1月に観た映画
1998
ブラス クワイヤボーイズ 秋のソナタ ラブ&ポップ ピースメーカー ワイルド・バンチ HANA-BI グリッドロック
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直接その感想に飛びます。
1/5 ブラス
1996年イギリス映画 1/5有楽町シネ・ラ・セット
監督/脚本:マーク・ハーマン
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ピート・ポスルスウェイト/ユアン・マクレガー/タラ・フィッツジェラルド
新年初めて観た映画だ。上映が終わり幕が閉まると、場内から力強い拍手が起こった。コートを着ようとしていた僕はその拍手に合わせなかったが、とてもいい映画だった。こんないい映画を年初めに観れて幸福な気分になった。
タイトル・ロールが素敵だ。黒一色のシンプルなバックに光たちがブラス・ミュージックに合わせてゆっくりと動く。
その光たちの一つが炭坑夫のヘッド・ライトに繋がって炭坑のシーンに繋がる。テクニック自体はどうということもないのだが、洒落っ気があって好きだ。その洒落っ気はカメラ・ワークやカットの繋ぎに随所に現れていて重いテーマを持ったこの映画に軽やかさを与えている。
カメラ・ワークではビリヤード台の縁の上に置かれた手前の紙幣にピントを合わせてから、奥の玉を狙う青年の顔にピントをあわせるテクニックが印象に残った。小技なのだが、賭けビリヤードをこの青年がやっていることが、このピント合わせのテクニックでダイレクトに伝わってくる。こんな小技が随所にあって撮影をした人間になかなかやるなと敬意を抱いてしまう。
あとホールで演奏するブラス・バンドを捉えたシーンで、舞台に向かって降りていく階段を俯角で舞台に向かって移動しながら捉え、舞台に達するとクレーンですっと上に上がり、舞台全体を捉えたシーンがダイナミックで心に残った。これは実際にそのシーンを観てもらうと納得してもらえると思う。
カットの繋ぎではロング・ショットでブラス・バンドの指揮者が自転車で練習所へ画面の手前から奥にまっすぐ伸びる道を向かうのを背後から捉え、最後でカメラが少し上に上がり、同時にティルト・アップして炭坑の町全体を捉えるカットから練習所のカットに繋ぐところが好きだ。ブラス・バンドが炭坑の町のものであるということがこの繋ぎで強調され印象付けられる。ブラス・バンドの音楽を前のショットで流し(ずり上げ)、二つのカットの繋ぎをスムーズにしているのも好きなテクニックだ。
そんなテクニックは瑣末なことだと言う人がいるかもしれないが、「そんな」テクニックがこの映画に軽やかさを与え、心を弾ませる映画にしているのは否定できない。
僕はテクニックがテクニックのためのテクニックにけっして堕することなく、映画に奉仕していたことになによりも感動した。
この映画のテーマは炭坑の閉鎖によって職を失う人々を助けようということではけっしてあり得ない。失業という深刻な問題を抱えながらも生活のためにはなんの価値もない音楽を自分でも理由が分からないまま選んでしまう人間たちについての映画だ。そこには本物の希望がある。
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1/6 クワイヤボーイズ
1977年アメリカ=イタリア映画 1/6NFC
監督:ロバート・オルドリッチ 脚本:クリストファー・ノップ
撮影:ジョゼフ・バイロック
出演:チャールズ・ダーニング/ルー・ゴセット・JR/ペリー・キング
海外ではさんざん不評で、原作者からも嫌われたという映画。
ずばり猥雑で下品な映画だ。でもその猥雑さ下品さの中に爽やかなものが一本まっすぐに力強く流れている。その爽やかを感じることができるなら、この映画はけっして猥雑でも下品でもない。
こんな映画を観ると改めてベトナム戦争がアメリカ社会に与えた影響の深さを感じる。この映画はベトナム戦争がアメリカ人に与えた影響だとか、ベトナム戦争によってアメリカの古き良き価値観がどう変質していっただとかについてはけっして語らない。ただベトナム戦争を体験して今(1970年代後半のアメリカ)を生きている人々を戯画化して描くだけだ。
この映画の主人公はロスアンジェルスの夜警の警官たちだ。夜の闇の中に狂気は住むものならば、これらの警官たちはベトナム戦争がアメリカにもたらした狂気をまともに浴びながら生きている。彼らが狂気そのものに見えたとしても無理はないだろう。
