秋子第二部 =第四章秋子=
text by 1998/4/18-1998/6/17
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===秋子 <1>===
部屋の中をレースのカーテン越しの柔らかな光が満たしていた。クリーニングに出したばかりの糊の効いた軍服がベットの上に置かれていた。シャワーの音が聞えていた。繁は熱いシャワーを浴びた後、冷水を浴びていた。細胞の一つ一つが引締るのを繁は感じた。タオルで充分に身体を乾かしてから、繁は軍服を身に着けていった。軍服を着終わると繁は姿見の前に立った。乱れがないかチェックした。鏡に幻のように繁が戦った少女が現れた。繁は少女に憎しみは感じなかった。部下を二人殺されたが怒りの感情は湧いてこなかった。繁は戦いの中で少女に歴戦の戦士を感じ取ったのだ。そう言われたら繁は驚くだろうが、繁は少女を尊敬していた。もう一度戦いたいな。自分の呟きに繁は驚いた。コーヒー・カップを手にして窓際に行った。海が見えた。繁はあの朝自分が浮かんだ海の冷たさと清潔さを思い出した。海面に石油は無かった。全て気化し炎となったのだった。繁はコーヒーを口にした。繁は少し首を傾げ、それから微笑んだ。繁はずっと少女が誰かに似ていると感じていた。それが誰だか分かったのだ。秋子だ。面の向こうに見える竹刀を構えている秋子。繁は剣道には自信があった。全国優勝をした相手を破ったこともあった。だが秋子には敵わなかった。秋子の構えには威圧感は全くなかった。剣道に関してかなりの腕を持っている人間でも容易な相手だと判断してしまった。最初に秋子と竹刀を交えた時の繁もそうだった。繁は真っ向から打ち込んだ。同時に脳天から真っ二つにされるような衝撃を受けて床に飛ばされた。しばらく立てなかった・・・。繁はコーヒー・カップをテーブルに戻した。丹念に磨かれた靴を履いた。戸を閉め鍵をかけた。繁の口元が引締った。今日は懲戒委員会にかけられるのだ。
98.4.18
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===秋子 <2>===
窓と色褪せたカーテンがあるだけのがらんとしたなにも無いただ広いだけの部屋。その部屋に長机がコの字状に置かれていた。コの字の口の真中に椅子が設置されていた。窓は閉められいた。旧式の大型エアコンが音を立てていた。部屋は涼しかった。分厚いカーテンが全ての窓を覆っていた。蛍光灯の青白い光が部屋を明らめていた。誰もいなかった。繁は椅子の前に立った。少し迷ってから座った。繁は壁時計が秒を刻む音を聞いた。その音に幽かな靴音が混じった。繁は椅子から立ち上がり直立不動の姿勢をとった。ドアの開く音。次々に委員たちが入ってきた。委員たちは無言だった。ドアの閉まる音。その音が合図だったかのように委員全員が着席した。部屋は静まり、壁時計が秒を刻む音だけが響いた。渡辺中尉、着席しなさい。繁はきびきびと敬礼し、椅子に座った。座るとき、真正面の壁に向けられた繁の目に海軍大将の顔が一瞬入った。海軍大将が?繁の頭に疑念が過った。渡辺中尉、今回の件はけっして口外しないように。これは軍の意志だ。繁の従いますという若々しく力のある声がすぐに続いた。これにて閉会する。繁は立ち上がり直立不動の姿勢を再びとった。委員たちが椅子を立った。靴音。ドアの開く音。しばらくしてドアの閉まる音。靴音が遠く小さくなった。壁時計の秒を刻む音だけが残った。繁は小さく息を吐いた。つまり俺はいままでどおり軍に居られるということだ。条件は一つ。今回の件にけっして関らないこと。もし関ったら・・・。きょうの委員たちの顔ぶれを見れば分かる。軍の主だったメンバーが来ていた。それは無言の脅しだった。繁は部屋を狭く感じた。
98.5.1
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===秋子 <3>===
