七月に観た映画
1998
普通じゃない 水の中のナイフ GODZILLA/ゴジラ ザ・ブレイク L.A.コンフィデンシャル スウィート・ヒアアフター チェイシング・エイミー
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7/2 普通じゃない
1997年アメリカ映画 7/2シネ・アミューズ
監督:ダニー・ボイル 脚本:ジョン・ホッジ
撮影:ブライアン・タファノ 音楽:ランドール・ポスター
出演:ユアン・マクレガー/キャメロン・ディアス/ホリー・ハンター
カラオケのシーンが素敵だ。そこではもう誰もが信じようとしても信じられなくなったラブ・ソングが輝いている。
白が支配する不思議なオフィスのシーンから始まる。そこで二人の天使に任務が与えられる。愛が不毛な時代において愛を成功させること。そんな風に紹介するとセンチメンタルでメルヘンチックな映画を想像されるかもしれないが、ここにあるのはとびっきり活きのいいラブ・コメディーだ。
天使の任務は監督の任務でもある。
愛をいかに観客に信じさせることができるか?
その監督の任務に最も貢献しているものの一つは、ホリー・ハンターの『蜘蛛女』でのレナ・オリンを彷彿とさせるタフな演技だろう。ホリー・ハンターのドスを利かせたディクテーションは愛のメルヘンを壊しそうに見えながら、その実愛のメルヘンを支えている。愛に無縁そうなタフなレディーが愛について語るからこそ、観客はその言葉に耳を傾ける。
そして監督の任務に最も貢献しているもののもう一つはこの物語の構造だ。男女のかなり人間臭い天使たちが愛を仕事として成功させようとするという物語の枠組が観客の目を愛に向かわせ引き留めることを可能にさせる。そこでは愛は直接の対象とならずに、間接的に対象となっている。愛を信じられない擦れっ枯らしの観客も安心して物語の中に身を置くことができるのだ。
ヒッチハイクのシーンで『或る夜の出来事』を思い出した。僕の心の中で二つのラブ・コメディーが共鳴した。そしてクローデット・コルベールとキャメロン・ディアスが、クラーク・ゲーブルとユアン・マクレガーが重なり一体となった。
ダニー・ボイルは任務の遂行に成功した。すくなくても僕という観客においては。愛が、ほんの一瞬間だけだったが、輝いた。
映画を観終わった後、ボビー・ダーリンの"Beyond the Sea"に耳を傾けた。
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7/7 水の中のナイフ
1961年ポーランド映画 7/7ユーロスペース
監督/脚本:ロマン・ポランスキー
撮影:イェジー・リップマン 音楽:コメダ
出演:レオン・ニエンチク/ヨランタ・ウメッカ/ジグムント・マラノウィッチ
湖に浮かぶヨットという閉ざされた空間。その閉ざされた空間に置かれた三人の人間の間に生じる政治的関係。その政治的関係に深く関ってくるエロス。
ロマン・ポランスキーの処女長編映画には有名なポランスキー印が既に押されている。
カメラが印象的だ。手前に大きく青年の顔の一部をクロース・アップのように捉え、その奥に中年の男性とまだ若い女性を配置した映像は三人の関係をそのまま表現している。カメラが青年と中年の男性を同じ大きさで捉えるとき、二人の関係は映像に表れる通りのものとなっっている。三人の間に生じる政治的関係に従って、映像の構図はその都度変わっていく。
中年の男性と女性との間のエロスは継続的なものだが、激しさは失っている。中年の男性が青年を車に乗せるとき、彼の頭にあったのはエロス的激しさの回復だっただろう。ひとりの女性を巡って若者に対して勝利を収めることができれば、再びエロスは輝きだすだろう。
中年の男性は彼自身も含めた三人の人間をヨットの中に移動させる。彼はヨットのエキスパートであり、青年は全くの素人だ。彼はヨットの中で船長として絶対的な権力を手に入れて青年を支配する。しかし青年は女性に対してあくまでも礼儀正しい。というか女性に対して性的にはほとんど無関心だ。中年の男性の絶対的権力を変化させていくのは、女性の青年に対する性的関心(好意と言い換えてもいい)だ。女性の青年に対する性的関心の中で中年の男性の絶対的権力は少しずつ力を失っていく。その過程と呼応するように青年は女性に性的関心を見せ始める。青年と女性が歌と詩の暗誦によって、表現を変えるならば音によって性的な繋がりを深めるとき、中年の男性はイヤホンでラジオを聞き、音から自分を閉め出している。このとき中年の男性は自らの敗北を予感していたのだろうか?
