大杉 栄 10


 

強がり      (1914年4月)


 極度の臆病と強がりとは恐らく僕の一生を貫く記録だ。
 自分の極度の臆病を、自分にも他人にも、曝け出す事を極度に嫌った僕の虚栄心は、又僕を極度の強がりにした。
 此の強がりは、何事に対しても、常に躊躇なく当面し冒険する事を僕に強いた。体力を練らした。智力をも磨かした。
 そして此の冒険は、極度に臆病なる僕自身の中に猶多少の強みのある事を往々見出さしめた。
 僕の少年時代の記憶や印象は、多くは、自分の弱みを曝露した瞬間の悲しみと、及び自分の強みを発見した瞬間の喜びとであった。そして殊に此の瞬間に無限の興味と感激とを味ったのであった。


 

獄中記      (1919年1-2月)


[市ヶ谷の巻]

 前科割り

 東京監獄の未決監に、「前科割り」と云うあだ名の老看守がいる。
 被告人共は裁判所へ呼び出されるたびに、一と馬車(此頃は自動車になったが)に乗る十二三人づつ一と組になって、薄暗い広い廊下のあちこちに一列にならべさせられる。そして其処で、手錠をはめられたり腰縄をかけられたりして、護送看守部長の点呼を受ける。「前科割り」の老看守は一と組の被告人に普通二人づつつく此の護送看守の一人なのだ。いつ頃から此の護送の役目についたのか、又いつ頃から此の「前科割り」のあだ名を貰ったのか、それは知らない。しかし、少なくとももう三十年位は、監獄の飯を食っているに違いない。年は六十にとどいたか、まだか、位のところだろう。
 被告人共が廊下に呼び集められた時、此の老看守は自分の受持の組は勿論、十組あまりのほかの組の列までも見廻って、其の受持看守から「索引」を借りて、それと皆んなの顔とを見くらべて歩く。「索引」と云うのは被告人の原籍、身分、罪名、人相などを書きつけた云わばまあカアドだ。
「お前は何処かで見た事があるな。」
 しばらく其のせいの高い大きなからだをせかせかと小股で運ばせながら、無事に幾組かを見廻って来た老看守は、ふと僕の隣りの男の前に立ちどまった。そして其の色の黒い、醜い、しかし無邪気なにこにこ顔の、如何にも人の好さそうな細い眼で、じろじろと其の男の顔をみつめながら云った。
「そうだ、お前は大阪にいた事があるな。」
 老看守はびっくりした顔付きして黙っている其の男に言葉をついだ。
「いや、旦那、冗談云っちゃ困りますよ。わたしゃこんど始めてこんなところへ来たんですから。」
 其の男は老看守の人の好さそうなのにつけこんだらしい馴れ馴れしい調子で、手錠をはめられた手を窮屈そうにもみ手をしながら答えた。
「うそを云え。」
 老看守はちっとも睨みのきかない、直ぐにほほえみの見える、例の細い眼をちょっと光らせて見て、
「そうだ、たしかに大阪だ。それから甲府にも一度はいった事があるな。」
と又独りでうなづいた。
「違いますよ、旦那、全く始めてなんですよ。」
 其の男はやはり切(しき)りともみ手をしながら腰をかがめていた。
「なあに、白らっぱくれても駄目だ。それから其の間に一度巣鴨にいた事があるな。」
 老看守は其の男の云う事なぞは碌に聞かずに、自分の云うだけの事を続けて行く。其の男も、もうもみ手はよして、図星を指されたかのように黙っていた。
「それからもう一度何処かへはいったな。」
「へえ。」
とうとう其の男は恐れ入って了った。
「何処だ?」
「千葉でございます。」
 窃盗か何かでつかまって、警察、警視庁、検事局と、いづれも初犯で通して来た其の男は、とうとうこれで前科四犯ときまって了った。そして、
「実際あの旦那にかかっちゃ、とても遣りきれませんよ。」と、さっきから不思議そうに此の問答を聞いていた僕にささやいて云った。

