2月に観た映画
2000/2


僕は戦争花嫁 シャンドライの恋 リオ・ブラボー ラブ・オブ・ザ・ゲーム 風が吹くまま 無限の青空 エル・ドラド 港々に女あり
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2/3 僕は戦争花嫁

1949年アメリカ映画 2/3NFC
監督:ハワード・ホークス 脚本:チャールズ・レデラー
撮影:ノーバート・ブロディン 美術:ライル・ウィーラー
出演:ケーリー・グラント/アン・シェリダン/マリオン・マーシャル

 僕が観たホークス作品から判断する限り、ホークスのコメディ映画は男性と女性の会話が魅力の中心になっている。
 その会話においては女性は男性と全く対等で、ウィットに富んだ言葉が小気味良くキャッチ・ボールされ、時には火花を散らす。こんな風に書いていくと、すぐにプレストン・スタージェスのコークスクリュー・コメディ映画が思い起こされる。それでスタージェスの影響、或いは一世を風靡したコークスクリュー・コメディの影響をホークスが受けたように見えるが、僕の感じ、あくまで感じで甚だ頼りないのだが、男性と女性との活気に充ちた会話というのは、ハワード・ホークスという監督の資質が生んだように思われる。

 コメディの核になっているのは、男性が書類上花嫁になることから発生する珍騒動だが、それはあくまで核に留まるのであって、コメディの魅力を生むものではない。それならばこの映画のコメディ映画としての輝きは前半から中盤にあると言えるだろう。そこでは喧嘩まがいの会話が燦然と輝きを発している。男性と女性の位置関係は、例えば女性がバイクを運転し、男性がサイド・カーの座席に乗るというシュチュエーションに典型的に現われているように、むしろ女性の方が高い位置にいる。それは後半の男性が書類上花嫁になるという事態の予告でもあるが、その位置関係は男性と女性の会話に、女性が男性と対等であることを保証することによって、エネルギーを与えている。

 演技ではケーリー・グラントのホテルの一室での演技が印象深い。図らずも部屋に閉じ込められたグラントは椅子で眠るはめになるのだが、どうしても目の前にくる自分の手が気になってしまう。そこでのグラントの演技はなんとも言えずコミカルで観る者を惹き付ける。このグラントの演技は後半のストリーの展開の予告にもなっていて、なるほどなあとニヤリともさせられる。

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2/7 シャンドライの恋

1998年イタリア映画 2/7シネスイッチ銀座
監督/脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
撮影:ファビオ・チャンケッティ 音楽:アレッシオ・ヴラッド
出演:サンディ・ニュートン/デヴィッド・シューリス

 冒頭は映画の教科書でモンタージュ手法のお手本にできそうなシーンが続く。正直僕は身が引けてしまった。内容よりも技法が目立ってしまっては映画としては失敗だ。映画が中盤に進んでいってもやはり技法は常に目に付く。カットとカットの繋ぎに同色を使う(花のピンク色と傘のピンク色)とか、固定カメラで捉えたショットとショットの間に手持ちカメラで撮った「ぶれた」ショットを入れて登場人物の心理を強調するとかそんな技法たちが否応無く目の中に飛び込んで来る。

 でも映画が進むにつれ、それらの技法は登場人物たちの微妙でもあり激しくもある心の動きに明確に形を与えていることに気付くのだ。そこにベルトルッチの美学がある。主要な登場人物である二人の心の動きは「平凡な」ものだ。恋とはいつ誰に訪れてもそのためには全世界を引換えにしてしまう情熱なのだから、二人の心の動きはけっして特別なものではない。その特別でない心の動きにベルトルッチは厳密に形を与えていくことによって、美を与えているのだ。陽光を浴びて白く輝くシーツに映る鉢植えの植物の影。そのショットはある意味ではあざといが、登場人物の心の中で閃くものの表現であることによって、とても美しいものになる。

 あおりで撮られた螺旋階段で囲まれた円形の空間をゆっくりと落ちていく白い布。構図的にはさんざん使われてきた凡庸なものだが、ここにあるのは映像のための映像ではない。ベルトルッチは美しい映像を撮ろうとは微塵も考えていない。彼の頭の中にあるのは二人の心の動きをいかにして形にするかということだけなのだ。意図的でなく偶然に二人の間を繋ぐようにして落ちていく白い布。その白い布自体は不安定だが、幾何的な構図の中に置かれることによって、力を得て二人の間に流れる運命的なものを予告する。ここにあるシーンはどちらかと言えばユーモラスなシーンなのだが、これほど恋の本質を見事に捉えているシーンが他にあるだろうか?ここでは恋の本質が十全に映像化されている。

