八月に観た映画
1999/8
アイズ・ワイド・シャット アナザー・デイ・イン・パラダイス 夫婦善哉 ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ あすなろ物語 運動靴と赤い金魚 ベニスに死す 異母兄弟 夏の嵐 鳴門秘帖
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8/1 アイズ・ワイド・シャット
1999年アメリカ映画 8/1丸の内ルーブル
監督/脚本:スタンリー・キューブリック
撮影:ラリー・スミス 美術:レス・トムキンズ
出演:トム・クルーズ/ニコール・キッドマン/シドニー・ポラック
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は愛を語るのに、嫉妬から語る。いや、それは正しくない。『失われた時を求めて』においては嫉妬について語ることが、愛について語ることなのだ。そこでは愛と嫉妬とは等号で結ばれる。プルーストは言う。愛とは相手を所有しようとする絶対的に不可能な試みなのだ、と。
スタンリー・キューブリックもまた「嫉妬」をキーにして愛を探る。『アイズ・ワイド・シャット』においては実生活でも夫婦である俳優たちが夫婦を演じる。そして夫婦間の愛がテーマになる。これは重要なポイントだ。俳優たちがその演技を通して夫婦間の愛を探求する時、その探求は自分たち自身の愛の探求とも重なる。演ずることが夢見ることなら、その夢の中でまさに俳優たちは「アイズ・ワイド・シャット」なのだ。俳優たちは夢見ながら、自分たちの生を見つめる。
夫婦の愛の探求は、プルーストの愛とは相手を所有しようとする絶対的に不可能な試みなのだというテーゼの下に実行されるのだから、極めて肉体的なものになる。だから『アイズ・ワイド・シャット』は妻の夫婦間で一番大切なのは「ファック」なのだという言葉で終る。
「嫉妬」によって愛に苦悩する人間になる夫は都市空間の中を彷徨い、都市空間が性的なものによって構成されたものであることを発見する。いや、こう言った方がいいだろう。夫は都市空間が極めて性的なのものであることを発見するのだ。そのことを発見することによって、夫は都市という迷宮の奥に入り込む。迷宮の奥では人々は仮面を被り、無名性の中で性的関係を結ぶ。性的関係こそは相手を所有していることを保証してくれるものであったはずなのに、ここで性的関係は相手を所有すること、相手を愛することと無関係に存在している。だからこの迷宮の奥はとても危険なのだ。ここでは愛はその保証を失い、崩壊している。
妻も夢の中で愛を否定される。妻は夢の中で見知らぬ男たちと性的関係を結ぶ。ここでも性的関係は愛を保証するものでないものとして存在している。「相手を所有すること」=「相手と性的関係を結ぶこと」という数式は成り立たず、愛は崩壊する。
夫は妻が性的関係の無名性を暴露する仮面の横に寝ているのを見て、涙を流す。夫はここにおいて夫婦間の愛の不可能性に直面しているのだ。
ラスト・シーンはクリスマスの買物をする子供を連れた夫婦という極めて日常的なものになっている。その日常性の中で夫婦は共に出口を見出せないでいるが、妻は夫婦間で一番大切なのは「ファック」なのだと宣言し、ともかくも愛を保証するものとしての性的関係の回復を図ろうとする。だからラストの「ファック」という言葉の響きはとても優しい。
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8/2 アナザー・デイ・イン・パラダイス
1998年アメリカ映画 8/2シネマライズ
監督:ラリー・クラーク 脚本:スティーブン・チン
撮影:エリック・エドワーズ
出演:ヴィンセント・カーシーザー/ナターシャ・グレッグソン・ワグナー/メラニー・グリフィス
90年代の『ボニー&クライド』と言い切ってしまおう。
生き延びて中年を迎えた「ボニー&クライド」とまだ少年・少女時代から抜けきっていない「ボニー&クライド」が出会い、物語は動きだす。この映画が90年代的であるのは、「家族」という言葉がキー・ワードになっているからだ。
