大杉 栄 の文章4


 

近代個人主義の諸相    (1915年11月)


 政治革命もしくは社会革命は必ずある哲学的思潮を伴う。あるいはそれに先立たれるか、あるいはまたそれに先立つ。
 フランス大革命は、哲学的に言えば、社会本位説に対する個人本位説の叛逆であった。ルソーの民約論は、もっともよくこれを証明する、代表的思想である。もとよりこの民約論は誤謬であった。社会の形成が各個人間の契約の結果であるというこの民約論は、いわゆる循環論法に陥ってしまう。すなわちこの契約の観念そのものがすでに社会生活を前提とする。この契約観念の勢力は、もっともトルストイのごときなおこれを否認する思想家もあるが、今日の社会においても認められないことはない。しかし原始社会においてはその勢力はまったく認められ得ない。契約とはただ強制の別語に過ぎなかった。今日といえども、契約の自由とは、多くはただ皮相のことで、実は強圧の仮面に過ぎない。いずれにしてもこの契約の観念は、社会生活の出発点ではなく、その後の産物である。すなわち原因ではなく結果である。ここに当時の個人本位説の第一の誤謬がある。
 かくのごとく社会形成の概念に誤謬を抱いていたルソーの当代人は、社会生活の性質についてもまた、必然に精確な概念は持ち得なかった。彼等にとっては、国家と社会とは同一物であった。少なくとも国家は社会生活の最良形式であった。したがって彼等の個人本位説は、今日いうがごとき絶対の非社会的でもなく、また絶対の非国家的でもなく、ただ封建制度を基礎とする社会と国家とに対する叛逆であった。ここに当時の個人本位説の第二の誤謬がある。
 要するに彼等にはまだ、今日いうがごとき真の意味における個人主義はなかったのだ。そしてこれらの誤謬は、近世人の多くをして、ついにまったく意味の違った利己主義に堕落させてしまった。
 さらにこの二つの誤謬を政治的および経済的事実の上から観れば、当時の新勃興階級たる紳士閥は、封建の旧制度を倒壊するとともに、一面において強力なる中央集権的近世国家の建設に努め、他面において容赦なき紳士閥的個人主義すなわち利己主義の実行に耽った。
 近代の個人主義は、この紳士閥社会の事実から当然に起こった、一反動である。

 フランス大革命当時の擾乱、旧制度や旧伝習の破壊、および革命後の政治的および社会的混乱、これらのものは必然にある二つの影響を個人の上に及ぼした。
 その一は、ことに貴族の血を受けた人々の間の、ある深い不安であった。ヴィニーやゴビノーのごとき若い貴族は、まったく従来の生活方法を破られて、成上がりものの民主的生活の中に移されてしまった。ヴィニーはその『一詩人の日記』の中に言う。「実を言えば、世の中には、所持者と所得者との二種の人しかいない。私は、この二階級の前者に生まれて、今はその後者として生活しなければならなくなった。私のではない筈のこの運命の感じが、私をして内心叛逆せしめた。」彼等はボナールの言ったごとく、その感情においては過去の時代に属し、その思想においては将来の時代に属する人々であった。彼等は実に現在の時代には身の置きどころもなかった。トクヴィルは、この混乱に次ぐの混乱に耐えられなくなって、ついにさらに新しき社会を夢想するに至った。当時の社会状態と彼の心理状態とは、その『アメリカの民主政治』の序文の中に、詳細に見ることができる。
 「まったく新しい世界のための、新しい政治学が創られなければならぬ。・・・しかしわれわれは、その想いに耽ることも、碌にはできない。われわれは、急流のただ真中にあって、まだ岸の上に見えるわずかばかりの遺物に執念深く眼を注いでいるうちに、急流は深い淵の方へ遠くわれわれを押し流して行く。・・・知識界の出来事とてもその悼しさに変りはない。フランスの民主政治は、あるいはその進行を妨げられ、あるいは無茶苦茶な情欲に駆られて、その路に出遭ういっさいのものを覆してしまった。フランスの民主政治は、静かにその主権を建てるために、漸々に社会を侵蝕して行くということがなかった。混乱と擾乱とのうちにその進行をとどめられてしまった。みんなは、闘争の熱に駆られて、敵の極端な主張や行為のために、自分の主張までも当然の範囲外に押し出して、自分の追求する目的すらも忘れて、そして自分の本当の感情や内心とはあべこべの言葉を弄んでいる。・・・かくしてわれわれは奇怪な矛盾を目のあたりに見なければならなくなった。私は、私の記憶に遡って見て、これほどまでに悲哀と憐憫とを催さす何ものをも見出すことができない。今日では、主張と趣味とを、または行為と信仰とを結びつける、自然の糸が切断されてしまったようだ。いつの時代にも行われていた思想と感情との同感が破壊されてしまったようだ。道徳上のあらゆる法則が廃滅されてしまったようだ。」

