温泉に行こう!【1】





「なんで俺が・・・」

車窓から目に飛び込んで来る雄大な自然を満喫もしないで快斗は今日何度目かになる愚痴を聞かせるとも無しに呟いた。

その声は決して小さくは無くて普段なら耳聡く聞きつけ文句をぽんぽん投げ付ける青子がその愚痴に反応しないのは、青子自身がその素晴らしい絶景に心を奪われていたからだ。

目を輝かせて鮮やかな緑に歓声を上げている。

川に沿って続く山道はカーブが多く乗り心地が良いとはとても言えなかったがそれを忘れさせてくれるだけのものがその自然には有った。





何故二人がこんな緑溢れる細い山道を行くバスに連れ立って乗っているかというと、話は昨晩まで巻き戻る。











「快斗君。明日明後日暇かね?」



ちょうど風呂から上がったばかりで未だ髪の毛も満足に拭いていなかった快斗は通りすがりにタイミング良く鳴った電話をひょいっと取った。

するとキッドとの対決にまたもや敗れその残務処理に追われて疲れ切った中森警部の声が耳に飛び込んできたのだ。

心中ゴメンナサイと両手を合わせて、快斗は頭の中でスケジュール表を捲る。

「暇ですよ。何か用ですか?」

「そうなんだよ。良かった。快斗君が暇で。」

「で、何なんです?その用事って。」

「温泉なんだ。」

「・・・は?」

まだ若い快斗には耳慣れない単語をさらりと出して中森警部は詳しい話を始める。

「青子とな。たまには親子水入らずで温泉でも入りに行こうという話になってね。宿まで決めて有給も取る予定だったんだが、急遽どうしても外せない仕事が入ってしまってね。青子が前から凄く楽しみにしていた分止めになったとは言い辛くて、誰か私の代わりに行ってくれる人間を探していたんだよ。」

すーっっと血の気が引いた快斗は恐る恐る警部に尋ねる。

震える声で。

「その外せない仕事っていうのは・・・もしや・・・怪盗キッド関連の仕事ですか?」





頼む!違っていてくれ!





魂の叫びが神に届いたのかどうか定かではないが、警部は笑って快斗の懸念を否定した。

「今回は全然別口なんだ。まぁ応援要請を受けてね。世話になった先輩を関係してる事件だから出来る事なら力になりたくてな。」

「そ、うだったんですか・・・」

はぁーっと電話を離して中森警部に聞かれないように長い安堵の溜め息を吐く。

ただでさえこの人の良い警部に迷惑をかけているという罪悪感が消せないのに、更に青子絡みの楽しみをキッドが潰すなんて事になったら地の果てまで自責の念に押し潰されてしまいそうだ。

それに、青子を悲しませるなんて事は何を置いても回避したい事で、その事態をもたらすのが自分だなんて事にならなくて快斗は心底安堵した。

しかし、この話の流れで行くと・・・

「明日青子が5時50分には迎えに行くから玄関前で待っていてくれ。勿論旅費は私が出すから安心して良いよ。」

「ちょ、ちょっと待って下さい!おじさん!」

落ち着きとか冷静とかいう単語を彼方に置き忘れてきたかのような焦った自分の声に気が付く余裕もなく電話口に勢い込んで叫ぶ。

「うん?何かね。」

「それって日帰り旅行ですか?」

「違うよ。一泊旅行だよ。」

今度はかぁっと血が昇る。

快斗はまたしても恐る恐る電話口に問い掛けた。

「おじさんと青子が泊まる予定だったんですよね?それってまさか・・・一部屋だったりして?」





頼む!違っててくれ!





快斗の叫びは今回は無視されてしまったようだ。

神様もたまには余所見をしたり昼寝をしたりするらしい。

「一部屋に決まっとるじゃないか。一泊旅行で、しかも青子と同室なんでなかなか頼める人間がいなくて困ったよ。じゃあそういう事で快斗君よろしくな。」

軽やかに電話を切られた後、ツーツーというお馴染みの音を遠くで聞きながら快斗はその場で蹲ってしまった。



青子と!!一泊旅行!!しかも同じ部屋?!

なんでいきなりそーなるんだよ???!!!



いろいろな意味でとほほ〜と頭を抱える快斗だった。











突如としてバスがストップする。

「ん?」

回想から引き戻され漸く快斗が先ほどから車内でガイドをしていた女性に注意を向けると、その女性がにこやかにアナウンスをした。

「最近なかなかお目にかかれませんでしたが、左手の出っ張りの部分にカモシカが来ています。最近芽吹いてきた新芽を食べに降りてきているようです。」

「ええっ?!」

青子が嬉しそうに窓にへばりつき必死にその姿を探す。

すぐ其処にカモシカの姿を発見し、青子は興奮した声できゃぁきゃぁと歓喜の悲鳴を上げる。

快斗は興味無さそうな顔をするとカモシカではなく隣の青子の顔を眺めた。

子供のようにカモシカが見れたという事実に喜ぶ青子は無邪気で思わず顔がにやける。

口で文句ばかり言ってはいても結局青子さえ側にいていつもどおりに笑いかけてくれればそれだけで自分の機嫌なんて簡単に直ってしまうという事実はもう疑いようも無い。

せめて周りの人間にはこんな格好悪い事を悟られない様にせいぜいポーカーフェイスに磨きをかけるしかなくて、快斗は諦め混じりの溜め息を吐いた。

「快斗快斗!可愛いよ!」

視線はカモシカから1ミリも離さず、隣にいる快斗に報告する青子に呆れた声で返事をしてやりながら結局快斗はカモシカの姿を見る事は無かった。

隣ではしゃぐ青子を見ているほうが余程楽しく嬉しかったからだ。







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