まだ「ボニー&クライド」には成りきっていない青年は、心の傷を抱えている。家庭の中で妻と子供に暴力をふるう父親。青年は家族のことに触れられると、自制心を失ってしまう。その記憶から逃れようとするように、青年は刹那的に生きている。麻薬を買う金が無くなれば、自動販売機からコインを盗む。
そんな青年が中年を迎えた「ボニー&クライド」と出会う。彼らは筋金入りの悪で、暴力のプロだ。彼らは青年を犯罪のプロになるように教育し、親身に面倒をみる。青年は彼らこそが両親なのだと彼らに向かって言うが、その言葉は受け入れられない。
青年は生まれてからこんなに幸せだったことは無いと口にする。しかし、青年は暴力的世界から逃れようとして、その暴力的世界にさらに深入りしている。そう「暴力」という言葉もこの映画のキー・ワードだ。中年を迎えた「ボニー&クライド」はなによりも暴力の世界の住人なので、青年の感傷的な言葉はそもそも聞こえない。
青年の恋人が妊娠する。青年は家庭を持つことの不安(はたして幸福な家庭を築くことができるだろうか?)故に最初戸惑うが、結局は家庭を持つことを決意し、家庭を持つことを心から楽しみにする。しかしその未来の家庭は暴力によって再び破壊される。青年の恋人の妊娠で重要なことは中年を迎えた「ボニー&クライド」もまた家庭を持とうとしたことが明らかになることだ。暴力が支配する世界の中で、生き延びて中年を迎えた「ボニー&クライド」もまだ少年・少女時代から抜けきっていない「ボニー&クライド」も幸福な家庭を求めている。暴力的世界の中で家庭は彼らにとって希望の光を発する炎なのだが、その炎は暴力によっていつも吹き消される。
この映画は神話的構造も持っている。「息子」を殺そうとする「父親」と、「父親」の手から「息子」を助けようとする「母親」。母親の助けで息子は逃げる。逃げることによって息子は父親と対等の存在になり、成長する。それは人間がまだやっと言葉を持ち始めた頃から、いやその遥か昔から永遠に繰り返してきたことだ。だからそのシーンではボブ・ディランの宗教的歌声が流れる。
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8/6 夫婦善哉
1955年東宝映画 8/6NFC
監督:豊田四郎 脚本:八住利雄
撮影:三浦光雄 美術:伊藤熹朔
出演:森繁久彌/淡島千景/浪花千栄子
増村保造が溝口健二について論じるのに、谷崎潤一郎とパラレルに論じている。これら二人の優れた芸術家たちは女性という存在が持つ激しさを描こうとしたが、その過程で関西文化に惹かれていった。それは関西文化が力強く生きる人間たちを讃歌する文化だからなのだ。その通りの言葉を増村は使っているわけではないが、そのような意味のことを増村は書いている。
関西と関東。それは単なる地理的な違いではない。関西と関東では光の質が違う。関東では光は穏やかだが、関西では光は明るく強く輝く。これは僕の主観ではなく、科学的にも証明されている。僕は陽光の違いが関西文化と関東文化という二つの異なった文化を作ったのだと思っている。関西文化に目を向けるならば、陽光の明るさ、強さが人間の持つ欲望を肯定し、そのことによって人間の生を輝かせている。
溝口健二も谷崎潤一郎も関西に移り住んだのは、意志的なものではなく、関東大地震という外部的偶発的な要因に依るものだったが、彼らはそのことによって関西文化に直に触れ、関西文化の中で自分たちの表現を花咲かせた。『夫婦善哉』の主人公たちも一旦は東京に向かうが、熱海で地震に遭い大阪に戻る。地震はもちろん外部的偶発的なものだが、このエピソードは彼らがどんな人間なのかということを明らかにもしている。彼らは「貧弱な」光の中で育まれた関東文化の中では生きてはいけない人間たちなのだ。彼らは自分たちの生に率直に従い、泣き、喚き、怒り、暴れ、笑う人間たちなのだ。そんな人間たちが人間の欲望を悪と感じさせるような関東文化の中で生きていけるはずがない。
彼らは客観的に眺めるならば、けっして幸せではないが。スクリーンに描かれる彼らの生は幸福感に充ち満ちている。彼らは「一緒にいたい」という欲望に天真爛漫に従って生きている。彼らはけっしてお金にきれいな人間たちではないが、最後の最後には「一緒にいたい」という欲望を優先させる。彼らの間にあるものは純愛としか名付けようがないものなのだが、この極めて関東文化的である純愛という言葉は誤解を招くだろう。純愛という言葉はしばしば欲望を否定するものとして解釈されるし、それが正しいのかもしれないが、ここでは純愛という言葉は欲望の全的肯定の上に成り立っている言葉なのだ。だからこの純愛映画は観る者を幸福感で包む。
