大杉 栄 の文章3


 

社会的理想論     (1920年 6月)


 無政府主義者ことにクロポトキンはよく言う。労働者はまず、その建設しようとする将来社会についての、はっきりした観念を持たなければならない。この観念をしっかりとつかんでいない労働者は、革命の道具にはなるが、その主人にはなることができないと。
 実際労働者は、今日までのどこの革命にでも、いつも旧社会破壊の道具にだけ使われて、新社会の建設にはほとんどあずかっていない。大部分は自分らの力で破壊しておきながら、それが済めば、あとは万事を人任せにしている、そしてそのいわゆる新社会が、まったく旧社会同様の他人のためのものになることに少しも気がつかない。 しかしこれは、労働者に新社会組織についてのはっきりした観念がないということよりもむしろ、自分のことはすべてあくまでも自分でするという、本当にしっかりした自主心がないからではあるまいか。
 たとえば、よし労働者に新社会組織の観念がないにしても、みずから旧社会の破壊とともに新社会の建設にもあずかりさえすれば、その革命の主人になることができるわけだ。また、よし労働者がその観念を持っているにしても、それが他人の知恵で造ってもらったものであれば、その革命の本当の主人にはなることができないわけだ。それからまた、よしその観念があるにしても、その建設はやはり人任せにすることができるわけだ。
 したがって、労働者が本当に革命の主人となるためには、自分らのための社会を造るためには、何よりもまず、労働者の解放は労働者みずからが成就するという、自主心の徹底に努めなければならないことになる。
 僕は今それを、クロポトキンのいわゆる「新社会組織についてのはっきりした観念」をつかむことについて、ことに論じてみたいと思う。

 新社会組織についての観念、すなわち新社会の理想、といったところで、まずどんな観念、どんな理想を持てばいいのかわからない。
 それには、労働者の目の前に、すでにいろんな見本ができている。無政府主義のそれもある、社会民主主義のそれもある。サンジカリズムもある。ギルド社会主義もある。
 しかし労働者は今すぐには、そのなかのどれを選べばいいのかわからない。いずれもみな、それ相応に、もっともらしい理屈を持っている。が、そのなかのどれが一番いいのか、労働者にはまだ本当にはわからない。
 それに労働者は、そんな観念とか理想とかの見本を理屈の上で比較研究する前に、そのせっぱつまった生活の、少々でもの改善を謀らなければならない。それが労働者の目下の急務だ。
 そして労働者は、この急務に努力しつつある間に、資本家と労働者との関係、政府と資本家もしくは労働者との関係についての、その地位を漸次自覚してきた。今日の社会制度の根本的誤謬にまでも気づきだした。また、労働条件改善のためのその努力のなかに、それよりももっと強くその心中に湧いてくる、自由の精神に目覚めてきた。
 これは、僕が今多くの労働者の中にみる事実だ。そしてそれらの労働者は今、その眼前に見せつけられる諸種の社会的観念や理想をそのまま受け入れる前に、彼ら自身が獲得してきた社会的知識と自由の精神との結合に努力している。見本の買入れよりも、その刺激の下に自分の品物をつくり出そうとしている。

 人生とはなんぞやということは、かつて哲学史上の主語であった。そしてそれに対する種々の解答が、いわゆる大哲学者らによって提出された。
 しかし、人生は決してあらかじめ定められた、すなわちちゃんとできあがった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生なのだ。
 労働運動とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。
 観念や理想は、それ自身がすでに、一つの大きな力である、光である。しかしその力や光も自分で築きあげてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。
 労働者がその建設しようとする将来社会についての観念、理想についても、やはり同じことだ。無政府主義や社会民主主義や、サンジカリズムや、またはギルド社会主義等の、将来社会についての観念や理想は、あるいはヨーロッパやアメリカの労働者自身が築きあげてきた力や光であるかもしれない。彼らはその力と光との下に進むがいい。しかしその観念や理想は、日本の労働者が今日まで築きあげてきた現実とは、まだ大分距離がある。
 僕らはやはり、僕ら自身の気質と周囲の状況とに応じて、彼らの現実を高めることに努力しつつ、それによって僕ら相応の観念と理想とを求めるほかはないのだ。そしてそこに、僕らのいわゆる、信者のごとく行動しつつ、懐疑者のごとくに思索する、という標語が出てくるのだ。


