休み時間寸暇を惜しんで昨日の夜から読み続けている海外の推理小説を読む新一の前にゆらりと立ちはだかった人物が居る。 その人物の発するぴりぴりと肌を突き刺す怒りのオーラに、とばっちりを受けるのを恐れて周辺の人間は早々に避難して行った。 急にクラスメートの話し声が遠ざかった事を不審に思った新一は漸く顔を上げた。 腰に手を当てて仁王立ちするすらりとした姿。 もし蘭が猫だったらその怒りを表現する為に全身の毛を逆立てていた事だろう。 「よぉ。何怒ってるんだよ?」 人の気も知らないで新一は実に朗らかに声を掛けた。 それが蘭の怒りを倍増するとも気がつかずに。 無言で冷たい視線を投げ付けていた蘭がゆっくりと唇の端を持ち上げる。 そこに浮かんだのは決して笑ってはいない笑顔。 ここに来て新一も漸く蘭が心の底から自分に対して怒っている事を悟った。 ・・・俺、なんかしたっけ・・・? 記憶の糸を辿りながら取り合えず開きっぱなしの文庫本を閉じて机の端に寄せる。 クラスメートは固唾を飲んでこの幼馴染達を見守っていた。 下手な事を言って蘭の怒りの余波を受けたくない。 これはその場に居た人間に共通する思いに違いなかった。 「覚えていらっしゃらない様ね?探偵さん。」 蘭はゆっくりと前に垂れていた一房の髪を耳の後ろに掻き上げる。 他人行儀な物言いが嵐の前の静けさを如実に物語っていて、新一の背筋に悪寒が走る。 こう言う蘭が一番ヤバイ。 過去の経験から痛い程それが分かっていて、なんとかこの事態を打破しようとその優秀な頭脳をフル回転させようとした矢先の事だった。 ――― 蘭の爆弾が落ちたのは。 「新一のおつむの中には事件の事しか詰まってない様ねっっ!すっぽかされるとも知らないで昨日の放課後教室でずぅっと待ち続けてた可哀想な幼馴染のことなんてどうでも良いって事なんだ!へぇー、そう。よぉっく分かりました!!」 決して大声を出している訳では無いのに蘭の張りのある声は教室内隅々まで響き渡った。 クラス全員が新一に冷たい視線を送る。 そりゃあ約束すっぽかした新一が悪い。 しかもこの怒り様だ。 一時間や二時間の話ではないだろう。 全員の頭を掠めたその予測は事実と大きな相違は無かった。 新一から今日の放課後事件で学校を休んだ日のノートを見せてくれと言われていたので、ちゃんとノートを用意して新一を待っていた。 蘭は3時間新一を待ち続けた。 見回りにきた国語教師に下校する様に言われるまで待ち続けていた。 夕日が教室内のホワイトボードを赤く幻想的に染める様を眺めながら、必死に涙が零れ落ちるのを我慢して、それでも辛抱強く待ち続けていた。 なにか用事が有って遅れているだけに違いない。 忘れているなんて思いたくなかったから・・・ そんな蘭の心情を知る由も無い新一はその頃目暮警部と共に殺人現場に足を運び、難解なアリバイトリックを暴いている真っ最中だった。 夢中になって、忘れてはいけない蘭との約束を忘れてしまっていた。 そう、今の今迄。 新一の額に冷や汗が浮き出る。 ポーカーフェイスはとっくに剥がれ落ちて焦った表情で口を開きかけては意味不明瞭な言葉を呟いている。 流石の名探偵も落ち度100%では何を言い訳して良いのか分からないらしい。 蘭は新一の様子をじっと眺めていたが腕時計にちらりと目を走らせ授業開始時刻である事を見て取ると無言で自分の席に戻っていった。 緊迫した雰囲気に息をするのも忘れていた新一は盛大に空気を貪りつつ、一先ずの猶予を与えられた事を知る。 しかし、けっして事態が好転した訳ではないのだ。 どうすれば蘭の怒りを解く事が出来るのか? 授業そっちのけでこの命題に真剣に取り組む新一であった。 放課後、蘭の後ろを付いて回り、両手を合わせて拝み倒す新一の姿があった。 結局オーソドックスに謝る事に決めたらしい。 下手に策を弄するよりは誠心誠意謝った方が良い。 誰もが痛切に感じながらもいざ実行に移す事には随分と潔さが必要な『謝る』ことを新一は怒りの根が深い幼馴染に一生懸命行っていた。 無視されても無視されても「悪かったよ。」「ごめん。」と繰り返す。 今回ばかりは本当に反省してます。 これからは気を付けるから。 なぁ、機嫌直せよ? 俺に何させたい訳? どうしたら許してくれるんだよ。 いい加減こっち向いてくれないか? てくてくと歩く蘭の背後から困りきったような新一の声。 時に猫なで声で、時にちょっと怒ったような、最後には懇願するような情けない声で蘭に言葉をかける。 そして、とうとう蘭の家の玄関前迄来てしまった。 新一が今日許しの言葉を貰うのは諦めようとしたその時、唐突に蘭がくるりと振り返った。 「蘭?」 鼻先が触れ合うほどの至近距離に蘭の透明な笑顔。 新一は後ろに引く事も許されず、蘭の瞳の中に閉じ込められた自身の顔を見る羽目になる。 不意打ちはやめろっっ! 心の中の絶叫は蘭には届かない。 「本当に反省してる?」 「してます。」 「態度で示せる?」 「・・・」 言葉の裏に何か得体の知れない物が潜んでいそうで無防備に首を縦に振る事が躊躇われる。 いや、示す覚悟は有るんだけど、その方法は? 「示せないの?その程度の謝罪なの?」 嫌われたくない、と主張する本能にしたがって新一は躊躇いを脱ぎ捨てる。 潔く、一言。 「何でもさせて頂きます。」 「その言葉を待ってたの。」 漸くにっこりと笑顔を見せてくれた蘭にほっとしつつ、満面の笑顔を得る事の代償が一体何なのか、大変気になる新一だった。 |