2008年10月・11月・12月


2008年12月 31日

コミックマーケット75来訪感謝。

年末多忙の中、コミケット75『あびゅうきょ』スペースに足を運んで頂きこの場を借りて御礼申し上げる。

久しぶりに大晦日が外された「3日目」。何とか売り子さんも確保出来たので精神的に余裕を持って臨めたコミケット。

天候もよく午後には会場内は汗ばむ程の熱気があった。

暮れとは言え30日は平日なので人出はどうかなと不安であったが杞憂に終ったようだ。少年創作ジャンルも終日賑わい午後遅くなっても人波が途切れる事はなかった。

また東4ガレリアに設けられたマイクロマガジン社『マンガ論争2』告知ブースも期間中盛況だったようだ。

そこで無料配布されたコピー小冊子『マンガノクニノキキ2』には自分が担当した表紙カバーイラスト案ラフ画も多数掲載されていたので御覧になった方も多いかと思う。

それはさておき、スペースに訪れて頂いた何人かの方に『影男シリーズ』完結単行本発行についてのお尋ねを頂いた。

自分としては何とか出したいと考えてはいるが、編集部の事情もあってなかなか決定するまでには至っていない。

今後出版に向けて鋭意努力していくので気長に待って頂ければ幸いである。

来年は原画展も予定しているので合わせて現実化させたい。

来年もよろしく。


2008年12月 29日

コミックマーケット75『あびゅうきょ』スペース御案内

コミックマーケット御案内。

明日30日、東京ビッグサイトで開催中のコミックマーケット75に参加します。

スペースは東4ホール「モ」24b「あびゅうきょ」。

新刊『大泉学園妄想花嫁』をはじめとして夏に販売したドラマCD『多摩モノレール堰場幻影』など既刊本多数を頒布するので宜しくお願いします。

また限定コピー誌新刊や別名義の成人向け同人誌も頒布する。

また告知が遅れてしまったが東ガレリア特設ホールにてマイクロマガジン社から二月に発行予定の「マンガ論争2」の販売促進アイテムとして「マンガノクニノキキ2」を無料頒布中。今回もカバーイラストを担当させて頂いて、その候補ラフ画をまとめてある。詳しくは永山薫氏のブログを参照。

東京ビッグサイトへは山手線圏内ならりんかい線が便利です。

16時まで開催中。

興味ある方は是非宜しくお願いいたします。



2008年12月 24日

胡散臭い「不況」

昨今、メディアは「100年に一度の金融危機」とかで「大不況」報道に明け暮れているけれど、なんだか胡散臭い。

1990年前後のバブル経済破綻以降はすべてが「右肩下がり」の印象が強く、今更「不況」なんていわれても「ああそうですか」という感想しかない。

日本を代表する自動車メーカーが昨年史上最大二兆円以上の利益を上げたかと伝えられた途端に、今年は史上初の赤字転落という報道も尋常ではない。何かのコントのようで現実感が完全に喪失している。

「机上の数字遊び」のような金融マネーゲームに乗っかった挙げ句のアップダウンクイズのごとき極端な市場の乱高下はもはやマトモな人達が理解出来る世界ではない。

別に天変地異が起こった訳でもないのに、一瞬にして何百兆円ものお金が出現したり消滅したりするのは一種の気狂い沙汰であろう。

こんなものに真面目につきあっていたら誰も身体が持たない。

1970年代のオイルショック時は石油という戦略物資が絡んでいたから何となく常人にも理解出来る現象だったが、今回の「金融危機」とやらは「あっちの世界」の出来事。

そんな「あっちの世界」の住人が仕出かした博打の失敗を擦り付けられてはたまったものではない。

今回の「不況」で打撃を受けているのは自動車や不動産や建設業だそうである。

それが軒並みダメになっていくのは、誰のせいでもなくて、いずれは淘汰されゆく産業なのだろう。

曾ての基幹産業だった炭坑業と同じように。

だから成るに任せればいいのだ。いずれは消え行く産業にいつまでも縋り付いているからこういった結果を生んだんじゃないだろうか。

正直、これらの産業に直接縁があった事もないし、親近感も湧かない。実際普段お世話になっているのはITの末端ばかりだ。自動車は運転はおろかタクシーにすら乗る事も稀。ひきこもりに車の必要性を感じる事はすでに全くない。