 

マルクスとバクーニン --社会主義と無政府主義--     (1922年12月)


 どこの資本主義国家にでも、社会主義者や無政府主義者は、いつも気違いだとか、強盗だとか、人殺しだとか、またはその国家自身が使っているスパイだとか、宣伝される。その敵の人格を民衆に疑わせるのが、政府にとって一番有効な方法だからだ。
 ところが、この政府的方法は、さらに社会主義者によっても、いつもその敵の無政府主義者に用いられる。しかも社会主義者は、資本主義者よりももっと政府主義的であるところから、資本主義者よりももっと悪辣にこの方法を用いる。
 僕らはそれを、日本の社会主義運動史の第一ページにおいて、すでに見た。幸徳が無政府主義を唱え出して、多数の青年がそれに従った時、社会主義の片山潜や西川光二郎は、幸徳や堺を「買収された」と公言した。
 ロシアのボルシェヴィキ政府が今その国内の無政府主義者に浴びせかけている悪名も、やはりこの「気違い」であり、「強盗」であり、「人殺し」であり、そしてまた「スパイ」であり、「反革命運動者」である。山川菊栄がさきに雑誌「改造」に発表した、エマ・ゴールドマンに対する中傷のごときは、ボルシェヴィキ政府が無政府主義者に対する態度をきわめて忠実に翻訳したものだ。そしてこの方法はまた、最近日本のボルシェヴィキどもによっても、全力的にその旧同志の無政府主義者に向けられている。白色政府とこれにとって代わろうとする将来の赤色政府との、同じ政府的手段による、共同戦線的黒化防止団が形づくられたわけだ。
 由来、残忍と陰険とは政府的思想のつきものである。その敵を鉄と血とで黙らしてしまうのと、その敵の思想を曲解して道化たものにしてしまうのと、その敵の人格を中傷して個人的信用をなくさしてしまうのとは、政府的思想のお得意の手段である。そして政府的思想の強いだけ、これらの手段はますます残忍になり、ますます陰険になる。

 一八四五年七月、バクーニンはその革命的思想のためにドイツやスイスから追われて、はじめてパリへ行った。そこで彼は、当時のもっとも進歩したあらゆる民主主義者と知り合いになって、プルードンやマルクスともはじめて相知った。
 バクーニンはそれらの交友からいろんな影響を受けたのだが、ことにこのプルードンとマルクスとからはもっとも大きな影響を受けた。そして彼は、後年、この二人を批評して次のように言っている。
「プルードンは、古い理想主義の伝習を打ち破ることに全力を注いだのだが、その生涯はやはり矯正することのできない理想主義者であった。彼はその爪の先までもいつもメタフィジシャンであった。彼の大きなふしあわせは、かつて自然科学を学ばず、したがっまたその方法を知らなかったことである。彼は、彼に本当の道を発見させる天才的才能を持っていた。しかし、いつもその理想主義の悪い癖に引きずられて、もとの誤謬の中に落ちていった。これがプルードンの不断の矛盾のもとだ。力強い天才と革命的思索家とが、いつも理想主義の幽霊と戦っていた。しかもかつてそれに打ち勝つことができずに」
「マルクスは思想家としてはいい道にあった。彼は史上いっさいの政治的、宗教的、法律的進化が経済的進化の原因ではなくって結果だということを原則として立てた。これは大きな、そして実りの多い思想だ。もっともそれは決して彼が発明したのではない。他の多くの人々によってすでに部分的に瞥見され説明されていた思想だ。しかし、その原則を確定してそれをその全経済学説の基礎とした名誉は彼の上に帰せられなければならない。」
「が、プルードンは彼よりもいっそうよく、自由を了解しまた感得していた。プルードンは理論や哲学を言わないでも、革命家の本当の本能を持っていた。彼は悪魔を崇めて無政府を唱えた。マルクスはプルードンよりも、自由についてのもっと合理的な組織の上に、理論的に立つことはできるかもしれない。しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ」