 僕の前科

 本年の三月に僕がちょっと東京監獄へ行った時にも、やはり此の老看守は、其の十二年前のやはり三月に僕が始めて見た時と同じように、まだ此の前科割りを続けていた。
「やあ、又来たな。こんどは何だ。大分暫く目だな。」
 老看守は其の益々黒く、益々醜くなった、しかし相変らず人の好さそうな顔をにこにこさせていた。
 僕は今、此の老看守に向った時の懐しいしかし恐れ入った心持で、僕自身の前科割りをする。
 と云っても、実は本当にはよく覚えていないんだ。つい三四ヶ月前にも、米騒動や新聞の事でたびたび検事局へ呼び出されていろいろ糺問されたが、其の時にもやはり自分の前科の事は満足に返事が出来なかった。そしてとうとう、
「あなたの方の調べには間違いなく詳しく載ってるんでしょうから。」
と云うような事で、検事にそれを読みあげて貰って、
「まあ、そんなものなんでしょう。」
と曖昧に済まして了った。ところが、あとでよく考えて見ると、検事の調べにも少々間違いがあったようだ。何んでも前科が一つ減っていたように思う。
 当時の新聞雑誌でも調べて見れば直ぐに判然するのだろうが、それも面倒だから、今はただ記憶のままに罪名と刑期とだけを掲げて置く。何年何月の幾日にはいって、何年何月の幾日に出たのかは、一つも覚えていない。監獄での自分の名の「襟番号」ですらも、一番最初の九七七と云うたった一つしか覚えていない。これは僕ばかりぢゃない。ためしに堺(利彦)にでも山川(均)にでも山口(孤剣)にでも、其他僕等の仲間で前科の三四犯もある誰れにでも聞いて見るがいい。皆んなきっと碌な返事は出来やしない。それから次ぎに列べた最初の新聞紙条例違犯(今は新聞紙法違犯と変った)の刑期も、ほんのうろ覚えではっきりは覚えていない。

 一、新聞紙条例違犯(秩序紊乱)   三ヶ月
 二、新聞紙条例違犯(朝憲紊乱)   五ヶ月
 三、治安警察法違犯(屋上演説事件) 一月半
 四、凶徒聚集罪  (電車事件)   二ヶ年
 五、官吏抗拒罪  (赤旗事件)   二年半
   治安警察法違犯

 これで見ると、前科は五犯、刑期の延長は六年近くになるが、実際は三年と少ししか勤めていない。先日ちょっと日本に立ち寄った革命の婆さん、プレシュコフスキイの三十年に較べれば、其の僅かに一割だ。堺も山川も山口も前科は僕と同じ位だが、刑期は山口や山川の方が一二年多い筈だ。僕なんぞは仲間のうちではずっと後輩の方なんだ。
 初陣は二十二の春、日本社会党(今はこんなものはない)の発起で電車値上(片道三銭から五銭になろうとした時)反対の市民大会を開いた時の凶徒聚集事件だが、三月に未決監にはいって其の年の六月に保釈で出た。そして其のほかの四つの事件は、此の凶徒聚集事件が片づくまでの、二年余りの保釈中の出来事なんだ。一から三までの三事件九ヶ月半の刑期も此の保釈中に勤めあげた。
 斯うして二ヶ月かせいぜい六ヶ月の日の目を見ては、出たりはいったりしている間に、とうとう二十四の夏錦輝館で例の無政府共産の赤旗をふり廻して捕縛され、それと同時に電車事件の方の片もついたのであった。そして当時の有りがたい旧刑法のお蔭で、新聞紙条例違犯の二件を除く他の三件は併合罪として重きによって処断すると云う事で、電車事件の二ヶ年も又既に勤めあげた屋上演説事件の一月半もすべて赤旗事件の二ヶ年半の中に通算されて了った。云わばまあゼロになっちゃったんだ。
 検事局では地団太ふんでくやしがったそうだ。そうだろう。保釈中に三度も牢にはいっているのに、保釈中だと云う事をすっかり忘れていたんだ。しかし僕の方ではお蔭さまで大儲けをした。が、其の年の十月から今の新刑法になって、同時に幾つ犯罪があっても一つ一つ厳重に処罰する事になったから、もう二度とこんないい儲けはあるまい。
 それで二十七の年の暮れ、丁度幸徳等の逆徒共が死刑になる一ヶ月ばかり前に、暫く目で又日の目を見て、それ以来今日までまる七年の間ずっと謹慎している。
 だから、僕の獄中生活と云うのは、二十二の春から二十七の暮までの、ちょいちょい間を置いた六年間の事だ。そして僕が分別盛りの三十四の今日まだ、危険人物なぞと云う物騒な名を歌われているのは、二十二の春から二十四の夏までの、血気に逸った若気のあやまちからの事だ。