アメリカだってビッグ3といわれる自動車会社に見切りを付けたところでそれほど困ることもなさそうだ。

ITを基軸とした新しい産業にとって代わる土壌はすでに出来ている訳で、少子高齢化著明な情況でいつまでも自動車、土木、不動産に縋る日本が時代遅れなだけ。いずれ没落するのは明らか。

だからこんな胡散臭い「金融危機」に翻弄されて右往左往しているのだ。

「高度経済衰退」まっさかさまの流れはもう変えられないのだから、自動車なんてさっさと諦めてあらたな産業を発掘しよう。

たとえば団塊の世代大量死時代に備えて火葬埋葬墳墓産業を勃興させるのだ。

いずれ葬儀屋が自動車産業に代わって2兆円企業に伸し上がる。火葬場を中心とした「城下町」が日本の至る所に広がり、街は葬儀で潤うのだ。

ゴルフ場が地平線見渡す限りの巨大墓地と化す。かつて争うように自動車を買った世代が今度は墓に財産を投じる時代が来る。

これで不況は一発で解消されよう。これなら為替に左右される事もなく安定した利益が上げられる。

これからの資源は「人の死」だ。

死が金になる。それが日本の次世代に託せる唯一の糧なのだ。

これからの財務大臣は国民にこう呼び掛けるだろう。

「団塊の世代の皆さん。頑張ってお金の生む死を迎えましょう!日本の将来は貴方達の遺骸処理に掛っています!若い派遣社員も正規雇用出来ます。火葬墓掘りフレッシュマンを大量に雇用出来るのです!さあ!みなさん!頑張って死にましょう!」

