中島飛行機創生期

その2

1919年〜1920年

 1919年(大正8年)2月に完成した中島式四型は、佐久間一郎技師を主務者として、関口英二技師、宮崎達男技師、そして栗原甚吾技師が協力して設計製作した。三型に対し新しい設計の主翼を採用し、空力的にも大幅に改善され、それなりに近代的な外観設計となった。そしてこの試験飛行を陸軍を予備役となり中島に入社した水田中尉が尾島飛行場でおこなった。その結果、初飛行で連続宙返りを5回も行うなど、あまりの好成績で一同放心状態になったといわれている。

 同年10月21、22日帝国飛行協会主催で第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会が計画された。しかし参加希望が少なく、当初中島機と他の1機の2機しかなかったが、協会の要請で中島は2機参加した。この競技会は東京大阪間を無着陸で8貫目の郵便物を積んで飛行するもので、佐藤要蔵飛行士の操縦の中島式四型ホールスコット150馬力機と水田嘉藤太の中島式六型200馬力機、そして山縣豊太郎の伊藤式恵美号アメリカ製ゴルハム125馬力機の3機が参加した。中島六型機はコースを誤り和歌山県紀ノ川付近に不時着して失格。実質2機で競われ、中島式四型機が往路3時間40分。帰路3時間18分、計6時間58分で勝利を得て賞金9500円を獲得した。山縣のゴルハム機は8時間28分であったが慰労金として4500円を授かっている。また失格の六型機も帰路では栗原刃吾を乗せて2時間39分の当時信じられない大記録を打ち立てたのである。これにより国産機がやっと認められるようになり、中島飛行機研究所改め製作所にも明るい希望が開かれた。

飯沼飛行士と栗原甚吾技師



中島式四型
全幅:13.00m、全長:7.50m、自重:700kg、搭載量:500kg
発動機:ホールスコットA-5水冷直列6気筒 150HP
最大速度:130Km/h、実用上昇限度:3,500m、航続:5時間
木製主材骨組、合板羽布張り

 四型の名声によって、陸軍は初めて民間の日本人設計の機体(五型)を20機発注する事となった。
 また、中島知久平は更に懸賞飛行会に全精力をつぎ込んでいった。これは中島飛行機を世に知らしめる絶好の機会となったのである。そして第二回以降、多くの中島飛行機が参加し盛況となっていった。

 陸軍の20機(機体のみで11千円)の注文を受けて経営は一息つき、工場も増設して従業員数は300人となった。このころ米国の三井物産駐在員からホール・スコット150馬力発動機が200基ほど売り物があるという情報を得た。価格は1基15千円である。当時は機体の月産能力3機、また当時の総理大臣の給与が1千円の時代に中島知久平はなんと100基(総額150万円)注文したのである。この無謀と思えた決断であったが、その後、陸軍から一挙に70機、海軍から30機の注文を得て、この発動機が見事に役立ったのであった。ただ中島はこの英断の前に陸軍の井上中将に相談している様で、裏付けがあったように思われ、ここでもしたたかさが窺える。


中島五型(総生産数118機)
全幅:12.85m、全長:7.60m、自重:780Kg、搭載量:350Kg、乗員:2名
発動機:ホールスコットA-5水冷直列6気筒 150HP
最大速度:136Km/h、巡航速度:110Km/h、実用上昇限度:3,500m、航続:5時間
木製主材骨組、合板羽布張り

ホールスコットA-5水冷直列6気筒エンジン


陸軍中島式五型練習機(発注数:100機)

 中島式六型機はエンジンを強化(発動機リバティ・ホールスコットL-6 200HP)し、戦闘機用の直径の小さな高回転のプロペラを取り付け、機体は五型を改修して強度を上げたものであった。この六型は本来ならば第一回懸賞飛行会で優勝する実力を持っていたが不運にも途中コースを誤り和歌山に不時着して勝利を逸してしまった。

六型懸賞飛行出場機

六型 量産機体

 七型機はアメリカ在住の日本人が帝国飛行協会に献金した資金により製作された機体で「在米同胞号」と呼ばれた。発動機はスターテバン5A210馬力を装備し、機種のラジエータを円形にして1920年(大正9年)2月に完成した。しかし冷却能力不足でオーバーヒートし飛行中に熱湯のしぶきを浴びるほどであった。4月の東京〜大阪往復無着陸飛行競技会に参加のため急遽ラジエータ上に追加水タンクを設けた。競技会は東京洲崎飛行場を出発して大阪城東練兵場上空を経て反転し東京に帰る870Kmの速度競技である。これに飯沼金太郎飛行士が参加したが出発後30分で丹沢山に墜落し、飛行士は重傷を負った。


七型機:胴体のマークは帝国航空協会のもの

洲崎出発前の飯沼飛行士
中島式七型
全幅:13.00m、全長:7.05m、自重:850Kg、乗員:1名
発動機:スターテバント5A水冷V型8気筒 210HP
最大速度:170Km/h、航続:10時間
木製主材骨組、合板羽布張り

 以上の中島式一型から七型で中島飛行機の基礎が築かれ、その後の飛躍へと向かうこととなった。中島知久平達の飛行機生産に臨んだ態度は、国家に役立つことを基本目的としており、飛行機技術の立ち遅れは日本の国防に大きな危険をもたらすという国家的見地であったという。そのため中島の計画は遠大なもので目先の利益にさほどこだわらなかった。中島の技術者たちは「性能の良い飛行機を作ることに営々として、優れた品質のものを生産しておれば営利を考えずとも自然に大をなす事が出来る」との信念にもとづき次々と新しい技術に挑戦していった姿がうかがえる。大正10年、中島飛行機製作所は逓信省航空局および帝国飛行協会から「航空機の設計並びに制作の功労者」として表彰を受けるに至っている。

創生期:おわり

・出典及び参考文献:「富士重工業30年史」「銀翼遥か(太田市)」「飛翔の詩(中島会)」
          「佐久間一郎伝(非売品)」「日本傑作機物語(昭和34年酣燈社)」 
          「富士重工業広報部」の協力 等によります。

 


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