 そしてバクーニンはなお、彼自身とマルクスとを比較して、次のように言っている。 「マルクスは今でもそうだが、当時僕よりよほど進んでいた。よほどどころではない。僕とは較べものならないほど学者だったのだ。僕は経済学をちっとも知らなかった。また形而上学的抽象論からも抜けきっていなかった。そして僕の社会主義はほんの本能的のものにすぎなかった。彼は僕より若かったのだが、(二人が会ったのはマルクスが二十六、バクーニンが三十の時だった)、すでに無神論者であり、博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった。彼が今日のその学説の基礎を立てたのはこの時代だったのだ。」
「われわれはずいぶんよく会った。なぜなら僕は彼を、その学問ゆえに、またいつも個人的虚栄心は混じっていたが、ともかくも、無産階級に対する熱心なかつまじめなその努力ゆえに尊敬していた。そして彼との対話を貪るように求めた。彼の談話は、そこに卑劣な憎しみの入っていない時にはいつも有益なそして才気に充ちたものだった。しかし悲しいことには、その憎しみがあまりにしばしば入ってきた」
「が、われわれの間には、隔てのない親しみというものは、決してなかった。われわれの気質がそれを許さなかったのだ。彼は僕を感傷的理想主義者だと言った。それはもっともだった。僕は彼を不実で危険な見栄坊だと言った。そしてそれもやはりもっともだったのだ」
 アドラーはその「ドイツにおける社会民主主義の初期の歴史」の中でロシアの著述家スネンコフの言葉を引いて、マルクスのこの態度を認めている。「彼は絶対命令的の調子で話した。他人の少しの矛盾をも許すところがなかった。同時にまた彼は自分の使命を感じて、自分は人々を支配し人々に法律を規定するために生まれてきたものだと考えていた。一言で言えば、彼は民主的独裁者の権化だったのだ」
 マルクスはまた、「その論敵に対してはなんの遠慮会釈もなく、その偉大な学識のゆえと、不幸にもまたその敵を攻撃する方法に無頓着なゆえとで、その論争は実に恐ろしいほどのものだった。彼には罵詈ざんぼうのない論争は絶対にすることができなかった。そしていつもその論争の外に出ては、事実の白を黒に変えてしまった」

 なおバクーニンはそのフランスの一同志アルベール・リシアルに与えた手紙の中に、マルクスを「その伝習的にも本能的にも、撹乱的の、陰謀的の、搾取的のブルジョワ的の」人間だと言っているが、さらにエンゲルスについても同様のことを言っている。
「一八四五年ごろ、マルクスはドイツ共産主義者らの先頭にたった。そしてそのすぐ後でその断金の友エンゲルスとともに、ドイツ共産主義者すなわち強権的社会主義者の一秘密結社を創立した。このエンゲルスは、マルクスと同じように学才があって、彼ほど博学ではなかったがその代わりにもっと実際的だった。そして政治的中傷や虚言や陰謀にはマルクスに劣らないほどたけていた」