あながちこれも冗談ではなくなる日も近いだろう。

いずれにしろ、この胡散臭い「不況」に付合わされるのは真っ平である。

一日にして1兆円が1円になったりする現象は頭のおかしい人の妄想に留めておいて頂きたい。


2008年12月 18日

先日、冬コミ用新刊を無事印刷所に入稿。

商業誌、自費出版に限らず「与えられたチャンス」は有効に活かし続ける。それが最低限のモノ描きの使命かもしれないから今回も落す事はしない。

売れる売れないは時の運。要はどこまでひたすら書き続けられるかが勝負なのだろう。

先日、朝日新聞の夕刊にルポライターか誰かが昔ドラマになる位売れた漫画家の「今」を取材したコラムが載っていた。

彼が生み出したキャラクターのブームはあっという間に過ぎ、大学生の息子を抱え苦しい家計の中、青息吐息の日々だという。今や40代から50代になろうか。

漫画家に限らず、フリーランスは大方これが普通なんだろうと思う。いや、むしろドラマ化される程の人気を得てさえも先々は苦しくなるのだ。

結婚して子供を抱え、それでもなんとか生活していけるのはまだよい方である。

大抵は結婚すら覚束ず、一人暮らしも苦しい中、その家業すら放棄せざる負えなくなって毎日ハローワーク通いなんて珍しくあるまい。

若い頃の夢を振り返りつつ、自分の人生の黄昏をただ流れ行く時間に漂わせ、この世から消え行くのを待つのだ。

おそらく漫画家の90パーセントはこんな末路なんだと思う。

もっとも今の世の中、大卒すぐに就職したとしても「終身雇用」なんて遠に過去のモノになってしまったからサラリーマンとて安泰な人生は約束されない。

若い年齢層ほど仕事に恵まれない時代となってしまった今、フリーランスと会社員の差は曾てほど大きくはない。

さて、別の日の朝日新聞夕刊に今度は坂本龍一が何かを書いていた。

「アクセス数を稼ぐためだけのブログに飽き飽きしてブログは止めてしまった。自分は売れるための曲ではなく自分が聴きたい曲作りを目指す」

確かこんな事を記していたような気がする。

無論これは世界的アーチストだから言える台詞であろう。このレベルの人間にとって個人的ブログはまったく必要無い。

創作者としての情報はレコード会社や事務所、メディアが幾らでも書いてくれる。雜文は出版社から原稿料付で注文が来る。

わざわざタダでネットにブログを記す意味など最初からなかろう。

ネームバリューがあるから「自分の思い通りの曲」はいくらだって書けるし、商売にもなるのだ。

だがそんな「雲の上の人」の言葉は「その他大勢の創作者」には当てはまらない。

自分を売り込む為に必至にブログを書いてアクセス数を上げ、仕事を選ぶ余裕すらない。

日々身を削るだけ。

それが「その他大勢の創作者」の日常である。

だがとにかくも無から何かを作り出す、その「喜び」のためだけに生きているのだ。

だから売れる売れないは時の運と自分を騙しつつ、今日も机に向って妄想を具現化させる日々が続く。

今年もあと半月を切る。

印刷所からの帰り、西の空にぎらぎらと宵の明星、金星が輝いていた。


2008年12月 17日

終る世界

「人は皆死刑囚」とはよく言ったものだが、別に人は常時己の人生の終わりを考えて生きている訳ではない。

終わりを考えないのは終わりが意識されていないからであって、でもいつかは終わりが来るのではある。しかし、それがいつかは分からないから人は生きていけるのかもしれない。

最近、パソコンのディスプレイが時々バチっといって一瞬画面が収縮する時がある。

恐らくそろそろ寿命なのだろう。購入して約9年なのだがいつ逝ってもおかしくない情況だ。

終わりの恐怖が常に付きまとう。

終わりが予感される日常は恐ろしい。明日にはもう終わりかという強迫観念がひしひしと伝わってくる。

夜は寝床を飛び起きて全速力で外を300m走ってしまいそうになる。

そうだ。たぶん死刑囚もそんな気分なのではないか。

いつ、執行官がやってきて刑場に引っ張られていくのか?

その足音に怯え恐怖の毎日が続くのだ。

終わりが予感される全ての事象は恐怖に繋がる。

この少子高齢化社会も終わりの予感から来る恐怖で一杯だ。

あれも終わりこれも終る。

始まるものは何もなく、ただ「そこにあった存在」が一つ二つと消えていくだけの毎日だ。

2008年より2009年、そして2010年よりも2011年。

あれも消えこれも消えていく限り無い「終り」の無限連鎖。

そしていずれ自分も消えるのだ。

自分の生きたかつての昭和はそんな時代じゃなかった。

消える事よりも生まれてくる事象の方が多かったから多少不便でも恐怖はなかった。

それが今や「消える恐怖」の聴こえない悲鳴で日本中が震えている。

お金も仕事も遊びも生き甲斐も何もかもが夢想のごとく消え去っていく世界。

テレビからは賭博ゲームのダースベーダーがしつこく同じ台詞を喚き散らす。

「日本は我々のモノだ」

製造業のCMが消えて賭博機CMが支配するようになったテレビももう「終り」だろう。

まさに「終焉の神」がこの世界を支配し始めた。強ちこのCMも嘘ではなかろう。

終る世界。

「高度経済衰退」が加速を付けてまっ逆さまに堕ちていこうとするこの日々に「終り」以外の何があろう?

全てが最終回のこの日々に終わりは永遠に終わりである。

断末魔のようにバチバチと切れかけているパソコンディスプレイがこちらに精神電波を送ってくる。

「お前も一緒に逝こう。どうせこれ以上生きたところで四方八方終わりに満ちている。後の半生は終わりの連続だ。」

終わりが終わりを呼んで終るのだ。

恐ろしい。


2008年12月 16日

『ブラタモリ』

先日、NHK総合で『ブラタモリ』という番組を観た。

NHK版『タモリ倶楽部』のような内容。

曾て明治神宮から流れ出ていた幻の川を辿る都市史跡探訪といった構成。

今や殆ど暗渠に成り果てた渋谷川再発見の視点は興味深い。

今から思えばめちゃくちゃに強引な東京オリンピック合わせの「都市改造」で中小都市河川が「下水道」として暗渠化されていった事実を知るにはよい教材だ。

そこが川だった事を偲ばせるのは路肩に僅かに覗く石垣だったりする。

これは先日テレビで観た『三丁目の夕日』と同じ感覚。

「近過去」ドキュメンタリーである。

もはや経済効率の為に都市を改造するというような発想が現実不可能な時代になりつつある一方、昭和期にかつてここにあった「過去」を取り戻そうとする欲求はどんどん強くなってくる。