 光が溢れる国では形こそが最も重要なものになる。ベルトルッチが光の国、イタリアの人間であることをこの映画は観る者に強く思い起こさせる。

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2/8 リオ・ブラボー

1959年アメリカ映画 2/8NFC
監督:ハワード・ホークス 脚本:ジュールズ・ファースマン
撮影:ラッセル・ハーラン 音楽:ディミトリ・ティオムキン
出演:ジョン・ウェイン/リッキー・ネルソン/アンジー・ディッキンソン

 オープニング・ロールが終わると、苦しみから逃れるために酒に溺れ誇りを無くした男がクロース・アップされる。このクロース・アップはこの映画が再生の物語を語った映画であることを予示している。ジョン・ウェイン演じる保安官がこの男が手を伸ばそうとする硬貨の投げ入れられた酒場の痰壺を蹴り飛ばすとき、主題は明確になる。その主題に男の友情という名前を付ければ、それは間違っている。ここにあるのはもっと厳しいものだ。

 『リオ・ブラボー』は、町の背景となる、清々しい白い雲を刷いた青空が印象的だが、その青空のように爽やかだ。誰も、女性も含めて、守られようとはしない。誰もが誰かを或いは何かを守ろうとしている。そして、たとえそれがポーカーによる収入であるにしても、誰もが自活している。『リオ・ブラボー』という映画を支えているのは、強烈な自立の精神なのだ。

 その強烈な自立の精神は負に働けば、自分の力しか信じない人間を作り上げる。ジョン・ウェイン演じる保安官は悪党の一団を相手にせざるを得ない状況に追い込まれても、誰の助けも借りようとしない。彼の言葉を借りれば応援をもらっても「素人の死体を増やすだけだ」。彼はこの映画の登場人物の中で最もバランスのとれた人間だが、強烈な自立の精神が彼の視野を狭くしている。彼は助けがなければ殺されるだけだということを認識していない。実際彼は助けが無ければ殺されていた。いやこう言った方が、真相に近いだろう。彼は助けを借りて自立の精神を失うくらいなら、死ぬことの方を選ぶ人間なのだ。

 その「誇り高い」人間が、人に守られることを知る映画なのだ、と僕はこの優れた映画に対して言いたい、というかそう僕は感じる。彼の恋はその隠喩として働いている。ここで試されているのはアメリカ精神なのだ。手垢にまみれた言葉を使うならば、タフな精神は優しくあり得るか、それが試されている。そしてハワード・ホークスは肯定的な結論を出している。それならばこの映画は最良の意味でのアメリカ精神賛歌の映画なのだ。

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2/9 ラブ・オブ・ザ・ゲーム

1999年アメリカ映画 2/9丸の内ルーブル
監督:サム・ライミ
出演:ケビン・コスナー/ケリー・プレストン/ジョン・C・ライリー

 サム・ライミ監督は、ホラー、西部劇、心理サスペンスと撮ってきて、今回は「スポーツ恋愛映画」を届けてくれた。スケールの大きさは遥かに及ばないが、僕はサム・ライミに現代のハワード・ホークスという称号を与えたい。

 一歩離れてこの映画を観るとき、この映画はハリウッド製恋愛映画の手法に愚直なほど忠実であることが分かる。音楽の使い方でそれが顕著だ。例えば主人公が最悪の状況から立ち上がろうとするとき、ボブ・シガーの『against the wind』(風に立ち向かって)が流れてくる。あまりにも紋切型の音楽の使い方に観る方が恥ずかしくなってしまう。サム・ライミはハリウッド恋愛映画のパロディーを作ろうとしているのではないかと疑ってしまう。

 サム・ライミは最高の商品価値を生もうとして磨かれてきたハリウッド手法を全面的に取り入れながら映画を撮るとき、どれだけのものができるのか実験しようとしているのではないか?そう僕が考えるのは、この映画を観るとき、監督の誠実さは疑いようがないからだ。自分が生み出せる最良のものを作ろうとする意志が明確に在る。

 サム・ライミらしいのは投手である主人公がマウンドに立つ時、「消去」と唱えると観衆の起こすノイズがきれいに消え去るところだ。この部分はとても好きだ。
 このサム・ライミの面目が躍如としている「消去」もハリウッド的手法の中に置かれていて、クライマックスの伏線になっている。

