大杉 栄 の文章6


 

クロポトキン総序    (1920年5-7月)


 アジアの新地図を作り、新地理を書くことについての、クロポトキンの科学的研究の態度は大抵これで分かったことと思う。が、クロポトキンのこの科学的研究の素養については、さらに遡ってその少年時代に受けた教育を見なければならない。
 クロポトキンが近侍学校--日本の幼年学校と士官学校とを合わせたようなもの--で受けた教育ほど羨しいものはない。先生はみな当時ロシアで第一流の学者であった。実際、ごく年少の生徒にある課目の一番の初歩を教えるのには、どんな先生でも決して善すぎるということはない。ただ書物だけで講義をするのではない。すべて実地について、生徒自身をしてその実験をやらせた。
 書物で初等幾何学を教わると、すぐに野外に出て、初めは棹や測量用の鎖で、やがては観象儀やコンパスや測量台などで、その復習をした。そしてやや進んで測量学や築城学を教わる時には、反射羅針盤をあてがわれて、「この羅針盤で角度を量り、歩測で距離を計って、某々の湖、某々の道路、某々の公園の見取図を作って来い」と命ぜられる。生徒等は軍服の大きなポケットにライ麦のパンの幾きれかを詰めこんで、毎日朝早くから数マイル隔たった公園へ出かけて、地図を引きながら美しい木影の路や小川や湖の畔を歩き廻る。かくしてできあがったみんなの地図はやがて正確な地図と対照される。
 「私にはこの測量が深い悦楽の泉であった。その独立の仕事、幾百年を経た老樹の下の孤独、何ものにも妨げられずに楽しむことのできる森林生活、および仕事そのものの興味--これらのすべてのものが私の心に深い痕跡を残した。私が後にシベリアの探検家になり、また友人の幾人かが中央アジアの探検家になったのも、その基礎はすでにこの測量によって準備されていたのだ。」

 それに生徒の方でもまた、この方針に従いかつそれに促されて自己教育をした。独立的研究をすらもした。
 クロポトキンは年十五の時にはもう経済学の独立的研究をやっている。それは当時経済学熱の絶頂にあった兄アレクサンドルの勧めで、村の教会のお祭りである「カザンの聖処女祭」の市を研究して、そこへどれだけの商品が持ちこまれどれだけの商品が売れたかの統計を作ったのだ。クロポトキン自身もそれを「平民生活の探検者として最初の自立」だと言い、「この小事業は私を農民等にさらに一歩近づかせて、新たな方面から彼等を観察させ、なお後年シベリアでこれが非常な助けになった」と言っている。そしてその統計そのものについては、「自分ながら驚くほど成功した。今から考えて見て、私のその統計は多くの同じような統計に勝るとも劣るところはなかった」と自讃している。
 この兄がクロポトキンの知識的発達にどれほど与っているか知れない。しかしそのことはここでは省く。
 そしてクロポトキンは十六の時にもう歴史の著述と独立研究とをしている。彼は授業時間中に作ったノートの助けをかりて、またいろんな書物の助けをもかりて、自己用の初期中世史の一講義を書きあげた。その翌年彼はローマ法王のボニファス八世と王権との争いに特殊の注意を持って、無理やり帝室図書館にはいりこんで、古代チュートン語と古代フランス語との豊富な古文書的源泉に親しんだ。
 「まったく新しい社会の構成法や、錯雑した関係のまったく新しい世界が、私の前に現れた。それ以来、近代的見解によって演繹された著作よりも、歴史の古文書的源泉に溯る方が遥かにいいことを覚った。近代的見解には、近代政治学の偏見や、または単なる一時的思潮の信条が、その時代の実生活を覆いかくしている。」
 クロポトキンのこの中世史研究は、その後彼にまったく独創的な史的観察を抱かせて、『相互扶助論』の中の最傑作「中世都市における相互扶助」二篇を形づくらせる基礎となった。
 クロポトキンはまた十八の時に学校用の物理学教科書を編纂している。陸軍の学校で使う大がいの教科書はその当時の第一流の学者によって特別に書かれたものであった。クロポトキン等の物理学の教科書もかなりいいものであった。が、どちらかと言えば、それは少し旧式のものになっていた。で、クロポトキン等の先生はその独特の教授法でやって行って、教室で使うその教材の摘要を作り始めた。そして数週間たつと、先生はクロポトキンにその摘要を書く役目を仰せつけた。先生は本当の教育家としての態度に出て、そのいっさいをクロポトキンに任せて、自分はただ校正刷りを読むだけだった。熱や電気や磁気の章は全然書き直さなければならなかった。クロポトキンはそれを書きあげた。そして彼は学校用に印刷されたほぼ完全な教科書を作った。