「金融危機」かなんだかは知らないが、高度経済成長期の旗手だった自動車、家電産業が総崩れしつつある今、時代の潮流は明らかに逆転し始めた。

1960年代以降の日本は所詮「胡蝶之夢」。

遅かれ早かれ「高度経済衰退」が始まって東京も昭和39年開催オリンピック以前の水準に堕ちていくのだろう。

どんっと大きい地震がくればおしまいだ。

あらゆる建物、道路は倒壊して瓦礫の山。ここまでは関東大震災や戦災と同じなのだが平成の震災はその後が違う。

「高度経済衰退」下、一切の復興は為されないのだ。

復興のための資金、技術、人材が調達出来ないから瓦礫はいつまで経っても瓦礫のまま。

何百万人の死者とその数倍の被災者は放置され難民が廃墟のマンションや瓦礫の下で雨露を凌ぐのみ。

それが何十年とつづくのだ。

もっとも老人ばかりだから人々の死期が少しだけ早まっただけの話だが。

震災から30年後には東京の人口は数千人程度に激減。23区は無人の瓦礫原野と化すだろう。

だが幸いにも暗渠だった渋谷川には再び清流が流れ出して豊かな緑が復活するかもしれない。

「春の小川はさらさらゆくよ」

という唄の風景も取り戻せる。

その時再び『ブラタモリ』を収録すればタモリもこう呟くであろう。

「かつてこの小川の上には『109』があったんですよ。今は瓦礫ですけどね」

岡本太郎の巨大壁画も渋谷川の底。

「小川の底に顔があってもいいじゃないか」

おもわず進行役NHK女子アナも爆笑。

もっともその頃にはタモリもNHKもこの世に存在しないのだが。


2008年12月 13日

ここ暫く冬のコミケット用新刊原稿に掛かり切りで日記の更新がまったく出来なかった。

やっと一段落着く。

明日、またラジオ出演。

12月14日日曜日、78.9MHzかつしかFM20時マンガ・アニメ情報生番組『秘密のオンライン』にゲスト出演。

http://www.kfm789.co.jp/

冬コミの宣伝をして来ようと思う。

宜しくの程を。


2008年12月 2日

駅前喜劇「流行語大賞」

誰が好き好んでやっているのか今年も「流行語大賞」なるものをテレビで観た。

「流行していないものを流行していると決めつける大賞」と化したこのイベントは今年も健在のようだ。

大賞に選ばれたのは『アラフォー』と『グー』。

夜行性の動物が発情期に発する鳴き声かと思ったら意味があるらしい。

だがこの言葉が今年普遍的に使われた記憶は一切ない。

テレビでの説明だと明るくポジティブなものを選んだとのこと。

そりゃあこのフェミファシズム圧政下で40代女性は「この世の春」を謳歌している訳だから世知辛い昨今で唯一明るくなれる希有な存在。その下で苦汁に満ちている者がたくさん居る事実は一切無視されているのにだ。

ナチスドイツ政権下で「ハイルヒトラー!」が流行語大賞に選ばれたようなもの。

あるいは中国文化大革命下で「造反有理」が大賞を獲得したようなものか。

正直痛々しい。要するに「出来レース」ってところだろうか?

選んでる方もおかしいと思わぬのか?良心の欠片が僅かでもあるのならこんな馬鹿馬鹿しい愚行とっとと止めろと誰か言っても良さそうなものなのに。まあ利権が絡んで言い出したくとも言い出せないのだろう。

それはさておき、芸人の決め台詞が大賞に選ばれるのであれば「髭男爵」の「ルネッサーンス」も選ばれて然るべき。

この「グー」とどれだけの差があるのか?

「髭男爵」の2人はもっと怒らなければならない。

こんなことで涙を飲んで何が芸人だ。来年になったら忘れられてしまう存在なのに大賞を獲らずして年が越せるのか?

とことんやって日本男児芸人として己の存在を誇示しなければ死んでも死に切れないと思わぬのか。

立ち上がれ!「髭男爵」!

