大杉 栄 の文章7


 

クロポトキン総序    (1920年5-7月)


 しからば、かくして得たその一大世界観、すなわち無政府主義の哲学とはどんなものか。
 クロポトキンはそれをまずその『無政府主義の哲学と理想』の中に論じ、さらにその『近代科学と無政府主義』の中に詳論している。それを今、僕はその前者の巻頭数ページをそのままに翻訳して、大体の瞥見をして見ようと思う。

 自然の事実についての知識と、社会現象についての概念とは、常に少なからず相交渉するところあるものである。すなわち宇宙の総体についての思想の変化と、社会現象についての思想変化とは、常によく相反映する。
 かつてわれわれの先祖は信じていた。地球は宇宙の中心である。太陽も月も星も、すべてこの地球を中軸として、その周囲を廻転する。そして日月星晨をはじめ、万有ことごとく、この地球の上に棲息する万物の霊長たる人間のために、神の御手によって創られた。されば神は常に人間の上を見守って、あるいはその徳行を賞せんがために、あるいはその罪悪を懲さんがために、時に野に雨を降らし、時に街に雷を鳴らすと。そしてこの科学と哲学との支配していた史上のもっとも暗黒な時代を、もっとも雄弁に物語るものは、すなわちかの東方諸国の神権政治であった。
 けれども、やがて十六世紀の頃になって、ようやく人間とその思想とが宗教の桎梏を脱しかけようとした時、われわれの祖先は従来地球と人間とにあまりに過大な役目を帯ばしめていたことに気がついた。地球はもはや宇宙の中心ではなく、他の諸遊星よりもずっと小さい一小塊、太陽系中の一粒の砂に過ぎないと知った。そしてこの地球に代って宇宙の中心となった、しかもこの地球に較べれば広大無辺なほどのかの太陽も、これと同じ大きさあるいはさらに大きな、天の河の中に閃いて見える無数の他の太陽の一つに過ぎないと分った。かくして、今までは神のいとし児と誇っていた人間も、この宇宙の無窮に対しては、九天の上から突如として九天の下に蹴落とされた形となった。
 哲学史を繙いて見れば、この天文学上の知識の変化が、どれほど社会事実の思想の上に影響を与えたかについて、必ず幾ページかの絢爛たる文字を見出す。実にこの時代のあらゆる思想は、その純理的なると応用的なるとを問わず、一としてこの反動を蒙らざるはない。そしてこの時代から、初めて、今日のいわゆる自然科学の芽が吹き出して来た。

