ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第七章
5月事件以後

CNT指導部はドゥルティの友グループのメンバーを除名しようと動いたが、様々な組合の集会でこの議案が承認されることはなかった。(原註1)CNT組合員はこのグループに体現された革命的反対に共感していた。だからといって、ドゥルティの友の活動や考えを承認していたわけではなかったが、確かに、グループのスタンスを理解し、CNT指導部に対するグループの批判を尊重−−実際、支持−−していた。(原註2)

CNT指導部は「マルクス主義」という疑惑を意図的に利用し、乱用した。この言葉はアナキストの中で考え得る最悪の罵倒表現であり、このグループ、特にバリウスに対して繰り返し使われた表現だった。グループの理論的見解にも、「民衆の友」のコラムにも、様々な声明文やビラにも、「マルクス主義」という記述がこのグループに適用されてしかるべきようなものはない。彼らは、組織の中で、そしてアナルコサンジカリズムイデオロギーについて、自分達の立場を明確にしながら、CNT指導部の協調路線政策に反対していただけだった。「民衆の友」の第一号は、5月19日に合法的に出版された(原註3)が、検閲のためにゲラ刷りの多くが削除された。赤黒の大きな表紙には、たなびく赤黒旗を持って微笑んでいるドゥルティが描かれていた。第一号には日付がない。編集部・本部は、ランブラ=デ=ラス=フロレス2階一号室と記載されている。この新聞はドゥルティの友の機関紙だと宣言されていた。バリウスが編集長、エレウテリオ=ロイグ・パブロ=ルイス・ドミンゴ=パニアガが編集者として記載されていた。最も興味深い記事は、バリウスの署名で書かれ、「念のために言っておくが、我々はスパイではない」と題されたものだった。その中で、バリウスは、CNTの一般組合員から発せられている侮辱と中傷とを嘆いた。彼は5月に発行したビラと声明文に言及し、それらを増刷しなかったのは、そうすれば必ず検閲されたからだと主張した。彼は、ドゥルティの友に対して悪意に満ちた態度を示していた「労働者の連帯」を直接攻撃(原註4)し、CNT指導部から発せられる中傷に反駁した。「我々はスパイではない。」

第二号は、文章の検閲はなく、15000部ほど印刷された。(原註5)表紙にはアタラサナス兵舎襲撃で死んだアスカソを追悼した絵がカラーで描かれていた。この号は1937年5月26日(水)バルセロナと日付欄に記入されていた。表紙には次の文章が掲示されていた。

検閲が我々に与えた卑しい扱い。我々はそれから逃れねばならならい。我々の非常にちっぽけな意見を抹消するなどという見当違いは、恥であり不名誉だ。我々はそれに耐えることなどできないし、耐えるつもりもない。奴隷になるなど、拒否する!

その結果、この号は検閲に提示されず、秘密裏に出版された。(原註6)この号で突出していたのは、UGTが出したモットーの糾弾だった。UGTはスターリン主義者が統制する組合であり、組合員からPOUMメンバーを除名し、CNTに対してもドゥルティの友を同様に扱うよう求めた。バリウスによる署名記事はこの号には掲載されなかった。だが、二つの記事が傑出している。それは、内在価値のためというよりもむしろそれらが映し出しているメンタリティのためにである。その一つは「フルメン」の署名で、1973年のフランス革命と1937年のスペイン革命との、マラーとバリウスとの、ジャコバン派とドゥルティの友メンバー(durrutistas)との類似点を引き出していた。もう一つは、無署名の記事で、パリに住む主導的カタロニア自治論者著名人をカタロニア自治政府の家来だと非難し、また、コンパニイスなどの政治家が受け取る給料と、民兵の賃金・戦争を継続するための資金集めの難しさとを、一般大衆に分かりやすく扇動的なやり方で比較していた。どちらの記事も興味深い。それは、労働者主義で扇動的な見解を示しているからであり、その見解を一般民衆が抱える日常の経済的困難と辛苦とに非常に上手く結びつけているように思える。これは当時の新聞では余り見られなかった。これこそが「民衆の友」独特の特徴だったと言うことができよう。この号の論説は、「ネグリン政府」と題されて、裏表紙に掲載され、5月事件の結果として共産党による支援の下で反革命政府が形成されたことを嘆いていた。反革命政府の短期目標は労働者階級の武装解除とブルジョア軍隊の形成だった。この論説は、バレンシア政府の危機解決は植民地介入(つまり、ロシアの介入を意味していた)の明確な実例だと分類した。バリウスは、この論説のために投獄され、保釈を認められなかった(6月中旬頃)。ただ、彼は一度も裁判に掛けられなかった。この事件を審理した裁判所が釈放を命じたからである。釈放(10月中旬頃)から二週間後、彼は予防拘禁命令の下で再び(11月の初めに)二ヶ月間投獄され、ブリリョ署長に引き渡された。(原註7)結局、彼は合計で約九ヶ月間投獄されたが、三度目の服役期間を逃れたのは、単に、彼がそれを避けるためにバルセロナから逃げたからだった。