小泉君や加藤君を見習って「流行語大賞」のステージに押し掛け、この「グー」芸人をリアルひぐちカッターで○○すれば、栄光は「髭男爵」のものになろう。

まさに今年の世相を象徴する方法での大賞獲得方法ではないか。

そうだ。これからの「流行語大賞」はこうした世相を反映させた獲得合戦にすれば日本人すべて満場一致で納得するだろう。視聴率も稼げて一石二鳥だ。さっそく紅白歌合戦の余興として企画したら如何か?

ギター侍も日本刀で突入し再び名を売るチャンスだ!テディ−べアを抱えたボーダー芸人も思いっきり刃物をぶんまわせるし、3で奇声をあげる芸人も3人倒すまでには死ねないから猛烈に奮闘するだろう。

みんな固唾を飲んでテレビ画面に釘付けだ。視聴率90%は確実であろう。この不況下には驚異的かつ画期的な格闘技、いやリアル決闘中継ではないか。

そして血染めのステージで最後に勝ち残った芸人が「流行語大賞」をゲットする。

武力と恐怖に裏付けられた栄冠。

これなら誰も異論を挟む余地はあるまい。その上、歴史に名を残し決して人々の記憶から消える事がない栄光を手にするのだ。

ローマ帝国時代の拳闘士のように。

これこそ「グー」である。「アラフォー」世代も御満悦。

「そんなのめちゃくちゃだ!」と宣うのなら最初からこんな賞止めちまえばよい。

もともとめちゃくちゃなんだから。

駅前喜劇「流行語大賞」一巻の終り。


2008年11月 27日

『人生に未練がなくなった』

官僚殺傷事件容疑者が吐露したという言葉。

世代的にも近いのでなんとなく言いたい事は解る。

40代後半にして妻も娶れず子も設けられず、誇りを持てる仕事も生き甲斐のある趣味もない。将来に何の展望もなくその上借金まで抱えれば誰でもそんな気分になろう。

そしてそれが幼少の頃のトラウマとシンクロし官僚襲撃という奇特な行動に出るものがいても何ら不思議ではない。

今の日本はそんな40代絶望独身男性で溢れかえっている。

この紛れもない事実を放置し続ければいずれもっと大きな形で幼少のトラウマを原動力とした自暴自棄的「自爆特攻劇」が展開されよう。

陰々滅々とした40代独身男性は交友関係の少ない自分の周りにも思い当たる者がいる。

時々この日記にも登場する大学当時からの腐れ縁の知り合いもそうだ。

本人はいたって正常と言い張るが、端で観ていると何処か行動が歪んでいる。相手も多分こちらの事を「キチガイ」の戯言と思っているのだろうがどっちもどっちだ。

お互い人生に未練がなくなれば何を仕出かすか解らない。

未来に希望を持てる男子など、もう一握りだ。

「人生に未練」を失った男達がいつ何処で暴発するか、もはやそれは時間の問題に過ぎない。

明日か明後日か、遅かれ早かれ独身男子は己の人生の後始末を迫られる。

まだ子供を設けた既婚男子は己の子の「将来」のために死にものぐるいで「生きる」選択肢がある。だから宇宙飛行士は既婚者が選ばれるのだ。

独身男性は生きていく意欲に欠ける。「未来」になんら展望のない先細りの時代には尚更だ。

いつ自分の人生に「未練」がなくなるのか。

それが日本の独身絶望男性にとって最大の課題であろう。

その時、己はどうするのか?

簡単に死ねる訳でもなし、かといってイスラム自爆兵のように殉職する場もなし。

卑しく生き恥を晒しながら健常者や既婚者から「役立たず」「厄介者」と罵られなければならぬのか?

これは不可避の未来だ。

日本男子独身者はみんな覚悟しなければいけない。

小泉君は明日の「自分」である。

他人事ではない。


2008年11月 24日

先週テレビで放映していた『続・三丁目の夕日』

少し前にこの映画の舞台になった昭和30年代半ばに作られた日活映画を観たばかりだったから、時代感覚の「違和感」は否めない。

現実の昭和30年代は喋り方のテンポや思考感覚が大雑把で大胆なのだけれど、この『続・三丁目の夕日』では異様に個々の人物の心情が深くゆっくり描かれていて、これはやっぱり「嘘」だなあと感じてしまう。