 とんだ木賃宿

 尤も、其後一度ふとした事からちょっと東京監獄へ行った事がある。しかしそれは決して血気の逸りでも又若気のあやまちでもない、現に御役人ですら「どうも相済みません」と云って謝まって帰してくれた程だ。それは本年の事で、事情はざっと斯うだ。
 三月一日の晩、上野の或る仲間の家で同志の小集があった。その帰りに、もう遅くなってとても亀戸までの電車はなし、和田の古巣の涙橋の木賃宿にでも泊って見ようかと云う事になって、僕の家に同居していた和田久板の二人と一緒に、三輪から日本堤をてくって行った。此の和田も久板も今は初陣の新聞紙法違犯で東京監獄にはいっているが、本年の二科会に出た林倭衛の「H氏の肖像」と云うのは此の久板の肖像だ。
 吉原の大門前を通りかかると、大勢人だかりがしてわいわい騒いでいる。一人の労働者風の男が酔っぱらって過って或る酒場の窓ガラスを毀したと云うので、土地の地廻り共と巡査とが其の男を捕えて弁償しろの拘引するのと責めつけているのだった。 其の男はみすぼらしい風態をして、よろよろよろけながら切りに謝まっていた。僕はそれを見かねて仲へはいった。そして其の男を五六歩わきへ連れて行って、事情を聞いて、其処に集まっている皆んなに云った。
「此の男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それで済む筈だ。一体、何にか事のある毎に一々そこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上には成るべく御厄介をかけない事だ。大がいの事は、斯うして、そこに居合わした人間だけで片はつくんだ。」
 酒場の男共もそれで承知した。地廻り共も承知した。見物の弥次馬共も承知した。しかしただ一人承知の出来なかったのは巡査だ。
「貴様は社会主義だな。」
 始めから僕に脹れっ面をしていた巡査は、いきなり僕に食ってかかった。
「そうだ。それがどうしたんだ。」
 僕も巡査に食ってかかった。
「社会主義か、よし、それぢゃ拘引する。一緒に来い。」
「それゃ面白い。何処へでも行こう。」
 僕は巡査の手をふり払って、其の先きに立って直ぐ眼の前の日本堤署へ飛びこんだ。当直の警部補はいきなり巡査に命じて、僕等のあとを追って来た他の二人までも一緒に留置場へ押しこんで了った。
 これが当時の新聞に「大杉栄等検挙さる」とか云う事々しい見だしで、僕等が酔っぱらって吉原へ繰りこんで、巡査が酔いどれを拘引しようとする邪魔をしたとか、其の酔いどれを小脇にかかえて逃げ出したとか、いい加減な嘘っぱちをならべ立てた事件の簡単な事実だ。
 そして翌朝になって、警部が出て来て切りにゆうべの粗忽を謝まって、「どうぞ黙って帰ってくれ」と朝飯まで御馳走して置きながら、いざ帰ろうとすると、こんどは署長が出て来て、どうした事か再び又もとの留置所へ戻されて了った。
 斯くして僕等は、職務執行妨害と云う名の下に、警察に二晩、警視庁に一晩、東京監獄に五晩、とんだ木賃宿のお客となって、
「どうも相済みません。どうぞこれで御帰りを願います。」
と云う御挨拶で帰された。 
 元来僕は、酒は殆ど一滴も飲めない、女郎買いなぞは生れて一度もした事のない、そして女房と腕押しをしてもいつも負ける位の実に品行方正な意気地なしなのだ。

