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日本人の主食はなぜ米になったか

吉田信威
これは、平成27年度にいがた市民大学 新潟学コース「和食を知る」を受講した際の修了レポートとして作成したものです。

−− 目  次 −−


  1. 稲の起源
  2. 縄文期における日本の「食」と縄文稲作
  3. 弥生時代に導入された水田稲作
  4. 日本における稲作の発展
  5. 米と和食
  6. 日本人はなぜ「コシヒカリ」を良しとするのか
  7. 多様な米食文化を
参考文献

日本人は近年においてはパンや麺類も食べ、肉等の動物性食品も多く食べるようになったが、まだ全体としてみれば「日本人の主食は米」であるといって差し支えないと思われる。米を主食とすることが欧米におけるような高エネルギーの油脂類を過剰摂取することにならず、「日本型食生活」の良さが世界的にも評価される大きな要因となっていることと考えられる。ここで米がどのように日本に伝わり、日本において主食の座を占めるようになったか、なぜ日本人は米を主食として選んだのか含む米・稲作の歴史を概観するとともに、日本の主食となった米と和食との関わりについて考察していきたい。

1.稲の起源

栽培作物としての稲の起源については、かつては中国の雲南からインドのアッサム地方にかけての地域とする説が有力だった時代もあったが、その後の発掘・研究から、今では約1万年前の中国の長江下流域、湖南省あたりとする説が最も有力となっている。

イネは大きく分類すると温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカ(「ジャワニカ」あるいは「ジャバニカ」とも称する)、インディカとなる。長江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡(約7,000年前頃とされる)からはジャポニカ米(熱帯ジャポニカあるいは温帯・熱帯ジャポニカが分かれる前のものとされる)の痕跡が見つかっている。また、彭頭山遺跡よりBC6500年頃(約8500年前)とされるもみ殻等が発見されているが、これは野生種から栽培種への過程をしめすものと考えられている。

インディカ米は後にジャポニカ米と近縁植物の交雑によってできたものではないかとも言われている。

2.縄文期における日本の「食」と縄文稲作

人間の歴史の中で、寒冷期には狩りをして得た動物が主要な食物となり、一方で温暖な時期には植物質の割合が増えるという傾向が見られる。縄文期に先立つ旧石器時代は比較的寒冷な時期であり、日本ではナウマンゾウやオオツノシカ等の比較的大型の獣が主要な食用資源であった。しかし縄文期に入ると、日本は温暖な気候に恵まれたため、食べられる植物も豊富に得られた。木の実としてはドングリ、クリ、クルミ、トチの実等があり、穀類としてはアワやヒエ、湿地に生えるサトイモも重要な食糧資源であった。また縄文初期には弓矢も発達し、イノシシ、シカ、ツキノワグマ、サル、キジ、ヤマドリ等の動物も狩られていた。

この時期、世界の他の文明(ヨーロッパ、西アジア等)では既に農耕が行われていたが、日本の縄文期には農耕はまだ本格的には行われていなかった。この理由としては、当時の日本は他地域と比べて、自然から豊富な食用資源が得られたためであると考えられている。

このため、縄文中期には人口が増加したと考えられている。(その後、縄文後期・晩期には一旦人口は減少する。) しかし、実のなる木やサトイモ等を住居の近くに植えたり、雑穀やイネを焼き畑で栽培する等の半栽培ないしは初期の農耕がこの時期には見られるようになった。

なお、中国の黄河以北は現在は小麦が主要な作物であるが、この時代はアワ、キビ等の雑穀が主要な栽培植物である。日本でもアワ、ヒエ等の利用があり、当時の中国の影響も考えられる。またタロイモ(サトイモの類)、ヤムイモ(山芋の類)、バナナ等を特徴とする根菜文化圏(マレー半島〜ポリネシア等の島嶼地帯)の影響を受けているともいえる。縄文期において特に温暖な地域ではサトイモが重要であったことが考えられる。後に中秋の名月に「月見団子」が食べられるが、これはサトイモを模したものであり、この時期に収穫されるサトイモの収穫祭がその一方のルーツであるとの考えもある。

日本に稲作が伝わったのは縄文晩期又はこれ以前とされている(縄文前期とする説もあるが、早い時期になるほどその信憑性は不確かなものとなる)。縄文前期縄文稲作の特徴としては、これは水稲ではなく焼き畑で作られる陸稲(おかぼ)であり、これは熱帯ジャポニカであるということである。縄文時代には多様な食糧資源を利用していたが、稲もその中の一つという位置づけであった。

なお稲の原種には赤米を初めとする有色米も多く、縄文期に栽培された稲も有色米、白色米が混在しており、後に「おこわ」が小豆等で赤く染められるのも初期の稲作において赤米が栽培・利用されていたことから来るのではないかともいわれている。

3.弥生時代に導入された水田稲作

弥生時代には朝鮮半島を経て弥生人が渡来した。弥生人のルーツはバイカル湖周辺のシベリアとされており、北方系の特徴(顔面が上下に長く凹凸が少ない等)を有している。従来は弥生人が日本に稲作をもたらしたと考えられているが、北方系の民族が南方系の稲を帯同したというのは不自然である。朝鮮半島で稲作を受容し、日本にはこれを持ってきたとも考えられるが、北方系の弥生人とは別の系統の人達がこの時期に水田稲作を日本にもたらしたと考えるのが最も自然である。