 しかるに今日また、それと同様のことが起って来ている。すなわちわれわれは科学的概念の総体と哲学的概念の総体との上に、すでに前にもまして、さらに深いさらに大きな変化の起りつつあるのを見る。
 十八世紀の終りから十九世紀の初めにかけて、天文学は正にニュートン説の全盛時代であった。その哲学は言う。太陽はわれわれ太陽系の主人である。王である。支配者である。心である。魂である。この太陽から、その諸衛星の運動を指揮しその間の調和を維持する、力が出て来る。すなわち太陽の強大な引力が地球や諸遊星やまた諸彗星をすらも、各々その軌道に安んぜしめるのだ。それらのすべてのものはこの太陽から分れ出た枝葉だ。みんな太陽から生れて来たのだ。そしてそれらの土塊に生気を与えかつその装飾となっている諸生物もまた、みんなこの太陽のお陰で育っているんだ。この支配者の権威によって、初めて宇宙の間に、完全な秩序と調和とが生れる。よし多少の不秩序が起ることがあっても、それはほんの一時の変動で、すぐに太陽の引力がすべてをもとの秩序に帰らしめる。しかもこの秩序たる、実に万世不易のものである。何となれば、いっさいの変動は、その命ぜられた秩序に復帰せんがために、互いに相補整し相壊滅するが故であると。かくしてそこに新しい太陽崇拝教が起った。
 しかしこの概念もまた、前のと同じようにすぐに打ち毀されてしまった。諸遊星と諸太陽との間の無限の空間には、数限りのない極微物質の群が飛び廻っている。その群の中には、時々地上に落下して人間を戦慄させる大きなものもあれば、ようやく幾グラムか幾センチグラムに過ぎない小さなものもある。そして、このごく小さな土塊にも、その周囲には、顕微鏡でなければ見えないほどの無数の塵埃が空間をとりかこんでいる。これらの極微物質は各々それ自身の生を有し、恐ろしい速度で四方八方に突進し、いたるところに、そして常に相衝突して相離合して、その間にある偉大な力を生ぜしめる。その力は、それを一つ一つに離して見ればもとより言うに足りない微弱なものであるが、それが相重なり相積んでついに恐ろしい強大なものとなる。そして太陽系そのものも、その中の無数の星も、またそれらのものを動かす運動もその調和も、すべてみなこの極微物質の集合的作用に過ぎないことが分った。さらに一歩を進めて言えば、ニュートンが太陽の力であると言った引力そのものも、実はこの空間に充ち満ちている極微物質の自主的運動の結果に外ならないことが分った。  これを一言に言えば、従来は常に統計と結果とのみを見て、その統計を成す各単位や、またはその結果を導く起原については、ほとんど顧みられなかった。それが今日では、反対に、むしろ単位であり起原である極微物質の方に注意を傾けるようになった。そして、統計の中に積み重なっている各個体の微かな作用が分らなければ、その結果は分るものでないと考えるようになった。
 さらに言葉を換えて言えば、宇宙にはもはやただ一個の支配力というようなものはない。あらかじめ定められた法則はない。あらかじめ計画された調和はない、ただ無数の極微物質が、各々自由自在にその向うところに突進して、そしてその間に自然と均勢ができる。それが宇宙の力だ。法則だ。調和だ。
 これが最近天文学の結論である。宇宙の総概念、すなわちコスモロジイの結論である。

 天文学上のこの新しい結論は、さらにあらゆる自然と人類社会との諸科学の上にも、それと同じ変化を及ぼした。
 まず物理学上では、かつて実体として取扱われていた光とか、熱とか、電気とか、または磁気とかいうものが、よほどその性質の解釈を変えられて来た。すなわち、熱を加えられたあるいは電気の通ぜられたある物体に対して、それがもともと、自分では何の力も持たない死んだ物体であったのが、そとのある未知のものからそれらの力を与えられて生きて来たのだ、というようには見なくなった。物理学者はまず、その物体および周囲の空間の中に、あらゆる方向に突進し活躍し廻転している無数の極微物質の運動に注意し、そしてそれらのものの運動と衝突と生気とによって光や、熱や、電気や、または磁気が生じたのだと説明する。
 生物学においてもまた、種の創造とか現出とかいうことはもはや昔の物語となって今日では各個体そのものの生活とその周囲ということとが、動植物学者の研究主題となった。この周囲の影響とか、また毎日のように変って行くその諸条件に各器官が適応して行く状況によって、個体の上に起る変化を研究するようになった。気候の寒暖乾湿や、食物の多少や、またはその外界の力に対する感受性の厚薄強弱等によって、各個体の上に起る変化が、やがて新種の起原になるのだ。すなわち、種の変化は各個体の上に別々に起る変化の総計もしくは結果である。各個体がその生存する周囲の無数の影響を受けつつ、各自がその個性に従ってそれに適応する、その統計が、相集まって新しい種を造り上げるのだ。
 しかし、この個体そのものもまた、無数のそしてそれ自身の生を持っている極微物質の集合体である。生物の各器官は有機体たる無数の細胞より成り、その各細胞はそれ自身の個性を保存しつつ相集合して、そこにある一個体を組織する。人間はもはや唯一者ではない。分離することのできない完体ではない。微生物の集合団である。細胞の群体である。器官の部落である。かくして生物学者は、人間を知ろうと思うなら、まずその各単位を究めなければならないと言うようになった。
 そして十八世紀の唯物論者すらもなおその概念に囚われていた、いわゆる人間の霊魂なるものも、孤立した特別の存在物ではなく、要するにはなはだ複雑した、すなわち各自が別々に自治し独立しつつ、自由な行動をとっている諸種の官能の群体である。総計である。これらの官能の各々には、それぞれの神経中枢がある。それぞれの種々なる器官がある。かくしてついに心理学は一個人の心理的作用の学問ではなくなって、その個人の生命を組成する諸種の官能の別々の研究となった。