第三号は1937年6月12日の日付で、バルセロナで出版されたとされており、全くの白黒刷りだった。この号はさらに好戦的になったように思える。記事はさらに彼らに噛みついていた。アナキスト闘士達の殺害と統制パトロールに対する侵害(非合法化しようとしてのことだった)を糾弾し、5月のビラのテキストを引用し、その内容を説明していた。これらは、目下危篤状態にある革命の将来にとって差し迫った重大事件だと発表された。(原註8)この号に掲載された記事は以下の通りである。フランス革命に関するフルメンによるとされた筆者不明の記事。マドリー戦線でアナキストのシプリアノ=メラが軍事的に成功を収めたニュース。エレウテリオ=ロイグ(Roig)の詩。ドゥルティを手本にすることは、宥和政策を意味するのではなく、むしろ自由になりたいのであれば戦争に勝つことが必須だというドゥルティのイデオロギー立場を擁護することを意味する、と断言したサンタナ=カレロの記事。ドゥルティがマドリー戦線から行ったラジオ放送も転載されていた。アラゴン戦線と後衛に関する扇動的記事もあった。7月19日以前に存在していたような共和国の導入に関してペイロが直近に出した声明に対する容赦ない非難。そして最後に、「5月事件について」と題された最も興味深い記事があった。この中でドゥルティの友は、CNTの指導的委員会に関する5月8日の声明文で使われた「裏切り者」という描写を撤回し、同時に、CNTがドゥルティの友に対して使った「スパイ」という描写も撤回するよう求めた。

第四号は、1937年6月22日の日付で、バリウスが保釈なしに拘束されていることが報じられた。表紙に大きく示されていたのは、ドゥルティの友の要求一覧表(1937年3月後半に発表された声明文で最初に現れて以来、既に何度か改訂されていた)だった。これは、強制的組合加入・後衛の浄化・配給制・プロレタリア階級の武装・弾圧機関の解散など厳格な措置を提議していた。その目的は反動に脅されている革命を防衛し、ファシストに対する戦争に勝利することであった。

我々「無責任なスパイ」は要求する。経済生活と社会生活の労働組合による方向付けを。自由な自治体を。

労働者階級が監督する軍隊と公的秩序を。

武装兵団の解散を。防衛委員会と防衛評議員職の保持を。

武器はプロレタリア階級が所有しなければならない。ライフルは革命利益の究極的担保である。労働者階級以外がライフルに接してはならない。身分の廃絶を。プロレタリア階級の敵で形成される国境警備隊を。

強制的組合加入を。雇用局を。雇用保証に関わる証明書の廃止。配給カードを。義務的労働を。後衛は戦争のために生きねばならない。

あらゆる生産・交換手段の社会化を。ファシズムとその共犯者に対する徹底的戦いを。後衛の浄化を。町内委員会の確立を。

いかなるお役所的例外もない家族賃金の即座の導入を。戦争と革命は我々皆に平等に影響しなければならない。ブルジョア議会の一時停止を。パスポートの一時停止を。

反革命に対する動員を。

検閲の強制・労働者の武装解除・国家によるラジオ局の没収といった国家の強制的措置に対する絶対的不服従を。

労働者階級がこの国の絶対的支配を享受する時まで、生産手段の自治体化に断固たる反対を。

我々の組織の革命的傾向の完全な復活を。

政府との協調に徹底的な反対を。政府との協調など、プロレタリア階級を解放する上で明らかに非生産的だ。

相場師・官僚・物価上昇の背後にいる人々に対する徹底的戦争を。休戦に対抗する戦時体制を。

2ページ目には以下の告知−−再通知−−が掲載されていた。「ドゥルティの友グループの革命綱領:

革命フンタ。

経済権力を組合へ。自由自治体。

我々は以前よりもっと効果的に活動したいと思っている。我々はアナキストだ。」

さらに、エレウテリオ=ロイグによる定例の詩、フルメンによるフランス革命に関する定例の記事、そして、リバータリアン青年とFAIが労働組合の中で活動を始め、戦争に勝つと同時に革命を遂行する必要を再確認しするように要請したサンタナ=カレロの記事が掲載されていた。もちろん、傑出していたのは、ハイメ=バリウスによる「正当防衛をする上で。説明を求める。」という印象的な記事だった。この記事で、バリウスは、彼がマルクス主義者だという嫌疑、あらゆる事の中でも人を最も傷つける侮辱としてCNT指導部とCNT新聞が彼に向けた嫌疑に対して抗弁した。

