9月に観た映画
2000/9


ひかりのまち なつかしき笛や太鼓 U-571  60セカンズ キッド マルコヴィッチの穴
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9/4 ひかりのまち

1999年イギリス映画 9/4シネセゾン渋谷
監督:マイケル・ウィンターボトム 脚本:ローレンス。コリアト
撮影:ショーン・ボビット 音楽:マイケル・ナイマン
出演:ジナ・マッキー/シャーリー・ヘンダースン/モリー・パーカー

 ざらついた映像。それは映画にドキュメンタリー的要素を与える。でもそれは改めて言うことのない基本の基本だ。そしてコマ落し撮影。これも基本的テクニックで改めて使う人はいない。いや、いなかった。それらの今さら使えば気恥ずかしさを感じてしまうテクニックが使われ始めたのは、香港映画、特にウォン・カーウァイの影響が大だろう。ベルナルド・ベルトルッチの『シャンドライの恋』のカメラ・ワークにも香港映画の影は濃厚に感じることができた。それは一言で言えば、カメラの遊びであり、そのカメラの遊戯性は映画に若々しさを与えていた。でもこの映画で僕が心を動かされたのはそのようなことではなく、そのカメラ・ワークにおいてロンドンという都市と香港という都市が共鳴しているということだった。

 マイケル・ウィンターボトム監督は都市に生きる人々それぞれに焦点を当てながら、都市というものが持っている姿を浮き彫りにする。それらの人々は一言で言えば少しずつその人なりの仕方で狂っている。奇妙な人々。都市とは他人の集合体であり、他人とは自己(私)との「通路」が無い者のことを言うならば、都市で生きる人々は孤独だ。その絶対的孤独の中で都会人たちは狂っていく。正気を保とうとするならば皮肉にも周りは人だらけの場所で都会人たちは出会いの「ゲーム」をしなければならなくなる。でも都会人たちは「ゲーム」に拠る出会いが虚構であることを充分に知っている。

 たぶん大切なのは、孤独を認めることなのだ。だからこの映画のクライマックスは深夜のバスの中で一人の女性が流す涙なのだ。ほとんど唐突に流れるその涙は、説得性を持っている。それは僕たちもまた都会で生きる者の孤独を知っているからだ。あの涙には、いまや手垢に塗れてしまった言葉だが、癒しがあった。そしてあの涙からしかなにも始まらないということも僕たちは理解できる。

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9/6 なつかしき笛や太鼓

1967年東宝映画 9/6NFC
監督/脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之 美術:松山崇
出演:夏木陽介/大空真弓/浦辺粂子

 この映画を単独で論じるならば、ほとんど内容空疎な映画だ。取り上げるべきところがあるとしたら、終盤のバレー・ボールの試合だろう。草バレー・ボールよりはほんの少しだけレヴェルの高い試合が延々と映し出される。シュールリアリスティックと名付けてもいいくらいで、このようなシーンを持つ映画はけっして大げさでなく、古今東西唯一だろう。

 それでも小島の中学のチームが勝利を収めるとき、館内からは観客の拍手の音が聞こえてきた。この映画は内容空疎でありながら、観る者を引き込む「マジック」を持っているのだ。それを木下恵介監督の話術の巧みさだとするならば簡単なのだが、その「話術の巧みさ」は分析されなければならない。分析することによって見えてくるものがある。

 一本気なヒーローと気が強いがヒーローを心から愛しているヒロイン。ヒーローには試練が与えられる。活気を失っている人々に元気を与え、生きる強さを取り戻させること。その試練はけっして抽象的な形で与えられない。バレー・ボールの試合で勝つという具体的な形で与えられる。そしてその「具体的な」試練に様々な難題が降りかかってくるのだ。ヒーローがそれらの難題を乗り切っていく有様が観る者を引っ張っていく。

 そんなふうに分析していくとき、この映画が物語の型に忠実に従っていることが分かる。そしてこの物語の型は遥か昔人間が言葉を使うようになってから使われてきている。
 ここにはなんの発見もない。熟練した「話術」があるだけだ。たぶんこのような映画の存在を僕たちは認めてはならないのだろう。

