大杉 栄 の文章5


 

クロポトキン総序    (1920年5-7月)


 雑誌編集者の無知と無謀とには今さらながら呆れる。クロポトキンの著書全部を、わずか数日の間にしかも数十枚の制限で、総評してくれないかという註文だ。
 そんな馬鹿なことができるものじゃない。僕は即座に「よし、よし」と答えながら、実はほんのちょっとした手引、それもまるっきりの素人のための、くらいのものを書くことに内緒できめていた。
 しかしよくよく考えて見れば、内緒でそうきめた僕の方がよっぽど無知で無謀であったのだ。せっかく註文主が、えらそうな題目の下に、いい加減に、えらそうな与太を飛ばさせようとしたのを、実際近来の無政府主義論、クロポトキン論などというものはみんなそうなんだからね、それを真面目にわざわざ小面倒なものを引き受けてしまったのだ。
 三、四百ページ以上の大きな本だけでもちょっと十冊近くある。そのほかに小冊子が二、三十はある。しかもその小冊子というのが、いずれもみな、大きな本と同じように四、五年ないし七、八年の研究と思索との結晶であるほかに、それを非常な苦心の下に数十ページの中に書き縮めたものだ。クロポトキン自身も実はこの小冊子の方がよっぽど骨が折れていると言っている。学問にはまるっきり素人の、そして大きな本なぞ読むひまのない、労働者のため、ということがクロポトキンのこの苦心の目的であった。したがってそのどの小冊子といえども、一つとして、見逃しのできるものはない。その大がいは大きな本よりかえって重要なくらいなのだ。
 片輪者の学者にとっては、学者という奴は西洋でも日本でもみんな片輪者だ、ことに日本の学者なぞはその片輪者の中にすらはいらんかも知れない、この素人のためということが何よりも面倒なのだ。クロポトキンだってやはりそのお他聞に洩れない。一時は学者になって見ようかという馬鹿げた考えを大切にして、そういった片輪者にばかり教えを受けて来た僕も、やはりその、片輪者の仲間にすらもはいれない片輪者に仕込まれてしまった。
 クロポトキンの著書にもったいをつければまだまだ幾らでもつくんだが、とにかくその数十冊のものの総評、あるいは総解説、あるいは総手引を、わずか数日の期限の中のわずか一晩か二晩かでやってのけようというんだ。何ができるものか。まあ、諸君が僕のうちへ遊びに来て、「クロポトキンの本を読みたいんだが、どんなものがありますか」という質問を出して、そして僕が「そうですな」と山羊鬢をいじくりながら旧い記憶をたどって思い出すままにぽつぽつと吃り出す、ぐらいのことに想像して読んでくれ給え。

 実際、ずいぶん旧い記憶なんだ。
 こないだも神戸で賀川君と会って、僕の留守中に出た有象無象どもの無政府主義論、クロポトキン論を十ぱ一くそにしてやっつけるつもりだという話から、「それでも日本ではアナーキズムのオーソリティなんだからな」と大いに威張って見たところが、「そうだ、少なくとも旧いことにおいてはね」とさっそくあべこべに一本やっつけられてしまった。
 僕がクロポトキン大明神でおさまっていたのはもう十年も十五年も昔のことだ。はたち前からクロポトキンのものを読み出して、十年近い間クロポトキンかぶれしていた。少なくとも書物の形で出たクロポトキンのものは片っ端から買い集めて読み耽った。二度も三度も、四度も五度も、どうかすると六度も七度も、繰返し繰返し読んだ。どんなことが、どの本の、どの辺に書いてあるか、ということまでも大がいは知っていた。クロポトキンの著書全部のよほど詳しい索引が自然に、僕の頭の中にできあがっていた。