 先にこの映画はまるでハリウッド製恋愛映画のパロディーのようだと記したが、むしろこの映画は一人の男の映画として観られるべきなのだろう。映画が進むに連れ、ケビン・コスナー演じる投手にジョン・ウェイン演じる保安官のイメージがダブってくる。ここで賛歌されているのは、恋愛ではけっしてなく、アメリカ精神なのだ。最悪の状況の中でも、自己憐憫にも陥らず、逃げ出しもせずに、雄々しく自分だけの力を頼りに立ち向かっていく。

 『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』は『リオ・ブラボー』と同じ展開をしていく。自分だけの力を頼みにしていた男が何事かを成し遂げるには仲間の力こそが必要なことを学んでいく。その成長が恋愛によってメタファーされているもの同じだ。

 野球がなぜアメリカで国民的スポーツなのかをこの映画は教えてくれる。

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2/14 風が吹くまま

1999年イラン映画 2/14ユーロスペース
監督/脚本:アッバス・キアロスタミ
出演:ベーザード・ドーラニー

 題名のとおりとても爽やかな映画だ。その爽やかさはこの世界に向けられたアッバス・キアロスタミの視線の慈しむような優しさから生まれている。

 キアロスタミ監督はこの映画ではドキュメンタリー手法(そう彼の方法論を呼んでしまってはあまりにも安易だし、間違ってもいるのだが)から離れ、物語ることを選んでいる。その物語のテーマになるものは幼稚なものだと言ってもいい。ドキュメンタリーのために、人の死を待つのは道徳的に正しいことなのか、それとも間違っていることなのか?

 そのテーマに答えるものとしてキアロスタミは少年の視線を置いている。確かにテーマは幼稚なものだが、幼稚なだけ基本的で切実なものだ。そのテーマは表現者の在り方の根本に関わってくる。少年の視線は主人公である表現者をこの世界の持つ美しさへと導く。キアロスタミは道徳的なテーマをこの世界の中に置いて問い直しているのだ。そしてこの世界はとても美しい。

 美が道徳的な問を吸収してこの世界に溶かし込むと書いたら、あまりにもロマンチィック過ぎるだろうか?表現者は少年の視線を潜り抜けることによって、世界と対峙するのだ。その対峙を通して表現者は表現の意味を知る。たぶんそれは言葉にはできないことだ。表現者を表現者たらしめているのは、論理(言葉)ではなく、論理(言葉)の外に在るものなのだから。

 表現者は道徳的理由故に表現を放棄するのではない。まったく逆だ。表現者は真に表現すべきものを知り、それ故に偽りの表現を捨て去るのだ。そして映画が終わるとき、僕たちはこの映画全体が主人公である表現者が表現すべきものであったことに気付く。

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2/15 無限の青空

1936年アメリカ映画 2/15NFC
監督:ハワード・ホークス 脚本:フランク・ウィード
撮影:アーサー・エディソン 美術:ジョン・ヒューズ
出演:ジェームズ・ギャグニー/パット・オブライエン/ジューン・トラヴィス

 冒頭の激しく流れる雲のイメージがこの映画が向かうところを示している。流れる雲の激しさは危険を象徴もし、その危険に向かう冒険精神も象徴している。激しく流れる雲のイメージは切なさも持っていて、その切なさの中で冒険精神の時代が終わったことを悲しんでいる、と書けばそれはこの映画を観終わった後からの感想だろうと言われそうだが、否定はしない。

 僕が惹かれるのは、パイオニア時代の申し子のようなジェイムズ・ギャグニー演じる天衣無縫なパイロットではなく、空輸会社のオペレーション・マネージャーだ。彼は空輸の世界が開拓時代から管理時代へと移行する中にあって、じっと耐える人間だ。彼は空輸の世界が、個人が中心の世界から組織が中心の世界に変わっていくのを耐えている。耐えながら、個人が中心だった時代を懐かしみ、個人をなんとか組織の中で生かそうとする。その試みはどんなに努力を払ったところで、失敗に終わることを彼は知っているが、彼はそれでも試みる人間だ。その意味で彼は真に男らしい男なのだ。

 その彼も最後には気骨を見せながらも、組織が中心の世界を受け入れる。開拓の時代、個人が中心だった時代は終わったのだ。それを象徴するようにジェイムズ・ギャグニー演じるパイロットは自ら死を選ぶ。彼は開拓時代にしか生きることのできない人間なのだ。
 僕はこのパイロットには弱さを感じる。パイロットの死を目の前にして個人の時代が終わったことを決定的に知った後も、オペレーション・マネージャーである男は生きることを選ぶ。彼は魂を失い、妻の愛も信じられなくなった状態で生きようとするのだ。彼は敗北者だが、それでも彼はけっして戦うことを放棄しない。彼が持っているものこそ、強さと呼ぶべきだろう、僕はそう感じる。