 この混乱は、社会状態の上にも、また個人意識の上にも、かなり永い間続いた。そしてフランスの民主政治は、ことに若い貴族等の間に、個人や社会の現在と将来に対する、憤懣と悲観との思想を種播いたのであった。
 しかし社会的混乱や、社会的不安定や、または社会的関係の弛緩は、必ずしも憤懣や悲観の絶対的および普遍的原因ではない。かくのごとき社会状態も、ある人々の心理には、いささかの不安も悲哀をも感ぜしめない。強固に組織され支配されている社会よりも、むしろ秩序の弛緩し混乱した社会に、より善く適応する性質を持った人々がいる。秩序の弛緩し混乱した社会は、冒険の広野である、大胆なる意志の運だめしの舞台である。この時こそ、従来の被圧制階級のあらゆる人々にとっては、久しく圧迫されていた個人的自由の、初めて頭をもたぐべき好機会である。彼等は歓喜して、各々その思い思いの野に、この自由を追求した。そして彼等の間に、奮闘と楽観との個人的自由の思想が、湧くがごとくに起こった。
 社会的混乱の生じたかの憤懣と悲観との思想と、この奮闘と楽観との思想とは、さらにつぎに説く社会状態の進化に伴って、ついに近代個人主義を産む母となった。

 この社会的秩序の混乱と相次いで、さらに近代個人主義の勃興に与って力あったのは、それとまったく反対の現象たる社会的秩序の整頓であった。すなわち旧制度の破壊と同時におよびその後に行われた新制度の建設であった。
 社会的大変革の後には、いつの世でもそうであったのだが、一方には社会的秩序の混乱があるとともに、他方にはそのこと自身の中にすでに秩序の整頓が含まれている。すなわちフランス大革命後の封建的秩序の解体も、実はさらに新しき社会的秩序の再組織であったのだ。ある旧い桎梏は消滅した。が、それも実際はさらに新しき桎梏によって置き換えられたのだ。大革命は旧い社会的制度を破壊した。が、この大革命はまた、さらに新しい社会的制度の建設によって、各個人の上に中央集権的専制をほしいままにしようとしたのだ。かくして各個人の心臓は、この巨大な重荷の、社会的圧迫を感ぜざるを得なくなった。
 近世国家の中央集権的原則は、国家の中に諸国家の存在することを許さない。国家は唯一不分割性のものである。国家の中のいっさいは国家の監視と制裁とを遁れて、存在することができない。各個人は生れてから死ぬまで、国家の監督の下に生活しなければならぬ。そしてまたかくのごとき組織の社会にあっては、各個人はあまりに集合し合い、したがってまたあまりに拘束し合う。各個人の生活が他の人々の生活の中にあまりに食い込み合う。
 一方には、すでにさきに言ったごとき旧組織の破壊から来た、悲観と楽観との個人的自由の思想と感情とが湧きつつある間に、他方には、その思想と感情とがこの新組織の建設によって妨げられまた害われる。かくしてここにもまた、等しく憤懣と悲観との思想と、奮闘と楽観との思想とが、各個人の境遇と気質とに従って生れ出て来た。
 個人主義の発生は、社会組織が各個人にとって堪え難きほどに強圧的であることを予件とするものであるが、それとともにまた、ある程度の社会的解体をも予件とする。この後の予件がなければ、多くの場合に、各個人の社会的叛逆は不可能である。少なくとも無効果である。政治的および社会的束縛が、非議すべからざるほどに、あまりに強力であり、いっさいの秩序があまねく是認せられ尊敬せられている社会においては、とにかく個人主義的叛逆などという気の、よしそれがいかに慎重な態度のものであっても、容易に起きる可能性がない。そこで叛逆の感情は、多くの場合に、何等の形式をもってもそこに現され得ないで、ただ各個人の頭脳の中に幽閉されていなければならぬ。もし多少の大きな個性があって、その束縛に叛逆を試みんとすることがあっても、それはただちに圧迫せられ蹂躙せられて、かえってその身を失うことになってしまう。
 されば自由の要求は、すでに多少の自由の存在することを予件とする。知識的解放、諸思想の偶像破壊、社会的ディレッタンティズムというようなものの起るのは、多くの場合に、すでに社会的規律や権威の多少の弛緩に乗じてである。かくして十七世紀やルイ十四世の絶対君主制度の下には萌出ることもできなかった個人主義的思想が、十九世紀に至って、旧社会の解体と風俗習慣や思想感情の混乱とに乗じて、初めてその頭をもたげて来たのである。
 加うるに十八世紀における官能派の文学は、スタンダールやボードレール等の作者によって復活せられて、風俗習慣の自由を憧れしめた。ようやく発達しかけて来た科学は、その性質のもともと無道徳的であったところから、かつては神学的思想の名の下に厳酷に審かれた存在と思索と行為との方法を評価する上に、はなはだしく寛大であることを許すようになった。科学の無道徳性は、従来不道徳であると見做されていた種々の形式の官能を侮蔑するどころでなく、かえって好意をもって眺めしめるようになった。そしてこれらの諸原因の影響の下に、いかに生活を理解しまた生活すべきかの種々なる仕方が、すなわちいかに存在し思索し行為すべきかの種々なる新しき方法が、大した物議を起こすこともなく、現実され得るようになった。
 かくのごとく、一方にはすでに幾分かの自由を味わい、ますますその自由の思想と感情とを充実し拡張せしめんとしつつある間に、社会状態の進化はさらに他方にこの傾向に対する新しきしかも強力なる障礙を持ち来たした。すでに枝を出し葉を出しさらに蕾までも持ちかけた個人的自由の思想と感情とは、ここにおいてかまったくその障礙の下に屈服しおわるかもしくはその障礙を打破するかの、三途に出づるの外はない。