袴を通して伝わってくる板の冷たさが気持ち良かった。繁は板張りの剣道場に正座していた。向こう側には剣道着を着た秋子が座っていた。端然と正座していた。視線が合った。秋子は繁の視線を柔らかく受け止めた。繁はさっきの秋子の声は幻ではなかったかと疑った。繁は秋子に本気でお願いしますと言った。そう言った自分に繁は驚いた。にこやかだった秋子の顔がすっと静まった。ほとんど優しい声が聞えてきた。死ぬ覚悟はおありですね。繁は思わず秋子の顔に見入った。秋子はもとのにこやかな顔に戻っていた。軽く礼をすると秋子は繁から離れた・・・。繁は身体が微かに震えるのを感じた。手の微かな震えを押さえながら防具に手を伸ばした。防具を取り、身に着けた。防具を着け終わると汗の匂いがした。目を閉じた。呼吸を整えた。次第に心が静まっていった。心が完全に静まったとき目を開けた。面の格子の間から防具を着けた秋子が見えた。繁は立ち上がった。同時に秋子も立ち上がった。繁は道場の中央に向かった。板が弾むのを足の裏に感じた。道場の中央で秋子と向かい合った。蹲踞し竹刀の先を互いに合わせた。また身体が震え始めた。立ち上がった。風を感じた。闇。
98.5.7
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===秋子 <4>===
眼下に炎の海が広がっていた。熱が吹き上げてきた。身体中から汗が流れた。繁は戦闘服を脱ごうと身体を動かした。目が覚めた。病院の臭いがした。繁は少し混乱した。どうして俺はここにいるのだろう。記憶が蘇った。剣道場で立ち上がると同時に風を感じた。俺はそこで意識を失った。ベットの側に繁の剣道具が置いてあった。バックの口が開いていた。面が見えた。真っ二つに割れていた。繁は汗を感じた。ドアの開く音がした。秋子が入ってきた。秋子はにっこりと笑った。良かった。秋子の歩く音。秋子は繁を見てから窓に行った。窓を開いた。風が入ってきた。繁は部屋に入り込んできた風を心地良く感じた。秋子は白い清潔なタオルを繁に渡した。繁は汗を拭いた。陽光が乾かしたタオルの感触が気持ち良かった。秋子はにこやかな表情を浮かべたままベットの横の椅子に座った。繁は自分が意識不明のまま三日間病院のベットに寝ていたことを知った。秋子は壁のボタンを押した。しばらくすると看護婦が現れた。看護婦は繁に立ち上がれるかどうか尋ねた。繁は慎重に上体を起こした。少しふらついた。落ち着くまで少し待った。それから床にゆっくりと足を下ろした。スリッパを履いた。少しずつ立ち上がった。一歩足を出した。その足に重心を移し、もう一方の足を引き寄せた。繁は看護婦を見た。大丈夫です。繁は看護婦に伴われ病室を出た。精密検査を終え病室のドアを開けると秋子の視線に合った。繁は頷いた。秋子も頷いた。繁がベットに横たわると、秋子がベットの横に立った。秋子の顔が真剣になった。あなたに謝らなければなりません。私は手加減をしました。ドアの閉まる音がした。繁はドアをじっと眺めた。繁の身体全体が震え始めた。
98.5.11
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===秋子 <5>===
海が騒めいていた。強い海風が砂を巻き上げて、その砂を横たわる繁の頬に投げつけた。繁は頬についた砂を手で払った。目は閉じたままだった。海は過剰すぎる。繁はいつもそう思っていた。繁には平気で海と対峙できる人たちが信じられなかった。繁は遥か昔の人によって書かれた文章に共感した。貴人の女性が主人公のものだった。はじめて海の近くに来たとき、その人は海を空恐ろしいもののように感じ、家に閉じこもって過ごしたのだった。夜になり周りが静まりかえると、海鳴りが際立つ。その人はその音を恐れながらも、その音に惹かれるのだった。そしてついに海が立てる音に魅入られるようにしてその人は海と対峙する。繁はその時の文章が思い出せなかった。繁の心を映し出したような文章だった。たぶんそれだからこそ思い出せないのだろう。また砂が繁の頬をなぶった。繁は少女と秋子のことを考えていた。少女と秋子のイメージが海のイメージと重なった。過剰なものたち。いや少女と秋子は過剰なものを内に持たされているのだ。繁は自分が内部に海という過剰なものを持たされたときのことを考えた。それは恐ろしかった。繁は貴人の女性が海と対峙したときの文章を思い出した。