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2/25 エル・ドラド

1967年アメリカ映画 2/25NFC
監督:ハワード・ホークス 脚本:リー・ブラケット
撮影:ハロルド・ロッソン 音楽:ハル・ペレイラ
出演:ジョン・ウェイン/ロバート・ミッチャム/シャーリーン・ホルト

 『リオ・ブラボー』の続編というよりは、翻案というべきこの映画は、その『リオ・ブラボー』を観た後では、色褪せて見える。

 それはたぶん女性の存在が『エル・ドラド』ではかなり小さくなっているからだ。『エル・ドラド』では男たちの友情ごっこが売りになっていて、女たちはその友情ごっこに色を添える存在でしかない。
 友情ごっこと書いたが、まさに「ごっこ」なのであって、『リオ・ブラボー』にあった保安官と失恋で酒浸りになった助手との友情にあった厳しさはここにはない。友情が「ごっこ」に留まっているのだから、当然恋も中身の薄いものになり、女たちは重要性を失う。『リオ・ブラボー』は幸福感に充ち満ちた映画だったが、その幸福感は友情の厳しさと恋の切実さが生み出したものだった。

 娯楽作品として評価するならば、『エル・ドラド』の方が上だろう。『リオ・ブラボー』を分かり易く、口当たりのいいものにしたものが『エル・ドラド』だと言える。『エル・ドラド』には深刻さは無く、映画は軽快に流れていく。

 軽快に流れていくが『エル・ドラド』の背景になるものを考えると、この映画はかなり重い。その重さは観客には完全に隠されている。開拓者と新興企業家との対立が『エル・ドラド』の背景にはある。開拓者の未来を担う青年が、開拓者と新興企業家との対立が生み出した鬼子とでも言うべきガンマンに殺されるのは象徴的だ。開拓者は遅かれ早かれ完全に敗北するだろう。それならば開拓者の勝利に終わる『エル・ドラド』は一つのおとぎ話なのだ。

 僕はこの映画では一人の誇り高いガンマンに惹かれる。彼はたぶんあまりにも個人主義者だったのだ。それ故に彼は自分の能力を発揮することなく殺される。このことについてはまた別の機会に書こう。

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2/29 港々に女あり

1928年アメリカ映画 2/29NFC
監督:ハワード・ホークス 脚本:シートン・I・ミラー
撮影:L・ウィリアム・オコネル 美術:ウィリアム・S・ダーリング
出演:ヴィクター・マクラグレン/ロバート・アームストロング/ルイーズ・ブルックス

 船乗り、港、女、喧嘩、友情。
 詩情を作り出す紋切型の要素。ハワード・ホークスは「女」と「友情」を対立させることによってドラマを作り出し、「女」によって「友情」を輝かせている。観ていて楽しく気持ちのいい映画なのだが、僕は同時に警戒心も抱く。

 確かにホークスは「偉大な」監督なのだろうが、僕がこれまで観てきた彼の映画から判断するならば、その「偉大さ」はあくまでもハリウッドという厳然たる制限が付く。彼はハリウッドという世界の地平線の向こうに視線を向けることは決してない。彼にとってハリウッド=世界なのだ。彼はハリウッドという世界以外に世界があることを想像したこともないに違いない。

 主人公である船乗りの二人は世間一般の標準で言うならばならず者なのだが、ならず者が主人公であることは、この二人組が見知らぬ船乗りの幼い子供を抱えた未亡人に同情し彼女に金を与えることで巧みにエクスキューズされる。また彼らは無法にも警官たちを相手に戦うのだが、その警官たちがアメリカの警官でなく、外国の警官であることによって、その無法さは微笑ましいものに擦り返られている。

 そんなふうに考えていくとき、この映画はかなりの胡散臭さを発散し始める。この映画ではかなり身勝手なアメリカ文化の本質が暴露されていると言い換えてもいい。二人組の一人は友情のために自己犠牲的と言ってもいい努力を払うが、その「純粋さ」の中では女性もまた人間であることは完全に忘れ去られている。その「純粋さ」の中では女性はあくまでも男性に従属するものなのだ。

 娯楽は無益である代わりに、無害なものであって、それに対してなんやかや難癖をつけるのは野暮だという考えが僕にはあったが、ハワード・ホークスの映画を彼の特集で観続けてきて、その考えは変わりつつある。
 結論を出すにはもっともっと考えなければならないが、娯楽はたぶん既存の体制的価値観に媚びるものなのだ。

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