 僕はこのクロポトキンかぶれのために、どれほど僕の知識的発達に、とともに僕の全人格的発達にも、利益を享けたか知れないが、それと同時にまたどれほど損害を蒙ったか知れない。そしてその損害に気がついたのは、ようやく年二十七の時の、千葉監獄の独房の中でであった。それ以来僕はクロポトキンの書物にはいっさい目を触れなかった。クロポトキンのばかりじゃない。いっさいの無政府主義文書からできるだけ遠ざかることに定めた。そしてただ手当たり次第に、範囲にも順序にもまったくお構いなしに、もっとも主としては社会学と生物学との、諸学者に親しんでいた。
 さきに「一時は学者になって見ようかという馬鹿げた考えを大切にして」と言ったのはその時のことだ。クロポトキンから独立しようと思ったのはいい。しかしその独立をやはり書物でやろうと思った僕は大馬鹿だったのだ。
 が、お蔭で、クロポトキンの書いたことは大がい忘れてしまった。無政府主義も大がい忘れてしまった。大骨折って買い集めた無政府主義文書も、水難、火難(これは本当の)、貸難、盗難(これはちょっと込みいった陰謀の)、諸難に遭って全部無くしてしまった。
 お役人様々や世間のお利口者どもは今でもまだ僕を無政府主義者だと思いこんでいる。僕もまたそいつらにそう言って嚇かしてやっている。人の厭がることや恐がることをことさらに言ったりしたりすることの好きなのが、僕の持って生れた厄介な病気なんだ。常にはなはだ相済まんとは思いながらも、如何とも仕方がない。で、せめての申訳けにこうして白状して置くが、僕は決してクロポトキン大明神のもうし児でもなければ、またいわゆる無政府主義者なぞという至極量見の狭い狂信者でもない。ただちょっと気違いじみた一人の人間様であるだけのことだ。
 その人間様がお気に召さずに、世間の奴等は、きのうまでは友人だとか仲間だとかいっていた奴等までも、寄ってたかって撲殺しにかかった。ことにこの世間の奴等の阿呆と卑怯とを食いものにしている新聞雑誌どもは、その撲殺軍のお先棒に立って騒ぎ廻った。
 その新聞屋、その雑誌屋がだ。図々しいにもほどがある。世態人情が少々変わり、物騒な無政府主義が流行りものになったとなると、急にぴょんぴょん頭をさげて「どうぞ、先生・・・」てなことでやって来る。そしてそのご本人がとうの昔に無政府主義なぞを廃業していることはご存じない。忘れていることはご存じない。
 どいつでもこいつでも、僕のこういった物の言いかたに、怒る奴は怒れ、笑う奴は笑え。破って棄てたかったら、こんな原稿は、勝手にどこへでもうっちゃるがいい。また、読むのがいやなら、こんな雑誌は、勝手にどこへでもほうってやるがいい。どうとでも勝手にしやがれだ。
 が、念のために言って置くが、こういった物の言いかた、少々気違いじみた人間様の言葉が、可笑しかったり癪にさわったりするようでは、無政府主義の精神はとても分かりませんよ。クロポトキンの著書の神髄はとても掴めませんよ。それから、これはことにこの雑誌の発行者や編集者にごく内々で言って置くが、たまにはこういうものを載せる方が雑誌がよく売れますよ。そして、これはまた、僕自身にとっては、いろんな奴等へのいろんな意味での多少の腹いせになるんです。実に一挙幾得か知れません。

 その大がいは忘れてしまった旧い記憶を思い出すために、二、三日近所を遊び廻って、ようやくクロポトキンの著書五つ六つを借り集めて来た。
 それをたねにして、ことに近日中出版される筈の大杉栄訳クロポトキン自叙伝『一革命家の思い出』を盛んにひねくり廻して、このクロポトキン総序を書く。それは、クロポトキン自身をしてもっとも多く語らしめる便宜と利益とを与えるほかに、自然の避雷針にもなることだろうから。
 不十分な点は、ご質問さえあれば、できるだけの補いをする。直接お会いしてでも、手紙でも、また雑誌の上ででも、お互いの都合のいいようにして。