その人は狂気の中で海と対峙したのだった。少女の笑顔が浮かんできた。秋子のにこやなか顔も浮かんできた。それら二人の顔にもう一人の女性の微笑した顔が重なった。その女性はインド人の若い女性だった。繁は写真で見たのだった。最初見たとき美しい人だなと繁は思った。その人は膝に幼い子供を抱いていた。その子供は死んでいた。繁ははじめて微笑の意味を理解できた。微笑とはあらゆる感情が死に絶えたときに浮かぶものなのだ。子供の死がその女性の心を壊してしまい、その女性に微笑ませたのだった。繁はいつもにこやかな顔を絶やさない秋子を思った。繁は秋子に少女のことを話そうと決心した。
98.5.12
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===秋子 <6>===
太陽がほとんど真上にあった。真夏にはまだ時間があったが、太陽は一年で最も強い光を放っていた。秋子はその光を気持ち良く浴びながら、家に戻った。いまどき珍しい木造の家だった。庭の木々の緑が光っていた。秋子は鍵を取り出そうとして郵便ポストを見ることを忘れたことに気付いた。門に戻って郵便ポストを開けた。手紙が入っていた。長野秋子様と墨で書かれていた。少し持ち重みのする手紙を手にしながら、秋子は微笑んだ。差出人は見なくても分かった。繁はコンピュータ好きの人間だったが、年賀状はいつも手書きだった。それも筆書きだった。けっして上手い字ではなかったが、ひとつひとつの字が丁寧に書かれていた。秋子は繁のただ謹賀新年と書かれただけの年賀状を楽しみにしていた。秋子は着替えて、椅子に座った。立って窓を開けた。風が入ってきた。秋子は椅子に座り、手紙を開けた。秋子は頬に風を感じ、顔を上げた。庭の木々の作る影が長くなっていた。秋子はゆっくりと繁の手紙を封筒に戻した。秋子は片目のことを思い出していた。秋子は微かに頭を左右に振った。いや、私はいつも片目のことを思っていた。私が唯一私の持つ能力の全てを出し切って戦った相手。あのときの時間をどう表現したらいいだろうか?私が生きたと言えるのはあの時間の中だけだ。秋子は目を閉じた。部屋の中に流れてくる風を感じながら、心を空っぽにした。片目の向こうにまだ見たことない少女の顔が浮かんだ。やがて少女の顔は片目と重なった。
98.5.19
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===秋子 <7>===
お湯を使わずに水で顔を洗った。顔の一つ一つの細胞がきゅっと引締るのを感じた。戸を開けて外に出ると、母はすでに待っていた。美孝は鍵をかけ、鍵を庭木にある巣箱の下に入れた。母の走る足音が聞えた。美孝は母を追った。美孝は二つの足音を聞き比べながら走った。母の足音のリズムの方がゆったりとしていた。いつか僕は母の背を抜くだろう。そう思った。美孝は運動に自信があり、実際学校では一番速いランナーだったが、母には敵わなかった。いまもやっとついていっていた。小さな頃から母と毎朝走っていた。いつも母の背中が前にあった。美孝は母の背は抜くだろうが、母の背中を見ずに母と走ることはないだろうと感じていた。もう少し頑張れば追いつくだろうという距離の向こうにいつも母の背中はあった。美孝は母の背中から母のいろんなことを知った。父が亡くなったとき、美孝は走る母の背中を見て始めて涙を頬に感じた。今日の母の背中からは喜びが流れていた。どんなことがあったんだろう?母はけっして陰気ではなかったが、必要最小限のことしか話さなかった。美孝は母の喜びを受けて陽気になった。美孝は茶目っ気を起こした。突然短距離走並にスパートした。なにごともなかったかのように以前として母の背中は前にあった。母が振り返った。華やかに笑った。
98.5.22
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===秋子 <8>===