民衆の友」第五号は、1937年7月20日の日付で、以前よりも小さい体裁で印刷された。グループの事務所は警察によって閉鎖され、新聞は秘密裏に印刷されたが、事務所と編集部の住所は第一号と全く同じ場所が書かれていた。これは、警察の捜査を逃れるための策略の一つだった。警察はその時まで「民衆の友」はフランスのペルピニャンかモンペリエでフランス人アナキストの助けを借りて印刷されていると考えていたが、実際には、未だバルセロナで出版されていた。「民衆の友」は、この号以降の毎号で、全ての記事が無署名となった。ただ、時折掲載される偽名で書かれた記事は例外だった。バリウスが投獄によって論説文への寄稿を妨げられることはなく、時として獄中から記事を書くこともあった。

第五号は一連の「民衆の友」の中で最も興味深いものの一つである。第一ページには、「革命理論」と題された論説が掲載されている。この記事だけでも、ドゥルティの友の政治的・歴史的重要性を充分浮き彫りにしてくれる。その重要性は、内戦の歴史に関してではなく、アナキズムイデオロギーに関してである。論説の中でドゥルティの友は、1936年7月の明白な絶対的勝利以後の反革命の進展とCNTの失敗を一つの要因のせいだとしていた。革命綱領の欠如である。また、この要因は1937年5月の敗北の背景にもあった。彼らが到達した結論は驚異的な明確さで打ち出されている。

(革命の)下方スパイラルは、具体的綱領の欠如と短期的成果の欠如に、そして、これらが欠如していたが故に、プロレタリア階級の大志を満足させる程まで情況がハッキリと好転したまさにその時に、反革命派の罠にはまってしまったという事実に起因すると考えねばならない。ハッキリとした階級方針に沿って覚醒した7月に身を委ねることができなかったために、我々はプチブル支配を可能にしてしまったのだ。プロレタリア階級をこの国の運転席に据えるという全員一致の決定が広がっていれば、こんなことは絶対に生じ得なかったのだ。

(中略)社会的な革命がその経済的・社会的ダイナミクスを敵の党派と共有できると考えるという大間違いを犯しながら(中略)

5月にこの問題が再び提起された。ここでもまた、口では革命の方向性が最優先だと述べていた。しかし、まさに同じ人々が、7月には外国からの介入の危険に怯え、5月の事件が来るとヴィジョンの欠如を示した。これは悪意に満ちた「停戦」でクライマックスを迎え、停戦協定が合意されたにも関わらず、後には継続的武装解除と非情な労働者階級弾圧として解釈された。(中略)

つまり、綱領−−リバータリアン共産主義−−を諦めることにより、我々は敵対者に全面的に投降しているのだ。敵対者は、(中略)7月と5月に撲滅されるべきだったプチブル政党の(中略)綱領と指針を持っていたし、今も持っている。我々の観点からすれば、他の党派が、もし我々が持っていたような絶対多数を享受していれば、この情況の絶対的主人として振る舞ったであろう。

この新聞の前号で我々は綱領を詳述した。我々は革命フンタの、経済を管理する組合の、自由に組織された自治体の必要性に気付いている。我々のグループは、7月と5月に似た情況で、自分達が同じように行動するのを見たくないが故に、方針を辿ろうとしてきた。成功は綱領の存在にあるのであり、それはライフルによってしっかりと支持されていなければならない。(中略)

理論のない革命は前進できない。我々「ドゥルティの友」は自分達の考えを概略してきた。我々の考えは、大きな社会動乱に応じて修正されるかもしれない。だが、我々の考えの要となっているのは次の二つの回避不可能な要点である。綱領とライフルだ。