 けれどもこれを事実に見るに、この第三の叛逆的思想と行為とが、初期の個人主義の主潮であり、そしてまたその後の個人主義にも主潮としての系統をひいているもののごとく思われる。
 すなわち初期の個人主義者は、自らの上に圧倒する、社会的決定を意識していた。しかし同時にまた、自らがこの決定の中の一つの力であることをも感じていた。その力はきわめて薄弱ではあるが、しかもなお自ら欲しさえすれば、万障を排して闘うこともでき、また恐らくは勝つことすらもできようと信ぜられていた。とにかく当時の個人主義者は、社会に対してその力を試みることなしに、ただちに譲歩し妥協しようとはしなかった。自らの精力、自らの敏捷、また必要に応じて自らの不謹慎をすらも頼んで、社会との闘争に従った。
 けれどもこれらの強き個性が、その独立と権力とのためにいかなる性質の闘争を営んだとしても、この不平等な闘争に勝利を占めるということはほとんどなかった。社会はあまりに強い。社会がわれわれを包む定命の網は、われわれがそれらを打破らんがためには、あまりに堅固であった。この社会に対する強き個性の極力的の闘いの、そのロマンティックな結末は、要するに失望と落胆とをかち得たに過ぎなかった。したがって当時の文学は、いずれもみな、この失敗の告白であった。
 ヴィニーはその『一詩人の日記』の中に言う。「神は地球を大空の中に投じたごとく、人間を運命の中に投じたのだ。運命は人間を包んで、等しくまた常にヴェールを蔽うた目的に向かって人間を運んで行く。・・・凡俗は誘われるままに牽かれ、大なる性格はそれと闘う。・・・しかしその生涯の間闘ったものはほとんどいない。彼等もまた、運命の流れの中に巻きこまれて、溺れ死んでしまう。」
 ゴビノーの『王子』等は社会に宣戦した。しかし彼等もまた、その敵のあまりに強くして、その愚劣なる数が彼等を蹂躙し去らんことを覚悟していた。政治家にして雄弁家であった、そしてまた事実の上における社会的叛逆者であったベンジャミン・コンスタントも、ついにはその著『アドルフ』の中に、感情の世界においても行為の世界においても、個人に対する社会の専制的万能を認めなければならなくなった。「いかに熱狂せる感情といえども、事物の秩序に対しては闘うことができない。社会はあまりに強い。あまりに多くの形の下に再現する。」
 かくして強き個性の到達し得たところは、彼等の憧憬と運命との間の、とうてい調和すべからざる不権衡を痛感したことであった。ドイツにおいてもまた、ハイネは一八四八年につぎのごとく言っている。「この世界が今日求めかつ望みつつあることは、まったく私の心とは没交渉のものとなった。けれども私は運命の前に膝まずかなければならぬ。私はこの運命に反抗すべくあまりに弱い。」