表面からだけ眺めるならば、彼らは夜の都会というゴミ箱の中を蠢く哀れなゴキブリにしか過ぎない。しかし彼らの中に一歩踏み込むならば、その惨めな救いのない状況の中で彼らが必死にモラルを守ろうとしている姿が見えてくる。
男たちの顔が好きだ。タフに見せかけているが、みんな弱い。それでも精一杯戦おうとしている。弱さに対する理解もある。そしてなによりもユーモアを忘れない。愛すべき男たちだ。
僕はこの映画が好きだ。
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1/9 秋のソナタ
1978年スウェーデン映画 1/9NFC
監督/脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニークヴィスト
出演:イングリッド・バーグマン/リヴ・ウルマン/レナ・ニーマン
観終わった後、雪の残る夜道を歩いた。上を見上げると澄み切った夜空の底にさ やかに月が輝いていた。
僕はカメラ・ワークに興味を持った。素晴らしい技術が発揮されていたからではない。稚拙だったからだ。
冒頭の画面の左奥に座る女性からパンして手前のドアの前に立つ男性へとカメラが移るとき、少しティルト・アップするのだが、そのアップの仕方がいかにもぎこちなかった。
またロング・ショットで湖沿いの道を上がってくる車を捉えるシーンでもぎこちなさがあった。パンしながらカメラは車を追うのだが、パンを中止して最終的には近景の赤い薔薇の花をクロースで入れる。そのパンの中止の仕方、クロースへの繋ぎ方がいかにもぎこちなかった。
この映画においてカメラは技術を放棄しているように見える。技術を意識的に放棄することによって対象に真摯に向かい合うことを選んだように見える。もしそうならばその試みは成功している。カメラが捉える対象は圧倒的力をもって僕たちに迫ってくる。
野心満々で才能があり自立心に富んだ母親とその母親の強烈な個性によってありのままの自分を否定され生きる道を見失った娘という話はよくある話だろう。だからこの映画でそんな母娘の確執は重要ではない。重要なのは僕たち観客が二人の女性の魂に面と向かい合うことなのだ。僕たちは二人の女性の魂をありありと感じる。それ以上に大切なことが他にあるだろうか。
他人の魂に直に触れた感動を夜の寒気が包んでくれた。
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1/14 ラブ&ポップ
1997年日本映画 1/14丸の内シャンゼリゼ
監督:庵野秀明 脚本:薩川昭夫
撮影:柴主高秀 録音:橋本泰夫
出演:三輪明日美/希良梨/工藤浩乃/仲間由紀恵
主観ショットと呼ぶにはあまりにも先鋭的というか、飛んでいるショット。それは観るものを強引に私的空間へと投げ入れるだろうし、逆に身を引かせるかもしれない。まるで初めて芸術的気取りを知った高校生が撮ったような映像を好きになれるかどうか、或いはその映像が生理的に合うかどうかがこの映画の評価の分かれ目になるだろう。最後に監督のところで「新人」とクレジットされる。その「新人」という言葉を受け止めることができる人はこの映画を楽しめた人だろう。
僕は?僕は楽しめた。映像は確かに素人っぽかったが、それは僕には好ましく思えた。地面ぎりぎりのショット。仰角というよりはほとんど真上を見上げているようなショット。登場人物たちによって撮られるセルフ・ショット。それらの奇抜なショットはショットのためのショットではなく、けっして言葉では表現できないものを表現するためのものであるように僕には思える。僕には監督がそれらの奇抜なショットを選んだのは、既製の手垢のついた映画話法を避けたかったからではないかと感じられる。もしオーソドックスな映画話法に基づいてこの映画が撮られていたならば、この映画はけっして現に持っている不思議な輝きを持つことはできなかっただろう。
そうこの映画には不思議な輝きがある。
この映画はある意味では地獄巡りかもしれない。一人の無垢な魂が、携帯電話というコミュニケーション手段を使って都会という名の地獄を巡るのだ。その無垢な魂が女子高校生という形を取っているのは象徴的だが、ここでは述べない。奇抜なショットがこの地獄の向こうで輝いているものを見せてくれる。
その輝きは言葉では表現できない、「初めて芸術的気取りを知った高校生が撮ったような映像」によってのみ表現される。