これは重要なテキストである。何故なら、アナキズム思想の進化における画期的出来事だからだ。ここに示されている理論的概念は、以前は非常に混乱したやり方でしか描かれていなかったが、今や目も眩むばかりの明瞭さで詳述されている。そして、こうした理論的獲得は、その後、バリウスのパンフレット「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」(新しい革命に向けて)に改めて表明され、徹底的に熟考されることになる。だが、ここに初めてそれが現れている。アナキズム思想の文脈でこれらの斬新さと重要性を正当に評価できたものは一人もいなかった。ドゥルティの友は、内戦と革命プロセスに関わる古い理論的概念を手に入れた。彼等は、痛々しい歴史的経験の終わりにこれに到達したのだ。そして、これが階級闘争の矛盾と必要を率直に暴き出したのである。それならば、我々は、ドゥルティの友の政治的思考がこのように進化したのは、本当は、外部グループ−−例えばトロツキストやPOUM主義者−−の影響のためであり、これは検証できる、などと信じねばならないのだろうか?これがドゥルティの友グループだけに起因する進化だということに議論の余地はない。政治的・歴史的情況を分析することで、彼らは次の結論に到達した。革命において、革命フンタの設立は避けることのできない要件である。当然、ドゥルティの友はマルクス主義に特有の用語を避け(原註9)、アナキズムイデオロギーに特有の別の表現形式を用いた。彼らが「プロレタリア独裁」という概念を組み立てる際のこの表現形式こそ、ここで扱っているこのグループの内的進化に関するさらなる証拠なのであり、外部集団に植民地化されたり魅了されたりしている証拠ではない。社会的・歴史的現実は充分確固としており、充分厳しいが故に、ただただ目を開け続け、精神を敏感にし続けている一つの革命グループにこそ革命理論の諸要素が生まれるのである。

この号の新聞には、5月以降の出来事の分析が掲載されていた。それにはスターリン主義者によるPOUM闘士の投獄と裁判に対する糾弾や、集産体の崩壊が含まれていた。スターリン主義者の発生源だった中産階級の生活の容易さと革命的労働者の迫害とが辛辣に対比されていた。また、フルメンによるフランス革命に関するいつもの記事もあり、フランス革命のプロセスとスペイン革命のプロセスとの興味深い比較が概説されていた。最後に、CNTの主導的委員会の一部がドゥルティの友を除名しようと虚しい努力を行っていることを非難した優れた長い記事が掲載されていた。

民衆の友」の第六号は1937年8月12日バルセロナと日付欄に記入されている。この号は「革命フンタの必要性」という記事が最初に掲載されている。革命フンタに関わる前号の論説を改めて述べ、革命フンタが1936年7月に設置されるべきだったと主張していた。

7月の運動から、我々は、革命の敵は情け容赦なく潰すべきだと結論付けねばならない。これが大きな誤りの一つだったのであり、今、我々は利息分と共に支払をしている。この防衛的使命は革命フンタの肩に掛かるであろう。革命フンタは敵にいかなる情けも掛けてはならない。(中略)

革命フンタの設立は莫大な重要性を持つ。新たな抽象概念の問題ではない。これは一連の失敗と災厄の成果であり、これまで従ってきた軌跡の絶対的修正である。

7月に、反ファシズム委員会が設置されたが、この崇高な時がもたらす結果と同じではなかった。既に行われてしまったが革命の友も敵も同じ様に組み込みながらバリケードがもたらした胚芽を発展させるなど、どうすればできるのか?そうした構造を持つ反ファシズム委員会は、7月の闘争の具現化などではなかった。(原註10)

(中略)我々は、革命フンタの参加者は都市と田園の労働者、そして、全ての闘争の重要時点に姿を見せて社会革命の擁護者となってきた戦闘員だけであるべきだと主張する。(中略)

「ドゥルティの友グループ」は、5月事件を的確に批判するだけ充分のことを知っていたし、今もなお、我々が目論んでいる方針に従って、革命フンタを設立しなければならないことが分かっている。そして、革命フンタを革命の防衛に不可欠だと見なしている。(中略)

ドゥルティの友の政治的考えの進化はその時にはもう止まらなくなっていた。プロレタリア独裁の必要性を承認すると、次に生じる問題は、プロレタリア階級の独裁を実行するのは誰か?、だった。答えは、革命家の前衛として直ちに定義される革命フンタだった。その役割は?マルクス主義者が革命党に帰しているもの以外の何かだなどとは考えられない。

だが、「レーニン主義者の声」第二号で、ムニスは「民衆の友」第六号を批判した。この号の内容は5月事件中とその直後にドゥルティの友グループが考案したのと同じ公式に退却していると見なしたからだった。

第六号は、POUMに対する裁判の報告とニンの殺害の報告が掲載され、ニンの殺害は現行政府の責任だと述べられた。フランス革命に関する定例の記事に加え、さほど興味深くもない記事が幾つか掲載されていた。裏表紙には、印刷工の印が「Imp. Libertaria-Perpignan」と示されていた。「民衆の友」は未だバルセロナで印刷されていたため、この号は警察を念頭に置いた見せかけだった可能性が高い。(原註11)