『夫婦善哉』は愛が精神的愛と肉体的愛に分離してしまっている関東文化的文化の中で生きる人間たちこそが観るべき映画だろう。欲望の全的肯定の上で成り立つ愛は限りなく優しい。だからラスト・シーン、降り頻る雪の中を寄り添うようにして歩く二人の後ろ姿は心に残る。
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8/9 ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ
1998年イギリス映画 8/9シネセゾン渋谷
監督/脚本:ガイ・リッチー
撮影:ティム・モーリス・ジョーンズ
出演:ジェイソン・フレミング/デクスター・フレッチャー/スティング
B級映画の香りを誇り高く香らせている。派手さは無く、燻し銀のような雰囲気がある。室内での火器を持った多人数の銃撃戦も始めと終りが示され、本戦は飛び散る窓ガラスの破片と揺れるカーテンで暗示的に示されるだけだ。
暴力に生きるファニーな人間たちが次々に現れて最初は気付かないが、この映画はとても知的な映画だ。いや、知的面白さに満ち満ちた映画だと言った方がいいだろう。この映画は間違ってもさかしらに暴力を論じたりはしない。この映画は暴力を裁いたりしない。ただ描くだけだ。その描き方が知的なのだ。この映画は暴力の持つ酷薄さを充分に承知した上で、暴力が持つコミカルな面も見逃さない。ガイ・リッチー監督は、その暴力の持つコミカルさに引っ張られるようにしてこの映画を撮っている。
暴力とは何か?目的はなんであれ、物理的力を行使することだ、と仮に定義して置こう。ガイ・リッチー監督は暴力の持つコミカルさというテーマを演奏するのに、様々な物理的力の行使という音を混ぜ合わせる。これらの音は互いに絡み合い、時にぶつかり合いながら、素敵なハーモニーを作り出し、音楽を「聴く」者たちをクライマックスへと導いて行く。そこでは情け容赦無く暴力が弾けながらも、ファニーでコミカルなものがたち現れる。
そしてファニーなラスト・ショットでこの映画は終る。ガイ・リッチー監督は暴力を肯定していると書けば、誤解されそうだが、まさにそうなのだ。この世界は暴力に満ち満ちている。そのことを目の前にして、嘆いてみせるのもいいだろうが、ガイ・リッチー監督はその暴力を裁く前に見ようとしているのだと、このコミカルな娯楽映画に対して敢えて真面目に言ってもいいだろう。ガイ・リッチー監督は暴力の中に人間たちの愚かしさを見出しながら、同時にその愚かしさを愛してもいる。
これは娯楽映画なのだよという声も聞こえて来るが、アクション・シーンの描き方を一つ一つチェックしていくならば、冒頭に記したようにけっして観客に媚びていない。ガイ・リッチー監督は暴力を描くのにかなり「上品」だ。機関銃をが撃たれるシーンでも、ほとんどが機関銃を撃つ人間のショットで占められ、機関銃の銃弾を受ける人間のショットはほとんど無い。暴力に満ち満ちているこの映画において観客は暴力から知的な距離を与えれている。その知的距離が観客に暴力をより良く見させて、暴力の持つファニーさ、コミカルさを発見させるのだ。
人間とは滑稽で悲惨な存在であるとはかのトーマス・マンの言葉だが、ガイ・リッチー監督は暴力を見つめることによって同じ結論を出している。そしてその結論の中で人間を愛している。だからあのラスト・ショットは幸福感をどこかに持っているのだ。
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8/10 あすなろ物語
1955年東宝映画 8/10NFC
監督:堀川弘通 脚本:黒澤明
撮影:山崎一雄 音楽:早坂文雄
出演:岡田茉莉子/根岸明美/久我美子
檜に似ていて、明日こそは檜になろうとしている「あすなろ」の樹。
そのあすなろの樹は一人の少年が青年に成長していくのを描いたこの映画で、立身出世の象徴として存在するのだろうか?