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9/11 U-571

2000年アメリカ映画 9/11日比谷映画
監督/脚本:ジョナサン・モストウ
出演:マシュー・マコノヒー/ビル・パクストン/ハーベイ・カイテル

 燻し銀のような映画。けっして派手な輝きは発することはないが、この映画が持っている光は観る者の心をしっかりと捉まえる。

 映画は一人の男の成長という物語を背骨に持っている。まだまだ甘さを捨てられないでいる男が世界が本質的に内包している冷酷さ、残酷さに正面から向かい合い、その冷酷さ、残酷さを身に付けるまでの成長の物語。
 でも観るべきは一人の男でなく、男たちなのだ。潜水艦という密室に閉じ込められた男たち。その密室の中で男たちはその内面を露にして行く。

 ジョナサン・モストウ監督をこの映画で大好きになってしまったが、それは彼が人間を最後の最後の所で信頼しているからだ。この映画は娯楽映画だが、希望の無い芸術は芸術ではない、と僕は確信している。彼が届けてくれたのは、男たちへの賛歌の歌なのだ。

 広大な海、第二次世界大戦、駆逐艦と潜水艦とのバトルと派手な要素を持ちながら、この映画は密室劇だ。潜水艦という密室の中で一人一人の男たちが試される。僕たちが観るべきはその密室の中でクリティカルな状況が男たちを「理想的な」男に近づけて行くところなのだ。いや、こう言い換えた方がいいかもしれない。密室の中のクリティカルな状況が要求される男の「理想型」をくっきりと浮かび上がらせる、僕たちは男たちが「理想型」に近づこうとする力を持っていることを観るべきなのだ。

 「理想型」に近づこうとする力、それこそは希望というものだろう。

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9/12 父

1988年松竹映画 9/12NFC
監督/脚本:木下恵介
撮影:岡崎宏三 美術:芳野伊孝
出演:坂東英二/太地喜和子/野々村眞

 このコメディーにあるものはなんだろうか?

 紆余曲折はあるものの、父親は一人息子の方をしっかりと見続け、妻は夫を見続け、老いた母はもう中年になった息子を見続ける。決して壊れることのない家族の絆。その絆の強さが、もはや幻想に過ぎないことを充分に知りながらも、観る者たちの心を暖める。

 僕はこの映画にある夫婦の愛の在り方に惹かれた。妻は離婚!離婚!と叫びながらも、どうしようもない夫に愛情を感じている。その愛情はかなり深いものだろう。決して壊れることのない愛。それもまた幻想だ。

 この映画が撮られたのは1988年だが、その頃家族は既に崩壊していた。いや古い家族制度と言った方がいいかもしれない。古い家族制度が崩壊し、いまだ新しい家族の姿が見えなかった時代。いまもそれは見えていないのだが、そんな時代背景の中にこの映画を置いてみると、興味深い。

 逃避という言葉をこの映画に与えることはできない。木下恵介はここにある家族の絆が幻想であることを充分に知っていた。その意味でラストが「父」の幻影で終わるのは重要な意味を持つ。「父」を探す妻と息子。その二人こそは僕たち自身ではないだろうか?

 僕たちにいま家族は必要なのだろうか?僕たちに必要なのはもはや家族という言葉を与えることができないものなのかもしれない。それを発見するためにも、たぶん僕たちは「幻影の父」を捜し求めなければならないのだろう。

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9/18 60セカンズ

2000年アメリカ映画 9/18日劇プラザ
監督:ドミニク・セナ
出演:ニコラス・ケイジ/アンジェリーナ・ジョリー/ジョバンニ・リビージ

 一晩で50台の車を、それも盗難の困難な高級車ばかり、盗み出す。目的は弟と母親を守るため。冒険的で、正義感に充ちて、かつシンプルなストーリー。このようなストーリーがあれば、ハリウッド映画に敵う者はこの地上には存在しない。だからこの映画は最高にいかしている。