この新聞の第七号の日付欄には9月31日バルセロナと書かれていた。(原註12)幾つかの記事が傑出していた。アラゴン評議会の解散とアナキスト集産体の崩壊を受けてスターリン主義者がアラゴンで行った弾圧について・エディシオネス=エブロ社が出版した匿名のパンフレットの中でアグスティン=ソウヒガふれ回ったドゥルティの友に関する誤った主張に対する反論・信教の自由の再導入に対する反対・基本的生活コストの不合理な増大に対する抗議などである。その時代を上手く示してた極めて機知に富んだ注記もあった。それは次の通りであった。

我々は提議する。ミハイル=バクーニン・ピョトール=クロポトキン・セバスチャン=フォール・エンリコ=マラテスタ・リカルド=メリャの名によって、我々の組織から人々を即座に除名しよう。

こうした除名を補うために、我々は提議する。反革命の危険を上手く打ち倒したという理由で、「干渉主義者」に貢ぎ物を送ろう。

我々は「正統性」を持っているが故に、「暴徒」に対してイデオロギー的・物質的養分を与えている人々とは相容れない。同時に、それは、我々を、偉大なる「情況」解釈者の輝かしい「絶対確実性」に対する感嘆で満たしているのだ。

論説では、5月事件の意味が分析されていた。ドゥルティの友は、7月以降行われた過ちを修正すべく蜂起を起こすべきだと考えていた。ある種の主要アナキスト闘士が座っている囲いを非難した。「全体主義の誘惑」にそうした闘士が抗っているなど、結局、リバータリアン共産主義導入の放棄以外の何にもならなかった。ドゥルティの友は、再三にわたり、アナキストは経験から教訓を学ばねばならないと主張した。

全体主義的解決策は回避された。リバータリアン共産主義の確立を止める決定に公印が押されたのだ!アナキズムが取らねばならない方針−−責任ある立場にいる同志達が公表したところによれば−−は、いかなる反ファシズム派も利己的利益を求めてはならない、というものだった。(中略)独裁でもなく民主主義でもない!、と主張される。我々は何処に向かっているのだろうか?我々自身の綱領がなければ、ブルジョア民主主義の子分であり続ける恐れがあり、大胆に軍事行動を行う党派の犠牲者になる危険があるのだ。(中略)

我々の現在時は、専ら過去の経験に照らして読まれねばならない。戦場・牢獄・反革命の全面的猛襲の臭いがプンプンしている現実から目を閉ざし続けるならば、我々はイベリア半島から容赦なく追い出されてしまうだろう。

我々はなおも革命を救い出すことができるかも知れない。(中略)経験は非常に厳しい教師であり、軍事的火力を使って自説を主張しなければならないこと・労働者階級と革命の敵である勢力を全滅しなければならないことを経験から推論しなければならない。

経験からの教訓を心に留めておこう。そこにこそ我々の救済がある。

デウス=エクス=マシナ(強引な解決策)への嘆願はなかった。ドゥルティの友は、最も厳しい直接経験から教訓を学んだアナキストであった。彼らがアナキズム理論に導入した斬新さは、古いマルクス主義の前提条件だったのだろう。それ自体は、階級闘争からの単なる初歩的教訓に過ぎなかったかもしれない。だが、レッテルを言いふらし、それで問題解決だと見なす人々は軽率なのだ。階級闘争でのプロレタリア階級の直接経験が誤謬を修正するのに充分でないなら、歴史には過去の闘争から学ぶことは何もないのなら、我々に残されているのは、ドグマと信念の優位性を確認し、経験と歴史に妥当性があることを否定するだけである。

日付欄に1937年9月21日バルセロナと書かれた「民衆の友」の第八号の論説は、革命に成功の見通しを持たせるのであれば、綱領が必要だと詳しく論じていた。以前に示されていた考えと同じで、特に目新しく示されたものは何もなかった。残りの記事は、まずまず興味深く、食料調達・民族主義者による9月11日の記念祝宴に対する反対・アラゴン戦線・CNT陣営へのアンヘル=ペスターニャの復帰といった様々なトピックスを扱っていた。