 ダーウィンを本当に知るには、その名著『種の起原』や『人間の由来』やを読むよりも、何よりもまず『一博物学者の航海記』を繙かなければならない。『種の起原』によってあらゆる科学界から哲学界までをも一挙にして根本的に変革させた、ダーウィンの生物学上および地質学上の知識、というよりもむしろその全人格的基礎は、その二十三歳から二十七歳にわたる満四カ年の世界一周の間にできあがった。彼は一博物学者として軍艦ビーグルに便乗し、南アメリカ、南洋、オーストラリアの諸国諸島を遍歴跋踏した。そして一人で各地の植物史、動物史、地質史を調査研究した。この自分一人での実地に当たっての調査研究ということが後年のダーウィンを造りあげたのだ。現に『種の起原』の中に、またそれによって初めて、その萌芽と発達のあとを十分窺うことができる。もしこの航海がなかったら、あるいはダーウィンは、至極平凡な一田舎牧師として世を終ってしまったかも知れないくらいだ。

 クロポトキンを本当に知るのにも、やはりその名著の『パンの略取』や『相互扶助論』やを読むよりも、何よりもまずその自叙伝『一革命家の思い出』を繙かなければならない。この自叙伝については、森戸君が詳細な紹介をする筈だし、それに追々僕の全訳が出る筈だから、別に解説はしない。
 僕がこの自叙伝の翻訳をしたいと思ったのはずいぶん旧いことだ。明治四十一年の春、巣鴨の獄中から幸徳に宛てて出した手紙の中にも、「兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したらすぐ多年宿望のクロポトキンの自伝をやりたいと思っている。今その熟読中だ」(大杉栄著『獄中記』六五-六六)と書いている。それが五、六年前にようやくある本屋と話がついて、内務省へお伺いを立てて見たが、どうしてもお許しが出ず、ついそのままになっているうちに、一昨昨年の暮れに例の有名な誤訳家三浦関造君にさきをこされてしまった。僕はさっそく内務省へ出かけて、その不信を責めて、僕の翻訳の出版許可を迫った。内務省では「あんまり滅茶苦茶な翻訳なので、あんなものなら出さしても差支えあるまい」とのことで許したのだそうだが、「どうもあなたにあれをうまく翻訳された日にゃ」なぞとうまいことを言ってなかなか許してくれなかった。が、とうとうお許しが出た。そして僕は、「多年の宿望」と三浦君のクロポトキンに対するはなはだしい冒涜に対する憤慨とを、ようやくのことで果たすことができるようになった。
 この自叙伝の中で、僕が今特に注意したいのは、その第三章「シベリア」の巻だ。
 ダーウィンの世界一周は、主として一博物学者としての、今日は此処明日は彼処と転々として移って行くほんの通り一ぺんの旅行に過ぎなかった。もっともその間に、アメリカ・インディアンや東洋諸島の蛮人とも会い、メキシコの革命騒ぎをも見、チリの鉱山労働者にも接して、人間の生活の上に純真な人道的感情を養ってもいる。しかし彼は、その感情をどこまでも育てあげることをせずに、むしろその学説の「生存競争」で晦ましてしまった。
 クロポトキンはその十九歳から二十五歳までの五カ年間をコザック士官としてシベリアで暮した。が、このコザック士官としてというのは、決して単なる一軍人としてではなく、むしろ一行政官、しかも社会改良の一委員としてであった。彼は東シベリアの首府イルクーツクに着くとともに、総督コルサコフの下に、参謀長クウケルの副官となった。コルサコフはその部下に自由思想の人々を持っていることを誇りとするほどの人であった。クウケルはまだ年三十五にも達しない若い将官で、その書斎にはロシア最善の新聞雑誌と一緒にゲルツェンのロンドン版革命的文書の全集が揃っていた。
 クウケル将軍はその頃臨時トランス・バイカリア県知事の職にあった。数週間の後彼は県の首府チタという小都会にまで行った。そしてそこで彼は、一刻の猶予もなく、当時盛んに議論されていた大改革に身も魂も打ちこんでしまった。当時セント・ペテルスブルグの諸省は地方官憲に命じて、県の行政や、警察の組織や、裁判所や、監獄や、追放制度や、町村自治などについて、ごく自由な基礎にもとづいた根本的改革を施すことを求めていたのだ。
