10月に観た映画
ひばり・チエミの弥次喜多道中 シングル・ガール ブエノスアイレス ダブルチーム ニコ・イコン 遊侠一匹 沓掛時次郎 コン・エアー 東京日和
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直接その感想に飛びます。
10/9 ひばり・チエミの弥次喜多道中
1962年日本映画 10/9NFC
監督:沢島忠 脚本:鷹沢和善
撮影:山岸長樹 音楽:米山正夫 美術:鈴木孝俊
出演:美空ひばり/江利チエミ/千秋実
久々に観終わった後、幸福になれた映画だった。
第一美空ひばりも江利チエミもリズム感が抜群で勘もいいから、彼女たちの動作を観ているだけで心が弾んでしまう。
とりわけ美空ひばりの勘の良さには舌を巻いてしまう。チャンバラ・シーンでの彼女のダイナミックで流れるような動きには正直感動してしまった。他の役者が霞んでしまう。
この映画はミュージカル的要素も持っているが、彼女たちの歌の上手さにも唸ってしまう。美空ひばりなんかリズムに乗せて歌っても上手いし、メロディーを大切に歌っても聞かせる。記憶で書くので歌詞は正確でないが、「天竜川下りの、滴が飛び散る」と美空ひばり歌うところで「散る」の「る」を伸ばすところ、切るところの妙には粋だねという言葉が思わず出てしまう。
カメラにも感心した。二人が落ち込むシーンでの青のカーテンを手前に大きく捉え、二人の影を奥から手前に細長く作り、それを俯瞰で撮ったショットは美しかった。
人が入り乱れるダイナミックなシーンでは、カメラをブラし、手持ちカメラのような効果を出していた。
床すれすれの低位置でのショット、俯瞰ショット、クロース・アップ、ミドル・ショット、様々なポジションのカメラを組みあわせて軽快なリズムを生み出していたのにも感心した。
動と静を対比的に使うセンスも印象深かった。芝居小屋の下足番をしているひばりとチエミが芝居が撥ねた後、履物を観客に渡すのにてんてこまいしているスピィーディーで楽しいシーンの後に二人がぐったりと板土間に伸びているシーンが繋がる。二人の動かないシーンが二人が花の蜜を求める蜂のように激しく動き回るシーンを強調し、印象深いものにする。
最後に二人は自分の青春は自分の力で切り開くと言い切る。
この映画は本当に気持ちのいい青春コメディー映画だった。こんな映画をこそを僕たちは誇るべきだと思ったことだった。
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10/13 シングル・ガール
1995年フランス映画 10/13シネ・ヴィヴァン・六本木
監督/脚本:ブノワ・ジャコー
撮影:カロリーヌ・シャンブティエ
出演:ヴィルジニー・ルドワイヤン/ブノワ・マジメル/ドミニク・ヴァラディエ
夜明けのパリから映画は始まる。
ヴィルジニー・ルドワイヤンがパリの街を足早に歩くときの靴音が耳に残る。そして映画を観終わった時、ずっとヴィルジニー・ルドワイヤンが足早に歩いていたのを観ていたような印象が残る。
歩くということについと改めて考えてみた。颯爽と歩く人もいれば、とぼとぼと歩く人もいる。歩き方はいまその人が幸福なのかどうかということや心の動きを現している。歩き方はその人の生き方を表現していると言ってもいいかもしれない。
ヴィルジニー・ルドワイヤンは真っ直ぐに歩く。ゆったりとは歩かない。何かに挑戦するように突っ切るようにして足早に歩く。顔はしっかりと前に上げている。顔の表情はけっして媚を作らない。戦場に臨む兵士のようだと表現したら大げさかもしれないが、顔は人を冷たく拒んでいる。目が顔の表情を裏切っていると言ったらいいだろうか、目は活発に動き世界に対する好奇心を示している。
ヴィルジニー・ルドワイヤンが歩くのを観ていると、「シングル・ガール」の主人公の生き方がくっきりと浮かび上がってくる。誰にも頼らずひとりで強く生き、生を精一杯楽しむ。そんな生き方は言葉にしてしまえば手垢にまみれありふれているが、靴音に耳を澄ませるとその生き方がダイレクトに伝わってきて心を動かされ、力なく喫茶店の椅子の中に崩れる恋人を見下ろし見限るときのヴィルジニー・ルドワイヤンの凛々しさが浮かんでくる。
映画を観終わった後、六本木の街をヴィルジニー・ルドワイヤンのように歩いてみた。勇気が湧き、世界が少しだけ輝いて見えた。
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10/16 ブエノスアイレス
