301.中島 一式戦闘機(キ-43)[旧日本・陸軍]

NAKAJIMA TYPE I FIGHTER"HAYABUSA" [JAPAN・ARMY]

初飛行:1938年12月12日
全幅:11.44m 、全長:8.83m 、総重量:2,5833kg、 最大速度:495km/h/4,000m、
発動機:ハ-25 「栄」970馬力/3,400m、 武装:機銃12.7mm×2 、乗員:1名

 太平洋戦争開戦時、約40機しか配備されていなかつた隼も、1944年9月の生産打ち切りまでに5,171機が生産され、三菱の零戦に次ぐ日本第2位の生産機数を記録する。開戦当初はマレー、ビルマ万面で、その長大な航続距離を生かして制空戦闘に大活躍(飛行第64戦隊いわゆる加藤隼戦闘機隊が有名)。主としてブリウスター「バッファロー」、ホーカー「ハリケーン」などのイギリス機と対戦したが、優れた空戦能力で敵にはしなかった。しかし1型・2型・3型と改良を重ねても、高速化は大して図れず、武装も貧弱だったため、最後には特攻機として悲俗な運命をたどる。

 こんな戦史や戦記にはあまり関心がないはずの小池さんが作品の題材に選んだのは、加藤健夫中佐がイギリス爆撃機と交戦し戦死した時の情景。ペンガル湾の波立つ紺碧の海がきれいだが、でもなぜ?。「ストーリーからイマジネーションを働かせて描いたのはこれだけじやないかな」と話すだけで、理由は教えてもらえなかった。

 きっと想像するに、「理由なんてないけれど、隼のスマートな姿をこんな角度で描きたかったし、波立つ海の潮風を描きたかったから」というところだろうか。小池さんはこの作品と合わせ、富士重工業のカレンダーだけでも4回隼を描いている。「いくら描いてもうまくいかない。日本の飛行機は職人が打ち延ばして機体を作つているから、微妙なラインが難しいんです。特に、この隼はね」と。

梶本佳昭氏より以下の解説E-Mailを戴きました。(1997.8.14)

 上の作品は昭和17年5月22日のベンガル湾上空です。飛来したブレレンハイムの邀撃に安田曹長、大谷大尉。続いて加藤部隊長、伊藤曹長、近藤曹長の五機が離陸しました。洋上で追いついた敵機に安田機がまず後部銃座を射撃。大谷機は攻撃中に被弾。そして三番目に加藤機が後上方から攻撃をはじめた瞬間の場面です。

 加藤健夫部隊長はその直後に被弾して戦死されます。五人の中では安田義人(81歳)さんだけがご健在です。

 翼に白の矢印がありますがこれが飛行第六四戦隊の部隊標識です。主翼にも白の斜めの帯が描かれております。戦隊長 加藤健夫中佐の乗機を示しております。映画では藤田進が好演でした。(昭和十九年の古い古い映画です)

 尾翼の矢印の色で中隊を識別していたそうです。

 この当時、黒江保彦大尉が中隊長でした。航空自衛隊が出来てすぐ英国の空軍大学に留学した方で、小松の基地司令をされているとき磯釣りにいって遭難して亡くなった方です。戦時中に内地に戻って各務原(後に「福生」らしいと訂正)でテストパイロットをしていて、戦地で接収したP−51のテストもされています。

安田曹長は戦後身体をこわし榛名山の麓の療養所に入院していました。ある日の新聞に、かつての陸軍の撃墜王の黒江中隊長が 農薬散布の軽飛行機に乗っている写真がでていました。早速手紙を書いて連絡したところ、黒江さんがボロの農薬散布用のセスナに乗ってやってきて病院の上で、ボロ飛行機で精一杯のスタント飛行をしてみせて、大きく翼を振ってヨタヨタと去っていきました。声は聞こえないけれど、「安田!がんばれ!」という黒江中隊長の励ましの笑顔を感じました。

 今から五十年前の何もかも不自由だった頃の話です。

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