 クウケルはペタシェンコ大佐という聡明なかつ実際的な人と、誠実な数名の文官との補佐の下に、終日、時としては夜の大部分までも働いていた。クロポトキンは二つの委員会--監獄と追放制度の改革、および町村自治制の立案と--の幹事となった。彼は十九歳の青年の熱心をもってこれらのことに当った。まずロシアにおけるこれら諸制度の歴史的発達や、また外国におけるその現状について多くの書物を読んだ。しかし彼等のトランス・バイカリアでの仕事は決して机上の空論のみではなかった。クロポトキンは地方の実際の要求と可能性とに通じた実際家について、まず大体の輪郭を論じ、次に一々事実について仔細に調べて行った。
 「なおその外にも臨時のいろいろな仕事があった。地方の農業展覧会の報告書とともに、県の経済事情調査書も書かなければならなかった。その他いろいろと重要な調査をしなければならなかった。『われわれは重大な時代に生活しているのだ。働きたまえ、君。君は現在および将来のあらゆる委員会の幹事だということを忘れないようにして。』クウケルはよく私にこう言った。私はますます精を出して働いた。」
 クロポトキンのこの努力は、実際の上には、まったく水泡に帰した。官僚政治の組織そのものが邪魔をしたとともに、やがて中央政府に反動の波が来た。あらしが来た。クウケルは免職されて、二人の憲兵の護衛の下にセント・ペテルスブルクに送られ、セント・ピーター・ポールの要塞に幽閉されようとまでした。
 しかしクロポトキンの人間や社会についての理解は、そしてまたその全人格的基礎は、まったくその間に築きあげられた。「私がシベリアで送った五カ年は、私にとっては、人間と人間の性質についての純正な教育であった。私はあらゆる性質の人々と、最善の人とも最悪の人とも、社会の上流に立つ人ともまたどん底に蠢いている人とも、宿なしやまたはいわゆる済度しがたき罪人とも、あらゆる種類の人々と接触した。農民の日常生活における風俗習慣を観察する上に十分な機会を得た。ことにはまた、政府者がよし最善の動機から行ったことでも、その農民に益するところのいかに少ないかを観察するいっそう多くの機会を得た。」
 「私がシベリアで暮した数年間は、他では容易に学び得ない多くの教訓を私に教えた。まず私は行政機関の方法によっては本当に民衆のために有益な何事をも絶対にできないことを悟った。私は永久にこの妄想と別れた。次に私は人間とその性質との外に、なお人類社会の生命の内的源泉をも分かりはじめた。書物の中には滅多に出て来ない無名の民衆の建設的作用、およびこの建設的作用が社会の種々なる様式の生長発達にいかに重要な役目を勤めているかということが、私の眼の前にはっきりと現れて来た。」
 「農奴使用者の家に育った私は、当時のあらゆる青年と同じく、指揮や命令や叱責や懲罰などの必要ということを信じ切って実際生活にはいった。しかし私は種々なる大事業を取扱い、また多くの人間と交渉するに及んで、命令や紀律の原則の上に行動するのとお互いの理解を原則として行動するのとの差異が分り出して来た。前者は軍隊の謁兵などには立派に役立つ。しかし実生活のことにかけては、そしてその目的が多くの輻合的意志の厳格な努力を通じてのみ達せられるところでは、何の値打ちもない。」
 「かくして私はシベリアで従来抱いていた国家的規律の信仰をまったく失ってしまった。すなわち当時すでに私は無政府主義者となるべく準備されてあったのだ。」
 「発意の人はどこにでも要る。しかし一度このはずみが与えられた以上は、その事業は軍隊式にではなく相互の理解にもとづく自治団体式に経営されなければならない。国家的紀律の設計組立家等はその国家的理想郷を組立てる前に実際生活の学校を通過して来て欲しい。そうすれば、軍隊的ピラミッド的社会組織の諸案を今日ほどに聞かなくても済んだに違いない。」
