5月に観た映画
憂鬱な楽園 エピデミック 愛の誕生 失楽園 イルマ・ヴェップ フープ・ドリームス ザ・エージェント 復讐のプレリュードー大冒険家ー
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直接その感想に飛びます。
5/5 憂鬱な楽園
1996年台湾=日本映画 5/5シネ・アミューズ イースト
監督:ホウ・シャオシェン 脚本:チュウ・ティエンウェン
撮影:リー・ピンビン 音楽:リン・チャン
出演:ガオ・ジェ/リン・チャン/伊能静
ワン・シーン・ワン・ショットはホウ・シャオシェンのトレード・マークのようなものだ。どうしてホウ・シャオシェンはこの技法に拘るのだろうか?
ワン・シーン・ワン・ショットの中ではカメラは表現するものからその本来の姿である記録するものになる。別の言い方をしてみよう。カメラは俳優という素材を使い表現するものから、俳優を忠実に捉えるものになる。俳優が主人となり、カメラは従僕となる。そして俳優は従僕から主人になるとき、その在り方を変える。俳優は登場人物を創り上げる者から、自分自身を表現する者に変わるのだ。
いや、そんな分かりにくい言い方をする必要はない。ワン・シーン・ワン・ショットの中では登場人物ではなく、俳優自身がたち現れる。映画の時間は俳優が実人生において生きる日常の時間に限りなく近づく。この映画では食べるという行為がとりわけ印象的だ。その食べるという行為の中で浮かび上がってくるのは、けっして登場人物ではない。俳優たちが実人生において繰返している食べるという行為だ。言い換えれば僕たちはそこにおいて俳優たちの日常生活を目撃する。目撃を通して僕たちは僕たち自身の日常的生と向かい合う。映画は僕たちを観客席から引き摺りだし、映画に参加することを要求する。
ホウ・シャオシェンは観賞用の映画を作ろうとしているのではない。生と真正面から向かい合う映画を作ろうとしている。だからワン・シーン・ワン・ショットに拘るのだ。
この映画にあるのは俳優たち自身の日常的生だ。彼らはいらついているが、恨みからは遠いところにいる。彼らは楽しむことを知っている。豊かな感受性を持っているとさえ言ってもいいかもしれない。その意味で彼らは楽園にいる。
しかし彼らを取り巻く社会はそうではない。後半金権で結びついた刑事と議員という俗悪を絵に描いたような人間たちが登場する。議員はカラオケで恨みをばねにして成功した男の歌を気持ち良さそうに歌う。社会では恨むここそが、生きることなのだ。
それなのに彼らは恨むことを知らない。恨むことを知らない彼らにあるのは殴られたら殴り返すという単純で明快な考え方だ。その意味でも彼らは楽園にいる。逆に言えば彼らには社会に生きる場所が無い。
ラスト・シーン。彼らは社会を象徴する道路から飛び出し、行き先のない場所に投げ出される。そこで立ち止まってしまうか、ともかくも歩きだしてみるかは、もう僕たち自身の問題だろう。
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5/6 エピデミック
1987年デンマーク映画 5/6ユーロスペース
監督:ラース・フォン・トリアー 脚本:ラース・フォン・トリアー/ニルス・ヴェアセル
出演:ラース・フォン・トリアー/ニルス・ヴェアセル/ウド・キアー
ジークムント・フロイトは晩年人間を動かすものとして死の本能の存在を主張したが、それは余りにも思弁的で実証性に乏しいという理由から学説としては斥けられた。フロイトがその説を主張した背景には彼自身の二つの世界大戦の体験があるだろう。
アレクサンドル・ソクーロフの「そして何もない」1982に関してミハイル・トロフィメンコフがこんな文章を書いている。
「勝利はないが、勝利者はいる。それはエピローグで、カメラに微笑みかけながら意味ありげにスクリーンを横切る、皺だらけの老婆である。・・・・・。彼女は匿名どころでなく、その名は死なのである」
そしてこう結論する。
「死の本能が、幾世紀にも渡る非人間的な歴史のベクトルを戦場へと突き動かす」