もっともその「嘘」にリアリティーがあって観ていて飽きないのも事実。

当時の羽田空港や日本橋や東京駅のCGは「近過去SF」として十分に堪能出来る。

これからは「近過去SF」が新しいジャンルになる。

過去に希望や未来を垣間見るのだ。

まあこれは仕方あるまい。

平成20年の今、これからの未来を描いてみても絶望的な世界しか浮かばない。

スラム化したマンションに徘徊する独居老人の群。住居がそのまま集団墓地だ。

超高層マンションは病院と火葬場と墓地が一体化した巨大な斎場と化して毎日24時間、人間を焼く煙りを吐き出している。

ダストシュートからは遺灰が出てきて全部東京湾にばらまかれる。

誰もが丁重に葬られたのは過去の話。

誰に看取られる事もなく機械的に処分されるのが「おひとりさま」の末路だ。

何一つ後世に残すものもなく、ただ死に逝くだけの世界。炭酸ガス排出の元。

地球環境にも悪い。死んだ後にも迷惑かける存在。

これじゃ「戦後」よりも悲惨だ。

そんなものしか浮ばない「未来」を夢想するよりかは、まだ希望があった昭和30年代を「SF」として描く方が面白かろう。

これからは過去に夢を抱く時代。

未来志向は挫折を生むだけ。


2008年11月 19日

「テロ」に見せ掛けた「ゲーム」

年金に携わる省庁の退職元高級官僚が相次ぎ襲われて死傷するという事件でテレビや新聞は騒然としていて、「これは年金行政に対するテロだ」みたいな論調で一杯だ。

でも報道の限りにおいて憶測するに、この犯人はそんな明確な政治的意志は持っていないんじゃないかなと感ずる。

犯行に組織的な緻密さも窺われないからたぶんこれは単独犯。どことなく行き当たりばったりで唐突で衝動的な犯行のように思える。

もし「政治的な」意志を込める「組織的犯行」なのならもっとターゲットの行動を緻密に調べてピンポイントで襲撃するはず。また犯行後何かしらの「犯行声明」が出てもおかしくないが、そんなものもない。それに社会的影響を狙うなら現役の官僚をターゲットにすると考えるのが普通だろう。

退官して久しい人物が襲われたのも特段意図して狙った訳ではなかろう。おそらく、たまたま昔の名簿かネット上に古い年金関連省庁官僚の住所氏名が載っていたを見ての犯行ではないか。とりあえず行ってみたら名簿と同じ表札があったので何も考えず宅配を装い押し入ったと。

現役の省庁勤務者を襲わなかったのは単に個人情報保護の面から住所等が非公開だったため。

要するに「襲わなかった」のではなく「襲えなかった」のだ。

つまり犯人はそんな周到な準備などせず、ただ直線的に名簿で見た住居に赴き、出てきた家人を行き当たりばったりなり振り構わず殺傷してそのまま逃げてくる単調な行動に終始している。

もし緻密な計画の元に犯行に及んだのなら一律人目につく夕方に決行するのもおかしいし、事前にターゲットが確実に在宅中かを予め確認するだろう。しかし犯人は家に押し入ってから本人を捜したりしている。また逃走経路を間違えて路地に迷い混むなんて馬鹿な事も犯している。

おそらく車も使っていまい。車を使っていたら停めたところに一直線に向かえるはず。車の目撃情報は大抵無関係の場合が多い。だから電車か徒歩、あるいは自転車を使って逃げたのだろう。

では動機は何だろうと考えてみる。

目撃情報では30代位の男子というから襲撃した退官官僚と私的公的いずれも関りがあったとは思えない。「年金絡み」といっても給付される立場にある世代ではないから動機としては薄い。

そこで気になるのは、あまり大きなニュースにならなかったものの、数日前こんなのがあった。

ある大手自動車会社の会長が昨今のマスコミによる厚生労働省叩きは異常だから、スポンサーを降りて懲らしめてやるみたいな発言をしたニュースだ。

この自動車会社は例の秋葉原通り魔事件容疑者が勤めていた派遣先工場の元締だった気がする。

なんだかそのあたりが妙にキナ臭い。

実際のところは解らないし今後様々な事実が伝えられて犯人像は変っていくだろうが、何だかあの秋葉原通り魔容疑者をスキルアップさせた存在が見隠れしてならない。

一見、ターゲットは「年金」絡みに思えるが、実は犯人の真の目的は別の所にあるんじゃないだろうかと。

これは「テロ」じゃなくて「テロ」に見せ掛けた「ゲーム」なのではないか?

