ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第八章
バリウスのパンフレット「新しい革命に向けて」

アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」というパンフレットは、秘密裏に発行されたにも関わらず、五万部印刷され(原註1)、それまでかなり曖昧だった綱領に肉付けをした。バリウスは1937年11月頃に(原註2)このパンフレットの草稿に着手し、ドゥルティの友グループが1938年1月に発行した。(原註3)疑いもなく、これはドゥルティの友の最も包括的なテキストであり、だからこそ、別個にコメントする価値がある。

このパンフレットの最も重要な理論的貢献はそれ以前に「民衆の友」の第五号・六号・七号の論説で−−つまり1937年7月20日から8月31日の間に−−立案されていた。

従って、このパンフレットに何か新しい大きな理論的提言があるわけではない。いずれにせよ、このパンフレットの大きな目新しさは、マルクス主義がプロレタリア階級の革命理論に関わる最も初歩的な表現形式として体系立てた諸概念をアナキスト集団が採用したことにある。この点について、バリウスの言葉遣いは、マルクス主義の古典で使われているものとは異なっている。だが、これから見ていくように、違う名前で呼ばれていても、類似した考えを認めるのはそれほど難しくない。

このパンフレットは31ページ(原註4)あり、八つの章に分かれている。第一章は短い歴史的イントロダクションである。ここでバリウスはプリモ=デ=リベラの独裁時代から1934年10月までの期間を概観している。第二章は、1936年7月の革命的蜂起を導いた様々な事件を吟味している。多くの主張が突出し、衝撃的だが、それでもなお真実である。

人々は武器を探しに行かねばならなかった。彼等は征服による当然の権利として武器を奪取した。自分達自身の努力で獲得したのだ。彼等は何も与えられなかった。共和国政府からも、カタロニア自治政府からも。ライフル一つも与えられなかったのだ。

1936年7月19日の革命についてドゥルティの友が行った鋭い分析は、強調するだけの価値がある。

労働人口の大多数がCNTを支持していた。カタロニアの内部でCNTは多数派組織だった。CNTがその革命を、民衆の革命を、大多数のプロレタリア階級の革命を起こさないなど、何が起こったのだろうか?

これは起こるべくして起こったことだった。CNTは明らかに革命理論を持っていなかった。我々は、具体的綱領を持っていなかった。何処に自分達が向かっているのか全く分からなかった。リリシズムだけは沢山あった。だが、結局、我々は労働者大衆をどう扱えばよいか分からず、我々の組織内部で噴出した民衆の発露に実体を与える方法も知らなかった。何をすべきか分からないため、ブルジョア階級とマルクス主義者に革命を易々と手渡してしまった。彼等は昨年の茶番劇を後押ししている。さらに悪いことに、我々は、ブルジョア階級に息つく暇を与え、復活し、立ち直り、勝利者として行動できるようにしてしまったのだ。

CNTは、その役割に恥じない行動をする方法を知らなかった。革命をその全帰結まで押し進めようとはしなかったのだ。

従って、ドゥルティの友によれば、7月革命が失敗したのは、CNTが革命理論と革命綱領を持っていなかったからだった。アナキストの側からは、数多くの理由が提出され、様々な説明が7月革命の特徴について提示された。そうした主張の幾つかは非常に魅力的だが、ヴァーノン=リチャーズもセンプルン=マウラもアバド=デ=サンティリャンもガルシア=オリベルもベルネリも、まさにここで引用したドゥルティの友程、分かりやすくも明快でもなく、7月革命の性質を深く精査してもいない。

そうは言っても、これは見本に過ぎない。ドゥルティの友は、聡明な理論家でも天才的なオルガナイザーでもなく、本質的にはバリケードの闘志だったからである。彼等は直接経験に関わる討議に基づいて自身の理論的問題を論じ、階級本能だけに導かれ、これから見ていくテキストにおいて、スペイン革命を同時代に分析した最も優れたものの一つに到達した。考察されるに値する分析、そして、この分析にアナキズムだとかマルクス主義だとかというレッテルを貼る必要はない。なぜなら、言葉で遊ぶのではなく、生活をかけ、まさに自身の生活だけをかけていた人々による分析だからである。