1997年香港映画 10/16シネマライズ
監督/脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル
出演:トニー・レオン/レスリー・チャン/チャン・チェン
同性愛映画という印象はほとんど残らなかった。
残ったのは人を愛するということの切なさだった。
強烈なセックス・シーンから始まる。このウォン・カーウァイ監督の突然の右ストレートが同性愛だとか異性愛だとかに拘る先入見を打ち砕く。人が人を愛する、そのことがあるだけだ。そして人を愛するとはその人と寝たいという欲望なのだ。その二つのことをウォン・カーウァイ監督は強く印象づける。
人を愛することの切なさと言葉にしてしまうと、ずいぶん軽薄で嫌悪感さえ感じてしまうが、その切なさがこの映画の核だ。愛することの切なさがダイレクトに伝わってきて観終わった後もしばらくぼーっとしてしまった。
こんなふうに書くと「ブエノスアイレス」はずいぶんシリアスな映画なんだなと思う人がいるかもしれない。でも「ブエノスアイレス」はお茶目でポップだ。ウォン・カーウァイ監督のフット・ワークはあくまでも軽やかだ。
例えば、テーブルの上に置かれる大量のたばこ。それは笑いを誘いながら、愛の不可能も暗示している。
そして卵を溶く音。その音は音に鋭敏で音を通して世界と繋がっている青年の存在によって愛するものの不安を伝えるものとなる。
音楽にピアソラやフランク・ザッパが使われていると聞いて危惧していたが、音楽はポイントポイントで使われるだけだ。むしろ現実音の方が印象に残る。ウォン・カーウァイは耳がいい人だなあと思った。現実音を効果的に使っている。僕はトニー・レオンが夜の道路からビール瓶を拾い上げ割る時の乾いた音が印象に残った。
冒頭のイグアスの滝の空撮の映像は強烈だ。目に焼き付く。滝の音は消されている。映画を観終わった時、その映像はトニー・レオンとレスリー・チャンがけっして手に入れることのできない愛を象徴しているのだと気付いた。
もちろん愛は誰も手に入れることはできない。
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10/20 ダブルチーム
1997年アメリカ映画 10/20渋谷シネパレス
監督:ツイ・ハーク 脚本:ドン・ジャコビー
撮影:ピーター・ポウ
出演:ジャン=クロード・ヴァン・ダム/デニス・ロッドマン/ミッキー・ローク
全てがジャン=クロード・ヴァン・ダムの肉体にミッキー奉仕する。
ストーリーは全く整合性がなく、ヴァン・ダムがそのために戦う最愛の妻もヴァン・ダムは最後に見捨てる。「息子はどこだ!」と言い訳して。ヴァン・ダムの肉体が暴力の踊りを踊れば全てはOKなのだ。
ヴァン・ダムは自分が身に付けたパワーとスピードを発揮するのが楽しくてたまらない。ヴァン・ダムは子供のような喜びを表情に乏しい顔の後ろに隠している。映画もヴァン・ダムの肉体が最大の魅力となり、光を放っている。
それは敵役の・ロークにしても同じだ。妻と子供の復讐というのは方便にしか思えない。自分の力を最大限に発揮して戦うのが楽しくてたまらないのだ。ミッキー・ロークはニヒルな表情の後ろに子供の喜びを隠している。
ツイ・ハークは暴力の踊りが光を放つように最大限の努力を払う。ストーリーに整合性がないように、シーンにも整合性はない。面白い暴力の踊りを作りだせればそれでいいのだ。そしてツイ・ハークは暴力の踊りに関しては最高の振付師だ。
最高の暴力の踊りを見せてくれたのはヴァン・ダムでもミッキー・ロークでもなかった。ローマのホテルでヴァン・ダムを待ち受ける東洋人の男性だった。空中に椅子を飛ばしてのジャンピング連続キックには見蕩れてしまった。そこには肉体の詩があった。
冒頭装甲トラックが空中に飛びだす場面で、「ドラゴン・イン」でブリジット・リンが空中を飛翔するシーンが目の中に浮かんできた。
「ドラゴン・イン」はツイ・ハークが敬愛するキン・フー監督の映画のリメイクだ。いつか白鷹が空中を飛ぶシーンを観よう。
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10/22 ニコ・イコン
1995年ドイツ映画 10/22シネセゾン渋谷
監督/脚本:スザンネ・オフテリンガー
撮影:ジュディス・カウフマン 録音:ハンス・ツケンドルフ