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1/20 ピースメーカー
1997年アメリカ映画 1/20日劇プラザ
監督:ミミ・レダー 脚本:マイケル・シーファー
撮影:ディートリッヒ・ローマン 音楽:ハンス・ジマー
出演:ジョージ・クルーニー/ニコール・キッドマン/アーミン・ミューラー=スターン
冒頭は凡庸で映画館の座席に座りながら、後悔した。
靴のクロース・アップから始まるシーンなどあまりにも紋切型でしらけてしまったのだ。奥行きを生かした構図で奥の影から音もなく現れた男がまっすぐ画面の手前に歩いてくるショットだけが救いだなと思いながら観ていた。
でも夜の庭を横切る農夫のドリー(移動)ショットから映画に引き込まれていった。ドリーが終わるところで線路が画面に入ってきて蒸気機関車が右手から進んでくる。ちょっと凝っているなと思った。次のカットは小屋の中で新聞を広げる農夫のバスト・ショットだ。蒸気機関車の振動が過ぎた後で、別の振動が小屋を襲う。不審げな顔を上げる農夫。次のショットはフロント・ウインドウを赤く光らせたジーゼル列車のショットになる。ジーゼル機関車は蒸気機関車を追う。これらのショットの繋がりが緊迫感を生んでいた。後のシーンからも分かるように赤が不安を象徴するように色彩設計されている。ともかくこのシーンから撮影監督の技に酔い始めた。
赤について述べておくと、僕は破局へ向かって驀進する蒸気機関車のボイラーの中で燃える炎の赤が一番印象的だった。
この映画は優れた職人芸に支えられた良質の娯楽映画と評することができるだろう。でも僕はなによりもこの映画のテーマに惹かれた。
敵役が魅力的だ。悪人ではない。善人でもない。全身全霊でこの世界を拒否している人間だ。彼は無垢な子供がなんの意味もなく殺されていくこの世界に向かって否と叫ぶのだ。
彼が子供に守られる最後の方のシーンは象徴的ではないだろうか。彼は子供に守られながら「否」を発する場所へと向かう。
主人公が冷酷な悪魔になる場面がある。
怒りは心頭に達しているのだが、あくまでも冷静に敵を葬りさっていく。車が動かなくなったと敵に思わせて、敵の車を誘き寄せることさえする。まさに鬼のようだ。
主人公を鬼にしたのはたぶん三才の子供の無邪気な笑顔だろう。その子供がこの世界が持っている無慈悲さに晒された。
主人公も敵役も根本のところでは繋がっている。
『カラマーゾフの兄弟』を久しぶりに読み返して、イワンに再会しよう。
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1/22 ワイルド・バンチ
1969年アメリカ映画 1/22シネセゾン渋谷
監督/脚色:サム・ペキンパー
撮影:ルシエン・バラード 音楽:ジェリー・フィールディング
出演:ウィリアム・ホールデン/アーネスト・ボーグナイン/ロバート・ライアン
メイキング・フィルムでエド・ハリスが声を担当したサム・ペキンパーが「ロビン・フッドのように義侠心に富み、誇り高い男たちを描きたかった」と語っていた。そのペキンパーの言葉こそがこの映画の全てだ。
同じくメイキング・フィルムで「仲間を救うために自分の身を犠牲にする男たちとはどんな人間なのか、そこからこの映画は始まった」という言葉があった。絶対的な負けが決まっている戦いに仲間のために決然と赴く男たちの姿に僕たち観客は共感するだろう。だからこの映画は成功だ。
サム・ペキンパーはこの映画は単純な冒険映画なのだと言う。僕はその言葉に賛成する。ただし世界で一番優れたという形容詞を付けて。
この映画のカット数は3600だそうだ。そのカット数からも分かるように映像にもサム・ペキンパーの美意識が貫かれている。いや、美意識という言葉はこの映画の映像には貧相だ。もっとタフで野卑な言葉が相応しいだろう。うらぶれた街角に転がっているかっこいいという言葉が相応しいかもしれない。
店内から撮られた大きなショー・ウインドウ。乗り手がライフルで撃たれて馬が倒れ込んでくる。崩れ落ちるショー・ウインドウがスロー・モーションで捉えられる。クロス・カットで銃撃されて街道に倒れ込む乗り手と馬のショットが組み合わされる。けっして上品な趣味ではない。下品な趣味だ。でもとてつもなくかっこいい。