組織の全存在を革命を説くことに費やしているのなら、望ましい情況が生じたときにはいつでも行動する義務がある。そして、7月にその機会が出現した。時代遅れで古めかしい全てのことに激しい最後の一撃を与えながら、CNTはこの国の運転席に飛び乗らねばならなかった。このようにして、我々は戦争に勝ち、革命を守るはずだった。

だが、逆のことが起こった。国家が四方八方に砕け散っているまさにその時に、国家の問題についてブルジョア階級と協調したのだ。コンパニイスとその仲間達を強化したのだ。貧血で恐怖におののいているブルジョア階級に胸一杯の酸素をそそぎ込んだのだ。革命が窒息し、CNTが追放された最も直接的な理由の一つは、CNTが、街路では大多数だったにも関わらず、少数派であるかのように振る舞ったことである。(中略)

一方、我々は断固として主張する。たとえ誰が何と言おうとも革命は全体主義である。現実には、革命の様々な側面は徐々に扱われていく。だが、それは、物事の新秩序を代表する階級が最大の責任を負う、という条件が付く。そして、事が中途半端だったが故に、現在我々が憂慮していること−−7月の大失敗−−を我々は手にしているのだ。

7月に反ファシズム義勇軍委員会が設立された。これは階級機構ではなかった。ブルジョアと反革命党派がそこに代表者を送り込んでいた。あたかも、この委員会はカタロニア自治政府に対する対抗勢力として設立されたかのように思えた。だが、全て誤魔化しだった。

まず第一に、中央反ファシズム義勇軍委員会を、未発達の労働者権力の萌芽ではなく、階級協調主義機構として定義していることを強調しなければならない。この点は、ニンが5月事件以後に書いた記事と完全に一致している。もちろん、ドゥルティの友はこの記事に気付いていなかったが。

革命組織の独占的責務は革命を起こすことであるという自明の理に、国家の救出と再構築にCNTが協力しているという批判が加えられた。

ここまでは、ドゥルティの友の主張は正統的にアナキズムだった。だが、こうした主張の直接的帰結として−−もしくは、粉砕されている資本主義国家を救出し再構築するというアナキストとしてあり得ない活動に巻き込まれたCNT内部の矛盾の結果だと言った方がもっと適切だろうが−−ドゥルティの友は優れた理論的進歩をした。革命は全体主義的である。もし、こうした自明の真実がリバータリアン精神と矛盾するのなら、アナキズム革命は決議を否定する矛盾だと言わざるを得ない。これに類することを1936年にスペインのアナキストは経験したのだ。

次の章で、バリウスのパンフレットは1937年5月の革命的蜂起を扱っている。ドゥルティの友の論法は、可能な限り率直で急進的だった。5月事件のルーツは7月に遡る。7月に革命を起こせなかったからである。

社会革命はカタロニアでは一つの事実になり得たはずだった。(中略)だが、事態は異なる展開をした。革命はカタロニアで起こらなかったのだ。プロレタリア階級が再び屁理屈屋の指導部を背負い込まされたと悟ると、7月に舞台裏に身をひそめたプチブルが大急ぎで闘争に参加しだした。

スターリン主義とそれが反革命の足がかりとして果たした重大な役割に関する彼等の分析は、洞察力があっただけではない。スターリン主義を支持した社会階層の特徴まで綿密に調べていた。ただ、指摘しておかねばならないが、「スターリン主義」という言葉は一度も使われてはいなかった。その代わり、「社会主義」や「マルクス主義」という言葉が使われていた。ただ、これらの言葉は、今日ならばあらゆる歴史的・イデオロギー的角度から見ても「スターリン主義」という言葉で示してしかるべき意味を持っている。

カタロニアで社会主義は哀れな生き物だった。その階層は革命に反対するメンバーで膨れ上がっていた。この階層が反革命を主導したのである。この階層がUGTを生み、UGTはGEPCIの家来になり果てた。マルクス主義の指導者達は反革命を賛美していた。彼等は、まず第一にPOUMを排除し(原註6)、次にはCNTに同じ事を行おうとしながら、統一戦線の問題についてご立派なスローガンを創り出していた。