 一八四七年十一月、バクーニンは一八三〇年の最初のポーランド一揆を記念するポーランド人らの宴会に出て、そこで有名な大演説をやった。
「ポーランド人とロシア人との和睦は、ニコラス皇帝の専制に対するその共同の革命的運動によって、はじめて事実になるだろう。しかもこの革命はすぐに来るだろう。そしてまた、ポーランド人とロシア人とのこの和睦は、同時に外国の覊絆の下にあるすべてのスラブ民族の解放をもたらすだろう」
 バクーニンはもともとスラブ人をもっとも自由な性質の民族だと考えていた。そしてドイツから輸入された専制政府の覊絆さえ打ち破れば、そこから自然に若い自由な民族が発達してきて、それが世界の文明の進歩のため非常な助けをすると信じていた。バクーニンのパンスラビズムというのはそれだ。そして彼自身も「このスラブ対ポーランド問題は、一八四六年以来、僕の固定思想となり、一八四八ー一八四九年以来の僕の専門となった。」と言っている。
 しかしマルクスはそれとまったく正反対のいわゆるパンゲルマニズムをいだいていて、ドイツはロシアと結びついたために反動的になり、そしてこの影響が全ヨーロッパを専制に導くのだと主張していた。
 そしてこのパンスラビズムとパンゲルマニズムとは、バクーニンとマルクスとが後に純粋の国際的無産階級の革命を主張するようになってからも、いつもやはり二人につきまとっていたようだ。

 が、それはとにかくとして、バクーニンはこの演説の結果、ロシア大使キスレフの要求によって、フランスを追放されてブラッセルへ行った。
 キスレフはバクーニンに対する世間の同情をなくするために、彼はその使っていたスパイなのだが、やり方が少し激しすぎるので免職にしたのだ、という噂を広めさせた。そしてフランスの内務大臣デュシャテル伯爵も、貴族院での質問に対して、それを裏書きするような答弁をした。
 ブラッセルにはマルクスもいた。彼も一八四五年以来フランスを追われていたのだ。
 バクーニンはそこからその同志ヘルヴェクに手紙を送って、そこでの彼自身とマルクスの交渉について語っている。
「マルクスとエンゲルスとがーーことにマルクスはーーここでもいつもの悪事をやっている。虚栄、奸佞、悪口、理想の高言と実行の臆病、生命や活動や誠実を論じて、その生命や活動や誠実のまるでないこと。文学好きの労働者や雄弁な労働者に対するヘドの出そうな手練手管、フォイエルバッハをブルジョワ的だと罵っていること。ブルジョワ以外の何人でもない人間どもが、他人に対してこのブルジョワという言葉を飽かずくり返していること。一言でいえば、ウソとバカと、バカとウソ。そんな人間の間では自由な呼吸もできない。で、僕は彼らの共産主義者同盟には入らず、また、彼らとは何事も一緒にしたくない」ということを明白に宣言した。