 奥さんも御一緒に

 それから、これは本年の夏、一週間ばかり大阪の米一揆を見物して帰って来ると、
「ちょっと警察まで。」
と云う事で、其の足で板橋署へ連れて行かれて、十日ばかりの間「検束」と云う名義で警察に泊め置かれた。
 しかしそれも、何にも僕が大阪で悪い事をしたと云う訳でもなく、又東京へ帰って何にかやるだろうと云う疑いからでもなく、ただ昔が昔だから暴徒と間違われて巡査や兵隊のサアベルにかかっちゃ可哀相だと云うお上の御深切からの事であったそうだ。立派な座敷に通されて、三度三度署長が食事の註文をききに来て、そして毎日遊びに来る女をつかまえて、
「どうです、奥さん。こんなところで甚だ恐縮ですが、決して御心配はいりませんから、あなたも御一緒にお泊まりなすっちゃ。」
などと真顔に云っていた位だから多分僕もそうと信じ切っている。当時の新聞に、僕が大阪で路傍演説をしたとか拘引されたとか、ちょいちょい書いてあったそうだが、それは皆んなまるで根も葉もない新聞屋さん達のいたづらだ。
 其他、斯う云う種類のお上の御深切から出た「検束」ならちょっとは数え切れない程あるが、それは何にも僕の悪事でもなければ善事でもない。
 とにかく、僕の事と云うと何処ででも何事にでも誤解だらけで困るので、先づこれだけの弁解をうんとして置く。