社会主義者と共産主義者と協力したプチブルによる策略は5月事件で頂点に達した。

ドゥルティの友によれば、5月事件は、労働者階級に決定的一撃を食らわす前段階として、優柔不断の雰囲気を創り出すよう周到に計画された挑発行為だった。その目的は、これを最後に、潜在的に革命的な情況を潰すことにあった。

反革命は、労働者階級に、まとまりなく街路にいて欲しかった。そうすれば潰しやすいからだ。その目的は一部実現した。街路で勝利し、敵が排除されたまさにその時に、停戦命令を与え、「ドゥルティの友」をスパイだと呼んだ指導者のバカさ加減のおかげだ。

アナキスト指導者達(名前は示されていないが、ガルシア=オリベルとフェデリカ=モンセニーだと考えざるを得ない)に浴びせられた非難は、侮辱しようと意図されたのではなく、5月の日々で指導者達が行ったことの真っ当な評価である。

ドゥルティの友は、反革命がその主たる目的−−バレンシア政府が治安を管理する−−を達成したと確信した。

スターリン主義の挑発に対する労働者の反発−−つまり5月事件−−についてドゥルティの友が示している記述と評価は、非常に興味深い。

a) それは自発的反発だった。

b) そこに革命指導部は存在しなかった。

c) 数時間の間に、労働者は全くの軍事的勝利を手に入れた。この都市の中心部にある幾つかのビルだけが抵抗を示していたが、それらは容易く奪取できただろう。

d) 蜂起は、軍事的にではなく、政治的に敗北した。

数時間後、流れは、CNTに加入しているプロレタリアに好ましい方向に転じた。プロレタリアは、7月にもそうだったように、銃を手にして自分達の権利を守った。我々は街路を乗っ取った。街路は我々だった。我々から街路を奪い取ることのできる権力などこの地になかった。労働者階級の地域はすぐさま我々のものになった。そして、敵の区域は、居住地区の一部にある要塞まで次第に浸食されていった−−CNTの委員会による裏切りがなければ、都市の中心部はすぐにも陥落するはずだったのだ。

次に、バリウスは1937年5月の血なまぐさい一週間にドゥルティの友が取った行動は正当だったと述べている。ドゥルティの友は、労働者集団の決断力の無さと拡大する混乱との中で、この事件に革命的指導と目的とを与えるべくビラと宣言文を発行した。その後、CNT指導部の融和と交友という驚くべき政策に直面したグループの主たる関心事は、バリケードは無条件に・何の保証もなく破壊されてはならない、ということだった。

バリウスによれば、5月にはまだ革命を救出する時間があった。(原註7)そして、ドゥルティの友だけがこの情況に対応できることを示していた。CNT−FAIが弾圧に対して狭量な態度をとれば革命的労働者がいたずらに食い物にされるだけだ、とドゥルティの友は以前から予言していた。

このパンフレットの次の章はスペインの独立という主題に取り組んでいる。この章全体は、近視眼的、もしくはプチブルにこそふさわしい誤った考えで充満している。国際政治について軟弱で余りにも単純な言及をしながら、安っぽい空虚なナショナリズムを支持している。従って、ナショナリズムについてドゥルティの友は単純化された回顧的なブルジョア思想に同意していた、と述べるに留めて、この章は無視すべきである。(原註8)

逆に、協調主義と階級闘争に託した章は非常に興味深い。このグループがCNTを大きく糾弾したのは、ブルジョア国家の政府業務に協力していることについてだった。ドゥルティの友の批判は、ベルネリよりも遙かに急進的だった。ベルネリは政府へのCNTの参加を批判したが、このグループはCNTが資本主義国家と協力していることを批判したからである。これら二つはちょっとした語句の違いという問題ではなく、その根底にある全く異なる政治見解の問題だった。パンフレットを参照しよう。

資本主義との協調などあってはならない。ブルジョア国家の外部であろうと、政府それ自体の内部であろうと。生産者として我々の場所は組合であり、労働者が率いる革命で生き残るべき唯一の団体を拡充するのである。(中略)そして、組合の面前で国家を維持することなどできないのだ−−まして、我々自身の力で国家を強化するなどあり得ない。資本主義に対する闘争は継続する。我々自身の地域には、国際的ブルジョア階級と繋がっているブルジョア階級が今もいる。ここ数年間存在していたことが今も問題なのだ。