 一八四八年、二月革命の結果フランスの門戸がバクーニンに開かれた。彼は急いでパリに帰った。が、すぐにまた彼は、ベルリンやウィーンに続々として革命的一揆反乱の起こるのを聞いて、四月にまずドイツに行ってそしてそこからポーランドの革命運動に加わろうとした。
 そしてこの時にも、またバクーニンに対する「買収」の噂が立てられた。それは当時のフランスの労働大臣フロコンが、もしフランスにバクーニンのような男が三百人もいたら、とてもその国を治めることができないというところから、ドイツで革命を起こすという条件で、フランス人としての旅行券と三千フランの金とを持たして、フランスから追い払ったというのだ。
 バクーニンはその道でコロンに寄った。そこではマルクスとエンゲルスとが「新ライン新聞」を創めようとしていた。そしてちょうどその時は、パリのドイツ民主同盟がバーデンの大公領で一揆を企てて、それが惨敗に終ったすぐ後だった。この同盟にはバクーニンの友人ヘルヴェクが入っていた。マルクスはこの一揆について猛烈にヘルヴェクを攻撃した。バクーニンはその友人を弁護した。そしてそのためについにバクーニンとマルクスとは絶交してしまった。
 その後バクーニンはその当時のことを書いてこう言っている。
「この問題については、私は今それを考えて、正直に言うが、マルクスやエンゲルスのほうがもっともだったのだ。彼らは一般の情勢を僕よりもよく判断していた。が、彼らはその攻撃のくせであるあまりの無遠慮さで、ヘルヴェクを攻撃した。で、私は彼らに対して、そこにいない友人のために、熱心に弁護したのだ。そしてそれからわれわれの衝突が起こったのだ。」
 それからバクーニンは、ベルリンへ行き、ブレスラウへ行き、さらにプラーグへ行って、そこのスラブ人大会で民主主義と革命の宣伝をやり、またそこのすぐ鎮圧された一揆運動にも加わった。そしてまたブレスラウに帰った。
 バクーニンのこのブレスラウ滞在の間に「新ライン新聞」紙上に、パリ通信として次のような記事が載った。
「このポーランド一揆について、こう断言する者がある。ジョルジュ・サンドはここから追放されたロシア人ミシェル・バクーニンをひどく窮地に陥れる文書を持っている。それには、彼は新しく雇い入れられたロシアの一スパイで、そして彼は最近の不幸なポーランド人らの捕縛の主役を勤めていると書いてある。ジョルジュ・サンドはこの文書をその友人のある者らに見せた」
 バクーニンはすぐに一文を書いてこの中傷の反駁をした。それはまずブレスラウの一新聞に発表されて、さらに「新ライン新聞」にも転載された。そしてバクーニンはなお、ジョルジュ・サンドにも手紙を書いて、彼女の名がそんなことに使われたことについての説明を求めた。
 ジョルジュ・サンドはすぐにその返事を「新ライン新聞」の主筆に送った。 「あなたの通信員が報告したことはまったく間違いです。私はかつて、あなたがバクーニンに対して求めようとしている風説のなんの証拠をも持っていたことがありません。この手紙はすぐにあなたの新聞に載せて下さるよう、私はあなたの名誉と良心とに訴えます」
 マルクスはこの手紙を新聞に載せた。そして同時に彼がパリ通信員のざんぼうを発表したことについて、次のような説明をした。「かくのごとくにしてわれわれは公人を厳重に監視するという、新聞の義務を果たしたのだ。そして同時にまたわれわれはそれによって実際パリのある団体でいだかれていた疑いを晴らす機会を、バクーニンに与えたのだ」

 その翌月、バクーニンはベルリンでマルクスに会った。そしてとにかく仲直りをした。その後バクーニンはこのことについてこう書いている。
「二人に共通の友人らがとうとうわれわれを握手させてしまった。そしてその時、戯談半分の妙な話の間に、マルクスは僕にこう言った。今僕は非常によく訓練された共産党の秘密結社を率いているんだがね。で、僕がその党員の一人にバクーニンを殺してこいと言えば、そいつはすぐ君をやっつけてしまうんだぜ。 この話の後、われわれは一八六四年まで会わなかった」
 マルクスが一八四八年に「戯談半分」に言ったこのことは、それから二十四年後にこんどはまじめに実行されようとした。第一インターナショナルの中で、無政府主義者らの反対がマルクスの行なおうとした個人的支配の邪魔になった時、彼はまったくの精神的暗殺でもって、バクーニンをやっつけてしまおうとしたのであった。が、そのことはまたあとで言おう。