風が木々を騒めかせていた。森は海の騒めきを真似ていた。秋子は歩みを止めた。誰も踏み入ることのない森の奥に大きな空間がぽっかりと広がっていた。秋子はその真中に立った。真っ青な空が広がっていた。からっぽの空間にトラックほどの大きさの巨大な岩が在った。秋子は岩を見た。岩がすっと持ち上がった。岩は滑らかに上昇していった。鷹が空を横切った。岩は鷹を追った。秋子は目を閉じた。鷹は岩の追跡を振り切ろうと必死になった。急上昇し急降下した。岩は鷹にぴったりとついたままだった。鷹がパニックに陥りそうになると岩は鷹を離れた。岩は表面が空気との摩擦熱で赤くなり気化するほどの猛スピードで上昇し、一瞬で止まった。岩は空気が希薄な遥か上空からゆっくりと降下した。岩はもとの地面に戻った。秋子は目を開けた。上空には青い空が広がっていた。森の海鳴りのような騒めきが聞えた。秋子は森を去った。
98.6.1
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===秋子 <9>===
光が満ちていた。木々の緑がまぶしかった。風は時々思いだしたように吹き、光る汗を乾かせた。秋子は境内の中央から少し外れたところにある林の中に入った。林の中は人気がなく、真上からの強い光が遮られひっそりとした薄闇が作られていた。秋子はその静けさを好もしく感じながら足を進めた。薄闇の向こうに光の当たる小さな空間があった。その光の空間に美孝の墓があった。秋子は薄闇の中に身を置いたまま夏の光を受けた美孝の墓を見つめた。生まれた子供に美孝と名付けたいと言ったとき、夫の目の中に流れたものを秋子は思い出した。そして秋子は自分がモンスターだと知った日を思い出した。思わず抱きしめたくなるような可愛い子犬たち。私は拳銃を手にしていた。私は子犬を射殺した。私はなにかを乗り越えた。いや、自分を知ったのだ。美孝も拳銃を手にしていた。あの時雨が降っていただろうか?美孝も子犬を殺した。美孝はモンスターではなかった。美孝はそのことから逃れることができなかった。美孝は射殺されたが、そうでなくてもいつかは正気を失い、自殺しただろう。私は私が嫌いだ。私は自分の子供に私ではない者になって欲しかった。だから美孝と名付けた。秋子は光の空間に入った。私は戦うのが好きだ。戦いの時間にしか私の生はない。私は片目との戦いをいつも思って生きてきた。私の生であの時間だけが真夏の太陽のように輝いている。私はいま喜んでいる。あの輝きをまた味わえるだろう。秋子は美孝の墓に手を伸ばした。夏の陽光を受け続けた墓は温もりを持っていた。その温もりは秋子の心を慰めた。秋子はそのまま墓に触れ続けた。
98.6.9
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===秋子 <10>===
遥か遠く水平線に隠れた向こうを台風が通過しつつあった。風はむしろ穏やかなほどだったが、波は荒れていた。波は怖いほど高く持ち上がり、風のような速さで押し寄せていた。高く持ち上がり一気に崩れ落ちた波の立てる音が辺りを占領していた。荒れ昂ぶる海に対して空は静かだった。青空が広がっていた。両耳をしっかりと塞ぎ空を見上げると、海が荒れていることが信じられなかった。繁は胸のポケットから手紙を取り出した。広げた手紙が風に鳴った。繁は手紙を眺めた。もう読む必要はなかった。繁は手紙の内容を諳んじていた。繁は手紙を丁寧に畳むと、胸のポケットに戻した。繁は砂浜に仰向けになった。空だけが視界に広がった。空に満ちた光は激しさを潜め、優しかった。繁は両耳をしっかりと両手で押さえた。そこには過剰なものはなにも無かった。繁は目を閉じ、両手を耳から離した。過剰なものが世界に充ち満ちた。繁は遥か昔の貴人の女性のことを思った。過剰なものと対面し、正気を失った女性。秋子は戦うことが好きだと書いていた。そして戦うことを愛する自分を悲しんでいた。秋子は自分の中の過剰なものを愛しかつ憎んでいるのだろうか?繁は畏怖心さえ起こさせる凄まじい海鳴りに耳を傾け続けた。繁は微かな光に気付いた。その光はすぐに消えた。繁は身体を起こし、目を開いた。過剰なものが猛り狂っていた。繁は秋子を理解できたと思った。
98.6.17
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