ドゥルティの友は、協調主義者がブルジョア階級と同盟していることをあえて示そうとした。アナキスト大臣と協調主義擁護者全員はブルジョア階級と同盟していると述べているも同然だった。

協調主義者はブルジョア階級と同盟している。このような関係を擁護している個々人には階級闘争の感覚などなく、組合に幾ばくかの敬意も持っていない。我々は絶対に敵の立場の強化を認めてはならない。敵は打ち砕かねばならない。(中略)搾取する側とされる側との間に共通の基盤など絶対にあり得ない。どちらが勝つかを決めるのは戦闘だけである。ブルジョアか労働者か。明らかに双方同時にではない。

だが、このグループが次の決定的段階、ブルジョア階級との同盟政策を中止させ、関係を絶つことができないことを証明した協調主義型組織との必然的決別を取ることはなかった。このグループがCNTと決別しようとしたことは一度もないし、資本主義組織の一つだとCNTを糾弾したこともない。イデオロギー上の諸前提を設定したが、それに伴う全てのことを探求しなかったのである。少数の個人に非難の矛先を向けるのは容易い。CNTが、労働組合としてのまさにその性質のために、ブルジョア階級と協調する組織だったという厳しい陰鬱な結論に到達するよりは、協調政策を擁護した数人の指導者を非難する方が簡単である。諸原則からCNTを引き離したのは、アナキスト大臣ではなく、大臣を産み出しているCNTだったのだ。しかし、ドゥルティの友は、労働組合は階級闘争組織である、と考えていた。徹底的にスターリン主義であり、反革命政党のPSUCの道具でしかないカタロニアのUGTでさえ、ブルジョア階級組織としては考えられていなかった。従って、ドゥルティの友が決定的ステップを取ることは不可能だった。労働組合の真の性質(原註9)は資本主義国家機構だと認めることができない以上、CNTとの決別など考えられない。全く逆だった。労働組合こそがこのグループの理論的議論の根本要因だった。その責任は、組織ではなく個人に向けられた。病理の認識もなければ、その原因の認識もなく、幾つかの症状だけが認められたのである。(原註10)

このパンフレットは、この後も、ドゥルティの友の立場と綱領を説明し続ける。多分、慌てて起草したからか、もしくはその時点で余りよい評判を得られなかったためか、主要で最も象徴的な政治戦術上の立場は、それ以前の説明よりも不完全で混乱し曖昧に示されている。そうした立場は以下の通りだった。(1)労働者革命軍を通じた労働者による戦争の方向付け。(2)労働組合を強化することによる階級協調の拒絶。(3)経済の社会化。(4)反教権主義。(5)官僚制の撲滅と全消費財の普遍的配給を通じた分配の社会化。(6)同一賃金制。(7)民衆裁判所。(8)田舎と町との平等と農地集産化の防衛。(9)公安の労働者管理。

綱領の中心的基盤は7月の経験だった。ドゥルティの友はこれを成功した蜂起だと明確に描いていたが、革命理論と革命目標が欠如していると見なされていた。

彼等は、達成すべき行動の方向性について何の考えも持っていなかった。理論がなかったのだ。毎年毎年、我々は抽象概念をめぐって思索をした。何をなすべきなのか?当時、指導者達も自問していた。そして、彼等は革命の敗北を許したのだ。こうした高貴な瞬間に躊躇する時間などない。それどころか、自分が何処に行くのか知らねばならないのだ。これこそがまさに我々が満たそうとしている空洞である。7月と5月に起こったことが二度と起こってはならないと感じているからだ。

我々はアナキズムのちょっとした変形物を綱領に導入している。革命フンタの設立である。

グループは革命フンタを革命の敵を弾圧する目的で設立される前衛だと記述していた。

既に見たように、革命を監視し、敵対する党派を−−組織的意味で−−弾圧する有機的組織体が革命には必要である。現在の様々な事件が示しているように、こうした党派は、破壊されない限り、恩赦してはならないのだ。