 クロポトキンがこのシベリアで書いたといういろんな調査書や報告書が、今まだどこかに保存されているかどうかはまったく分らない。
 かくして社会改良にまったく絶望した彼は、その後は主としてシベリアや満州の地理学的探検の旅行に日を送った。
 彼はまず、当時ロシアが占領したばかりのアムール下流植民地に食糧を送るために、アムール州を数千マイル下った。その時にも、諸植民地の地理的事情や経済的事情についての報告書がセント・ペテルスブルグの政府に呈出されてある筈だが、どうなったか。
 次に彼は、満州の、こんどは本当に純粋の地理学的探検に出かけた。
 アジアの地図を一瞥すると、大体において北緯五十度に沿うて走っているシベリアのロシア境がトランス・バイカリアで急に北の方に曲がっているのを見る。この国境線は三百マイルのアルグン河に沿うて行って、それからアムール河のところまで行くと東南に曲って、アムール地方の首都ブラゴヴェシチェンスクがちょうど再びまた北緯五十度のあたりになる。トランス・バイカルの東南端新ツルハイツとアムール河畔のブラゴヴェシチェンスクとの間は、東西の距離わずかに五百マイルであるがそれをアルグン河とアムール河と沿うて行くと千マイル余りになる。それにアルグン河は船も通わず、その沿岸の交通もきわめて困難だ。ことにその下流ではごく険しい山路があるばかりだ。
 トランス・バイカリアは牛馬にすこぶる豊富な地方である。この地方の東南隅に占拠して富裕な牛馬飼養者であるコザック等は、その牛馬の好市場たるべき中部アムールとの直接の交通を求めていた。このコザック等は従来蒙古人と交易していた。そしてかねがね彼等から、大興安嶺を越えて東に行けば容易にアムールに達せられる、ということを聞いていた。東にまっすぐに行くと、興安嶺を越えて、メルゲンという満州町、スンガリーの支流ノンニ河に通ずる支那の旧道に出る筈だ。そしてそこからは立派な道が中部アムールに通じているという。
 「コザック等はこの通路発見のために一隊をを組織して、私にその隊長になってくれと言うのだ。私は喜んで承諾した。ヨーロッパ人でこの地方に行ったものはまだ一人もなかった。数年前にロシアのある地理学者がこの道を行ったことがあったが、途中で殺されてしまった。ただかつて、高宗帝時代に二人のジェスイット僧侶が南方からメルゲンまではいり込んでその緯度を測定したことがあった。しかしそれから北の縦横五百マイルの広漠とした地域は、まったく絶対的に未知のものであった。私はこの地方についてのあらゆる参考書を調べて見た。誰一人として、支那の地理学者すらも、この地方については何にも知らない。それに中部アムールとトランス・バイカリアとの連絡はそれ自身重大な性質を帯びていた。ツルハイツは外満州鉄道の主駅になる筈であった。かくして私達はこの大事業の先駆者となるのであった。」
 クロポトキンの一隊は難なくこの探検に成功した。彼等はその目的の直通路を発見したほかに、大興安嶺の境界的性質や、その山越えの容易なことや、または久しく地文学上の謎になっていたユウン・ホルドンチ地方の第三期火山などについての、多くの興味ある事実を発見した。
 それが済むと、すぐまたアムール河畔を旅行して、その河にというよりもむしろ入江になっているニコラエウスクまで行って、そこからさらにウスリー河を溯った。
 それから彼は満州の中心であるスンガリーを吉林まで溯ってもっと面白い旅行をした。
 アジアの多くの河は同じ大きさの二つの河の合流したもので地理学者はその二つのどれを本流、どれを支流と言っていいか苦しむくらいだ。インゴダとオノンとが合してシルクとなり、シルクとアルグンとが合してアムールとなる。そしてこのアムールはまたスンガリーと合してかの洋々たる大河となり、東北に流れて韃靼海峡の無人境で太平洋に注いでいる。