出演:ニコ/ジョン・ケイル/ジャクソン・ブラウン
真っ白な髪の毛。ヘロインで荒廃した肌。ぼろぼろの歯。ヘロインを打った注射の跡だらけの両手。 醜いと言われると喜んだというニコはそれらを誇りにしていた。それがニコの美意識なのだ。
ニコは彫像のような美しさを持つ見られる存在から、奇妙で印象的な目を持つ創造者になったと言えるかもしれない。
それにしても若い頃の美しさを捨てたニコの目は強い印象を与える。古代の呪術的神たちが持っていた目のように思える。客観的に見れば、ニコはジャンキーでヘロイン太りし容色の衰えた「おばさん」にしか過ぎない。しかしあの呪術的目で見つめられれば、人はニコという太陽の回りを回る惑星に成り下がってしまう。
それに中年のなってからのニコの醜さはニコ自身が選んだものなのだ。ニコは美しさを捨てることによって受動的な存在から能動的存在へとなった。ニコの醜さには人を惹き付けるものがある。僕はヨーロッパが生んだ最高の宝石は退廃美だと思うのだが、ニコはまさにそれを体現している。
特にニコの息子アリはヨーロッパの退廃そのものが生んだ子供のように思える。この母親によってヘロイン漬けにされた青年がたばこを口にくわえる時、退廃の奏でる音楽が聞こえてくる。その音楽は魅力的だ。
ニコは美と醜を最高のレベルで持つことができた。こんな人はこれからも唯一無二だろう。ニコの中では美と醜が手を結び合う。だからニコは偉大なのだ。
ジャクソン・ブラウンがニコを讚える詩を語るように朗読する。
そのシーンが好きだ。ジャクソン・ブラウンが紡ぐ詩の言葉の中でニコが美しく輝きだす。
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10/25 遊侠一匹 沓掛時次郎
1966年日本映画 10/25NFC
監督:加藤泰 脚本:鈴木尚之
撮影:古谷伸 音楽:齋藤一郎
出演:中村錦之助/池内淳子/渥美清
無音の空間で編笠が空高く投げ上げられ、刀身が光をきらめかせながら抜かれる。タイロル・ロールのそのシーンだけでもこの映画には観る価値がある。
そのシーンは渥美清演じる侠客見習いのコミカルなシーンから繋がれている。それ故にそのシーンが持っている悲劇性が強調される。哲学的な表現を使うならば、そこにあるのは暴力をその本質として持たざるを得ない人間存在の悲しみだ。
映画の中盤荘厳とも言える三角形構図が出現する。
その三角形は三人の人間によって作られる。男とその男によって夫を斬り殺された女と女の子供だ。三角形の頂点を作るのは画面の中央やや右寄りに立っている男だ。女は底辺の右側の点を作る。画面の奥小さく映っている子供は底辺の左側の点を作る。女は俯いて道にしゃがんでいる。心配そうな男の顔。女は呟く。どうしてあなたのような優しい人が人を切り殺したりなど・・・。女のその言葉はたぶん男には支えることのできないものだ。女の言葉は悲劇的な三角形構図が支える。その時、三角形構図はほとんど宗教的なものになる。
映画の前半時次郎は渡世の玄人として出てくる。時次郎は侠客の醜さ、浅ましさを充分知った上で、飄々と生きているように見える。しかし結局は暴力へと巻き込まれてしまう。
鬼神となった時次郎から感じられるのは恐ろしさではない。深い悲しみだ。暴力の中でしか生きられない者の悲しみだ。
映画の最後時次郎は追い打ちのように暴力の虚しさを見せつけられ刀を捨てる。画面の奥へと消えていく時次郎。
しかし時次郎は再び刀を拾うだろう。それが生きることなのだ。
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10/27 コン・エアー
1997年アメリカ映画 10/27日比谷スカラ座
監督:サイモン・ウエスト 脚本:スコット・ローゼンバーグ
撮影:デビッド・タッターソル 音楽:マーク・マンシーナ
出演:ニコラス・ケイジ/ジョン・キューザック/ジョン・マルコビッチ
男は男であることを自分自身に対して証明しなければならない。その証明を通して初めて男は男になる。だからアクション・スターは戦う。
しかしそれは昔の話だ。いまの時代において男であるということが意味を持つとは思えない。それではアクション・スターはなんのために戦うのだろうか?暴力はエスカレートしほとんどジョークの世界に入りかけている。その異常とも思える世界をアクション・スターは駆けずり回る。彼の目が見ているのはいったいなんなのだろうか?