1937年10月20日付の第九号には、興味深い声明文が掲載され、ドゥルティの友の起源と革命行動に関する歴史を詳しく述べると共に、このグループの政治的立場に関する綱領一覧も記されていた。これは賛否両論を呼び、多くの意見が寄せられたため、1937年11月8日付けの第十号でこれを擁護する論説が掲載された。同じ号は「アレルタ(警報)」の出現をイデオロギー的に同類の新聞だとして歓迎していた。コモレラに対する紛れもない恨み節も掲載された。彼は、生活必需品を管理する人物としてその政策のために、そして7月19日の闘士達を「部族民」だと片付けたために、容赦なく批判された。バリウスが「ほんの15日〜20日間の自由な期間の後に」(原註13)再度投獄された報告もあった。彼は「民衆の友」の編集者として有罪宣告を受けた。この新聞は、第二号以降検閲を受けることを拒否していたが故に非合法新聞だと糾弾されていた。最も興味深い記事は、「率直に述べねばならない」と「歴史的合流点」と題された記事だった。最初の記事は、「暴徒・スパイ・反革命家」というレッテルを貼られたグループメンバーに対してCNTが浴びせたお決まりの嫌疑にユーモアに富んだ調子で反駁していた。グループメンバーを弁護し、自分達の革命的・戦闘的信用証明を繰り返し述べた後、この記事はCNTとFAIに対して嫌疑を向けるのをハッキリと止めた。「我々皆が飲まねばならない泉の水に毒を盛ることになる」という理由からだった。この記事でハッキリしているのは、自分達自身の闘争というドゥルティの友の大きく限定されたヴィジョンである。彼等はCNTの「理不尽な」指導者達について穏やかなあら探しをすることに自分達を限定し、組合からの除名の回避をその究極的成果だと見なした。その見解は、遅かれ早かれアナルコサンジカリズムの二つの異なる潮流が一つにならねばならない、さもなくば、スターリン主義独裁によって破壊されるのを避けることができなくなるだろう、というものだった。この記事から、グループが、5月にとった急進的立場からどんどん横滑りしていったことが明らかである。コメントに値する二つ目の記事は「歴史的合流点」である。この記事は、ファシストが途切れることなく勝利の前進をし、外国がそれを支援していたことに示されているように、好ましくない方向に進んだ戦争を分析した。ドゥルティの友は、マラガや北部のような地方全体が、その商店・工業・食料−−これらは敵の略奪品となった−−が破壊されなかったにも関わらず、降伏してしまったことを疑問に思っていた。ドゥルティの友グループは、アラゴン戦線が敗北したのは、CNTに渡されるはずの武器を中央政府が提供しなかったからだ、と記している。戦争の準備は裏切りにつきまとわれていた。将校階級が浄化されてこなかったからであり、後衛に闘志(fighting moral)がなかったからであり、ブルジョア政治家が相当な財産を海外で蓄えること以外に何の考えもなかったからだ。ドゥルティの友は労働者に戦争に勝つよう呼びかけ、この呼びかけは以下の十項目に濃縮された。

  1. 革命フンタの設立。
  2. 全ての経済権力を組合へ。
  3. 生産と消費の社会化。
  4. 生産者カートの導入。(Introduction of the producer's cart)
  5. 全民衆の動員。
  6. 後衛の浄化。
  7. 軍の労働者管理。
  8. 家族賃金。あらゆる特権の廃絶。
  9. 自由な自治体。社会秩序を労働者の手に。
  10. 一律の消費統制。

だが、これは単なる要求リストに過ぎない。達成する方法について何の示唆もなければ、それに向けた運動を起こすために用いる戦術もない。従って、戦争に勝つための理論的綱領を説明しただけだった。グループが実際に持っている実行力を越えた綱領だった。どうであれ、真面目に企図されたのではなく、単なるプロパガンダやロビー作戦として企図されていた。だが、戦争の方向性・軍隊の管理・経済の社会化・社会秩序の管理は、単なる要求だけにはなり得ない。権力を告訴するのではなく、奪取するからである。その結果、ドゥルティの友グループは、この時点で、いかなる現実的役割からもはるかに離れていたと断言できよう。力尽きてしまったかのようだった。以前の自己の単なる影になりつつあった。綱領・要求は、5月以前は妥当だったかも知れないが、今や惨めな戯画であり、徹底的に反革命になった情況でドゥルティの友グループのあからさまな無力さを証言していた。

民衆の友」第十一号は、ドゥルティの一周忌である1937年11月20日の日付が付いており、紙面のほとんどがこの人気のあるアナキズムの英雄を追悼することに割かれていた。記事は、多かれ少なかれドゥルティの人物を上手く論評しており、最も傑出した記事は、明らかに、「ドゥルティを論評する」と題されたものだった。この記事で、ドゥルティのイデオロギーと意図をめぐって「労働者の連帯」が追求された。この記事の著者によれば、「労働者の連帯」の主張は、ドゥルティは戦争に勝つためにあらゆる革命原則を放棄しても構わないと考えていた、というものだった。「民衆の友」の著者は、この主張は誤っており、ドゥルティに関わる思い出に対して示しうる最悪の侮辱だと見なした。ドゥルティの友が示したドゥルティのイデオロギー(原註14)は、「労働者の連帯」が提示したものと真逆だった。