僕が一番気に入ったショットは将軍を捉えたショットだ。そのショットは権力の頂点にいる男の疲れ切った表情を捉えていた。そこに僕はサム・ペキンパーの生きることへの思いを感じたのだ。
僕は主人公の男たちがけっして若くないことに惹かれた。中年というよりはそろそろ老年に入りかけている男たち。分別盛りで人生に疲れた男たちが利口な大人ならけっしてしない行動を選択する。そこには、野暮な僕は敢えて書くのだが、生きることへの励ましがある。
レッツ・ゴー。
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1/26 HANA-BI
1997年日本映画 1/26銀座テアトル西友
監督/脚本:北野武
撮影:山本英夫 音楽:久石譲
出演:ビート武/岸本加世子/大杉漣
赤が心に深く染み込んだ。
妻の帽子の赤と夫である男のシャツの赤。二つの赤が響きあったとき、「ありがとう」という言葉に結晶する。その言葉に男は含羞む。そしてたぶん幸福を確信するのだ。言葉に結晶した赤は二人を救う。海鳴りだけが残る。
子供の頃、西洋ではブルーは悲しみを表すということを知った。僕は心底驚いた。子供の僕にとってブルーは青空としっかりと結び付いていた。僕にとってブルーは希望の色だったのだ。大人になってもそれは変わらなかった。
この映画の核には富士山があると言ったら奇矯に聞こえるだろうか?希望の象徴であるブルーを背景にした富士山ではなく、悲しみのブルーに覆われた富士山。
空一杯を覆い尽くした桜の花。もう一人の主人公である男は、空一杯を覆い尽くした桜の花の背後に僅かに見えるブルーに惹かれるのだ。空一杯の桜の花を見た彼が描いた絵で印象的なのは桜の花ではなく、空のブルーだ。桜の花もブルーに染められる。
富士山と桜、日本を象徴するものがブルーの中に在る。
それはこの映画について考えるとき、けっして見落としてはならないことだろう。
映画自体もブルーの中にある。
ブルーは寒色系の色なのだと改めて思わせるブルーの中の東京の風景から映画は始まる。この映画のブルーは深い悲しみを伝えてくる。僕はブルーが悲しみの色であることを頭ではなく心で感じることができた。
ブルーに染められたこの映画で赤は生を表している。悲しみのブルーの海に浮く、小さな輝き。
ブルーのスポーツ・コートを着た男の妻。男の妻は微笑んでいる。男の妻の横には赤い花たちが咲き誇っている。
まるで赤が悲しみから男の妻を救いだしているようなシーンだった。
最後に心に残ったのはブルーではなく、赤だった。
僕はこの映画を心から賛嘆したい。
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1/29 グリッドロック
1996年アメリカ映画 1/29渋谷スペース パート3
監督/脚本:ヴォンディ・カーティス・ホール
撮影:ビル・ポープ 音楽:スチュアート・コープランド
出演:ティム・ロス/トゥパック・シャクール/タンディ・ニュートン
都市という迷宮に迷い込んだ二人のナイーブな青年の物語。
二人は仲間が「薬」のやり過ぎで、昏睡状態に陥り死の危機を迎えたのを機に「薬」を止める決心をする。そのため二人はリハビリ・センターに入ろうとするが、いろんな障害があってなかなか入れない。その過程で二人は都市が魔窟であることを知るのだ。
二人は真っ当なサラリーマンから乞食と間違われるような人間たちだが、迷宮を彷徨ううちに、アメリカという管理社会の矛盾に直面しついには「この国の将来は真っ暗だ」というせりふさえ口にする。
そうこの映画には生真面目さがある。でもこの映画を魅力的にしているのはユーモアだろう。
僕は管理社会の矛盾という硬い言葉を使ったが、この映画にはそんな生硬さは微塵もない。
二人の青年が直面する管理社会の矛盾とは、自分たちのお喋りに夢中になって電話も取らず受付の市民!には面倒くさそうに応対する女性役人たちなのだ。
そして規則、規則で肝心の人間を見失ったアメリカという管理社会にコブシを振り上げるのは、ニクソンという名前の盲導犬に導かれている退役軍人なのだ。彼はこう叫ぶ。
「俺は人間なんだ!」
僕が魅力を感じたのは都市の佇まいだ。それは薄汚く、猥雑だ。僕が魅力を感じるのはそんな都市だ。ゴミ置き場のような汚さの中にこそ光るものがある。
この映画は安易なハッピーエンドでは終わらない。
でもゴミ溜でしか見つからない輝きがある。
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