 その年にクロポトキンはまた化学の研究をはじめた。先生はやはり第一流の学者で、すでに有益な独創的研究を遂げていた人であった。クロポトキン等は五、六人で組んで、一友人の家に実験室をつくって、ステックハルトの教科書の中に初学者に勧めている簡単な機械を備えた。そして日曜日や祭日の全部をその実験に暮した。
 当時、すなわち一八五九年から六一年にかけては、諸正確科学に対する趣味の世界的勃興の時代であった。グローヴやクロージァスやセガン等は、熱およびその他のあらゆる物理的力が運動の変態に過ぎないことを証明した。ヘルムホルツは音響についてのその劃時代的研究をはじめた。チンダルはその通俗講演の中で分子や原子についての暗示をした。ゲルハルトとアヴォガドロとは元素交換の法則を発表した。メンデレーフ、ロタール、マイヤーおよびニューランズは諸元素の周期律を発見した。ダーウィンはその『種の起源』によっていっさいの生物学的科学を革命した。また、カール・フォクトとモレショットとは、クロード・ベルナールのあとをついで真正の心理学の基礎を生理学に置いた。科学勃興の大時代であったのだ。そして人心を自然科学に向わしめたこの大潮流はとうてい不可抗的のものであった。クロポトキンもやはりこの潮流の中に巻きこまれた。そして彼は、「あとで何の研究をするにしても、自然科学の深い知識とその方法に習熟することがすべての基礎にならなければならぬということを覚ったのであった。」

 クロポトキンの著書のすべてに一貫するもっとも深い特徴は、この「自然科学の深い知識とその方法との習熟」である。本当に正直な近代科学的精神の横溢である。
 ぼくはさきにクロポトキンはその科学者としての野心をまったく放擲したと言った。しかしそれは単なる科学者としての野心を棄てただけのことで、科学そのものを見放した訳ではない。また、自分の人間の一部分を形づくっている科学者を殺してしまった訳ではない。その後といえども自然科学の研究にはできるだけ尽くしている。そしてその研究とともに、諸社会科学の新見地の上に自然科学の方法そのままを適用することに全力を尽くしている。
 が、そのことはまたあとで言うとして、もう少しクロポトキンの自然科学について説こう。
 一八七四年、クロポトキンが初めてセント・ピーター・ポール要塞に投獄される数日前のことだ。彼はフィンランドとロシアとの地質的構成についての報告書を書き終って、それを地理学協会で朗読しなければならないことになっていた。厚い結氷の層が中部ロシアをまでも蔽うていた、というクロポトキンの新発見は、当時の多くの学者等にあまりに極端な仮説だと考えられた。で、いったんきまった朗読の日を一週間延ばして、十分な討論に附することになった。
 「盛んな討論があった。そして少なくともある一点だけは私が勝った。ロシアの洪積時代についてのいっさいの旧い学説はまったく根拠がない、で、その全問題を調査し直して、新しい出発点を求めなければならない、ということは認められた。そして私はわが国一流の地質学者バロボ・ド・マルニイの次のような言葉を聞いて満足した。『氷堆が蔽うていたか否かは別として、とにかく流氷の作用について従来われわれの言ったいっさいは、実際のいかなる探検にも根拠のなかったことを認めなければならない。』」
 その日彼は地勢地理課の課長になるようにと勧められた。しかし彼は内心その晩は「第三部」の牢屋で寝なければなるまいと決心していたのであった。はたしてその翌日彼は拘引された。
 そして彼は要塞の独房の中で、この報告書を訂正増補して、二冊の大きな本になるほどの原稿を書きあげた。その一冊はさきにも言ったごとく、兄アレクサンドルの監督の下に地理学協会から出版された。その後クロポトキンが脱獄してイギリスに亡命し、レヴァショフという匿名で雑誌『ネェチュア』と新聞『タイムズ』とに科学上の雑報や新刊批評を書いて生活の資を得ていた時、『ネェチュア』の副主幹ケルシイからそうとは知らずにこの自分の著書の評論を頼まれて、ひどく当惑したという面白い話もある。