この映画でも戦争が核になっている。ウド・キアーがウド・キアー自身として語る戦争体験がそれだ。もちろんそれは虚構の体験だ。ウド・キアーは死を目前にして始めて母親が自分に語った話として戦争体験を語る。産院でイギリス軍の空撃を受けた母親は助かるために必死に頭を働かす。素手で穴を掘ってそこにまだ赤ん坊のウド・キアーを身体にぴったり付けて隠れる。母親の手は血で真っ赤になっているだろう。空撃が一旦止んで母親は外に出る。焼夷弾から身を守るため人々が首から上だけを出して池の中に入っている。見えている皮膚は熱で爛れている。ウド・キアーは静かに言う。彼らはナチではなかった。普通の人々だった。
この映画の題名であるエピデミックは伝染病のことだ。伝染病は人為を越えたところから人々に死をもたらす。もしフロイトの説が正しく死の本能が存在しそれが無意識の領域で人間を突き動かすのならば、戦争もまた人為を越えたものだ。エピデミックは戦争の隠喩となる。そしてエピデミックは死の本能を指し示すものになる。この映画では映画の中で現実と虚構という二つの位相が並行して進む。その二つの位相の境界を突き破るものが催眠術だというのは象徴的ではないだろうか。催眠術によって無意識の世界が、死の本能が解き放たれ、虚構が現実に氾濫し現実を破壊する。
ラスト・シーンというかエンド・ロールでの空撮は神の視点からのものだろう。神の目の下に広がる風景の中で死の本能が蔓延していく。
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5/9 愛の誕生
1993年フランス=スイス映画 5/9シネ・ヴィヴァン・六本木
監督:フィリップ・ガレル 脚本:マルク・ショロデンコ
撮影:ラウル・クタール 音楽:ジョン・ケイル
出演:ルー・カステル/ジャン=ピエール・レオー/ヨハンナ・テル・ステーヘ
パリの夜の静かな騒めきが心に残る。その騒めきは遠く海の騒めきと繋がりとても優しい。パリの夜が立てる静かで優しい騒めきの中を二人のもう若くない男たちが歩き、恋について語っている。カメラは後退しながら二人を捉る。低く抑えられていた街ノイズが高まる。カメラはパンする。光に溢れている雑貨屋が現れる。男の一人がその店に入り、ゴロワーズを買う。
始まりのシーンだ。このシーンで人はこの映画に恋するだろう。
この映画に対してドキュメンタリーあるいはルポルタージュという言葉を使う人たちがいる。そんな人たちは映画的感性がゼロなのだ。アレクサンドル・ソクーロフもまたドキュメンタリーという言葉を使って論じられることの多い映画監督だ。それに対してソクーロフは次のように述べ抗議している。
ー私にとってドキュメンタリーという素材は、美学的行為であって、・・・・・、真実を語ったり、確認したりする志向ではない。
私は一度も真実を志向したことはない。
「人生の反映」でも、「人生の真実」でもない。
映画、それはもう一つの人生だー
この映画もけっして真実を志向してはいない。この映画のやろうとしていることは一つの生を創り出すことなのだ。穏やかな親密さを基本の糸として苛立ちや怒り、不安や死を織り込みながら光と影でできた布を創り出している。その布は静謐な美しさに満ちている。僕たちはその布に身を包みながらパリの夜がたてる音に耳を傾ければいい。
路上で恋人といる男。男は上を見上げる。あの部屋でジャンは拳銃自殺したんだ。カメラはその部屋に向かない。だだ夜のパリを捉える。
映画を観終わって家に戻る道で、僕は男が恋人の髪を愛しく撫でるシーンを思い浮かべ僕の男性にしては長い髪に手をやった。髪は夜の寒さに冷えていた。
/* こんなことを解説するのはかなり野暮なのですが、ジャンとは「ママと娼婦」を監督したジャン・ユスターシュのことです。フィリップ・ガレルの親友でしたが、1981年に拳銃自殺しています。 */
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5/12 失楽園
1997年日本映画 5/12丸の内東映
監督:森田芳光 脚本:筒井ともみ
撮影:高瀬比呂志 録音:橋本文雄
出演:役所広司/黒木瞳/寺尾聰
有楽町のビルの谷間の日溜まりで開場までの時間を潰しながら、僕は恋に狂うことなどけっして願わないと思った。僕はただ退屈していたい。退屈は美しいという一皮剥けば弱者のルサンチマンでしかない言葉は死んでも口にせずにただ退屈していたいと思った。ビルの谷間から覗く青空は都会が吐き出す汚れた空気でくすんでいた。