弥生時代は中国では周王朝〜春秋・戦国時代〜秦〜前漢〜後漢〜三国時代にあたり、前漢時代の一時期を除いては各地で戦乱が起こっている時代でもある。争いに敗れた側の人々がボートピープルとなって太平洋に漕ぎ出し、その一部が日本に漂着し、特にその中でも江南地方(長江下流域周辺及びその南側)の人々が稲作及びその周辺技術(灌漑・排水等)を日本に伝えたとするのが最も可能性があることと考えられる。

水田稲作は周到な技術を要するもののそれまでの狩猟・採集及び初期的な農業に比べて生産性が高く、これを背景に人口が急激に増加し、次第に国を形成するようになり、飛鳥時代を迎えるようになったとされる。他方で弥生期には身分階層が生じ、稲作等の農業に従事していた人達は、生産した米の多くを税として徴収され、自らは米をほとんど食べられなかったとする考えも根強い。しかし、当時の人口のうちの多くを農民が占めていたことを考えると、税として徴収されたほとんどの米は誰が食べていたのかということになる。また弥生期の急激な人口増加という事実とも矛盾する。この疑問に対する解答の一つとして以下のことが考えられる。当時稲作が行われるようになったとはいえ、まだ供給食糧全体に占める割合はまだそれ程高くなく、縄文時代より行われてきた狩猟・採集や畑作により得られていたものが食糧の主体であり、米の占める割合はまだそれほど高くはなかったのではなかろうか。また生産した米のうち、品質の良い部分は税として上納されたが、くず米等は農民が食べていたものと思われる。これによる栄養供給量も無視できないものがあった可能性も高い。

4.日本における稲作の発展

弥生期に導入された稲作は、現今見られるような平地の水田稲作ではなく、谷間や山すその緩傾斜地を整備した棚田で栽培されていた。緩傾斜地では上流部より水を引いてきて田にいれ、田からの排水は下段の田に入れ、最終的には川に戻すというものであった。当時の平野部の多くは沼地状のところが多く、水田にすることは当時としては困難〜不可能であった。平野部を水田にすることはそれ以前から試みられており、奈良時代において墾田私有が認められ、更に開墾が行われるようになった。しかし本格的な平地での開田が行われるようになった始まりは平安期の荘園においてであり、その後鎌倉・室町期〜戦国時代、江戸時代そして近世では戦後期まで続く。

なお、全国的には水田開発は「最近」と言える八郎潟(昭和52年完工)・河北潟(昭和60年完工)の埋め立て・干拓まで連綿として続くことになる。

平野部の水田開発について新潟平野を例として触れてみたい。戦国期に長尾景虎(=上杉謙信)が現在の新潟平野ではなく上越に本拠地を置いた理由の一つが、当時の新潟平野はまだ信濃川・阿賀野川の氾濫原であり、農業生産は平野内の微高地で行われているのみであった。新潟平野が本格的に水田開発されるようになったのは江戸期、新発田藩等によるものであり、更には最大の問題である排水対策の切り札として大河津分水(大正11年完工)等の対策が進められた。しかし中でも亀田郷は戦後においてもまだ強湿田であり、その後の土地改良によりようやく今日見るような水田(=乾田)となった。

排水不良の湿田では高品質の米を多収することはできず、当時の新潟の米は「鳥またぎ(鳥さえも食べないまずい米)」と称せられた。新潟の米が全国的にも名を馳せるようになったのは、戦後ようやく新潟平野全体が乾田化されるとともに、ここで全国的にも高食味米と代表としてあげられる「コシヒカリ」が栽培されるようになったためである。

日本は米を主要な食物とするとともに、これに貨幣的な位置づけを与えてきた。江戸時代以前は領地の米の生産量により「○万石大名」と称するが如くである。また日常生活の中でも米を神聖化してきた。かつては「ご飯を残すと(あるいは粗末にすると)目がつぶれる」等と言われたものである。近年はそのような意識も薄くなってきたように思われる。

現今は日本国民は誰でもどれだけでも「ご飯」を食べることが出来るようになった(その一方で近年は米の消費量は減少傾向にある)。しかし歴史的にはそのようになったのは戦後、米の生産が飛躍的に向上してからであり、縄文期から現在に至る長い米の歴史からすれば「ごく最近になってから」ということになる。

5.米と和食

米(ご飯)と和食の関係について、ここでは先ず日本食の食べ方の特徴の一つでもある「口中調味」を取りあげてみたい。「口中調味」とは「おかず」(副食)とご飯を一緒に食べて口の中で混ぜ合わせるのである。これにより「おかず」が直接舌に触れたときの直接的な味わいと食感、ご飯のほのかな甘みと食感そしてそれらが混ざり合い、それぞれが混合された味わい…と複雑な味わいの経過をたどることができるとともに、より少ない「おかず」でも満足することができるという特徴もある。和食における「料理」は「口中調味」を前提として発達したという要素もある。