そうではないことは、三話から成るこの映画の第一話で明らかにされる。少年にあす(檜に)なろうとしているあすなろの樹のことを教えた大学生は、この樹を見習って檜になるために懸命に勉強しなければならないと少年に言うが、その大学生は心中して深い山の中の雪の中に身を横たえる。
あすなろの樹は立身出世の象徴として存在するのではなく、「檜」でない人間の生を象徴するものとして存在するのだ。大学生が少年に教えるのは、人間の生はけっして「檜」でないということなのだ。
だからこの映画は少年の成長よりも、少年の成長に関わって来る、「檜」でない生に投げ込まれた三人の女性が印象的に輝いている。この映画で少年から青年に成長していく主人公はむしろ狂言回しとして存在する。
第一話で岡田茉莉子が演じる女性がとりわけ印象的だ。勝気で火のような激しい情熱を持った女性。自分の愛を真直に見つめ、その愛のためならば死をも厭わない女性。この女性は地面にへばりついて生きるしかない人間たちの間にあって、果敢にも天空に向かって飛翔しようとする。まさにあすなろの樹なのだ。飛び立とうとした代償は重く、死が彼女には与えられる。
第二話の女性は溌剌とした活気に満ちた女性として現れる。明確にはされないが、女性は家の中で生きるしかない社会の中にあって女性として生まれたことを後悔している。その無念さを少年の教育に注ぐ。夜の砂浜に仰向けになって横たわり星空を見るとき、この女性は飛翔することを夢見るが、結局は家の中で生きることを選ぶ。これもまたあるなろの樹の生き方だ。
第三話に登場する女性は没落した貴族の家の一人娘であり、まさに「檜」でない生に投げ込まれた女性だ。成長し青年になった主人公は、「檜」でない生を生きざるを得ない者の苦しみを目の当たりにする。この女性は苦しみの余り時に狂人のように振舞うが、その「檜」でない生を受け入れ、その生の中で生きていく強さも持っている。青年がその女性から去って行く道は真直で広い道で明るく輝いている。その明るい輝きはあるなろの樹であるその女性への讃歌だろう。僕はそう感じたのだった。
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8/16 運動靴と赤い金魚
1997年イラン映画 8/16シネスイッチ銀座
監督/脚本:マジッド・マジディ
撮影:パービズ・マレクザデー 美術:アスガル・ネジャド=イマニ
出演:ミル=ファクロ・ハシェミアン/バハレ・セッデキ/アミル・ナージ
イランから届けられた素敵な映画。
最初僕はまたまたアッバス・キアロスタミの亜流映画かと思い、あまり観る気がしなかった。でもこの映画は違った。この映画はアッバス・キアロスタミの流れの中にある映画ではなく、ジム・ジャームッシュの流れの中にある素敵な映画だった。
トム・ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』もまた走ることそのことが映画に魅力を与えていたが、この映画もまた走ることが映画の魅力の中心に在る。少年と妹が街の中を走るとき、街は輝きを発する。その輝きはたぶん言葉にはできないものだ。ただ映像だけが伝えることのできる輝きだ。その輝きが少年と妹の二人の子供たちに力を与える。
少年と妹の二人の子供たちが生きる世界は苛酷で無理解なものとして現れるが、その世界は苛酷でありながら、子供たちを包み込む優しさを次第に現す。大人たちは苛酷な世界を象徴するものから、滑稽な存在となり、それと同時に子供たちに優しさを示す。その変容をもたらすのはあの輝きなのだ。
少年の父親も厳しい存在から生活力の無い、オフ・ビートな味わいのある人間へと変わる。その変容は少年を乗せて自転車で都市の中を走るとき、完了する。父親と少年が一台の自転車で都市の中を走るシーンはこの映画のクライマックスの一つだ。都市は華やかな光を放ちながらも、二人を脅かす。父親は前座席に乗せた少年を守るようにして自転車を走らせる。ここでは世界は苛酷でありながら、限りなく優しい。
父親と少年が飛び込みで庭師の仕事を探すシーンはとても愛すべきシーンだ。父親はインターフォンのやり取りで自分が庭師であること示すことができない程生活力がなく、しまいには怪しまれて逃げ出す。ここにおいて父親は少年と同等の存在となっている。少年は父親と繋がり、その繋がりの中で父親もまた弱い存在であることを理解し父親の代わりに自分たちが庭師であることを告げる。もちろん二人が繋がることができたからといって、世界が苛酷なものでなくなる訳ではない。そのことを象徴するように二人は陽光で輝く坂道をブレーキの壊れた自転車で暴走する。