 遠い過去の、人類が生れ出たばかりの頃に、スカンジナヴィアやフィンランドの向うの北方の諸群島に、年々氷が積り積っていた。そしてこの積り積った広大な氷の層が、漸次ヨーロッパの北部に襲うて来て、やがては徐々としてその中部地方にまでも拡がった。生物はこの半球のこの部分にも住んでいた。が、この広大な氷原から来る氷の息に吹かれて、惨憺たる不安な生活を送りながら南へ南へと逃げた。憐れな弱い無智な人間もその覚束ない生存をを続けるのにあらゆる艱難辛苦を嘗めた。幾千万年かが過ぎ去った。氷が解け始めた。湖水時代が来た。無数の湖が凹地にできた。みすぼらしい亜北植物がそれらの湖のまわりの底も知れない沼地をおずおずと侵し始めた。再びまた、幾千万年かが過ぎ去った。ごく緩慢な乾燥作用が始まった。諸生物が南の方から徐々としてその侵冦を始めた。そして今日ではわれわれはその乾燥作用がよほど迅速になった時代にいるのだ。乾燥した平野や草原ができて来た。人類はこの乾燥作用を妨げる方法を見出さなければならなくなった。現に中央アジアはこの乾燥作用の犠牲となり、東南ヨーロッパもそれに脅かされている。
 この氷原が中央アジアにまで及んでいたという確信は、当時多くの学者の間に異端視されていた。が、今日では、クロポトキンのこの新発見は大体において認めないものはない。

 その後クロポトキンは『エンサイクロペディア・ブリタニカ』にも多くの科学上の論文を書いているが、それにもまして彼自身の科学上の研究ともなりまた科学界の貢献ともなったのは、一八九二年から一九○三年に至る十年間、彼が雑誌『十九世紀』の「最近科学」欄を受持ったことだ。
 これはその後は誰が担任しているか知らないが、クロポトキンの前にはハクスレーがやっていた。さすがのクロポトキンもそのあとを引受けるには多少の躊躇があったようだ。しかしクロポトキンのその諸論文は最近に一まとめにして出版されるという話があったが、その後戦争や何かで立消えになっているらしい。
 とにかくクロポトキンは、そのお陰で、最近科学のいっさいの発見、いっさいの新説に通ずることができた。そしてそれらの発見や新説の研究の結果、ますます科学的方法の上に深い確信を抱くようになった。そのことは『近代科学と無政府主義』の再版の序文にも言っているし、その本文の中にも詳しく論じている。

 クロポトキンの著書全部の大体の単なる解説、というのが中途でクロポトキンをしてそれらの著書を書かしめた頭の出来具合の説明に変り、それが同時にまたうまくクロポトキンの無政府主義以外の科学的著述の自然の解説になってしまった。クロポトキンの生涯をフィンランドでの改宗を境として、前後の二期に分ければ、その前期のほとんどすべての著述、もしくは著述の卵が紹介されてしまった訳だ。
 革命家としてのクロポトキンの著述、それはもとよりすこぶる重要なものだ。しかしその本当の重要さは、やはりその科学者としての著述の重要さが分らない間は、本当には分らない。
 さきには僕は巣鴨の獄中から幸徳に宛てた手紙の一節を書き抜いたが、その一節の前にはこんなことが書いてある。
 「この頃読書をするのにはなはだ面白いことがある。本を読む。バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナーキストでも、まず巻頭には天文を述べている。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会を論じている。」
 「やがて読書にあきる。眼をあげてそとを眺める。まず眼にはいるものは日月星晨、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、さらに下っては向うの監舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのことをそのまま実地に復習するようなものだ。そして僕は、僕の自然に対する知識のはなはだ浅いのに、いつも恥じ入る。これから大いにこの自然を研究して見ようと思う。」
 「読めば読むほど、考えれば考えるほど、どうしてもこの自然は論理だ。論理は自然の中に完全に実現されている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現されなければならない。」