 社会科学にもやはり同じ変化が来た。むしろさらに明白にこの変化が現れている。
 歴史はもはや王朝の歴史ではない、民衆の歴史である。さらに適切に言えば、各個人の歴史である。歴史の見解はもはやいわゆる英雄崇拝を許さない。そして史上における民衆の大きな役目が、その研究の進むに従って、ますます重大な意味を持って来た。過去の大事件はすべてみな幾千万の個人の意志が積み重なった結果として見られるようになった。すなわち歴史はまず、ある時代に生存して一国民を組織する各個人が、どんな信仰を持ち、どんな生活を送り、どんな社会的理想を抱き、そしてどんな方法をもってその理想に進んで行ったか、ということを調べて見る。そして、それらのすべての力の集合的作用によって史上一切の大現象を解釈しようとする。トルストイの描いた『戦争と平和』の中の、一八一二年の戦争のごときは、実にその好適例である。
 法律学者もまた、単にある法典を研究するだけでは、もはや満足ができなくなった。ちょうど人種学者と同じように、いろいろな制度の起原を尋ねて、時代を追うてその進化のあとを究めて行く。そしてこの研究を進めるにも、成分法などよりもむしろ各地方の習慣、またはいわゆる習慣法にたよって行く。かくしてそこに無名の社会的創造、建設的天禀を発見する。
 また、経済学はかつて国家の富の科学であった。されば、この科学の始祖たるアダム・スミス自身も、その名著に題して『富国論』と言った。そしてその取扱った主題は、国家の生産であった。輸出入であった。交換であった。しかるに今日の経済学はもう、国家の富を研究するだけで満足ができなくなった。そして各個人がその欲望を充たしているかどうかを知ることが、そのもっとも重大な研究主題となった。
 今日の経済学はもう、一国の富を測るのに、その交換の総額によるようなことはしない。まずその一国の中に、窮乏の中に蠢いている個人の数に比較して、幸福を享けている個人の数がどれほどあるかを調べて見る。すなわち一軒一軒と歩き廻って、食物に事を欠いていやしないか、子供にさっぱりとした夜具を着せているか、明日のパンに困っているような家はないか、と探して見る。これを要するに、個人の欲望とその満足ということが、最近経済学のまず第一に知ろうとするところである。
 政治学ではやはり、各国の法典に記されたいろいろな形式、すなわち国家の看板などはもうさほど重大な問題ではなくなった。ただ政治学者が知りたいのは、各個人がどれほどまでに自由を享けているか、地方自治の欲望がどれほどまでに満足されているか、各個人の知識的水準がどれほどまでに進んでいるか、どこまでその思想を表白する自由があるか、そしてまたその情意の衝動によって行動の自由がどこまで許されているか、ということである。すなわち、政治学の研究主題は、やはりその国民を組成する単位の個人であって、一国の政治的状態などという結果は、その起原たる各個人の状態さえ分れば、自然に分って来るものとされている。

 かく物理界にも、生物界にも、また人類界にも、すべての科学にわたって、時代の一大特徴たるこの傾向が容易に見られる。かつては総計と結果のみを見て、それに満足していたのが、こんどは逆に、その総計なり結果なりを組成する各単位の上に注意を向けるようになった。