「失楽園」が映画化されるのはお正月の新聞で知った。監督が森田芳光だと載っていて驚いた。そして読んではいないが屑でしかあり得ない小説をなぜ森田芳光が映画化するんだと怒りを感じた。小説「失楽園」は、この映画から判断する限り、人間どうせ死ぬんだから思いきり好きなことをやらなければ損だという哀れな程浅ましい人生観に収斂して行く。
それでも僕が「失楽園」を観に行ったのは監督が音の感覚に優れている森田芳光であり、録音が映画表現における音の重要性を認識し実際にそのような音を聞かせてくれる橋本文雄だったからだ。音で感動させてくれる映画は最近めったにない。
映画が始まると東映のあのお馴染みの波の映像は出たが、波の音はしなかった。同じく筒井ともみが脚本を担当し不倫をテーマにした「それから」1985でも波の音はしなかった。いや「それから」ではそもそも東映のマークが出なかった。
映画は力強い滝の音で始まった。そして滝の音で終わった。人間の心の深いところで眠る情念の炎を燃え立たせるような滝の音は映画の前半部にある篝火能の身体に響く低く強い太鼓の音に姿を変えながら映画の通奏音としてある。その通奏音は所々で差し込まれる無音の時間によって際立たされる。この滝の音を聴けただけで僕は満足だ。
「それから」では水のイメージが印象的に使われている。松田勇作と藤谷美和子の上に落ちてくる雨。カメラはそれをスローモーションで捉える。雨は松田勇作と藤谷美和子との間にある決定的情念そのものになる。
この映画も水のイメージに支配される。男と女を出会わせるのは滝の絵画だ。女が出口に急ぐときそこでは雨が降っている。女を待ちながら男はホテルの浴槽に湯栓を開いて湯を入れる。女が現れ互いに着ているものを脱がし合うとき、衣服の立てる音は浴槽を満たしていく水音と重なり一体となる。
海に取り囲まれた露天風呂で愛を交わすというかなり俗悪なシーンも、海と露天風呂を満たす湯が作り出す水のイメージが繊細なものにしている。遠く小さく聞こえる海の騒めきに露天風呂から溢れた湯の立てる音が被さるところはとても好きだ。
男と女が最後の食事をする時、画面の奥にカメラは曇りガラス越しにゆっくりと夢のように降る雪を捉える。ガラスも雪も水が姿を変えたものだ。
水のイメージはどこへ向かうのだろうか?僕は最終的に海へ向かうように思える。生を動かす無意識的盲目的力の象徴である海へと向かうように思える。
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5/14 イルマ・ヴェップ
1996フランス映画 5/14シネセゾン渋谷
監督/脚本:オリヴィエ・アサヤス
撮影:エリック・ゴーチエ
出演:マギー・チャン/ジャン=ピエール・レオー/ナタリー・リシャール
有楽町西武のショーウィンドウに貼ってあった「イルマ・ヴェップ」のくしゃくしゃのフランス版ポスターには"MAGGIE CHEUNG IN A LATEX COMEDY BY OLIVIER ASSYAYSAS"と書いてあった。
冒頭のシーン。たぶん初代のコンパクトな一体型のマック。T2のシュワルツェネッガー。コカ・コーラ。ミシェル・ファイファーのキャット・ウーマン。アメリカを象徴するものが次々に画面に提示される。それは偶然ではない。
この映画の核にはアリス・ギイの後を継いでゴーモン社の製作総責任者となったルイ・フイヤードの撮った「吸血ギャング団」1915-1916がある。このルイ・アラゴンとアンドレ・ブルトンと絶賛した連続活劇はアメリカでの連続映画の大成功を受けてフランスで製作されている。連続映画にアメリカが夢中になり、その影響を受けてフランスも夢中になったのだ。アメリカで大成功を収めた連続映画「ポーリン」1914はゴーモン社のライヴァル会社パテ社によって製作されている。「ポーリン」で主演したのは、パール・ホワイトだ。かの淀川長治の少年の頃のあだ名がパール・ホワイトだったと言えばアメリカの連続映画がいかに当時の人々を熱狂させたか分かってもらえるだろう。「吸血ギャング団」の向こうにはアメリカがある。
人々はパール・ホワイトを速い真珠と呼んだ。ルイ・アラゴンが言うようにそう呼ぶことによって人々は画面の中のパール・ホワイトの迅速なエネルギーと豊かな美しさにオマージュを捧げたのだ。