日本食を彩る各種調味料も主食たる「米」を主原料とするものが多い。味噌、醤油、酢、味醂はいずれも米が原料となっている。食を彩る酒(日本酒)も同様である。

6.日本人はなぜ「コシヒカリ」を良しとするのか

世界的には食べられている米の大部分はインディカ種であり、ジャポニカ(温帯ジャポニカ)はマイナーである。しかし日本では米といえば現在栽培・利用されている温帯ジャポニカ以外がほとんど全てである(一部インディカ米も栽培されてはいるが)。またその温帯ジャポニカの中でもコシヒカリのようにより粘質なものが好まれる傾向にあり、多くはその方向で品種改良もなされている。

なぜ日本人の好みがこのようになったのかは、必然と偶然、及び人間の嗜好の特徴があるように思われる。弥生期にもたらされた温帯ジャポニカ米がそれまで陸稲として栽培されていた熱帯ジャポニカ米よりも安定した収量が得られ、かつそれがより美味と感じたことにより日本人に選ばれた。温帯ジャポニカは粘りけが強い。温帯ジャポニカ米を食べ続けることにより、「コメとはこのようなもの」との思い込みが日本人に定着したものと思われる。また人間の嗜好はある一方に進み始めるとさらにその方向性を強めようとするところがある。インドでは暑い中で食欲を刺激しようと辛いものが食べられるようになると更により辛いものを追及するようになるという具合である。

そして日本人のコメへの好みの進む先に作成された品種、即ち日本人の米の好みを集約させたのが現在では「コシヒカリ」であったように思われる。

7.多様な米食文化を

パンや麺類等の小麦製品、あるいは食用油の摂取が増え、米の消費量が減少しているとはいえ、米はまだ日本人の食において重要な位置を占めている。国民の多くの米に対する好みも「コシヒカリ」的なものを志向していると思われている。

「和定食」スタイルの食べ方ではコシヒカリも良いかもしれないが、それでも個人による好みも単一ではないことも考えられる。

大都市の米販売店の一部では「お米マイスター」がおり、客の好みを聞いて適切な品種を推薦したり、あるいは好みに適したブレンド米を作ってくれたりする。「お米マイスター」が地方都市にも増えるとともに、このような好みにはこの品種といった情報。あるいはお米のブレンドの例を示す等をインターネット上で示したりすれば、消費者の米に対する知識も増え、米の消費拡大にも役立つのではないかと思われる。

一方で、ご飯の食べ方も一様ではなく、牛丼等の丼飯、炊き込みご飯、おにぎり、チャーハン、カレー等といったように多様な食べ方がある。牛丼チェーンの吉野家では牛丼に合う粘りの少ない硬質米ということで「みつひかり」あるいは北海道産の「そらゆき」等を使用している。家庭においても調理法により米の品種を変える等ができるように、多様な品種が手に入るような条件の整備と情報が容易に入手できるようになることが望まれる。


にいがた市民大学後期コース修了レポートの規定(A4用紙4〜6枚)に合わせるため、特に後半部分は言い足りないことがかなりありました。今後特に文章の後半部分を書き直したいと思っております。


≪参考文献≫

(書籍)
(a-1) 稲の考古学(中村慎一著、同成社、2002年)
(a-2) 料理の起源(中尾佐助著、日本放送出版協会、1972年)
(a-3) 稲の歴史(佐藤洋一郎著、京都大学学術出版界、2008年)
(a-4) コメの歴史(レニー・マートン著、原書房、2015年)
(a-5) 食の考古学(佐原 真著、東京大学出版会、1996年)
(a-6) 日本人は何を食べてきたか(原田信男著、角川文庫、2010年)
(a-7) 食の文化史(大塚 滋著、中公新書、1975年)
(a-8) 日本人は何を食べてきたのか(永山久夫監修、青春出版社、2003年)
(a-9) 日本人は何を食べてきたか(神崎宣武著、大月書店、1987年)
(a-10) 日本民族の自立と食生活(農山漁村文化協会文化部編、農山漁村文化協会、1977年)
(インターネット情報:いずれも情報入手は2016年1月〜2月)
(b-1) 日本人の源流を探して-2 02.縄文イネの品種と起源は
(b-2) 同上 03.縄文稲作は何処から来たか
(b-3) 長江流域における世界最古の稲作農業(安田喜憲)
(b-4) アイヌと琉球は縄文型 日本人の遺伝系統、ゲノム解析で裏付け
(b-5) 見えてきた稲の道1 1.基調講演 イネと稲作の日本史
(b-6) 6-4 縄文の陸稲
(b-7) A RDEC 日本に初めて伝来した米は、赤米だった
(b-8) 弥生時代の米食文化(コメの食べ方)と塩の道
(b-9) 図録▽人口の超長期推移(縄文時代から2100年まで)
(b-10) 潟の開発の歴史 | 潟のデジタル博物館
(b-11) 和食普及研究会 和食と健康 口中調味
(b-12) 日本人の食文化「口中調味」は複雑な味わいを生む高等技術だ
(b-13) 商経アドバイス おコメの話し
 
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