 さきにもちょっと一言したように、近代科学のこの傾向は一つの大きな概念を近代思想の上にもたらした。それは、調和とか秩序とかいう思想についての、最近科学の結論である。
 自然は実によく秩序が行き届いている。激変などということは滅多にない。どうして日月星晨は、いつもその空間の同じ道を往来して、互いに衝突したり打ち毀し合ったりすることがないのだろうか。どうして火山の爆発や不意の地崩れなどが起こって、時に大陸を打ち崩し、または地の底の洞や海の凹地などを埋めてしまうことがないのだろうか。どうしてまた、人間の社会はこんなに固定しているのだろうか。どうして時々その内部に転覆というようなことが起らずに、長い間こうして無事に続いて行くのだろうか。これらの疑問に対しては、いつの時代にも必ず何等かの解答が出ている。そしてその解答は、その時代によって、いろいろと違っている。
 昔の解答はごく単純なものであった。すなわち創造主がその創造物の保存に努めているのだ。  けれどもやがてこの思想が法則という概念に変った。もっともその法則というのは、最近科学のいうそれとは、だいぶその意味が違う。すなわちそのいわゆる自然法は、かくかくのことが生ずれば必然にこれこれのことが起るという、物と物とのただの関係、言い換えれば、因果の条件的法則を指すのではない。その諸現象の上に遥かに優れた、そしてそれらのものを指揮し命令して行く、何か特別なもののように思われていた。
 十九世紀の諸科学は多くこの思想の下に支配されていた。自然科学もそうだった。社会科学もそうだった。そしてこうした法則とか、規律とか、または秩序とかいう思想が、大学にも、議会にも、官衙にも、商館にも、いたるところで、そしてまた日常生活の間にすらも浸みこんでしまった。
 けれども最近科学の傾向はさらにその道を転じかけて来た。自然界に多少の調和があるのは、大きな激変の滅多に起らないのは、そして生物や無生物がよくその周囲の事情に適応しているのは、それらのものがこの周囲の事情そのものの産物であるからである。この周囲の事情そのものがそれらのものを造り出したのだ。したがってこの周囲はそれらのものを滅多に打ち毀すようなことをしない。建設力と破壊力との自由な働きそのものが、それらのものを創造し、かつそれらのものの調和を維持しているからである。されば、自然に調和がありとすれば、それはそれらの力の自由な働きの結果に外ならない。そしてまたこの結果は、その時の必要に応じて、それらの力によって常に変化され得べきものである。
 調和や秩序は神の御心によるものでもない。また、ある一個の大きな力によって課せられた法則によるものでもない。調和や秩序はただ次の条件によって維持されて行く。すなわちある同一の点に働くあらゆる力の間に自由に生ずる均勢ということである。そして、これらの力の中のあるものが、何ものかによって障碍される時、その力はしばらく表面には現れずにしかしその間に蓄積されて、やがてはその障碍物を打ち破る。かくしていわゆる激変が起る。
 また、調和や秩序は永遠無窮のものではない。必ず断えず改修され変化されて行くという条件の下でなければ維持されない。自然界にもまた人類界にも、一物たりとも一瞬時も変化しないで済ませるものはない。不断の進化、これが自然の生命である。そして自然界に多少の調和があり、よし変動があっても、それはごく稀れでしかも常に部分的であるのは、自然界の衝動と軋轢との結果、互いに相均勢して、互いにその間に密接なソリダリテを結ぶ。
 もっともこの自然の調和というのは、勿論ある範囲内でのことで、従来の生理学者や哲学者のように誇張することはできない。星とか大陸とかいうものは、幾百千万年かかって成長して来たもので、その間にほとんど信ずることのできないほどの緩慢な変化を続けている。かく幾百千世紀かをそのリズムとする天体の調和と、それに較べれば無限の加速度で進行するものの調和との間には、当然区別して考えなければならないあるものがある。
 動植物の種は、従来考えられていたよりも、よほどの急速度で変化する。地質の変化もそうだ。そしてこれらの変化に対しては、従来の博物学者が使ったような、一様なそして緩慢な進化などという言葉はもう許されなくなった。進化と激変とが常に入混って、そしてこの二つとも等しく自然の大調和のためにその力を寄与している。