「コン・エアー」における彼の敵役は金も権力も欲さない。彼の敵役に目的はない。彼の敵役が夢見ているのは暴力そのもののように思える。敵のそのような在り方は彼の置かれている状況を鏡のように映している。彼は暴力の只中に放り込まれ、暴力に反応しているに過ぎない。彼はかろうじて家族や仲間という大義名分に縋り付いているが、そのことによって彼がたんなる暴力装置にしか過ぎないことを覆い隠すことはできない。彼は30人もの人間を惨殺した人間から異常だと言われる。彼は狼狽し怒りを爆発させるが、それが正しい指摘だったからだ。
アクション映画が肉体の詩を歌った時代は終わった。いまアクション映画にあるのはCGIによって作られたハイ・テンションの暴力だ。その暴力を楽しみながら、僕は暗澹とした気持ちになる。彼の肉体は記号としての意味しか持たなくなるだろう。そして肉体だけが彼を彼にするだろう。「コン・エアー」において牢獄に繋がれた彼はなんの目的も無く己の肉体を鍛える。いや彼は知っているのだ。鍛えられた肉体以外に自分にどんな意味もないということを。そして肉体は彼がヒーローであることを示す記号であり、それ以上の意味は持たない。
そうだ彼が暴力装置だということは「コン・エアー」の冒頭で暴れていた。彼が登場すると暴力が誘われるように出現する。そして彼はその暴力に反応し、終わった時呆然とするのだ。
呆然と立ち尽くす彼はたぶんアクション映画の将来を予言しているのだろう。
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10/28 東京日和
1997年日本映画 10/28シネセゾン渋谷
監督:竹中直人 脚本:岩松了
撮影:佐々木原保志 音楽:大貫妙子
出演:竹中直人/中山美穂/荒木経惟
小津安二郎を心から敬愛するアキ・カウリスマキは一生赤いやかんを追い求めると語っていた。
「東京日和」では幸福な二人の結びつきにいつも優しく赤が寄り添う。アキ・カウリスマキが「東京日和」を観たらとても喜ぶだろう。
人々が到着し出発する場所で遠く離れた二人が手を振り合うのを見守るような郵便ポストの赤。
幸福な二人を乗せる川船の赤。
陽光に満ちた駅のプラット・ホームで二人の側に立ちにこにこ笑う駅員のネクタイの赤。
ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」では二人は共にいると互いの孤独を深め合った。「東京日和」でも共にいるから二人は互いの孤独を深め合う。一人は孤独に引き込まれ狂気に陥る。もう一人も同じだ。正気を保っているように見えるのは、相手の狂気に自分の狂気を溶け込ませているからだ。愛とは孤独を確認する作業なのだろう。愛の中で二人は自分たちが孤独であることに気付き、孤独から逃れようとする。狂気とは孤独からの逃避なのだ。
逆説的な言い方になるが愛の中でこそ人は己の絶対的孤独に気付く。その孤独に対する恐怖が人を狂気へと向かわせるのだ。そして人は絶対的孤独を知ったとき、はじめて人を愛することができる。
だから「東京日和」にある愛は心を打つ。その愛こそは本当の愛だから。
僕は荒木経惟の空ばかり写した写真集を持っている。その写真には深い喪失感、空虚感がある。僕はそれに惹かれたのだ。荒木経惟は陽子が逝ってから、空ばかり見ていたと書いている。
「東京日和」はその空の写真から生まれた映画のように僕には思える。そして「東京日和」は荒木経惟の空の写真集の持つ空虚感、喪失感と共鳴し、心を揺さぶった。
竹中直人監督にありがとうと言いたい。
僕は黄色については触れなかった。黄色に関しては僕はまだ言葉を見つけだせないでいる。
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