マラソン・シーンは素敵だ。それは少年の頑張り故というよりは、少年の欲しい運動靴が一等賞の賞品ではなく、三等賞の賞品であるという設定故だ。少年はそれこそ必死に頑張るが、三等になるために計算もしなければならない。それが笑いをもたらしながら、世界の本質を露わにする。世界とは滑稽で悲惨なところなのだ。少年は人々から賞賛されながら涙を流す。
約束を果たせなかった少年に妹は冷たい。少年はマメだらけになった足を水場に浸す。カメラは上空からの俯瞰ショットになる。水のきらめきと赤い金魚と少年と。世界は苛酷でありながら、どこか間が抜けていて、愛すべきところなのだ。それはジム・ジャームッシュが絶えず流し続けてくれているメッセージでもある。そのメッセージを祝福するように、赤い金魚たちは水に浸された少年のマメだらけの足に群れ、キスをする。
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8/17 ベニスに死す
1971年イタリア=フランス映画 8/17ル・シネマ
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:ダーク・ボガード
初老を迎えた音楽家。彼は心臓病で倒れ、砂時計に託し死への不安を語る。砂時計にカメラは焦点を合わせること無く、砂時計はぼやけている。そのぼやけた砂時計はラスト・シーンの海の中に立つ少年に繋がる。少年のシルエットは光の中に融け込み、滲んでいる。海の輝きの中で少年が腕を誘うように上げるとき、初老の音楽家はその誘いに応じて腕をさし伸べる。夏の残酷なほど強い陽光の中で上げられた腕は挫折したように下ろされる。美化粧がかえってその老いの醜さを際だたせた初老の音楽家は人のほとんどいないがらんとした明るい砂浜でほとんど無作法に息を引き取る。
オープニングが印象的だ。黒い背景にシンプルに白の文字でクレジットが表示されていくと思っていたら、その黒い背景は夜明け前の海なのだ。その海を初老の音楽家を乗せた客船が優雅に進んで行く。夜が次第に明けていく。夜明けの海で働く漁師たちのシルエット。やがてベニスの街がその姿を見せる。ここにあるのは官能の予感なのだ。ゆったりとした優雅な官能の予感があって、そこに美が登場する。
初老の音楽家はその美から慌てふためいて逃げ出そうとする。初老の音楽家が生涯懸けて追い求めたのは、古典的美、彼の友人の揶揄的言葉を借りるならば、努力によって作られる美なのだが、ベニスで彼の前に現れた美はまったくの偶然的な天賦の美なのだ。その美に惹き込まれるならば、彼は自分の仕事の全てを否定することになる。彼は芸術を人間の尊厳性を高めるものだと信じているが、もし彼の前に現れた美を認めるならば、芸術を邪悪なものだと肯定することになる。その美は官能が生み出したものであり、理性とは対極に在るものだからだ。
初老の音楽家の逃亡は偶然の出来事によって阻止される。阻止されることによって、初老の音楽家は心から幸せそうな表情を浮かべる。その時、初老の音楽家は自分が心血を注いだ古典的全作品を捨て去り、官能的美を選んでいる。いや、こう言った方がいいだろう。明るく幸福な笑顔で美の元へ戻るとき、初老の音楽家は美は理知の中ではなく、官能の中にあることを発見しているのだ。初老の音楽家がホテルに戻り鎧戸を開けると、明るく輝く砂浜が広がる。その広がりの中心には美が存在する。初老の音楽家はほとんど快活にその美に向かって挨拶を送る。
ベニスの街は疫病によって死が支配している。その死が初老の音楽家を更に強く官能の輝きに向かわせるのだ。官能的美に憑かれた初老の音楽家は愚かで醜いが、同時に心を動かす。
夏の輝きの中で官能的美に向かって全身全霊でさし出された腕は、だから心に残る。
真夏の死をロング・ショットで突き放したように映し出して映画は終る。
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8/25 異母兄弟
1957年独立映画 8/25NFC
監督:家城巳代治 脚本:依田義賢