当時ライプツィヒでバクーニンと会った、マルクスやバクーニンの先輩のアーノルド・ルーゲによると、
「バクーニンは非常な苦心をしてロシアで一揆を起こす資金をようやく手に入れた。そして今、彼がブレスラウへ行くのも、ロシアの国境の近くにいて、その一揆を起こす準備のためだったのだ」
そして「バクーニンはそこで多くの人々と関係を結んだ。彼はその才智と愛すべき性格とから、みんなに敬愛されていた。彼はその計画した目的のために、多くのロシア人をその周囲に集めた。彼はまた同じようにしてチェコ人とも連絡を結んだ。そして種々のスラブ民族が互いに了解するように、スラブ人の大会をプラーグで開くことにきめた」
 この大会とそのすぐ後で起こった一揆とについては、さきにちょっと言っておいた。
「ボヘミヤの政治」の著者ヤコブ・マリーによるに、この一揆が起こって、兵士らが街路に集まり出した時、バクーニンやその他の大会会員の多くのポーランド人が泊まっていた青星ホテルの窓から盛んな銃声が起こった。そしてその後秘密の一揆政府が設けられていることがわかった。そこにはバクーニンやその党派の者らが陣取っていて、机の上にプラーグの地図を拡げて、その一揆を続ける命令を出していた。
 この一揆からようやく身をもってのがれたバクーニンは、その後ドイツのあちこちに隠れて、翌年すなわち一八四九年四月に、ライプツィヒのチェコ学生間に現われた。そしてボヘミヤの一揆を準備しつつ、「スラブ人に与う」という小冊子を書いた。
 この小冊子の中で、バクーニンはその当時の彼の思想を明らかにした。それはスラブの革命主義者とハンガリーやドイツやイタリアの革命主義者を結合して、ロシア帝国とオーストリア帝国とプロシア王国の三専制君主国を倒し、かくして解放されたスラブ諸民族の自由な連合を組織するというのだ。
 マルクスはそれを読んで「バクーニンはわれわれの友人だ。しかしそれは彼の小冊子を批評することをわれわれに妨げないであろう」と言って、その「新ライン新聞」に批評を書いた。
「ポーランド人とロシア人のほかは、そしておそらくはまたトルコのスラブ人のほかは、どのスラブ人にも将来はない。それは他のいっさいのスラブ人には、独立と活力の歴史的、地理的、政治的および産業的の重要な条件がないという単純な理由からだ」

 このスラブ問題に対するマルクスと彼の意見の相違については、一八七一年にバクーニンがこう言っている。
「一八四八年には、われわれの意見が違っていた。が、理屈は僕のほうよりも彼のほうに多くあったのだ。しかし次の一点は確かに僕のほうに理屈があった。僕はスラブ人としてドイツの桎梏からスラブ民族を解放したいと思った。しかるにマルクスはドイツの愛国者としてドイツの桎梏から自分を解放しようとするスラブ人の権利を認めなかった。今でもやはり彼はそれを認めていない。彼は、今でもまだそうだが、ドイツ人はスラブ人を文明化すべきすなわち否でも応でもドイツ化すべき天職を持っていると考えている。」

 バクーニンはそのパンスラビズムの実行のために、ドイツ民主主義者とともにスラブ民主主義同盟を作って、みずからドレスデンの防御の指揮に当たった。
 このドレスデン防御というのは、一八四九年五月三日に爆発した民衆の一揆で、フランクフルト議会が可決したドイツ帝国憲法をサクソン王が拒絶したことから起こったものであった。翌日王は逃亡して仮政府ができた。そして叛徒らは五日間ドレスデンの主人となっていた。
 四月の中頃にはバクーニンはライプツィヒからこのドレスデンに来て、叛徒の首領の一人となり、プロシア軍の攻撃に対するもっとも有力な防御方法を講じていたのだった。
 バクーニンの偉大な風采とロシアの革命家だということが、民衆の注意を特に彼の上に引いた。そしてすぐ彼の身辺に噂が拡まった。その中にはドレスデン中に防御の火を放ったのは彼一人でやったのだというような噂もあった。ある人はまた彼を「全革命の魂そのものだ」と言った。そして彼は実に「泣く子を黙らす」ほどの勢いだった。