 でもこの映画が魅力的なのは、そのシンプルなストーリーの背後に子供から大人への成長というテーマを持っているからだ。

 ニコラス・ケイジが「自動車泥棒」について語るとき、自動車を盗むことは世界で一番素敵なことのように思えてくる。それはそれがまさに子供の夢だからだ。魅惑的な光を惜しげも無く発している車たち。それらの車たちのエンジンを作動させ、海までドライブする。それはクラスで一番可愛い女の子とデートすることよりもワクワクすることだろう。ここでは車たちは子供のロマンそのものなのだ。でもそのロマンは大人の世界では通用しない。もしそのロマンを押し通そうとするならば、容赦なく大人の世界は押し潰す。押し潰されて、もう子供でない人間たちは、子供のロマンを捨てて大人になる。

 でも、ここでまた「でも」なのだが、ニコラス・ケイジがムスタングと空を飛ぶとき、捨てられたはずの子供のロマンは蘇る。だからあのシーンは最高にいかしている。大人になるということは、子供のロマンを捨てることではなく、たぶん子供のロマンを大切にし続けるということなのだ。

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9/25 キッド

2000年アメリカ映画 9/25丸の内ピカデリー1
監督:ジョン・タートルトーブ 脚本:オードリー・ウエルズ
出演:ブルース・ウィリス/スペンサーブレスリン/エミリー・モーティマー

 もしこの映画を大人が純粋な心を取り戻す映画だと言う人がいたら、その人は間違っている。この映画はそんな映画ではなく、『みにくいあひるの子』の映画なのだ。

 太って、ダサい髪型をした「みっともないあひるの子」である少年。少年は当然いじめに遭う。少年は必死で勉強することで、「あひる」になろうとする。そして「あひる」になることに成功する。その「あひる」がブルース・ウィリス演じる成功したビジネスマンである「むかつく」大人なのだ。

 少年は「あひる」になった自分自身に出会う。出会うことで少年は自分が完全に失敗したことを発見する。「僕は負け犬なんだ」。そう少年が言うとき、少年は自分が「あひる」でないことに気付いている。そう、少年は地上で目先の利益に捕われてあくせくしている「あひる」ではない、大空を自由に羽ばたく「白鳥」なのだ。

 だからこの映画は大人の自己発見の旅ではなく、少年の自己発見の旅なのだ。この映画は「くたびれた」大人たちが観る映画ではない、子供たちこそこの映画の観客であるべきだ、そう僕は感じる。

 子供たちはみんな「白鳥」だ、それこそがこの映画のメッセージだろう。

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9/27 マルコヴィッチの穴

1999年アメリカ映画 9/27東劇
監督:スパイク・ジョーンズ 脚本:チャーリー・カウフマン
撮影:ランス・アコード
出演:ジョン・キューザック/キャメロン・ディアス/キャスリーン・キーナー

 エンド・ロールが大好きだ。ブルーの世界に赤がリズミカルに動き回る。そこにあるのは「喜び」としか名付けようのないものだろう。世界と私は幸福に調和している。その幸福を感じ取ることができればいい、僕はそう思う。

 この映画はいくらでももっともらしく分析できる映画だ。でもそんな分析がなんだというのだろうか?この映画は深刻さに捕われている人間を主人公にしながら深刻さから最も遠い地点にいる、「軽ろみ」こそこの映画の生命だ。僕はスパイク・ジョーンズにお茶目なフランツ・カフカという名称を与えたい。不条理な世界の感触はまさにカフカ的だが、スパイク・ジョーンズはそこで悩んだりは決してしない、その代わり遊んでしまうのだ、まさに子供のように。

 高度に組織化された現代の社会。組織に個人は負け続けるしかないのだとすれば、そこでは個人は押し潰されてしまう。そんな現代社会を最初に見事に表現したのはフランツ・カフカだが、彼は絶望に染まってしまう。そしてここにスパイク・ジョーンズが登場する。彼は絶望なんかしない、その代わり不条理な世界で遊んでしまうのだ。いやこう言ったほうがいいのかもしれない。スパイク・ジョーンズは絶望の中で遊んでしまう、悪戯好きの子供のように。

 お茶目なスパイク・ジョーンズこそは映画の新たな地点を切り開いていく人なのかもしれない、そんなことをこの映画を観ながら思った。

 映画をなにか真剣なものだと見なしている人は必ず観てくださいね。

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