撮影:宮島義勇 美術:平川透徹
出演:田中絹代/三国連太郎/高千穂ひづる
ロング・ショット。軍人が背筋をピンと伸ばして馬に乗り、城内を歩いている。やがて軍人は屋敷に着き、下人が迎える。いきなり軍人は下人を殴りつける。「馬の世話がなっていない!」。
ここではっきりとこの映画が社会的視点を持っていることが提示されるが、この映画が魅力的なのは、その社会的視点故ではない。
この映画はとても魅力的な映画なのだが、その魅力は家族がその家庭の中で持たざるを得ない感情をリアリスティックに見つめている故に生まれたものなのだ。だからこの映画をラスト・シーンの田中絹代の「私はもう女中ではありません。あなたの妻なのです」というセリフをもって、封建的関係の中に圧しひさがれていた一人の人間が民主的関係に目覚めそのことを高らかに宣言する映画なのだと言えば、それは完全に間違っている。
この映画は支配者階級と被支配者階級とを一つの家庭に投げ入れたという枠組を持ちながら、決して図式的でない。こう言った方がいいかもしれない。その枠組の中で生じる権力関係をこの映画は裁いていない。この映画は裁かずに見つめている。見つめることによって家庭一般が持つ権力関係を観客により良く見せている。そこにこの映画の魅力の源泉があるのだ。この映画が描くのは戦時下の軍人家庭であり、その家庭では病死した先妻の後妻に女中がなっている。いわば特殊な家庭なのだが、その裁かずに見つめるという真に芸術的な態度によってその特殊な家庭は普遍的な家庭になり、観る者の心を動かす。
そんな難しいことを言わずに、この映画は生き生きとした人間関係に満ち満ちている、と言えばいいのかもしれない。それらの人間関係は明るいものばかりでなく、むしろネガティブなものの方が多いのだが、生命力を確実に持っている。死んだ図式から最も遠いところに在る。
後半は特に高千穂ひづるの存在が光っている。重く沈みがちなこの映画に軽やかな明るさを与えている。
軽やかさと言えば、家城巳代治監督の愛すべき資質にユーモアがある。支配者階級を描くときも、硬直的にならず生き生きとした造形に成功しているのは、そのユーモアがあるからだ。もしかしたら家城巳代治監督は、2流の批評家ならば封建主義の象徴と評するであろう三国連太郎演じる軍人に一番感情移入しているのかもしれない。その軍人には芸術家だけが知る孤独がどこかある、と言えば、もちろん僕の言い過ぎだが、そう言いたくなるのも事実なのだ。ともかくこの軍人は、三国連太郎の演技もあり、人間的でとても魅力的だ。
ここでもう一度繰り返しておこう。『異母兄弟』を戦争批判、全体主義批判の映画だと見るならば、それは全く間違っている。この映画は戦時下の一つの家庭をリアリスティックに見つめた映画なのだ。そしてそのリアリズムが普遍的な家庭を描くことを成功させている。
パイプ・オルガンによるおどろおどろしい音楽だけはここで批判しておきたい。その音楽はまさに図式としてしか存在していなくて、図式から最も遠いところにあるこの映画の魅力を削いでいる。
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8/30 夏の嵐
1954年イタリア映画 8/30ル・シネマ
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:アリダ・ヴァリ
恋の感情には法則がある。その法則を科学者の手付きで明らかにしながら、その法則に従って社会的な広がりの中でひとつの見事なロマンを創造したのは、スタンダールだった。
この映画でルキノ・ヴィスコンティが成し遂げたこともまたそのようなことだった、と言えるだろう。
恋に初な伯爵夫人と、恋に巧みで打算的な占領軍の青年将校。ヴィスコンティはそれら二人の人間を登場させることによって、恋をリアリスティックに描く。ここでは感情移入はあり得ない。伯爵夫人が恋の炎を燃え上がらせるとき、僕たちは伯爵夫人の愚かさをありありと見せられている。僕たちは主人公から一歩身を引き離し、その感情の動きをまさに観察する。僕たちが主人公に感情移入しようとすると、恋に目が眩んでしまっている主人公である伯爵夫人の愚かさがそれを跳ね返す。僕たちは映画が続いている間、伯爵夫人の恋の中に生きるのではなく、伯爵夫人の恋を観察するのだ。