 バクーニンはその革命的本能から、この一揆がもっと大きく拡がるものと思った。そしてこの一揆のほとんど独裁者というような、重要な役目を勤めた。
 五月八日、ライプツィヒの代議員らの前で、バクーニンはこのドレデン防御の全ヨーロッパにおける価値について演説した。そしてその日から、ステファン・ボルンという若い活版工が叛軍の司令官となった。ボルンはその前年アルバイテル・プリウンテルンク(労友会)というドイツ最初の一般的労働者団体を組織した男であった。
 翌九日、叛軍は優勢な敵軍の来襲に遭って、フライベルヒへ退却した。バクーニンはその途でボルンを説いて、なお彼に残っている叛徒らとともに、このボヘミヤの土地で一揆を起こそうとした。が、ボルンはそれを拒絶してその軍隊を解散した。そしてバクーニンは仮政府のホイプナーや音楽家のリヒアルト・ワグナーといっしょにヘムニツのほうへ落ちていった。九日から十日にかけての夜の間に、武装した市民らがホイプナーとバクーニンとを捕えてプロシア軍に引き渡した。ワグナーはその妹の家に隠れてようやく逃げおおせた。
 ドレスデンでのバクーニンの行動は、実に断乎たる一戦士としての、また炯眼な一首領としての行動であった。そして、「そこで彼は非常な名声を博して、その敵ですらもそれを否むことができなかった」とゲルツェンが言っているごとく、さすがのマルクスもそれを認めないわけにはゆかなかった。マルクスは「ニューヨーク・デーリー・トリビューン」に連載した「ドイツにおける革命と反革命」の一章の中で「叛徒らはほとんどまったく付近の工場地方の労働者ばかりだった。そして彼らはミシェル・バクーニンというロシアの亡命者に、才能あるそして冷静な一首領を見いだしたのであった」と言っている。
 かくしてバクーニンは、ドイツで死刑の宣告をうけ、さらにオーストリアで死刑の宣告を受けて、ついにロシア政府に引き渡され、前後十三カ年の牢獄と追放との後に、一八六二年六月シベリアから逃亡して、十二月ロンドンに着いた。

 そしてすぐまた彼はポーランド一揆を計画して、六三年二月、その一揆の勃発とともにロンドンを去ったが、その首領らの無能と不和とはことごとに失敗を招かしめて、バクーニンはふたたびまたロンドンに帰った。そしてすぐにまたフィレンツェへ出かけ、翌年さらにそこからスエーデンへ行って、ロンドンとパリとを経てまたイタリアに帰った。その時彼はロンドンではマルクスに会い、パリではまたプルードンに会った。バクーニンはロンドンでのマルクスとのこの会見についてみずから次のように語っている。
 さきにバクーニンがシュルッセルブルグの牢獄にいた間に、またマルクスらの社会主義者は、バクーニンはロシアのスパイだという例の中傷を蒸し返した。マルクスはその弁解のためにバクーニンを訪ねたのであった。
「ゲルツェンの言うところによると、その後インターナショナルの主なる創立者の一人となり、そして僕がいつも一大学才を持ったそしてもっぱら労働者の解放という一大事に身を献げた人としてみていたカール・マルクスが、この中傷に大いにあずかっていたのだ。が、僕はたいしてそれを驚きもしなかった。僕は僕の過去の経験から、ーーなぜなら僕は彼を一八四五年以来知っているのだ、ーーこういうことを知っていた。僕がいつもその大きな才能を認めてきた、そして今後ともきっとそれを認めてゆくだろうこの有名なドイツ社会主義者は、しかしその性格の中に、人道と正義とのまじめな、そして熱心な主張者にみるよりも、むしろドイツの諸新聞に通信するユダヤの文士に見るような、ある性質を持っている。で、僕は一八六二年にロンドンに着いた時にも、彼との交際を新しくすることはもちろん望ましくないので、彼を訪ねることもしなかった。一八六四年に、僕がロンドンを通過した時、彼は自分で私を訪ねてきた。そして彼が決して、直接にも間接にも、僕に対する中傷になんらあずからなかったことを私に断言した。そして彼自身もその中傷を実に怪しからんといっていた。僕はそれを信じなければならなかった。」

 バクーニンは、マルクスが、その創設しようとするインターナショナルへの加盟を勧告したのにもかかわらず、それを拒絶して、その年イタリアでの最初の無政府主義団体である社会主義革命家同盟という秘密結社を組織した。
 そしてマルクスの政府的方法は、後にバクーニンがその加盟したこのインターナショナルの中で、その極に達したのであった。


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