 これらの大きな性格の個人的叛逆の外に、なお思想と感情との類似による集合的叛逆があった。これらの不平家等は、社会の強圧に対して、まったく孤独に反抗することができず、もしくはそのことの不可能を感じて、彼等自身の力と他の同志との力を結合した。すなわち彼等自身の形づくった小社会をもって、周囲の大社会との闘争に従った。あらゆる党派の革命党はこれであった。これらの小団体は、最初はきわめて微々たるものであったが、漸次に発達して、その団体に像どって大社会をも変革せしめんとする勢いを呈した。かくして彼等の叛逆的精神は、一方にあらゆる社会的破壊力となるとともに、同時にまた歴史上に変化と進歩との大役を演ずる新社会の萌芽ともなった。
 けれどもここにもまた、要するに社会的勢力に対する個人の努力は無駄であった。倒れたる暴君は実に他の暴君によって置き換えられたのだ。勝利を得た少数者は暴虐なる多数者と変った。すなわち個人の解放という意味からすれば、進歩とはただ名ばかりの虚偽であったのだ。そしてかくのごとき政治的革命から得た理論的結論は、いうまでもなく政治的事物に対する無関心であった。

 かくして個人主義はその第二期に到達した。個人主義の第一期は、個人が社会を支配して、その夢想するところに従って社会を改造せんとする、自ら頼む雄々しき叛逆であった。けれども個人主義は、その第二期に至って、まったくこれに反していっさいの努力を無益であると観念してしまった。社会的定命と桎梏との前に、あくまでも敵意を抱きながら、それと闘うことを余儀なく断念したのだ。すなわち第二期の個人主義は、永久に不服従の、しかしまた永久の敗北者となったのだ。
 この意味の個人主義は、個人と社会とのついに調和することなき、深き矛盾の実感であった。この意味の個人主義者は、自己の内的存在とその社会的周囲とのついに避くべからざる強き不調和を、ことさらに痛感する性質の人々であった。彼等は永い間の経験に虐げられて、社会とは個人にとって束縛と屈従と困窮との永遠の原因であり、悲哀の不断の創造者であると確信した。彼等は、彼等自らの経験と彼等自らの生の実感との名によって個人と社会との間に調和を来たしめんとする将来社会の一切理想を空想であると確信した。彼等によれば、文明の発達はこの害悪を軽減するどころではなく、いよいよ暴虐をほしいままにせんとする社会的機制の無数の車輪の中に、各個人の生活をますます複雑ならしめ、ますます多忙ならしめ、ますます困難ならしめて、かえってこの害悪を増大せめるものである。
 すなわちこの個人主義は、第一期の個人主義が社会的楽観説であったごとく、こんどは反対に社会的悲観説であった。さればこの個人主義者のもっとも温健なるものといえども、なおかつ、社会生活は個性にとっての絶対の破壊的害悪でないまでも、少なくとも個人にとっての圧迫的制限条件であり、必要なる害悪であり、しかももっとも大なる害悪であると認めている。ヴィニーはその『一詩人の日記』の中に言う。「社会的制度は常に悪である。ただ時々にわずかに堪え得られるものとなる。この悪からわずかに堪え得られるものに移らんとする争いには、一滴の血をも値しない」
 かくしてこの第二期の個人主義は、われわれがその中に生活しなければならぬ組織されたる社会に対する、その画一的規律、その単調、その束縛に対する、敵意と不信とから侮蔑と無関心とに至る種々なる実感の態度となった。この社会から遁れて自己の中に引退せんとする渇望となった。各々の自我の唯一性、各々の自我の差別性の深い感情となった。