 その年すなわち一八六四年までは、満州のこの大河もあまりよくは知られていなかった。初めていろいろと知られたのは、前にも言ったジェスイットの時代からであるが、それもごくいい加減なものであった。
 クロポトキン等は総督に迫ってスンガリー探検の急務を説いた。総督は吉林州総督に友交を求めるという口実の下に、その秋一隻の汽船を送ってスンガリーを溯らせることにきめた。クロポトキンもその一行に加わった。この探検も立派にその目的が達せられた。河口から吉林までの詳細な河流図も作られた。
 「私達の探検はその後忘れられてしまった。天文学者のウソルツェフと私とがシベリア地理協会の『会報』の中にその報告を発表した。しかるに数年後イルクーツクの大火で、その『会報』の残部もスンガリーの原図もすべて焼失して、ようやく昨年(一八九八年)になって外満州鉄道の敷設が始まった時に、ロシアの地理学者等が私達の報告書を探し出して、この大河がすでに三十五年以前に探検されたことを発見したのであった。」
 かくして彼はだんだんその精力を科学的探検に向けるようになった。一八六五年には西サヤンを探検して、そこでシベリア諸高原の地勢についての新見地を得、またそれが支那辺境の重要な一火山地方であることを発見した。そしてついに、その翌年再び長途の旅行を企てて、ヤクーツク州の諸金鉱とトランス・バイカルとの間の直接通路を発見した。
 シベリア探検会の会員等は多年この通路の発見を試みて、それらの鉱山とトランス・バイカルの平野との間にあるごく険しい岩質のしかも幾列にも平行した山脈横断に努めたのであった。しかしこの探検家等は、南方から進んでこの陰気な山岳地方に到着し、そしてさらに幾百マイルも北方に延びている物凄い山脈を目の前に見た時、ことごとくみなもと来た南へ引返してしまった。
 クロポトキンはそれと反対に北から南へと行った。まずレナ川を下って北方の金鉱地に行き、そこで遠征の仕度をして、三カ月間の糧食を持って二百五十マイルにわたる山岳地方を南へ南へと横断して行った。
 「とうとう私達は目的の通路を発見した。三カ月の間ほとんどまったく無人の山中と陰湿な高原とをさまよって、ついに目指すチタに着いた。聞けば今ではこの道が南方から金鉱地へ牛馬を送る重宝な道になっているそうだ。私自身にとっては、この旅行は後日シベリアの山岳と高原との地勢を研究する要石を見出す上に非常な助けとなった。」
 これらの旅行と探検とは、地理学者としてのクロポトキンを大成させるとともに、その間に見聞した諸動物の社会的習性によって後年の名著『相互扶助論』の萌芽を得しめたのであった。

 三

 クロポトキンの著書の一々を思い出すままいい加減に紹介して見ようと思ったのが、書き始めるとやはり持前の凝性が出て来て、書物の内容よりもむしろクロポトキンをしてそんなものを書かせるに至った事情の方が明らかにしたくなった。どうもその方が本当のやり方らしい。それに面白いのは、初めや中ほどにちょいちょい書いた僕自身の腹いせや何かが、その時には是非ともそれを言わなければ済まない気持ちであったのが、もうそんなことはどうでもいいことになってしまった。クロポトキン大明神が復活した訳ではないが、クロポトキンという一個の偉大な人間の、その思想や感情の科学的研究の前には、僕というちっぽけな人間の、しかもそのきわめて些々たる私事なぞに構っておれなくなったのだ。

 一八六七年、クロポトキンはセント・ペテルスブルグに帰った。ポーランドの政治犯人等がシベリアで暴動を起こしたのに対する、ロシア軍隊の残虐が、ついにクロポトキンをしてその軍職を見棄てしめたのであった。
 クロポトキンは大学にはいった。数学の十分な素養が今後のいっさいの科学的研究や思想の唯一の健全な基礎であるという考えから数学科の中の物理数学科にはいった。そしてその間に主として地理的研究に耽った。