 「僕はまた、この自然に対する研究心とともに、人類学や人類社会史に強く僕の心を引かれて来た。こんなふうに、一方にはそれからそれへと泉のように学究心が湧いて来ると同時に、獄中の強制的無為無活動はいよいよますます:叛逆: 心をそそってくる。この学究と:叛逆: との二つの野心、僕等はそれを一つは監獄で一つは社会で満足させて行くんだね。」
 この「自然は論理だ」の項は少々可笑しいが、とにかくクロポトキンの無政府主義文書には自然科学を説いていることがすこぶる多い。しかしここに注意して置かなければならないのは、それがヨーロッパの多くの自然科学者がやったような、また日本でも丘浅次郎博士や石川千代松博士がやっているような、いわゆる生物学的社会学では決してなかったことだ。クロポトキンは自然科学の事実もしくは原則をそのまま人類社会学の上に適用する、幼稚きわまるそしてまた危険きわまる類推法なぞには決して依らなかった。彼はどこまでも本当の科学者であった。彼が社会科学を論ずる上に自然科学を説いたのは、一方には自然科学の帰納的方法をそのまま社会科学の上に適用せんとし、他の一方にはかくして自然科学の傾向と社会科学の傾向との上に一致を求めて、そこにその一大世界観を建てようとしたのであった。
 そしてこの一大世界観が、クロポトキンにとっては、その無政府主義そのものなのである。
 「無政府主義は自然全体を包括する。--すなわちその中の人類社会の生活とその経済的政治的道徳的問題をも含む--いっさいの現象の機械的説明に基礎を置く世界観である。その目的は一個の概括的結論の中に、自然のいっさいの現象--したがってまた社会生活の--を包含する総合哲学を建設することである。」(クロポトキン著『無政府主義の哲学と理想』)
 『無政府主義の哲学と理想』は、まず最近の諸自然科学の傾向および諸社会科学の傾向を述べて、そこに立脚する宇宙の科学的概念すなわち総合科学としての無政府主義を論じ、さらに進んで「自然科学的帰納法によって得られた概括的結論を人類諸制度にも適用しようとする試み、また人類社会の各単位に対して最大量の幸福を実現する目的をもって自由平等友愛の途上における人類の将来の歩武を予見しようとする試み」(クロポトキン著『近代科学と無政府主義』)で、社会哲学として無政府主義を説いたものである。そしてその『近代科学と無政府主義』はそれをさらにいっそう詳細にしたものということができよう。

 近代の哲学にはまったく相反するがごとき方向に流れる二大潮流がある。
 その一つは、実験科学の著しい進歩につれて、その方法にまったく安住している人々の一派である。この人々といえども自ら全真理を捉えているとはもとより信じていない。彼等自らも、きわめて小さな、しかもあちこちに散らばっている断片を持っているに過ぎないことは、十分に承知している。しかし彼は、真理であると認められたまた認めらるべきいっさいが、すなわち彼等の精神を満足せしめ得べきいっさいが、科学的方法によってしかもそれによってのみ得られると堅く信じている。しかるに他の一方に、この科学を無視しているのではなく、むしろそれに非常な注意と敬意とを払いつつ、いわゆる科学的方法に十分な満足を感じ得ない人々の一派がある。すなわちこの人々の精神ことに情感は科学的方法によっては満足され得ないある要求を持っている。
 今僕がこの二大潮流の簡単な説明の中に、その一方に対しては精神、他の一方に対しては精神ことに情感と言ったごとく、前者は理知もしくは理性を重んずるとともに、後者は本能もしくは感情を尚ぶ傾向がある。そしてこのいずれもの傾向に濃淡強弱の度のいろいろあることは言うまでもない。しかし概括して、前者を科学派(サイエンティズム)、もしくは主知派(インテレクテュアリズム)、後者を実際派(プラグマティズム)、もしくは非理知派(アンチ・インテレクテュアリズム)と呼ぶのに差支えはあるまい。
 実際派は科学派の主知主義と主理主義(ラショナリズム)とを非難して、科学を利用しつつ、科学のそとにまたは時として科学に反対して真理を得ようとする。科学派の重んずる理知や理性を人間の皮相の能力であると見做して、さらにその根本のものであると認める感情や本能や傾向や欲望やまたは憧憬を尚ぶ。この実際派に拠れば、理知や理性の所産たる科学は、自然に対するわれわれの能力を確かめるものに過ぎない。事物の利用をわれわれに教えるものに過ぎない。その本質については何事をも教えない。われわれ自身がいかなる本質のものであり、われわれが何処から来たり、何処に行き、また行かんとしつつあるかは、われわれ自身の非理知的根抵または時としては無意識の中に求めなければならない。われわれの暗い憧憬や本能は、われわれの理性の明るい判断よりも、遥かによくそれらのことを教えてくれる。科学は無視し蔑視すべきものではないが、しかし第二義的の知識に過ぎない。第一義の本当の知識はわれわれの情感的直覚の中に求めなければならないと言う。