ある種のイデオロギー的疑念を感じるアナキスト同志もいるかもしれない。だが、経験は、日和見的態度を止めるようにさせるほど充分な教訓を我々に与えてくれている。

現在の革命で生じていることを繰り返したいと思わない限り、我々は、労働者階級と一体になっていない人々に対して最大限のエネルギーを使って立ち向かわねばならない。

この前置きの後、ドゥルティの友は革命綱領を提示している。この綱領は三つの主旨に要約される。(1)革命フンタもしくは全国防衛評議会の設立。その仕事は、戦争の監督・公安の管理・国際情勢と革命プロパガンダの処理である。(2)全ての経済権力を労働組合へ。これは、徹底的な労働組合資本主義の形成を意味していた。(3)地域的組織の基本細胞としての自由な自治体。これは国家の分権化と典型的なアナキズム連合主義アプローチとの交点だった。

このパンフレットの最後のセクションは、パンフレットの題名と同じ表題がついている。そこには現実的で断固たる記述がある。「革命はもはや存在しない。」反革命の強さを認めながら、目下の見通しについて多くの推測と問いとを長々と示した後、人間の願望とアナキズムの理想とを満足させることのできる未来のアナキズム革命に向けて、気弱で空想的でお人好しで恐らくは言葉だけの召喚状が発表されている。だが、バリウスが1978年の「新しい革命に向けて」の英語版序文で認めていたように、共和国地帯での反革命の成功とファシストによる戦争勝利とはその時までには必至であった。


第八章の原註

1. アルケル(前掲書)によれば、この数字は、甚だしいものではないにせよ、少し誇張されているように思える。

2.新しい革命に向けて」の16ページには次のように記されている。「16ヶ月が過ぎた。何が残っているのか?7月の精神は、思い出しか残っていない。7月の有機的組織体は、過去のものだ。」ここから、私達は、このパンフレットは1937年11月頃、つまり1936年7月から16ヶ月経過した時に起草されたと推測している。

3.新しい革命に向けて」の1978年の英語版序文において、彼はこのパンフレットが発行された(彼は「発行された」と言うべきところを「書かれた」と述べている)のは1938年の中頃だと述べている。そして、また、この出版の背景を次のように説明している。

我々のパンフレット「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」について簡単に紹介をしよう。まず第一に、何時これが書かれたのだろうか?1938年の中頃である。(中略)それは悲劇的な時間だった。我々ドゥルティの友は、グループとしての最後の会議で反革命が我々に見舞った災厄を長いこと吟味したが、災厄の規模がどの程度であろうと、そのような敗北の結末を受け入れるわけにはいかなかった。ラルゴ=カバリェロが続行した恥ずべき政策は、その政府にアナキスト闘志が何人か参加していたこともあり、後衛の革命的士気を徐々に破壊していた。ネグリン政府−−敗北と降伏の政府−−は、この敗北に大量の生け贄を捧げた。このために、我々は「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」を発行することにしたのだ。既に述べたように、これは希望のメッセージであり、国際資本主義に対する闘争を刷新する決意だった。国際資本主義は、アナキストとCNTの革命的組合員が先頭に立って進んでいたスペインの労働者階級を妥当すべく1930年代の憲兵(言い換えれば、黒シャツとナチ)を動員したのである。

ドゥルティの友グループによる「新しい革命に向けて」(New Anarchist Library (2) Paul Sharkey訳. Sanday, Orkney 1978)を参照。

だが、バリウスが主張しているのとは逆に、「民衆の友」第十二号には、パンフレットがこのグループによって最近出版され、題は「新しい革命に向けて」であるという言及がなされている。機関紙の第十二号は1938年2月1日付けになっていることから、パンフレットが現れたのは1938年1月だと述べることができる。

4. 私達は、このパンフレットの原本を参照した。Etce'tera社による復刻版とは少し異なっている。復刻版はテキストは完全ではあるものの、ページ数が28ページしかない。

5.バランス」serie de estudios e investigaciones(Barcelona, 1994)第二号に掲載。

6. 統一戦線の中から「マルクス主義」指導者達(マルクス主義者とはスターリン主義反革命家を意味している)とPOUM(POUMメンバーはスターリン主義者とは異なる革命家である)とをドゥルティの友が区別していることに注意されたい。