 初陣

 「さあ、はいれ。」
 ガチャガチャとすばらしい大きな音をさせて、錠をはづして戸を開けた看守の命令通りに、僕は今渡されて来た布団とお膳箱とをかかえて中へはいった。
「その箱は棚の上へあげろ。よし。それから布団は枕をこっちにして二枚折に畳むんだ。よし。あとは又あした教えてやる。直ぐ寝ろ。」
 看守は簡単に云い終ると、ガタンガタンガチャガチャと、室ぢゅうと云うよりも寧ろ家ぢゅう震え響くような恐ろしい音をさせて戸を閉めて了った。
「これが当分僕のうちになるんだな。」
と思いながら僕は突っ立ったまま先づあたりを見廻した。三畳敷ばかりの小綺麗な室だ。まだ新しい縁なしの畳が二枚敷かれて、入口と反対の側の窓下になるあと一枚分は板敷になっている。其の右の方の半分のところには、隅っこに水道栓と鉄製の洗面台とがあって、其の下に箒と塵取と雑巾とが掛かっていて、雑巾桶らしいものが置いてある。左の方の半分は板が二枚になっていて、其の真ん中に丁度指をさしこむ位の穴がある。何んだろうと思って、其の板をあげて見ると、一尺程下に人造石が敷いてあって、其の真ん中に小さなとり手のついた長さ一尺程の細長い木の蓋が置いてある。それを取りのけるとプウンとデシンらしい強い臭がする。便所だ。早速中へはいって小便をした。下には空っぽの桶が置いてあるらしくジャジャと音がする。板をもと通りに直して水道栓をひねって手を洗う。窓は背伸びして漸く目のところが届く高さに、幅三尺高さ四尺位についている。ガラス越しに見たそとは星一つない真暗な夜だった。室の四方は二尺位づつの間を置いた三寸角の柱の間に厚板が打ちつけられている。そして高い天井の上からは五燭の電灯が室ぢゅうをあかあかと照らしていた。
「これなら上等だ。コンフォルテブル・エンド・コンヴェニエント・シンプル・ライフ!」
と僕は独りごとを云いながら、室の左側の棚の下に横へてある手拭掛けの棒に手拭をかけて、さっき着かえさせられて来た青い着物の青い紐の帯をしめ直して、床の中にもぐりこもうとした。
「が皆んなは何処にいるんだろう。」
 僕は四五日前の市民大会当日に拘引された十人ばかりの同志の事を思った。そして入口の戸の上の方についている「のぞき穴」からそっと廊下を見た。さっきもそう思いながら左右をきょろきょろ見て来た廊下だ。二間ばかり隔てた向う側にあの恐ろしい音を立てる閂様の白く磨き澄まされた大きな鉄の錠を鼻にして、其の上の「のぞき穴」を目にして、そして下の方の五寸四方ばかりの「食器口」の窓を口にした巨人の顔のような戸が、幾つも幾つも並んで見える。其の目からは室の中からの光りが薄暗い廊下にもれて、其の曲りくねった鼻柱はきらきらと白光りしている。しかし、厚い三寸板の戸の内側を広く外側を細く削った此の「のぞき穴」は、そとからうちを見るには便宜だろうが、うちからそとを窺くにはまづかったので、こんどは蹲(しゃ)がんで、そっと「食器口」の戸を爪で開けて見た。例の巨人の顔は前よりも多く、此の建物の端から端までのが皆んな見えた。しかし其の二十幾つかの顔のどの目からも予期していた本当の人間の目は出て来なかった。そして皆んなこっちを睨んでいるように見える巨人の顔が少々薄気味悪くなり出した。
「もう皆んな寝たんだろう。僕も寝よう。皆んなの事は又あしたの事だ。」
 僕はそっと又爪で戸を閉めて、急いで寝床の中へもぐりこんだ。綿入一枚、襦袢一枚の寒さに慄えてもいたのだ。
 すると、室の右側の壁板に、
「コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。」
と音がする。僕は飛び上がった。そしてやはり同じように、コツコツ、コツコツ、コツコツと握拳で板を叩いた。ロシアの同志が、獄中で、此のノックで話をする事はかねて本を読んでいた。僕はきっと誰れか同志が隣りの室にいて、僕に話しかけるのだと思った。
「あなたは大杉さんでしょう?」
しかし其の声は、聞き覚えのない、子供らしい声だった。
「え、そうです。君は?」
 僕も其の声を真似た低い声で問い返した。知らない声の男だ。それだのに今はいって来たばかりの僕の名を知っている。僕はそれが不思議でならなかった。
「私は何んでもないんですがね。ただお隣りから言つかって来たんですよ。皆んなが、あなたの来るのを毎日待っていたんですって。そいで、今新入りがあったもんですから、きっとあなただろうと云うんで、ちょっと聞いてくれって頼まれたんですよ。」
「君のお隣りの人って誰?」
僕は事の益々意外なのに驚いた。
「〇〇さんと云う焼打事件の人なんですがね。其の人と山口さんが向い同士で、毎日お湯や運動で一緒になるもんですから、あなたの事を山口さんに頼まれていたんです。」
「其の山口とはちょっと話しが出来ないかね。」
「え、少し待って下さい。お隣りへ話して見ますから。今丁度看守が休憩で出て行ったところなんですから。」
 暫くすると、食器口を開けて見ろと云うので、急いで開けて見ると、向う側の丁度前から三つ目の食器口に眼鏡をかけた山口の顔が半分見える。
「やあ、来たな、堺さんはどうした? 無事か?」
「無事だ。きのうちょっ警視庁へ呼ばれたが、何んでもなかったようだ。」
「それゃ、よかった。ほかには、君のほかに誰れか来たか。」
「いや、僕だけだ。」
と僕は答えて、ひょいと顔を引っこめた山口を「おい、おい」と又呼び出した。
「ほかのものは皆んな何処にいるんだ、西川(光二郎)は?」
「シッ、シッ。」
 山口はちょっと顔を出して、斯う警戒しながら、又顔を引っこまして了った。コトンコトンと遠くの方から靴音がした。僕は急いで又寝床の中へもぐりこんだ。靴音はつい枕許まで近く聞えて来たが、又だんだん遠くのもと来た方へ消えて行った。
「コツコツ、コツコツ、コツコツ。」
と又隣りで壁を叩く音がした。そして此の隣りの男を仲介にして、其の隣りの〇〇と云う男と、暫く話しした。西川は他の二三のものと二階に、そして此処にも僕と同じ側にもう一人いる事が分った。
 僕はもう面白くて堪らなかった。きのうの夕方拘引されてから、始めての入獄をただ好奇心一っぱいにこんどはどんな処でどんな目に遭うのだろうとそれを楽しみに、警察から警視庁、警視庁から検事局、検事局から監獄と、一歩一歩引かれるままに引かれて来たのが、これで十分に満足させられて、落ちつく先のきまった安易さや、仲間のものと直ぐ目と鼻の間に接近している心強さなどで、一枚の布団に柏餅になって寝る窮屈さや寒さも忘れて、一二度寝返りをしたかと思ううちに直ぐに眠って了った。