 クロポトキンの最近の探検報告書が印刷された。しかしその間に彼にはもっと大きな問題が起っていた。シベリアでの彼の旅行は彼に次のようなことを信じさせた、すなわち当時北部アジアの地図の上に描かれていた山脈は大部分とりとめのない空想的なもので、その地方の地勢についての何等の観念をも与えない。アジアの一大特徴であるかの大高原は、当時の地図を描いた人々にはその存在をすらも想像されていない。そしてこの高原の代りに、幾多の大山脈、たとえば、地図の上では普通に黒い毛虫が東の方へ匐って行くように描かれてあるスタノボイ山脈の当方の部分などが、実際にはそんな形勢もなく、またL・シュヴァルツなどの探検家の報告とも違っているにもかかわらず、測量局でのさばっていた。こんな山脈は自然の上にはまったくないのだ。一方には北氷洋に流れ、他方には太平洋に流れこむ幾多の河の源泉は、広大な一高原の上で入りまじっている。すなわちその源泉は同じ沼の中から出て来るのだ。しかるに、ヨーロッパの測量家どもの想像では、高大な山脈が首要分水界に沿うて走っていなければならないものとされていた。で、彼はそこに実際には何の形跡もない大高山を描き出していた。そしてこういった多くの空想上の山脈が北部アジアの地図の上を四方八方に入り乱れていた。
 そこでアジアの山脈の配置を知る本当の首要原則、すなわちその山脈構成法の調整を見出すということが、幾年かの間クロポトキンの注意を集中させた一問題となった。しばらくの間は、かの古い地図と、それからアレクサンドル・フォン・フムボルドが久しく支那の原著を研究してアジアの全体を子午線とその並行線とに沿うて走る幾多の山脈の網の目で蔽うてしまった推論とが、クロポトキンの研究の邪魔をした。が、ついに彼は、このフムボルトの推論ですらも新しい研究の刺激にはなるものの、事実とは一致していないことを知った。
 初めて彼は、実際当時ではこれがまったくの初めてであるが、彼は純粋の帰納的方法で従来の探検家のあらゆる気圧的観察を蒐めて、それによって幾百カ所の高度を測って見た。次に彼は、いろんな探検家によってなされた、仮定上ではない事実上のあらゆる地理学的および物理学的観察を、大きな地図の上に書き記して見た。そして彼はどんな地形線がこの観察の事実ともっともよく適合するだろうかを見出そうとした。この予備的研究が二年余りかかって、なお数カ月の間彼は、このあちこちに散らばっている観察の、如何とも手の下しようのない混乱の理由を見出そうとして考えぬいた。
 するとある日のこと、まったく突然に、ちょうど一閃の光明に照らされたように、すべてがはっきり分かって来た。アジアの首要地形線は、北から南へでもなくまた西から東へでもなく、ちょうどアメリカのロッキー山脈や高原の地形線が西北から東南に進んでいるように、西南から東北に走っているのだ。そしてただ第二次的の諸山脈が西に跳び出しているだけのことだ。それにアジアの諸山脈は、アルプス山脈のように独立した山脈の集合ではなく、すべてみなかつてはベーリング海峡の方に向っていた古大陸であったところの一大高原に隷属しているのだ。高い分水山脈がその高原のふちに沿うて屹立し、そして幾年月かの間にその後の沈殿物によって生じた台地が海の中から浮かび出て来て、アジアの古い背骨であるこの高原の幅を両側に拡げて行ったのだ。
 「この研究は、私は科学に対する私の主なる貢献だと考えている。最初私は、大きな書物を出して、北部アジアの山岳や高原についてのこの新しい観念を各々別々の地方の詳細な調査によって証拠立てて見ようと思った。しかし一八七三年になって、私がすぐにも拘引されそうなことが分かった時に、ようやく私の考えを表した地図を描いて、その説明書を書いただけであった。」