夜明け前、中年の男性は青年の吹く草笛の音で目を覚ます。ヨットの船室の中に妻の姿はない。彼は不貞を確信し、パイプに煙草を詰め、マッチで火をつける。彼は煙草をゆっくり味わってからナイフをポケットに入れ、甲板へと昇る。彼が青年に対して勝利するにはもはや青年を殺すしかない。
車の中の中年の男性と彼の妻。二人の関係は完全に逆転している。彼の妻は知っているということによって彼を支配する。彼女は彼に罠をしかける。彼は彼女を信じれば徹底的な敗北を認めざるを得なくなり、信じなければ社会的な破滅を招かざるを得なくなる。
どちらを選択するか岐路に立っている中年の男性を象徴する、朝の空をバックにしたミドル・ショットで捉えられた車の映像はとても美しい。彼の心を伝えるかのように後ろ姿の車からは排気ガスが陽炎を作りながら排出されている。
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7/16 GODZILLA/ゴジラ
1998年アメリカ映画 日本劇場
監督/脚本:ローランド・エメリッヒ
撮影:ユーリ・スタイガー 音楽:デヴィッド・アーノルド
出演:マシュー・ブロデリック/ジャン・レノ/マリア・ピティロ
ローランド・エメリッヒ監督の環境破壊うんぬんのインタビューや雑誌等で伝えられてきたゴジラの姿に僕はあまりこの映画に期待していなかった。それらからは『ゴジラ』が持っていた異端の悲しみは微塵も感じられなかったからだ。
でもこの映画は優れたゴジラ映画だった。『ゴジラ』への優れたオマージュだった。『ゴジラ』において「さようなら、みなさん」という言葉を最後に残して東京タワーと運命を共にしたアナウンサーに戦後民主主義の最良の部分を見たと書いたのは矢作俊彦だが、そのアナウンサーがTV報道員としてこの映画で蘇り、映画の中核となっていた。
蘇ったアナウンサーは落ちこぼれかかっていて、成功にしか目に入らない。しかし最後には報道が持つ本来の意義に目覚めるのだ。みんなが知るべきことを知らせて、権力を動かす。報道の意義をそう乱暴に言ってしまうことを許してもらうならば、その意義にTV報道員として蘇ったアナウンサーは身を呈するのだ。そのTV報道員が自分たちの身がどうなってもかわないと言うのは、勇み足だしセンチメンタリズムに過ぎないだろう。でもみんなが知るべきことを知らせ、権力を動かし、社会を良いものにしようということに彼女がファイトを燃やすとき、僕は彼女の中にアメリカ民主主義の最良の部分を見る。
その彼女は生き残る。そのことに呼応するように『ゴジラ』においてはゴジラと共に滅びていく科学者も生き残る。そして科学者は恋人と結ばれる。『ゴジラ』においては科学者は最愛の人からあの人は怖いという言葉を受取らなければならなかった。ゴジラが異端者であるように、科学者も異端者だったのだ。ゴジラと科学者が共に海の中で滅びて行くのは当然のことだった。
この映画においてもミミズ学者と呼ばれ異端扱いされている科学者とゴジラとの間には共感がある。しかしその共感は淡いものだ。『ゴジラ』におけるゴジラが自分を異端扱いする社会に自分を受け入れてさせるために、都会の中に、社会の中心部に突き進むようにはこの映画のゴジラは突き進まない。この映画のゴジラがニュー・ヨークという都会を目指すのは純粋に生物学的理由からだ。この映画のゴジラは異端者ではない。だから科学者とゴジラの間の共感は淡いものとなり、科学者もその異端性を潜め、好青年としてこの映画では存在する。
僕はこの科学者の在り方に好感を持つ。ミミズ学者と呼ばれることに甘んじ、自らの異端性を認めながら、この科学者は悲壮感を漂わせることは決してない。この科学者はあくまでも社会の中で生きようとする。ゴジラの心臓の鼓動が絶えるとき、この科学者は自らの異端性を克服するのだ。だからあのシーンは心を打つ。
ローランド・エメリッヒは『ゴジラ』の異端者を生き残らせた。これこそ『ゴジラ』への最良のオマージュではないだろうか?