 科学派と実際派とを比較する時、すぐわれわれの頭の中に浮かんで来るのは、科学の破産という言葉である。この科学の破産によって実際派が産れ、実際派の勃興によって科学の破産が確かめられた、としばしば言われている。
 このいわゆる科学の破産は、既成科学そのものの不完全と、およびある科学者等の態度の愚昧と不遜とから生じたものである。すなわちある学者等は科学の急速な進歩に酔わされて、科学の万能を信じまた科学の既成法則をもって一定不変の真理であるかのごとく説いた。けれども科学そのもののさらに新しい進歩は、その既成のしかも根本の、多くの法則を打破った。
 すなわちさきのいわゆる法則は、数学者の常に用いる、第一近似価であったのだ。そしてこの第一近似価は、それが発見されたのと同じ科学的方法で、必然にかつ当然にさらに第二もしくは第三の近似価に移ろうととしているのだ。そしてまた、この第一近似価の破滅に乗じて、従来の科学の不完全とある科学者の愚昧と不遜とまたいわゆる科学的方法のある方面における無能とを批評しつつ、さらに異なれる方法によって第二もしくは第三の近似価を求めようとしているのが、かの実際派の哲学論者であるのだ。
 しかるに、科学派の学者は、精神と物質との一元論から出発して、この二つの世界のいずれの研究にも科学的方法をもって進もうとする。また、実際派の哲学者は、そのいわゆる事物の皮相たる物質界の研究を科学者のなすがままに委ねて、そのいわゆる事物の本質たる精神界の研究に特殊の方法をもって自ら任ぜようとする。されば問題は、この精神界において、科学派の帰納法と実際派の直覚法とのいずれが、第二もしくは第三の近似価を得ることに成功するかにある。
 以上は科学派と実際派とのいずれにもできるだけ善意なしたがってもっとも公平な大体の比較であるが、しかし実際派の起原をを見るに、それは精神界というよりもむしろ社会界における真実を求めるために、いわゆる科学的方法の訂正として現れたものだ。
 物理学や化学などのいわゆる正確科学では、従来の科学的方法で十分であるかも知れない。しかしそれらの科学に馴れた科学者等は、とかくに人間の本能とか意志とか感情とか憧憬とかを無視して、ただ知力と理性とに重きを置く傾向があった。そしてこの知力や理性の上にのみ築かれた体系をもって、真実である法則であると見做し、なおそれを一定不変の絶対的のものであるとまで断定した。この主知主理的真実の中には、、本能や意志や感情や憧憬を無視したところに全的人間味が欠け、また不完全な人間の知力や理性を過重したところに必然の誤謬があった。したがっていわゆる社会的法則や真実はただ理屈攻めのもので、実際において人間離れのしたまた実際の生活と適合しない場合が多かった。そこでこの欠点を補い、この誤謬を正さんがために、等しく観察と実験とによる科学的方法を用いつつ、ただその観察や実験を知力や理性の上よりもむしろ本能や行為の上にもとづかせたプラグマティズムすなわち固有の意味の実際主義が生れたのであった。
 この意味の実際主義は、一八七七年十一月および一八七八年一月の『ポピュラー・サイエンス』に初めてこのプラグマティズムという言葉を用いた、アメリカの科学者パースの創見であった。
 この実際主義とは行為の哲学、結果の哲学、利益の哲学である。ある思想の真偽を判断するのに、ただちに理性や理論に走ることなく、まず行為に赴いて見る。すなわちその思想を実際問題とぶつからせて見る。そしてその行為のもたらす結果により、利害によって、その思想の真偽を決定する。かくあらゆる思想を夢みながらではなく生かして、抽象から具体に移して、試して見るという方法には、第一の条件として意志を要求する。精力を要求する。教えられたいっさいの理屈を排斥しもしくは忘却して、ただ本能の奔るがままにあらゆる事実にぶつかって行く、意志と精力とを要求する。
