を発見してさえいるという。アダム=パーフレイ著、「オクラホマを抜け出すために」、反体制報道評論(冬号、1996)、60ページ〜67ページ、特に、63ページと67ページを参照。この論文は、アダム=パーフレイ著、カルトの喜悦、(Portland, OR: Feral House, 1995)から転載されたものである。

5:マイケル=ケリー著、「パラノイアへの道」、ニューヨーカー(1995年6月19日号)、60ページ〜75ページで引用されている。特に63ページを参照

6:モンタナ義勇軍のウェブサイトを参照

7:ケリー著、「パラノイアへの道」、61ページより。だが、ケリーの論文は、民衆が本物の社会不満を持ち、それらを本当に改善しようとした可能性を認めてはいないようだ。ケリーにとっては、資本主義に対する左翼社会革命すらも、陰謀分析に基づいていると思えるようだ。

8:モンタナ義勇軍ウェエブサイトより

9:デヴィッド=バーサミアン著、「義勇軍と陰謀理論:チップ=バーレト・ホリー=スクラーとのインタビュー」、Z Magazine、1995年9月号、29ページ〜35ページ、特に30ページを参照

10:フィリップ=スミス著、「既製品」、季刊 カバー=アクション、1996年春号の64ページ〜66ページの書評セクション、特に64ページを参照

11:ケネス=S=スターン著、平原の勢力:米国義勇軍運動と憎しみの政治学、Simon and Schuster刊、1996年、76ページより引用

12:スターン著、平原の勢力、71ページ

13:J=P=ネットル著ローザ=ルクセンブルグの要約版、Oxford University Press、1969年、270ページ〜271ページから引用

14:憲法協会、義勇軍とは何か、1994年、ウェブサイトより

15:スターン著、平原の勢力、37ページより引用

16:スターン著、平原の勢力、36ページより引用

17:憲法協会のウェブサイトより

18:モンタナ義勇軍ウェブサイトより

19:パーフレイ著、「オクラホマを抜け出すために」、67ページ

20:MOMウェブサイトより

21:スターン著、平原の勢力、82ページより引用

22:スターン著、平原の勢力、51ページより引用

23:スターン著、平原の勢力、89ページ

24:スターン著、平原の勢力、89ページより引用

25:ロイター通信社、1996年3月27日

26:スターン著、平原の勢力、84ページより引用

27:スターン著、平原の勢力、246ページ〜247ページ。スターンは、義勇軍の「本質的」反ユダヤ主義と人種差別主義に対して第四の理由を述べている。地元管理の主張は、単に、『偏見に対する口実』(covers for bigotry)だという。この理由は、支持できるものではない。左翼リバータリアンと社会的アナキストも地元管理を呼びかけているが、それは、民衆自主管理を達成する方法として地元管理を追求しているのであって、ある民族や別な民族を排斥するための口実としてではないのである。

28:バーサミアン著、義勇軍と陰謀理論、29ページ

29:パーフレイ著、オクラホマを抜け出すために、63ページ

30:パーフレイ著、オクラホマを抜け出すために、67ページ。こうした言明は、ジェイソン=マックゥインが編集している雑誌、反体制報道評論に掲載されていた。1992年には、マックゥイン自身が、ナチによって殺害されたユダヤ人の数を「数10万人」に縮小していた。ホロコースト見直し論に対する言語道断の寄稿文において彼は、『「ホロコースト」は、歴史的な人種迫害という人生話以上に大きく誇張されてきた』と述べていたのだった。(「ホロコーストか、逮捕か?」、アナーキー:武装した欲望、34号、1992年秋、17ページ)

31:スターン著、平原の勢力、71ページ

32:ダニエル=ヴォール著、「モンタナ義勇軍に精通する」、エスクワイア、1995年7月号、46ページ〜52ページ、特に48ページを参照

33:スターン著、平原の勢力、74ページ