僕はローランド・エメリッヒ監督に心から拍手を送りたい。
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7/17 ザ・ブレイク
1996年イギリス映画 7/17シネスイッチ銀座
監督:ロバート・ドーンヘルム
撮影:アンジェイ・セクラ
出演:スティーブン・レイ/アルフレッド・モリーナ/ロサナ・パストール
夜。ニュー・ヨークの下町。銃を片手に持った男が仰向けに道路に倒れている。男は血を流している。男の目は開かれたままだ。生命の炎が消え虚ろになった男の目に通り過ぎる地下鉄が映る。そして映画はぶつんと終わる。
予告編を観たときから楽しみにしていた。
刑務所の中を二人の男が歩いている。「脱走する。お前はどうする。」聞かれた男は無言のままだ。「じっくり考えろ。時間はたっぷりある。一分半後に決行だ。」
僕はせりふに惹かれたのだ。常套的な表現だが、それらのせりふにはいまの映画が失ってしまった骨太さがあった。
そしてスクリーンに映画が映し出された時、映画は印象的なせりふから始まったのだった。主人公の中年男は必要最小限度の言葉しか使わない。"things","time"。男は伝えるべき大切なことがあるのだが、それを伝えることができない。男は不器用なのだ。
男はその不器用さを持ったままニュー・ヨークへと行く。男はニュー・ヨークというタフな場所で、その不器用さ故に困っている人間がいればおっとり刀で駆けつける。ここまで書けば分かると思うがこの映画の主人公はサム・スペードを祖先とするハード・ボイルドの主人公なのだ。この中年男にはタフなテロリストという気取りがあり、僕はそれを滑稽に感じるが、それでもこの映画が燻し銀のような魅力を持った優れたハード・ボイルド映画であることを否定することはできない。
文体という言葉を使うならば、この映画の持っている文体はハリウッド製のアクション映画の持っている文体からもっとも遠い。暗殺の場面はまるで日常的な仕事を描写するように淡々と描かれる。派手な血も流れないし、銃撃戦のシーンの背後にするのは乾いた、ほとんど安っぽいと言ってもいい銃弾の発射音と銃弾が肉体にのめり込む音だけだ。そこでは日常性とテロという非日常性との断絶はない。そこでは両者は一本に繋がっている。それこそはこの映画の主人公であるショーンの在り方だ。
ショーンは代償という言葉を使う。孤独には慣れていると言う。ニュー・ヨークの夜の中で拳銃を抜くとき、ショーンは笑いをその顔に刻む。その笑いは孤独に疲れた中年男の自嘲なのだろうか?見開かれた虚ろな目はなにも語らない。
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7/22 L.A.コンフィデンシャル
1997年アメリカ映画 7/22みゆき座
監督:カーティス・ハンソン 脚本:ブライアン・ヘルゲランド
撮影:ダンテ・スピノッティ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:ラッセル・クロウ/ガイ・ピアース/ケビン・スペイシー
原作者のジェイムズ・エルロイはレイモンド・チャンドラーを否定するけれども、この映画を観ながらジェイムズ・エルロイはレイモンド・チャンドラーの最も正統的な後継者なのだと思った。
夢を提供し、自らを楽園だと思わせているロス・アンジェルス(天使の街)は暴力が横行し、権力と金に目が眩んだ人間たちが支配するところだ。そんな掃き溜めの街を舞台に監督のカーティス・ハンソンはモラルを追究してみせる。それこそはフィリップ・マーロウという人物を創造したレイモンド・チャンドラーがその作品の中でやったことだ。カーティス・ハンソンの背後には原作者としてジェイムズ・エルロイがいる。僕がジェイムズ・エルロイをレイモンド・チャンドラーの後継者と感じた次第だ。
モラルは単純なものではあり得ない。カーティス・ハンソンは正義という言葉が様々な意味を持ち得ることを示す。正義という言葉は最初ストレートに法を守ることという意味で登場するが、映画が進むに連れ、正義という言葉は姿を変えていく。正義の名の元で偽証をした女性を前にして、正義を振りかざす刑事が見せる表情にこの映画のテーマがある。この映画は正義を振りかざす青年刑事が事件を通して正義という言葉の持っている重みに気付き、その意味を問い直し、正義を自分の生き方の中心に置くまでの物語だとも読み取れる。これは成長についての映画なのだ。
青年が真の意味での正義に目覚めるところは、正直言ってあまりにも単純で少し気恥ずかしい。青年はボーイ・スカウトに成りきってしまっている。それがこの映画を浅いものにしてしまっている。僕は一人の刑事に惹かれた。このロス・アンジェルスの華やかさに捕らわれてしまっている刑事は、刑事になった理由を聞かれて、静かに"I don't remember"と答える。僕はそこに本物のモラルを感じた。そしてこの刑事はモラルに殉じるのだ。
この映画はハッピー・エンドで終わるが、ハッピー・エンドで終わる必要はなかった。ロス・アンジェルスという名前の掃き溜めの中で生きている内に、自らもゴミとなりつつある人間たちがほとんど笑うべき言葉となっている正義という言葉に再び輝きを与える、そのことが感動を与えるのだ。
モラルに敬意を払うことを忘れないで生きているタフな男たちへの賛歌だとこの映画を言ったならば、センチメンタルに過ぎるだろうか?