 クロポトキンの世界観、(十字削除)というのは、ざっとまずこんなものだ。誰にでもちょっとはうなずけるほどの、至極平凡な、また至極温健なものだ。ただそれが(八字削除)社会観になると、急に誰でもなかなかうなずけない、至極突飛な、また至極過激なもののように見えて来る。
 しかしまあ、そんなことはどうでもいい。また、僕はかくながながとクロポトキンの世界観を説いて来たものの、実のところ、そんなこけ嚇しの世界観なぞはどうでもいいんだ。クロポトキン自身だって、この世界観があって、初めてその社会観ができたのじゃない。世界観の前に社会観があったのだ。そしてその社会観の前にもまた何ものかがあったんだ。それはクロポトキン自身だ。クロポトキン自身の強い感情だ。クロポトキンの世界観や社会観は、この強い感情にもとづいて、それをただ科学的に理屈づけたものだ。クロポトキンの社会哲学の本当の値打ちはそこにある。
 僕はさきに、クロポトキンの科学的方法は人間の本能や感情や意志や憧憬やを蔑視する、また社会の階級的分離を無視する、いわゆる主知主理派の科学的方法ではなかった、と言った。クロポトキンの社会哲学には、クロポトキン自身の深い感情や憧憬が、その基調になっている。そしてその感情や憧憬の共鳴を同代人の生活や人類の歴史の中に求めた。
 社会進化の行程は、いわゆる「科学的」社会主義の主張するがごとき、生産方法云々を土台とする必然的のものではない。その社会およびその中の各個人が持っているいろんな意志、いろんな憧憬、いろんな傾向の、自由な闘争を土台とする蓋然的のものだ。
 だから、社会哲学はあるが社会学はないと言って、社会学の科学としての価値を否認する学者すらもある。しかしこの社会哲学の中に本当の社会学があるんだ。
 しからば、クロポトキンがその社会哲学の基調としたクロポトキン自身の深い感情、深い憧憬というのは何か。それは自由発意と自由合意とである。個性の尊重である。自他の個性の尊重である。そして、その各個性の自由なる合意、自由なる団結である。自由と平等と友愛である。

 クロポトキンがまだ十四、五の時であった。彼は近侍学校にはいった。
 学校には古木の茂った美しい庭園があった。第五級の生徒はそこへはいって遊ぶことができなかった。第一級の生徒等がその中で寝ころんだりお饒舌りしている間に、新入生等はその周囲を駈足させられたり、また古参生等が六柱戯をやっている間にその球拾いをさせられたりしていた。クロポトキンは学校にはいった数日間、庭園のそうした事情を見て、そこへは行かずに自分の室に籠っていた。そして本を読んでいた。すると、人参のような髪に雀斑だらけの顔の一人の近侍がやって来て、すぐ庭園へ下りて駈足をするようにと命じた。
 「いやです、僕は今本を読んでいるんじゃありませんか。」とクロポトキンは言った。
 近侍は怒った。たださえ面白くない顔をいっそう不格好にして、今にもクロポトキンに飛びかかろうとした。クロポトキンも防禦の身構えをした。近侍はその帽子でクロポトキンの顔を打とうとした。クロポトキンはうまくそれをはねのけた。近侍は帽子を床板の上に投げつけた。
 「拾え。」
 「自分で拾うがいい。」
 こんな不従順な振舞いは学校では未曾有のことであった。翌日も、またその次の数日も、クロポトキンは同じような命令を受けた。が彼は頑固に二階のその室に籠っていた。そのたびに、ますます迫害は嵩じて来た。普通の子供なら絶望してしまうほどひどくなった。それでも彼は平気で古参生等を茶化していた。
 第一級の近侍等は下士官の資格を持っていて、下級生等に対する全権を与えられ、校内の厳重な紀律を保つことに任ぜられていた。そしてニコラス一世時代には、この近侍等の命令に反抗したものは、そのことが公けになれば、兵卒(農奴)等の子供を集めた学校に送られることにきまっていた。また、近侍等のちょっとした出来心に少しでも背こうものなら、彼等は重い樫の木の定規を持って、室に集まって、その不従順な生徒に手痛い制裁を加えるのであった。そしてクロポトキンは、この長い間の悪習に反抗して、それを打破する先頭に立ったのだ。
 僕はこのただ一事にだけでもクロポトキンの個性の強さを見る。そして彼はこの個性の強さとともに、やはり子供の時から、その母から譲り受けて農奴どもの間に養われた深い友愛を持っていた。
 クロポトキンは彼自身のこの強い感情の現れを、やがて西ヨーロッパへのその初旅の間に、国際労働者協会内の一大傾向の中に見た。そしてそこから無政府主義を教わった。このことは、クロポトキン自叙伝『一革命家の思い出』の中に、彼自らが詳細に語っている。


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