オリヴィエ・アサヤスは「吸血ギャング団」のスター、ミュジドラに「ルイの編集した」フィルムによって、当時の人々がパール・ホワイトにそうしたように、オマージュを捧げている。しかし反対の意味でだ。
アメリカ生れの連続映画はフランスにアメリカ趣味をもたらした。それはフランス映画の地位を覆した。マギー・チャンにインタヴューするジャーナリストのように当時のフランスの人々はフランス映画を好意的でない偏見を持って批判したのだ。
「吸血ギャング団」はアメリカの連続映画を模倣しているように見えてそうではない。ミュジドラはこう語っている。
「知性的な人物フイヤードと仕事をすることで、私は身振りのための身振りという型を捨て、演劇の真実とは違う、生活の真実を追究しなければならないことにすぐに気がつきました」
オリヴィエ・アサヤスがオマージュを捧げるのはこう語るミュジドラに対してだ。「吸血ギャング団」はフランス映画の持つ最良の部分を受け継いでいる。
そうならば、この映画はあのジャーナリスト、そしてアメリカ映画に対するポップな挑戦状だろう。
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5/16 フープ・ドリームス
1994年アメリカ映画 5/16シネ・アミューズ イースト
監督:スティーブ・ジェイムス
音楽:ベン・シドラン
出演:アーサー・エイジー/ウィリアム・ゲイツ/シーラ・エイジー
映画が発見した最大のものは何だろうか?僕にはそれは人間の肉体であるように思える。人間を精神と肉体の二つに乱暴にも分けたとき、肉体は精神に従属するものになる。一つ一つの肉体の動き、目の動き、口の動き、手の動き、足の動きは精神を表現するものとなり、そこにおいてのみ意味を持つ。
しかし映画は肉体がそれ自身思想を持つことを教えてくれた。精神が思想を持つように、肉体も思想を持つのだ。精神が運命を呼び寄せるように、肉体も運命を呼び寄せる。
この映画の予告編を観たときこの映画は絶対に観ようと思った。そこには肉体が歌う詩があった。実際に観てみたら、映画に捉えられていたのは、二つの肉体が呼び寄せた物語だった。物語の核にはアメリカン・ドリームがある。二人の黒人少年はアメリカン・ドリームの背後に黒人はアフリカに帰れという声を絶えず聞いている。二人はアメリカン・ドリームがほとんどまやかしであることを充分に知っている。それでも二人はアメリカン・ドリームに賭ける。二人の少年にとってアメリカン・ドリームは唯一の脱出口なのだ。そしてなによりも二人の少年は心からバスケット・ボールを愛している。
アーサー・エイジーは迅速な肉体を持っている。コート上でゴールへ向かう一瞬できる道を鋭敏に見つけるとその道に肉体を疾走させる。アーサーの肉体がコートを風のように駆け抜けるときボールはフープ(輪)の中に吸い込まれる。
ウィリアム・ゲイツは力強い肉体を持っている。ウィリアムはゴールへ向かう道を見つけるのではない。道を作るのだ。ウィリアムの力強い肉体によって守られた道をボールが進み、フープへと入る。
しなやかな肉体と強い肉体。それぞれの肉体はそれぞれの運命を呼び寄せる。
後者はバスケット・ボールの名門高校の管理主義的環境の中で才能を伸ばし、前者は公立高校の荒んではいるが伸び伸びした環境の中で才能を伸ばす。
いや、この映画は感想を書く映画ではない。言葉では肉体の語る言葉は表現できない。
精神の語る思想が闇の思想だとするならば、肉体の語る思想は光の思想だ。その光を浴びていればいい。言葉はいらない。
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5/19 ザ・エージェント
1996年アメリカ映画 5/19日本劇場
監督/原作:キャメロン・クロウ
撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ダニー・ブラムソン
出演:トム・クルーズ/キューバ・グッティングJr/レニー・ゼルウィガー
トム・クルーズは大好きな俳優なので楽しみに観に行ったのだが、心は冷えきってしまった。