ドゥルティが革命を放棄したことは一度もない。全てを放棄して勝利を確実にしなければならないと彼は確かに述べたが、その意味するところは、ファシズムが我々を打ち負かすのに任せよというのではなく、最大の物資欠乏状態に備え、命を落とす用意をしなければならない、ということだった。

だが、ドゥルティの口で、勝利という概念は、戦争と革命をほんの少しも分離することを示してはいない。(中略)ドゥルティが、最大の犠牲を払って全てを勝ち取ってきた階級は、敵対する階級を利するために常に屈服し、譲歩する階級であるべきだと主張したなど、我々は信じていない−−そして、この点については確信している。(中略)

ドゥルティは戦争に勝ちたがっていたが、後衛に照準を合わせていた。(中略)ブエナベントゥラ=ドゥルティが革命を否認したことは一度もない。我々ドゥルティの友も革命を否認しない。

民衆の友」の第十二号は、1938年2月1日付けで、「全ての権力を組合へ」という優れた論説が掲載された。この論説はドゥルティの友グループの綱領における独特の論点を詳述している。この号には、テルエルの戦闘・都市の交通手段とモンジュイック監獄・食料部門に関する考察・国境地帯で行われている汚職といった様々な記事が載っていた。

第十二号は、多分、「民衆の友」の最終号だと思われる。しかし、ホルディ=アルケルは、ドゥルティの友小史において、全部で十五号が発刊されたと主張している。そして、バリウスも、バーネット=ボロテンに宛てた1946年6月10日の手紙で、1938年の終わりまで発刊されたと述べている。我々の推測は、「新しい革命に向けて」というパンフレットの英語版序文でバリウスが述べたことに基づいている。そこには、ドゥルティの友グループの最後の集会がこのパンフレットの発表後に行われた、と書かれている。「民衆の友」第十二号が直近に発表された「新しい革命に向けて」に言及していることを考え、我々は、1938年1月にパンフレットが発表され、1938年2月1日にグループの機関紙が発表された後、ドゥルティの友は最後の会議を持ち、事実上、その後の戦争についてさらなる活動を行わなかった、と結論付けて構わないと考える。いずれにせよ、この推論は革命集団の活動を不可能にするほど強大で効果的な弾圧に裏付けられている。1938年1月、フォスコは逮捕を逃れるべくフランスに逃亡した。1938年2月13日には、「レーニン主義者の声」と「民衆の友」を発行していた印刷所の印刷工バルドメロ=パラウの逮捕に加え、警察によるボルシェヴィキ−レーニン主義支部の占領があった。4月19日には、POUMの地下委員会(ホセ=ロビラ・ホルディ=アルケル・オルトラ=ピセ・ホセ=ロデス・マリア=テレサ=ガルシア=バヌス・ヒュアン=ファレ=ガソ・ビレバルド=ソラノなど)が逮捕された。

後に、1960年代になって、「民衆の友」の第二シリーズが出版された。これは、明らかに、バリウスが手に入れた相続財産を資金としていた。この第二シリーズについて我々は既に検証したが、興味も引くようなものは何もない。バリウスの名前は何処にもなく、パブロ=ルイスが編集長として掲載されている。最も顕著な特徴は、全ての号に、メンバーが国内で−−スペインの内部で−−秘密プロパガンダを行うために壁に貼り付けるポスターが含まれていたことだった。


第七章の原註

1. 「Por los fueros de la verdad」という記事において、バリウスはこのことを次のように述べている。「後に、高次委員会から我々の除名を命じた勅令が出されたが、これは様々な労働組合集会やCNT−FAIの家で行われたFAIグループの総会で、一般組合員に拒否された。」

2. ドゥルティの友はCNT組合員から願ってもない広い共感を勝ち得た。これは、CNTの様々な委員会と指導部が彼等を確実に除名するだけの力を持っていなかったという点にだけでなく、不満と討議にも明らかであり、これによって、5月事件以後にリバータリアン組織内部で謀議的構造が出現することになった。これが「Sucesos de mayo (1937) Cuadernos de la guerra civil No. 1」(Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, 1987)というアンソロジーに掲載されている「Aportacio'n a un proyecto de organizacio'n conspirativa」と「Informe respecto a la preparacio'n de un golpe de Estado」と題された文書をもたらした。

3. 「民衆の友」第一号には日付がない。ドゥルティの友は機関紙である「民衆の友」が発行されることを発表した告知をを5月19日(水)にばらまいた。タベラとウセライは、1937年5月11日という日付を誤って示しているが、多分、これは「民衆の友」第一号の二ページ目に再掲された宣言文から取ったのであろう。ポール=シャーキーは、5月20日というもっと妥当な日付を示している。しかし、この新聞が元々週刊紙を意図し、「民衆の友」第二号が1937年5月26日に発刊されたことを考えれば、第一号が発表された日付はこの通りだと言えよう。