 この第一期と第二期との二つの個人主義は、またロマンティズムとネオロマンティズムとの、二つの思潮によっても代表せられる。
 ロマンティズムとは、偉大や、力や、情熱や、歓喜や、自由や、幸福や、または美やの、漠然としたしかし崇高な理想に対する異常な憧憬であった。理想的であり、熱誠的てあり、革命的であり、時としては狂気に近いほどの激情的であった。その内的欲望はさらに外的に拡がって、世界を征服し、世界を破壊せんと欲した。しかしこの憧憬も、ついには必然に絶望を、多くの詩人によって歌われ多くの哲学者によって論ぜられた渇望の見たし得ざる悲哀を、生まなければならなかった。文芸の上でのオーベルマン、ルネ、バイロン、レオパルディ、ハイネ、ヴィニー、また哲学の上でのショーペンハウアーなどは、すべてみなこのヴェルトシュメルツすなわち世界苦の苦悩者であった。ロマンティック・ペシミストであった。
 かくロマンティズムは、一方にその感情の横溢から悲観説に傾かざるを得ざるとともに、他方にまた、その横溢せる感情を娯まんがために、自らの苦悩を強めてその苦悩を味わわんがために、そしてまたその苦悩を天才のしるしであるかのごとく崇め上げんがために、外に向うことをやめて自己の中に帰らなければならなかった。自己の中に閉じ籠もったロマンティズムは、必然にまた、個人的むら気を尚ばなければならなくなった。むら気は刹那的である。流動的である。
 ロマンティズムは、かく悲観的となり個人的となるとともに、さらに哲学上の批評的精神と科学上の観察的精神とおよび芸術上の現実的精神との三重の影響によって、ついにネオロマンティズムと化した。
 ネオロマンティズムは、ロマンティズムと同じく実感から出て、感情をもって善悪の真偽のそしてまた美醜の標準とする。けれどもネオロマンティズムの尚ぶ実感は、もはやロマンティズムの無邪気なる理想的でもなく、激情的でもなく、叛逆的でもなく、その批評的精神によって自らに対してすらも不信を懐き、経験によって聡明にされ、反省と科学的教養とによって和らげられついにまったく純化された平静と観照との悲観説となり個人主義となった。
 これを一言に言えば、ロマンティズムはより多くディオニシエンであり、ネオロマンティズムはより多くアポロニエンである。

 この第二期の個人主義は、近代の思想界における固有の意味の個人主義である。したがってもう少し詳細にその心理的解剖を施して見よう。
 個人主義はいわゆる利己主義とは全く違う。利己主義は、自己および他人の何ものを犠牲にしても、ただ世の中に押し出ようとする、きわめて卑俗な成上がり主義である。その感情はきわめて粗雑であり、社会的接触や、社会的虚偽や、または社会的卑劣について、何等の苦痛をも感じない。利己主義者は、あたかも魚類の水中に棲息するがごとくに、社会の中に生活することができる。
 個人主義的感情は必ずしも愛他心を斥けない。むしろ一般に、この愛他心の漲溢から、社会的悲観や厭人観に陥ったものである。ヴィニーやゴビノーは、その崇高なる社交性の理想を実現せしめんとして、失敗し絶望した愛他主義者であった。彼等は、美わしき強きそして寛大な、社会を憧憬したのであった。しかも彼等は、現実の社会の醜悪と愚劣と偽善とを見て、彼等自身の中に帰ったものだ。彼等は、我欲一点張りの利己主義を選んだのでもなく、またある芸術家が芸術のために芸術を説いたごとく個人主義のために個人主義を選んだのでもない。彼等の個人主義は、よしそれがいかに絶対的でありいかに絶望的であっても、元来は人類の偉大と高貴との信念から出たものであった。そして彼等が、たとえばヴィニーがいっさいの社会形式を否認し、またゴビノーが侮蔑と無関心との観照的態度に遁れて、社会をもって思想家の生活するに堪えざるところであると見做すようになったのは、その信念を実現することの不可能を経験し、また社会的事物のあまりに醜悪なるとうてい癒すべからざることを実感したからであった。彼等の感情は、社会的現実との接触に堪うべく、あまりに敏感でありあまりに繊細であった。したがって彼等は、いち早く彼等自身の中に逃げ帰ったのであるが、しかもなお自己に対してもまた他人に対しても、独立と真率との切望を失うことはなかった。
 そして彼等の社会的事物に対する無関心も、往々その奥底に潜む愛他心のために裏切られた。ヴィニーはしばしば人類の運命を憂えた。またゴビノーも、その晩年に至って、平素は侮蔑し絶望し切っていた民主政治に勧告を与えるために、『第三共和国』の著述を公けにしてその無関心から出た。