 野口男三郎君

 翌日は雨が降って、そとへ出て運動が出来ないので、朝飯を済ますと直ぐに、三四人づつ廊下で散歩させられた。
 僕は例の食器口を開けて、皆んなが廊下の廻りを廻って歩くのを見ていた。山口と一緒のゆうべ隣りの男を仲介にして話した男とも目礼した。そしてもう一人の同志と一緒にいるのが、当時有名な事件だった寧斎殺しの野口男三郎だと云う事は、其の組が散歩に出ると直ぐ隣りの男から知った。男三郎も、其の連れから僕の事を聞いたと見えて、僕と顔を合せると直ぐに目礼した。
 男三郎とはこれが縁になって、其後二年余りして彼れが死刑になるまでの間、碌に口もきいた事はないのだが大ぶ親しく交わった。其の間に僕は、出たりはいったりして二三度暫くここに滞在し、其他にも巣鴨の既決監から余罪で幾度か裁判所へ引き出されるたびに一晩は必ずここに泊らされた。そして殊に既決囚になっている不自由な身の時には、随分男三郎の厄介になった。男三郎自身の手から或は雑役と云う看守の小使のようになって働いている囚人の手を経て、幾度か半紙やパンを例の食器口から受取った。僕もそとへ出たたびに何にかの本を差入れてやった。
 男三郎は獄中の被告人仲間の間でも頗る不評判だった。典獄はじめいろんな役人共に切りに胡麻をすって、其のお蔭で大ぶ可愛がられて、死刑の執行が延び延びになっているのも其のためだなぞと云う話だった。面会所のそばの、自分の番の来るのを待っている間入れて置かれる、一室二尺四方ばかりの俗にシャモ箱と云う小さな板囲の中には、「極悪男三郎速かに斬るべし」と云うような義憤の文句が、あちこちの壁に爪で書かれていた。
 僕なぞと親しくしたのも、一つは、自分を世間に吹聴して貰いたいからであったかも知れない。現にそんな意味の手紙を一二度獄中で貰った。其の連れになっていた同志にもいつもそんな意味の事を云っていたそうだ。
 要するに極く気の弱い男なんだ。其の女の寧斎の娘の事や子供の事なぞを話す時には、いつも本当に涙ぐんでいた。子供の写真は片時も離した事がないと云って、一度それを見せた事もあった。又、これは自分が画いた女と子供の絵だと云って、雑誌の口絵にでもありそうな彩色した絵を見せた事もあった。どうしても何にかの口絵をすき写ししたものに違いなかった。しかし絵具はどうして手に入れたろう。余程の苦心をして何にかから搾り取って寄せ集めでもしたものに違いない。が、何んの為めにそれだけの苦心をしたのだろう。しかもそれは、自分の女や子供の絵ではなく、全く似てもつかない他人の顔なのだ。
 寧斎殺しの方は証拠不十分で無罪になったとか云って非常に喜んでいた事があった。又、本当か嘘か知らないが、薬屋殺しの方は別に共犯者があって其の男が手を下したのだが、うまく無事に助かっているので、其の男が毎日の食事の差入や弁護士の世話をしてくれているのだとも話していた。そして或時なぞは、何にか其の男の事を非常に怒って、法廷ですっかり打ちあけてやるのだなどといきごんでいた事もあった。
 其後赤旗事件で又未決監にはいった時、或日そとの運動場で散歩していると、男三郎が二階の窓から顔を出して、半紙に何にか書いたものを見せている、それには、
「ケンコウヲイノル。」
と片仮名で大きく書いてあった。僕は黙って頷いて見せた。男三郎もいつものようににやにやと寂しそうに微笑みながら、二三度お辞儀をするように頷いて、暫く僕の方を見ていた。
 其の翌日か、翌々日か、とうとう男三郎がやられたと云ううわさが獄中にひろがった。

 出歯亀君

 出歯亀にもやはりここで会った。大して目立つ程の出歯でもなかったようだ。いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑いながら、ちょこちょこ走りに歩いていた。そして皆んなから、
「やい、出歯亀。」
なぞとからかわれながら、やはりにこにこ笑っていた。刑のきまった時にも、
「やい、出歯亀、何年食った?」
と看守に聞かれて、
「へえ、無期で。えへへへ。」
と笑っていた。