その「ゲーム」はこれで終了なのか、それとも始まったばかりなのか?

それは誰にも解らない。


2008年11月 17日

就活の群れ。

あいにくの天候ではあったが11月のコミティアも無事終了。

御訪問して頂いたファンの方々には御礼申し上げる。今回は天候のせいもあったのか気が回らず不手際も多かった。

それはさておき、この日のビッグサイトはコミティアの他に就職活動のイベントもあってリクルート姿の若者が大挙して訪れていた。

朝、コミティア一般参加の列と就活学生の列が平行に伸びていたのを見て恐ろしくなった。

かたや座ってカタログチェックに興ずる若者、かたや一生を決めるかもしれない「職場捜し」で緊張して立っている若者の対比が見事すぎる程鮮明だった。

これはもう芸術であろう。

就活スーツ学生のほうが立って並んでいたので同人イベントの列を見下ろす状態だったから就活学生の心中では蔑視の感情で一杯だったのかもしれない。

こんなふうに。

「こんなところで朝っぱらから何並んでるんだ?人生の敗北者か?おれたちはこれから日本を背負っていこうとしてるのに。大の男なら休日は家族サービスだろ?あるいは上司の接待でゴルフだ。おれたちは絶対ここに並んでいる連中にはならないぞ。ああ朝から凄いものを見てしまった」

もし自分が一般参加の列に居たら恐ろしくなって失禁していたところだ。

帰りのりんかい線もリクルート姿の学生でホームも車内もごった返す。

まるで平日の通勤列車のごとく。

これではイベント後の余韻が台無しだ。

同人誌イベントは個人の表現活動を最大限に発揮する場。一方で就活イベントは個人の意志を徹底的に排除抑制し企業に奉仕する場。

水と油の関係のようなもので決して交わる事はない。

ビッグサイトからワラワラ湧いて出てくる大量のリクルートスーツ姿は自分にとって堪え難い光景だった。

背広即ち「自己否定」の姿だ。

彼等はこれから企業の「社畜」となる。手柄は上司に取られ、不祥事は全部自分が被るという「サラリーマンの掟」の中、滅私奉社で生きていかねばならない。そんな集団の中で得をするのは一流大学出身者かコネがある者か人より秀でた才能と資格を有する者だけ。

「その他大勢」は旧日本陸軍の一兵卒同様「消耗品」としてこき使われる。

終身雇用も保証されない。

時勢は新人に酷だ。多少でも不満を漏らせば即クビだろう。

昭和の頃はそれでも妻のため子のためと頑張れたのだろうが、平成の世にそんな「守るべき家族」など居る男子など稀。

それでも毎月安定した収入という「幻想」に縋りつくため、リクルートルックに身を固め東奔西走せざる負えない彼等には脱帽だ。

自分には絶対耐えられない。

つくづく己は会社勤めに向いていない人間である事を改めて知る。

りんかい線の中でリクルート姿の男性がアイポッドを聴いていた姿に悲哀を感じた。


2008年11月 15日

明日、16日は恒例COMITIAが東京ビッグサイト東1館で開催される。

例のごとくスペースを出すので御都合がつく方は是非お越し下さいませ。詳しくはこちら


2008年11月 13日

定額給付金

なんだかお金の配布方法で揉めているようだ。

しかし地方自治体の公務員も「公僕」なのだから年末に事務手続きは面倒臭いからイヤだなんて理由でいいのか。

首相も指導力を発揮したいのならこう言い放てばよいのだ。

「休日返上して三日三晩寝ずに交付作業進めんかい!海の男の艦隊勤務!月月火水木金金!」

この程度の豪傑ぶりを示さずして何が首相だ。周りの雑音に屈するぐらいだったらこんな茶番、最初から止めりゃいいのだ。

それに交付方法に手間が掛るんだったら、いっその事そのまま現金をばらまいたら如何か?