 個人主義の感性がかくのごとくはなはだ敏感でありはなはだ複雑であるとともに、その理性もまたはなはだ聡明でありはなはだ複雑であった。そこにもまた相反する憧憬と才能とがあった。理想の追求と現実の執着、分析の力と直覚の妙。
 個人主義の最初は、理想的世界観によって、スタンダールのいわゆるスペイン主義によって、ドンキホーティズムによって、すなわち一般にいうロマンティズムによって現れた。けれどもこの理想主義的理性は、事実に当面するや否や、ただちにその主観的理想と現実との懸絶、および個人と社会との衝突を見た。この経験は、爾来個人主義者をして世界をありのままに視察することに努めしめ、かつては理想主義者であったものを現実主義者としてしまった。しかし彼等といえども、まったくそのために、従来の理想を抛棄し去ったのではない。彼等の中のあるものは、理想主義と現実主義とを、ベンジャミン・コンスタントやスタンダールがその好適例であるごとく、彼等自身の中に融合せしめたのであった。
 個人主義的理性は、主観的であり、非合理的である。スピノザやライプニッツの客観的楽観的哲学が事物の普遍的非個性的性質を説明せんとするに反して、個人主義は個人的感情を説明せんとする主観的哲学である。この主観主義には必然に非合理的傾向が含まれなければならぬ。ショーペンハウアーやスティルナーの自我や唯一者は、いっさいの範疇の外に置かれてある。非合理的であり、したがって論理的には知識され得ない。自我の存在や世界の存在を、夢のごとくに、時としては悪夢のごとくに見ている。
 かくのごとく個人主義の意志は、能動的であるよりも、むしろ抵抗的もしくは無為的である筈である。拒絶の意志である、無意志である。個人主義者は、叛逆的行為の不可能であるところから、その行為を断念した。

 かくして近代の思想界における固有の意味の個人主義は、まったく内にのみ向う心理的態度に陥ってしまったのであるが、そしてそこから心理的個人主義の名を与えられ得るのであるが、それとは別に、なお外に向う社会的個人主義がそれと並行して存在したことを忘れてはならない。この後者は、等しくまたフランス大革命の所産であり、多くの倫理学者、法律学者、政治学者、また経済学者等によって、今日まで連綿として主張されている。この個人主義は、ミルがその『自由論』の題辞として選んだフンボルトのつぎのごとき言葉を、そのモットーとする。
 「これらの中に説かれたるいっさいの議論の帰着する大原則、主要原則は、各人がもっとも豊富なる多様多種の発達を遂げんことの絶対的価値である。」
 すなわちこの種類の個人主義は、いっさいの個人が社会の中に互いに調和しつつ発達し、その多様多種なることがかえって文明の富と美との保証になると信じている。 彼等は、秩序と統一と調和とを原則とする理性を信ずる合理主義者である。彼等は、社会的正義の実現さるべきことを信ずる、人道主義者である。きわめて広い意味での社会主義者である。個人と社会を分離せしめず、また対立せしめず、個人をもって社会の一要素なりとなし、部分が全体と調和すると見做すところにその社会的個人主義の名称を与えられる。
 「新しき世界のための新しき政治学が創られなければならぬ。」このトクヴィルの思想は十九世紀におけるあらゆる社会改良家の頭脳に侵み渡った。コントは人道の宗教に、クルノやルナンは知識者すなわち哲学者と科学者との貴族政治に、新しき社会の新しき原則を求めた。しかしこれらの社会的理想はいずれもみな時代の精神たる民主主義に遂われてしまった。そしてこの時代精神に適応した種々なる社会的個人主義の発生が促された。これを政治学上に見れば、国家の任務をもっぱら外国に対する防禦と内国の保安とに減縮せんとする学説、非中央集権主義すなわち地方主義もしくは連合主義、または多数者に対して少数者を保護せんとする自由主義等は、いずれもみなこの種類の個人主義であった。またこれを経済学上に見れば、非干渉主義、自由放任主義、その他これらの社会的学説を数え立てれば限りがない。
 この社会的個人主義とさきの心理的個人主義との間には、必ずしも必然的関係はない。社会的個人主義者として心理的個人主義の感情をはなはだ欠いているものもある。たとえばスペンサーのごときは、国家に対する個人の権利を主張する点においてはなはだ個人本位的であるが、社会に対してはほとんど個人の優越を認めていない。すなわち個人は社会の一要素であると見做すとともに、社会の存在のためにのみ存在するもののごとく認める傾向がある。ここに社会的独断説があり、そしてこの社会的独断説が、ほとんどいっさいの社会的個人主義の欠点となる。さらに詳しく言えば、社会的生活に対する微妙なる感情を欠くところから、内にはいることなしに、ただ理性の上から外に向う社会的学説を築き上げる。また民主的時代精神に適応せんとするところから、今日の社会組織を是認した上での、部分的改良を試みるに過ぎない。
 心理的個人主義はただ内にのみ向うところから、今日の社会組織に対する客観的知識を欠き、したがって早くもいっさいの社会組織を否認する悲観説に陥る。また社会的個人主義はただ外にのみ向うところから、いっさいの社会組織に対する主観的感情を欠き、したがって早くも今日の社会組織を是認する楽観説に陥る。そしてここに、この二つの種類の個人主義の、各々の長所と短所とが見出される。そしてまたここに、理論的にも実際的にもこの二つの種類の個人主義の短所の行きづまりがあり、さらに両者の長所をとった第三の個人主義が生れなければならぬ順序となった。
 この要求によって事実上に現れた新個人主義は、平面的に見れば心理的個人主義と社会的個人主義との融合であり、そしてまた立体的に見れば、さきの第一期個人主義と第二期個人主義との調和である。さらに言葉を換えて言えば、第一期個人主義がその後の種々なる方面の経験と知識を蓄積して、新しき内容をもって復活し来たったものである。