 強盗殺人君

 それから、やはりここで、運動や湯の時に一緒になって親しい獄友になった三人の男がある。
 一人は以前にも強盗殺人で死刑の宣告を受けて、終身懲役に減刑されて北海道へやられている間に逃亡して、又強盗殺人で捕まって再び死刑の宣告を受けた四十幾つかの太った大男だった。もう一人は、やはり四十幾つかの上方者らしい優男で、これは紙幣偽造で京都から控訴か上告かして来ているのだった。そして最後のもう一人は、六十幾つかの白髪豊かな品のいい老人で、詐偽取財で僕よりも後にはいって来て、僕等の仲間にはいったのだった。
 強盗殺人君はよく北海道から逃亡した時の話をした。一ヶ月ばかり山奥にかくれて、手当り次第に木の芽だの根だのを食っていたのだそうだが、
「何んだって食えないものはないよ、君。」
と入監以来どうしても剃刀を当てさせないで生えるがままに生えさせている粗髯を撫でながら、小さな目をくるくるさせていた。
 そして、
「どうせ、いつ首を絞められんだか分らないんだから・・・・。」
と云って、出来るだけ我が儘を云って、少しでもそれが容れられないと荒れ狂うようにして乱暴した。湯も皆なよりは長くはいった。運動も長くやった。お蔭様で僕等の組のものはいろいろと助かった。此の男の前では、どんな鬼看守でも、急に仏様になった。看守が何にか手荒らな事を囚人や被告人に云うかするかすれば、此の男は仁王立ちになって、ほかの看守がなだめに来るまで怒鳴りつづけ暴ばれつづけた。其の代り少しうまくおだてあげられると、猫のようにおとなしくなって、子供のように甘えていた。
 或時なぞは、窓のそとを通る女看守が、其の連れて来た女の被告人か拘留囚かがちょっと網笠をあげて男共のいる窓の方を見たとか云って、うしろから突きとばすようにして叱っているのを見つけた彼れは、終日、
「伊藤の鬼婆あ、鬼婆あ、鬼婆あ!」
と声をからして怒鳴りつづけていた。看守の名と云っては、誰れ一人のも覚えていない今、此の伊藤と云う名だけは今でもまだ僕の耳に響き渡って聞える。何んでも、もう大ぶ年をとった、背の高い女だった。其の時には、丁度僕も、雑巾桶を踏台にして女共の通るのを眺めていた。
 仲間のものには極く人の好い此の強盗殺人君が、たった一度、紙幣偽造君を怒鳴りつけた事がある。偽造君は長い間満州地方で淫売屋をしていたのだそうだ。そして其の度々変えた女房と云うのは皆んな内地で身受けした芸者だったそうだ。偽造君はそれらの細君にもやはり商売をさせていたのだ。
「貴様はひどい奴だな。自分の女房に淫売をさせるなんて。此の馬鹿ッ。」
と殺人君は運動場の真ん中で、恐ろしい勢で偽造君に食ってかかった。それを漸くの事で僕と詐欺老人とで和めすかした。
「俺は強盗もした。火つけもした。人殺しもした。しかし自分の女房に淫売をさせるなぞと云う悪い事はした事がない。君はそれでちっとも悪いとは思わんのか。気持が悪い事はないのか。」
 漸く静まった彼れは、こんどはいつものように「君」と呼びかけて、偽造君におとなしく詰問した。
「いや、実際僕はちっとも悪い気もせず、又悪いとも思っちゃいない。まるで当り前のようにして今までそうやって来たんだ。それに僕の女房はいつでも一番沢山儲けさしてくれたんだ。」
 偽造君はまだ蒼い顔をして、おづおつしながら、しかし正直に白状した。品はいいがしかし何処か助平らしい、いつも十六七の女を妾にしていると云う詐欺老人は「アハハハ」と大きな口を開いて嬉しそうに笑った。殺人君は呆れた奴等だなと云うような憤然とした顔はしながら、それでも矢張りしまいには詐欺老人と一緒になってにこにこ笑っていた。
 偽造君と詐欺老人は仲善く一緒に歩いていた。二人は「花」の賭け金の額を自慢し合ったり、自分の犯罪のうまく行った時の儲け話などをしていた。偽造君は前にロシア紙幣の偽造をして、随分大儲けをした事があるんだそうだ。詐欺老人のは大抵印紙の消印を消して売るのらしかった。そして老人は「こんど出たら君がやったような写真で偽造をして見ようか。」
と云いながら、切りに偽造君に、写真でやる詳しい方法の説明を聞いていた。
 僕は折々差入の卵やパンを殺人君に分けてやって、其の無邪気な気焔を聞くのを楽しみにしていた。
 殺人君は宣告後三年か四年か無事でいて、多分証拠が十分でなかったのだろうと思うが、其後又死一等を減ぜられて北海道へやられたそうだ。


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