 パースのこの実際主義は、ジェームスによって多くの解釈を加えられて著しく宗教的となり、またシラーのいわゆる人本主義となり、さらにまたベルグソンの創造論となり、種々に発展し変化してついにさきに述べた今日の実際派的大勢を形づくるに至った。しかし要するに固有にいう実際主義の起原と根本とは、この行為とその要求する意志と精力とによって、主知主理派の科学的方法の訂正を企てたものであった。
 けれども従来のいわゆる社会的法則もしくは真実が、多くの場合に虚偽でありあるいは容易にその真実を判断され得ないのは、社会科学そのもののまたはその研究方法の今言った意味での不完全であるというほかに、実際派の哲学者輩のまったく知らないしかしわれわれの忘れてはならない一大理由がある。すなわち科学者や哲学者もまたわれわれと同じ人間であって、その属する社会的階級の定心を持っている。彼等の多くは少なくとも有閑階級に属しまた直接間接に権力階級に附随している。社会が利害のまったく相反する征服階級と被征服階級との両極に分離し、学者がその隷属する征服階級に定心を持っている時、そのいわゆる社会的真実が多くの場合において被征服階級の生活事実に適合しないことは言うまでもない。
 労働運動は、さらに広く言えばいっさいの民衆運動は、この征服階級のいわゆる社会的真実に対する、実生活の上からの最初は無意識的の叛逆であった。そして実際主義は、社会のこの階級的区別を少しも考察の中に入れずに、ただ主知主理的のいわゆる社会的真実に対する最初から意識的の叛逆であった。
 C・G・Tすなわち労働総同盟のサンジカリズムは、労働運動におけるこの無意識的実際主義のもっともよく具体化されたものである。
 サンジカリズムは、無知なる労働者の日常生活の間に、その日々の資本家との闘争の間に、ほとんど自然にできあがった運動である。理論である。もっともサンジカリズムはその長い間の形成の行程の間に、社会改良主義から無政府主義に至る幾多の社会的学説の影響を受けてもいるが、それらの学説の指導の下に形成されたというよりも、むしろ労働者がただ生きんとする本能に駆られて、右往左往の間にそれらの学説を行為によって吟味しつつ、ついに彼等の生活そのものの経験と直覚とから不断の流転を経て創造されたものである。彼等は最初から理想を持たなかった。また定まった運動方法を持たなかった。もとより何等の社会的学説を持っていよう筈もなかった。彼等はただ盲滅法に、その目前の死から逃れんがために、さらによりよく生きんがために彼等の能うだけの全力を尽くした。かくして彼等は彼等自分の力をもって彼等自身の真実を築きあげようとしたのであった。
 彼等はその長い努力の間に、種々なる社会的学説にたよってことごとく失敗した結果、いっさいの社会的理論を斥けて、ただ彼等自身の経験にのみよることとなった。よりよく生きんとする意志から、その障碍となるべきいっさいの事物にぶつかって行って、その結果の中から彼等自身に利益のあるものだけを選び出した。彼等の運動方法も、彼等の団体の組織も、彼等の将来の理想も、彼等の道徳も哲学も、すべてみな理屈でこねあげたものではなくただあらゆる事業とぶつかって見て、その結果として現れたものである。

 しかるにこの実際的方法によって形成されたサンジカリズムと、まったく科学的方法によって形成された無政府主義とが、すなわち別個の方法によって獲得された各々の社会的真実が、その最後の結論においてほぼ相合致したのは何故か。
 それはクロポトキンの科学的方法が、いわゆる実証派(ポジティヴィズム)の偏狭杜撰な科学的方法ではなく、「人類社会の各単位に対して最大量の幸福を実現する目的をもって、自由平等友愛の途上における人類の将来の歩武を予定しようとする試み」の科学的方法であったからである。人間の本能や感情や意志や憧憬やを蔑視する、また社会の階級的分離を無視する、いわゆる主知主理派の科学的方法でなかったからである。実生活の上の観察と実験とによって幾多の事実を帰納しつつ、また人間を全人的に取扱いつつ、社会的真実を求めんとした純正な科学であったからである。ことにその社会進化の最大要素を人類の社会的憧憬に求め、社会的創造に頼って、新勃興階級たる労働者中のもっとも活力ある分子の実際生活にその結論を得て来たからである。


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