4. 「労働者の連帯」は、ハシント=トリオの経営下にあった。彼は、CNTの協調主義と規律を断固として防衛するために、このCNTの主要新聞の編集長に任命された。彼は、アナルコサンジカリスト協調主義に対して常に大きく批判的だったバリウスと重大に対立していた。トリオについて、そして、バリウスに対する彼の敵意とバリウスとの軋轢については、以前に引用したスサナ=タベラとエンリク=ウセライ=ダ=カルの研究論文を参照して欲しい。ただ、この論文はこの点については興味深いが、他の点では嘆かわしい。また、ホルディ=サバテルの本「Anarquisme i catalanisme. La CNT i el fet nacio'nal catala' durant la Guerra Civil」(Edicio'ns 62, Barcelona, 1986, pp. 109-110)も参照。

5. 1946年6月24日にバリウスがメヒコのクエルナバカからバーネット=ボロテンに宛てた手紙で述べている。

6. 前掲書

7. ホルディ=アルケル著、「Histo'ria de la fundacio' i actuacio' de la "Agrupacio'n Amigos de Durruti"」(前掲書)。ブリリョ大佐はニンと残りのPOUM指導部の逮捕に関与していた。

8. 実際、6月16日に、「民衆の友」の第三号が出版されて四日後に、POUMは非合法化され、その闘士と指導者は逮捕されたり殺されたりした。これは、CPUとスペインのスターリン主義者が監督した作戦であり、スペインでは前代未聞だった。

9. 革命的マルクス主義とスターリン主義との違いに立ち入る必要はないと我々は感じている。この件について関心のある人は、「バランス」第一号を参照すれば良い。

10. 従って、ドゥルティの友は反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)を未熟な二重権力だとは見なしていなかった。むしろ、階級協調機構だと見なしていた。これは、ニン・アサーニャ・タラデリャス・ボルディガ主義者などが到達したのと同じ結論だったのであり、カタロニア自治政府と対照させてCAMCを未熟な労働者権力を示すという学術的史料編纂上のテーゼとは相容れない。

11. 1938年2月〜3月に作成されたボルシェヴィキ−レーニン主義支部に対する告発状には、告発された人々の一人である印刷工バルドメロ=パラウの印刷工場で行われた捜査への言及がある。捜査は、バルセロナのサルメロン通りにある印刷工場で行われた。この住所は、1938年2月15日付けの「レーニン主義者の声」第三号の奥付に示されていた。この文書は、「民衆の友」の二つの奥付が発見されたことについても言及している。これは、1938年2月1日にバルセロナで発行された「民衆の友」第十二号だった。

さらに、カタロニア地方労働連合(CNT)のチラシ第四号(アムステルダムの国際社会史研究所に保管されている)には、カタロニアの全CNT組合に対して複写機を購入するための金銭的支援を求めてドゥルティの友が発行したチラシ(日付は不明だが、1937年8月だと思われる)が転載されている。「次第に民衆の友を出すことが難しくなってきている。印刷工達はこのグループが秘密裏に存在しているために、そして、当局を恐れるが故に、この新聞の活字を組み印刷することを嫌がっている。この問題のために、我々がもはやこれを出版できなくなる日がやってくるだろう。」

12. これは、明らかに誤植だった。日付は1937年8月31日だったはずである。第八号が9月21日付けになっており、9月は30日しかないのだから。

13. 自身が述べているように、バリウスは1937年5月に投獄された。「私は、模範的監獄の最初の観客として拘留された。5月事件の後の1937年5月のことだった。」(1971年4月14日の「Le Combat Syndicaliste」に掲載されているハイメ=バリウス著「No es hora de confusionismos」)しかし、バリウスが投獄されたという第一報を伝えたのは、1937年6月22日付の「民衆の友」第四号だった。ドゥルティの友の機関紙の第三号が1937年6月12日付けであることを考えると、バリウスの投獄が、POUMが非合法であると宣言された6月16日に着手されたPOUM闘士の大量逮捕と一致していた可能性が高い。

14. ここでは、人間としてのドゥルティの検証や彼の政治的イデオロギーには立ち入らない。彼の同時代人による主張を単に述べるだけである。ドゥルティの友グループが、その名にも関わらず、ドゥルティとイデオロギー的繋がりを持っていないとバリウスが考えていたことを思い出すことは場違いではない。しかし、ドゥルティはまず第一に活動家だったのであって、理論家だったことは一度もないし、そうだと主張したこともない。「労働者の連帯」がドゥルティのラジオ演説を一語一句完全に再掲していなかったことも指摘せねばなるまい。


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