僕たちは恋する者ではなく、恋の観察者となる。その結果僕たちは恋が持つ圧倒的な力をまざまざと見せつけられるのだ。人になにもかも捨てさせる盲目的な力。その空恐ろしいような力は人を幸福にはけっして導きはしない。そのような力は人を破滅させずにはおかない。ヴィスコンティの冷酷とも言えるほど冷徹な描写から、その空恐ろしい力がくっきりと浮かび上がる。陰惨な戦場のシーンはまるごとその空恐ろしいような力のメタファーなのだと言ってもいいかもしれない。
劇薬を扱うには冷静な科学者の手が必要だ。身を焼くような激しい感情を扱うのにヴィスコンティは冷静な科学者の手を選んでいる、別の言葉で表現するならば古典主義的描写を選んでいる。その結果この映画はギリシャ悲劇に限りなく接近するのだ。
恋を見事にコントロールしていたように見えた打算的青年将校もついには恋の持つ暗い力の前に滅んでいく。たぶん青年将校は意識的に伯爵夫人を怒らせるのだ。
ラスト、ヴィスコンティは闇だけを提示しない、暗い広場に残る白い光を提示する。最後にヴィスコンティは滅びる二人を、そして空恐ろしい力を讃歌すると書けば、それは僕だけの感じ方だ。
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8/31 鳴門秘帖
1957年大映京都映画 8/31NFC
監督/脚本:衣笠貞之助
撮影:杉山公平 美術:西岡善信
出演:長谷川一夫/市川雷藏/山本富士子
原作が当時の売れっ子作家、吉川英治で、長谷川一夫、市川雷藏、山本富士子、淡島千景と当時の一際強い光を放っていたスターたちが一同に会している。つまりこの映画は一大娯楽映画なのであって、初公開から40年以上経ったフィルム・センターでの上映でもホールを満席にし、開場15分前には入場ストップになったのだった。
このような映画が黄金期の日本映画を興業面で支えていたのだろうが、衣笠貞之助監督の演出は平板で、冴が全く無い。
冒頭登場人物たちの紹介で短いエピソードを重ねていくのは、芸が全く無い。これはスター映画故の宿命なのだろうか?これではまるで登場人物を演じるスターの紹介のようだ。いやようだではなく、まさにそうなのだ。阿波の国が近隣の諸国と同盟を結び、幕府討伐を計るというこの映画のストーリーの根幹は背景に退き、心を躍らせることはない。冒頭の例を見ても分かるようにこの映画はスクリーンでスターを観るための映画なのだ。
スターたちを観る映画なのだと割り切れば、一番惹かれるのは市川雷藏だ。両親を知らない、深い寂しさを抱えて生きている虚無的な人間。それは市川雷藏が繰り返し演じてきた人物であり、その人物は市川雷藏その人とも重なるのだが、その人物を市川雷藏はこの映画でも演じている。荒々しく野性的な登場人物の背後に冷めきった人間が透けて見える。市川雷藏がいるからこそ、かろうじてこの映画は鑑賞に耐え得る映画になっていると断言して置こう。
淡島千景は都会的な資質を持った人だと僕は思うが、その都会的資質がこの映画では生かしきれていない。この人に少女のような純真な恋を演じさせては駄目だ。似合わない。スクリーンに登場してからしばらくは魅力を放っているが、長谷川一夫演じる隠密に惚れてからは生彩が無くなる。
山本富士子も生かされていない。山本富士子演じる登場人物は、勇ましさと女らしさの間で揺れ動き、焦点のぼけた人間になっている。その結果、山本富士子の持っている魅力が伝わってこないのだ。これは直感で言うのだが、山本富士子はかなりおきゃんなところがある女優なので、それを生かして男勝りの女性を設定しておけば、彼女の魅力が生きたのではないかと感じる。
長谷川一夫は二枚目である英雄を百パーセント確信して演じている。それは長谷川一夫の演技を堂々と見せていると同時に、平板なものにしている。そこではパターンがマンネリになり、魅力を失っている。長谷川一夫演じる英雄は運命と戦わない。この英雄は英雄であることに自足している。この英雄は危機に陥るが、観る者をけっしてハラハラさせることはない。なぜなら彼は戦っていないからだ。ただ決められた踊りを踊るだけだからだ。
スター映画と言えども、肝心のストーリーが生かされなければ、その映画は詰まらないものになるだろう。この映画はその見本のような映画だ。
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