 「これは両方とも、私がセント・ピーター・ポールの獄中にある間に、兄の監督の下に、地理学協会によって出版された。当時アジアの地図を書きかけていて、私の研究のことをも知っていたペーテルマンという人が、まずその地図に私の案を採用し、それ以来大多数の製図家もそれを採用した。このアジア地図は、今日ではすぐに理解されることであるが、アジア大陸の外形上の首要諸特質と、その気候や動植物の配布と、およびそれらのものの歴史までをも説明したものだ。」
 「今日では製図家でもいつアジア地図にこんな変化が来たのかを知っているものはほとんどない。しかし科学の上では新しい観念はそれに結びつけられた何人かの姓名とは構わりなしに進んで行く方がいいのだ。最初の概論には免れることのできない誤謬も、そのほうが修正しやすくなる。」

 クロポトキンはまたロシア地理学協会の地勢地理課の幹事としてずいぶん働いた。
 当時は全ヨーロッパにわたって猛烈に探検熱の昂まった時代であった。ロシアの地理学協会も盛んに活動した。したがってまたその地勢地理課、およびその幹事たるクロポトキンが熱心に取扱った地理学上の問題もずいぶん多かった。ことに協会が北極探検の計画を立てて、その探検隊によって行わるべき諸科学上の研究を指定するための一委員会が設けられ、クロポトキンは例によってまたその委員会の幹事となった。そしていろんな専門家が各々その専門とする一科学の項を受持ったのであるが、海棲動物学だとか、潮流学だとか振子観察だとか、または地球磁気などという多くの厄介な項目は間に合わずに、仕方なしに幹事たるクロポトキンが書かなければならない羽目になった。それはクロポトキンにはまったく新しい学問であった。しかしクロポトキンはそれすらをもきわめて短日月の間に立派に仕あげた。
 が、その間に彼はまた、その専門の地理学についてのまったく新しい一大著述を企てる野心を養っていた。ロシアの地理に関するあらゆる有益な材料は、すべてみなクロポトキンの手を通して協会にはいった。世界のこの広大な部分についての遺漏のない、一大地理書を書いて見たら、という考えがだんだん彼につのって来た。彼のつもりでは、さきに彼がヨーロッパ・ロシアについて発見した首要地形線にもとづいて、この国の詳細な地理的記述をなし、さらにその記述の中に各々その地勢を異にする諸地方に行わるべき経済生活の種々なる様式を略記して見たいと思った。
 そして彼はこの野心を充たすための十分な時間と自由とのために協会幹事の職を渇望していた。しかし彼は、その後間もなくフィンランドとスエーデンの周遊を命ぜられて、氷河時代の堆積物調査に派遣され、地質学と動植物分布学との上に新地平線を開こうとしていた間に、その目撃した悲惨な農民の生活が彼をしてせっかくすすめられた協会幹事の地位をも辞せしめ、同時にまたその科学者としての野心をまったく放擲させた。
 が、その一大地理書著述の野心は、後年彼が同志エリゼ・ルクリュの『大地理学』編纂に与かった時、その第五巻『スカンジナヴィアとヨーロッパ・アジア』および第六巻『アジア・ロシア』の中に十分に果し得たことと思う。かつて僕はこの第六巻のロシア訳を丸善で見たことがあるが、最近にはその第七巻のフランス文『東部アジア』が四、五冊丸善に来ているのを見た。
 僕はクロポトキンのロシアやシベリアの地理学的発見について、大部分の読者には大して興味のなさそうなことを少々長すぎるほど書いて来た。しかしこうした自然科学上の研究が、同時にまた、後年のクロポトキンの社会科学の基礎になっているのだ。過激派征伐の軍人どもは、戦さのひまひまには今言ったような地理学書でも繙いて見て、少しは「土地と人間」(これはルクリュの本のサブ・タイトルだ)のことを考えて見るがいい。


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