7. 1971年に、バリウスはこの見解を改めて述べていた。「1937年5月の蜂起で終えよう。そこで犯した失敗は、その時に修正できたかも知れなかった。ここでも我々は街路を支配していた。バルセロナで前線は二つの地区に分かれていた。だが、「停戦」・圧力・議論が、これら二つの地区の指揮官(グループのメンバーであるマクシモ=フランコが指揮するCNTのロヒネグラ地区とホセプ=ロビラが指揮するPOUM地区)に影響した。CNTメンバーのモリナと防衛評議員であるCNTのイスグレアスによる提案のおかげで彼等はカタロニアの首都に到着できなかった。反革命の日がやってきたのだ。5月の躊躇が、20世紀のプロレタリア叙事詩を破滅させたのである。」

有能な革命指導部を召集できたなら、革命を起こし、確固たるものにできたであろう。世界に範をたれ、きっぱりと粗末なモスクワお化けを潰していただろう。(ハイメ=バリウス著、"Recordando julio de 1936" 「Le Combat syndicaliste」1971年4月1日号)

8. だが、バリウスは(1935年か?)エディトリアル=レナセル社を通じて「El nacionalismo y el proletariado」と題されたパンフレットを出版した。このパンフレットの中で、彼は、アナキズムと労働者主義の観点から、ナショナリズムの問題に関する非常に興味深い思想を提示していた。

9. ベンジャミン=ペレトとG=ムニス共著、「Los sindicatos contra la revoluci'on」(FOR, Apartado 5355, Barcelona, 1992)を参照。また、1937年6月26日にボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部が発行したPOUM左派に対するアピールも参照(POUMの非合法化から10日後だった))。

君達の指導部は、無政府改良主義指導者達に対抗して革命的アナキスト大衆を先導すべく統一戦線を利用する代わりに、CNTに盲目的に従った。この事実が最もハッキリと示されたのは5月事件の最中だった。POUMは具体的目標−−例えば、治安部隊の武装解除−−が達成される前に退却を命じた。この事件の間、POUMは無政府改良主義指導部の付属物に過ぎなかった。

CNT官僚制を支持するこの政策の裏側には、自発的に生じた労働者・農民・戦士の委員会の放棄があった。従って、君達は大衆から疎外されているのだ。君達の指導者は、組合−−古くからある官僚機構−−が権力を奪取し得るという新しい理論をでっち上げた。地元地域の委員会の崩壊を止めるために何も行わず、そうした委員会のためにプロパガンダを実行したという理由で我々の同志達を除名している。だが、5月事件中に、君達は素早く防衛委員会に助力を仰いだ。この土壇場に示した立場は、むろん、明らかに不適切だった。「委員会」を大急ぎで召集するだけでは不充分なのであって、実際面で組織を作らねばならないのだから。だが、現実には、5月事件直後に、委員会に対する君達の観念的憂慮は完全に消え失せてしまった。

(ボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部(第四インターナショナルを代表して)"El viejo POUM ha muerto: viva el POUM de la IV Internacio'nal," Barcelona June 26, 1937)

10. 1939年に、エドゥアルド=マウリコはドゥルティの友の綱領に対して非常に似通った批判を思いついていた。

こうしたグループ(ドゥルティの友のようなグループ)にとって、諸悪の根元は指導部による「諸原則」の放棄だった。「健全な諸原則」、「純正さ」への回帰、「再出発」−−これがそっくりそのままこうした党派の綱領・スローガンだった。今や再出発など全く不可能である。歴史の再魔術化となってしまうだろう。7月19日以前の情況に戻ることなどできない。しかし、同じ失敗は同様の情況で起こりうる。こうした諸党派が今日犯しかねない最大の誤りは、スペイン革命で明らかになった教訓全てを「諸原則の純正さ」の名の下に引き出せないことである。最初にこの失敗があることで、遅かれ早かれ、今日彼等が反対しているのと同じ失敗・妥協が作り出されることになろう。そして、スペイン革命の主たる帰結は、ガルシア=オリベルとシプリアノ=メラスが妥協したのは、CNTの伝統的「政治的無関心」を放棄したためではなく、突き詰めればこの「政治的無関心」それ自体にあった、ということである。つまり、それがなければ革命は不可能となる、革命理論(レーニン)の欠如に起因していたのだ。

(O. Emem "Situacio'n revolucio'naria. El poder. El partido," in !Experience espan~ole. Faits et documents No. 2, Paris, August 1939)


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