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7/25 スウィート・ヒアアフター
1997年カナダ映画 7/25シネマライズ
監督/脚本:アトム・エゴヤン
撮影:ポール・サロシー 音楽:マイケル・ダンナ
出演:イアン・ホルム/サラ・ポーリー/ブルース・グリーンウッド
めでたしめでたしで終わりましたとさ。
どんな物語にも最後に付く紋切型の表現。その表現を題名にした映画は物語をとてても丹念に語る映画だった。
片田舎のスクール・バスが凍り付いた山道でスリップして崖から飛び出した。それ自体はたぶんごくありふれた事件なのだ。その事件をアトム・エゴヤンは子供を慈しむ母親のように丁寧に丹念に語る。その丁寧な語り口が事件を物語に昇華し普遍的なものに結び付ける。最後には事件は神話的様相を帯びる。
破滅に向かって進むバスの内部。冬の陽光が窓ガラス越しに入って来て、床が輝いている。子供たちの笑い声。陽気なバスの運転手。
エアリアル・ショット。山道を走るスクール・バス。その後を子供たちが不安を感じないように子供たちの父親が運転するトラックが追う。スクール・バスもトラックも山道も冬の清々しい太陽で照らされている。カメラがパンナップする。画面一杯に映し出されるパセティックな青を持った空。
ビデオで捉えられる事故を起したバスの内部。ザラザラした画面の中で子供たちが座っていた椅子が浮かび上がる。バスの天井には穴が開いている。ビデオカメラはその穴の向こうに見えるものを捉えようとして一瞬立ち止まる。
事件そのものは重要ではない。それらの語り口こそが重要なのだ。それらの語り口が物語を生み出す。こう言ってもいい。それらの語り口こそがありふれた事件を物語へと引き上げるのだ。
重荷を背負って生きている弁護士も重要ではないと断言しよう。物語は内部からは決して語られない。物語は外部から語られなければならない。だから弁護士はそこにいるのだ。
町から子供たちがみんな居なくなって、足に障害のある子供だけが残る。その子供は笛ふきの吹く音楽に合わせて踊ることができなかったのだ。その子供は詩的な表現で映画を締めくくるが、たんにこう言うだけでもよかったのだ。
「スウィート・ヒアアフター」
/* 「sweet hereafter」を「めでたしめでたしで終わりましたとさ」と訳してしまってはあまりにも大胆な意訳でたぶん誤訳でしょう。チラシのように「穏やかなその後」と直訳してしまうのが正解かもしれません */
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7/27 チェイシング・エイミー
1997年アメリカ映画 7/27シネ・アミューズ
監督/脚本:ケヴィン・スミス
撮影:デヴィッド・クライン 音楽:デヴィッド・ピルナー
出演:ベン・アフレック/ジョーイ・ローレン・アダムス/ジャソン・リー
この映画が持っている空気が好きだ。僕がニュー・ヨークという名前を持った都会を思い浮かべるときのイメージとぴったりと一致する。そこには観光パンフレット用にの都会もないし、ファッションとしての都会もない。そこではリアルに都会が息づいている。
そのニュー・ヨークで同じ田舎町出身の男女が出会う。それも素敵だ。もともと都会とは田舎者たちの集まりなのだ。こう言い換えてもいい。自分の母胎から切り離された人々が集まる所。そこでは生き方をあれこれ指図する者はいない。自由だが、不安にもさせられる。全てを自分で決断しなければならない。逆に言えばそうすることのできる者たちだけが、都会で生きていく資格がある。その生き方はかなり厳しい生き方だ。この映画がある意味で苦い味で終わるのも当然だろう。
女が好きな男と女が好きな女とたぶん男が好きな男。ある日女が好きな男と女が好きな女とが出会い、不思議な三角関係が形成される。その三角関係を中心にして映画は進んでいく。
こう書くとこの映画をちょっと洒落てユーモアもある知的な都会派の恋愛映画だと思う人もいるかもしれない。でもこの映画は恋に関してかなり生真面目だ。ニュー・ヨークだけで成立する純愛映画と呼びたくなる瞬間もこの映画は持っているし、この映画を恋に関する真面目な哲学であり詩であると紹介したくもなる。
僕は登場人物の中ではやっぱり「女が好きな女」に惹かれる。「演説」が巧みなだけなのかなと感じながらもその「演説」に聞き惚れてしまう。「女が好きな女」は自分がいいと信じたもののために自分の全人生を賭ける。或いは捨てる。「女が好きな女」は"my own choice"という言葉を好んで使うが、まさに"my own choice"で「女が好きな女」として生きてきた人生を捨てるのだ。それこそは都会人ではないだろうか?
この映画は恋についてかなり真面目に語りながらも、そのことに対する恥じらいもある。その恥じらいこそ都会的だなあと感じながら、僕はこの映画を愛した。
そうだこうこの映画を紹介しよう。
この映画はニュー・ヨーク発のとびっきり素敵な恋愛論だ。
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