 そこでこの平面的にも立体的にも第三の地位にある新個人主義を説く前に、再び個人主義の心理的解剖に帰らなければならぬ。
 さきにロマンティズムとネオロマンティズムとを論じた時に、前者はより多くディオニシエンであり、後者はより多くアポロニエンであると言った。ディオニシエンはドン・キホーテの徒であり、アポロニエンはハムレットの徒である。そして心理学者リボーは、前者を能動性、後者を鋭感性の心理的型に属するものとして分類している。
 第一期の個人主義時代にも、すなわち能動型の人物が活動した時代にも、なお憤懣と悲観とのみの鋭感型の人物はあった。また第二期の個人主義時代にも、なお奮闘と楽観とのみを続けた能動性の人物はあった。強大なる気質は周囲の一般的傾向に多少逆らって進退することができる。さらにまた、このいずれの時代においても、鋭感能動性と名づけられる総合的型の人物はあった。もっともこの気質の分類は、総合的型の存在が示すごとく、個人が各々ある一気質のみを有するという意味ではない。各個人には、多少の強弱の度をもって、種々なる気質が包蔵され、その中のいずれかが、周囲の事情に多少適応しもしくは反動して、ことに生長発達する。
 第一期個人主義時代は能動型の人物の活動に、また一般の人々の能動性の発達に、もっとも都合よき時代であった。そしてその時代の個人主義者中には、能動性のはなはだ強烈な、少数の無政府主義者がはいっていた。彼等は、幾度かの失敗にもめげず、幾度かのつらき教訓にもこりず、ひたすらにその理想の憧憬と成功の信仰とを追うて勇敢なる叛逆的闘争を続けて行った。バクーニンのごとき、またあらゆる点においてその後継者とも言い得べきマラテスタのごとき、実にその好典型である。
 しかし無政府主義は、かくのごとき能動型の人物によって創始せられたのであるが、さらにクロポトキンやルクリュ等の鋭感能動性の人物によって改造せられ、また政府と社会との獰猛なる迫害のためにしばしば無為を余儀なくせられつつある間に、内省の機会を与えられて、その色彩にはなはだしき変化を生じた。さらに換言すれば、無政府主義はその社会的学説の系統において社会的個人主義に属するものであるが、その個人的感性の上に著しく心理的個人主義の色彩を帯びて来た。
 そして同時にまた、さきの心理的個人主義も、実際生活におけるその対社会的態度の矛盾に目覚め、一般思想界のことに社会科学の進歩に教えられ、かつ現社会の漸次に老衰し来たるに乗じて、あたかもかつてヴィニーやゴビノーが時としてその無関心から飛び出したごとくに、再び第一期個人主義の人道主義を復活せんとしている。ロマン・ローランのごときはそのもっとも明白なる代表者ではあるまいか。


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