オスカーを逃した瞬間のトム・クルーズの爽やかな笑顔を見ながら、アカデミー賞なんてしょせんお祭なんだから、この誰よりも華やかな賞が相応しいトム・クルーズに受賞させればいいのにと思ったのだが、実際にこの映画を観てみてトム・クルーズがオスカーを逃したことはトム・クルーズ自身にとっても、映画にとっても幸福なことだったと思い直した。
ニコラス・レイが好きだと言うフランスの映画女優が雑誌でアメリカの俳優は百面相を使って演技する、内面の激しい動きは静かな演技によってこそ表現されるのではないか、アメリカ流の大げさな演技はなにも表現しないという意味の発言をしていた。僕は映画を観ながらこの言葉を思い浮かべていた。
トム・クルーズはまさに百面相とオーバーな身振りで演じていた。ある人々はこれを熱演と呼ぶのだろう。たとえばトム・クルーズにゴールデン・グローブ賞を与えた人々がそうだ。僕はこれを演技と呼ばない。トム・クルーズは演じているのではない。言うならばアクションしているのだ。結果ジェリー・マクガイアという人間に関してはなにも伝わってこない。画面の中には表情も含めたトム・クルーズのアクションがあるだけだった。僕の心は冷えてしまった。
演出もあざとい。重要な場面になると途絶える音。トーキーにあって無音は緊張感を作りだすが何回も使うと逆効果だ。それに話し合う姉妹をシルエットで浮かび上がらせる照明。どうしてあのシーンで二人の表情を影で隠す必要があるのだろうか。演出のための演出という感じがしてますます僕の心を冷やした。
ジャズを心から愛する「保父」の存在もいまひとつ分からない。キャメロン・クロウ監督はアクセントとして彼を入れたのだろうか。僕にとっては映画の焦点がぼやけてしまっただけだった。
ロッドの妻も気になった。登場人物としては魅力的なのだが、目立ち過ぎる。ジェリー・マクガイアの相手役のドロシーがかすんでしまい、この映画はラブ・コメディとしても観れなくなってしまっている。
まあよく考えてみれば、仕事一筋の中年にさしかかった人間がある日突然目覚め、自分探しの旅を始めるという話が魅力的なものになる訳がない。
ジェリー・マクガイア、これまで自分のことしか考えることのできなかったあなたは本当に他人を発見することができたのでしょうか?
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5/23 復讐のプレリュードー大冒険家ー
1995年香港映画 5/23銀座テアトル西友
監督:リンゴ・ラム 脚本:シウ・ライヤオ
撮影:アーサー・ウォン
出演:アンディ・ラウ/ロザムンド・クヮン/ン・シンリン
高い位置での俯瞰からの画面一杯の青々した水稲。光に満ちている。カメラはスムーズに下降する。カメラは今度は水田に立つ少年の顔を仰角のミドル・ショットで中央に捉える。カメラマンは広角レンズを使っている。それが画面全体に不安感を醸し出す。次のショットで不安感の源泉が映し出される。水田に横たわる無惨に殺された男。
少年が死に直面した瞬間からカメラはロールし画面は傾く。傾いた画面は少年を直撃した不安を象徴する。
その不安の中でリンゴ・ラムは少年の目だけを浮かび上がらせ、少年に地獄を見せる。母親が射殺され、父親も射殺される。妹は火に焼かれる。僕たちの心に残るのは無残な死ではなく、少年の瞳だ。地獄に直面した少年の瞳。
少年は復讐の念だけを生きるエネルギーにして成長する。
青年となった少年をリンゴ・ラムはもう一つ深い絶望へと突き落とす。少年の復讐の念は国家によって利用される。青年となった少年自身も妻への愛と死んでいった両親への愛の間で引き裂かれる。少年は復讐の相手を殺すために死地に赴くが、それは「仕方ない」からなのだ。
苛酷で残酷な世界。少年が「仕方ない」と言うときそれはそんな世界に対する諦念のように聞こえる。
少年を救うものはなんだろうか?
それは暴力だ。殴られ蹴られ軋む骨。撃たれ刺され血を流す肉体。それらが少年を救う。乱暴に結論だけ言ってしまえば暴力は聖なるものなのだ。優れたアクション映画はそのことを教えてくれる。
ラスト。水田を走る大人になった少年。少年は倒れる。カメラは倒れた少年が見るものを観せてくれる。水稲の間から見える少年の子供。少年は死を潜り抜け生と出会う。
そしてその瞬間カメラはロールすることを止める。
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