各々の市町村の最も高いビルから時間を決めてお札を放り投げるのだ。

「ほら!給付金だ!欲しいやつは勝手に拾え!愚民共!」

こうすれば文句はあるまい。

貰う庶民のほうもそれなりの労苦を伴わねばならぬ。何事も早い者勝ち。

風に舞うお札を追っかけるのもよい余興だ。

お札もみな2千円札にすれば更に面白かろう。在庫処分にもなるし2千円札収集マニアにも朗報。

飢えたにゃんこがキャットフードに群がるのごとくお祭り騒ぎだ。

ネコまっしぐら。


2008年11月 12日

『叛逆のバリケード』

『叛逆のバリケード』という本を読む。

これは1968年前後に起こったある私立大学での学生運動の記録。

元々は運動当時に出版された本を新装改訂版として最近出版されたもの。

当時の出来事を学生側から記録したドキュメント、手記、そして当時運動に加わった学生OBが新たに寄稿した文章で構成されている重厚な本だ。

改めて説明するまでもなく1960年代後半はあらゆる大学、職場、家庭、地域で各々の「理不尽」「不正」「不平等」に対して若人が即座にリアクションを起していた時代と記憶する。

当時小学生の自分にとってそれは「テレビ」や「新聞」の中の出来事に過ぎなかったので、その世界的な「若者の反抗」の意味を知るのはずっと後の事。

そして知識として理解した時には既に「反抗の季節」は過ぎ去っていた。

だから自分がその当事者になるチャンスは一度たりともなかった。

自分が大学生となった1970年代後半。大学は「レジャーランド」と揶揄されるような時代。

幸か不幸か「学生運動」なるものは経験せずに青春期を終えた。

だからこの『叛逆のバリケード』に記されている事柄はある意味新鮮でもある。

それはシンパシーを感じるという意味ではなくて、熱い青春の息吹が「現実社会」に向けられていたという「羨ましさ」なのかもしれない。

ベトナム戦争とアポロ計画が同時平行に進められ、大阪万博で6千万人も動員した凄まじきエネルギッシュな時代の一断片の一つが「叛逆のバリケード」に込められている。

この本はいわいるジャーナリストが外から傍観して編纂したような「解説書」ではなくて、その現場にいて実際その渦中で動いていた学生の「生の声」を集めているので、あの時代にいた者の訴えがそのまま感じ取れる。

いわば「真空パック」された「心の叫び」の直行便だ。

但し自分は同時代に生きた者ではないのであくまで「傍観者」としての読者に過ぎない。

恐らくこの「闘い」の記録はあの時代、あの場所、あの潮流に同居なければ理解するのは難しいかもしれない。しかし高度経済成長真只中の日本絶頂期での象徴的私立大学における「理不尽」に対する学生達の夥しい「生の声」を知るには貴重な書籍だ。

また出版に合わせて写真展も開催されるから合わせて観るのもよいだろう。

この本を購入するきっかけは著者の一人でもあるY氏から頂いたメールであった。

この方は『1968年全共闘だった時代』というサイトの管理者でもある。

当時を知る上で貴重な記録が満載なので興味ある人はアクセスしてみたら如何だろう?

遅ればせながら『叛逆のバリケード』を御紹介して頂いた事この場を借りて感謝申し上げる。


2008年11月 11日

国会参考人招致喚問生中継なし。

航空自衛隊の制服最高幹部がおかしな論文を発表したとかで更迭されたニュースを先日新聞で見た。

あんまり詳しい事は知らないが、今更60数年前の戦争をほじくり返したところで『勝てば官軍、負ければ賊軍』の諺通り、負けた者がいくら「正論」を述べようとも歴史はひっくり返るはずもないのだからこの空自最高幹部があのような論文を発表した論拠も意図もよく解らない。

論文を募集した側もなんだか胡散臭いし、この論文自体シビリアンコントロール云々よりも退官後の人脈作りの一環としての社交辞令位にしか思えない。

まあ、それをマスコミが殊更大袈裟に騒ぐのは選挙あっての事であろうが、この退官した「元将軍」を更に国会に呼んでなにやら喚問する審議が11日に開かれるというのでテレビを灯して興味深く待っていた。

ところがその様子をテレビもラジオも一切生中継しないのだ。

精々ネットか衛星テレビで細々と流すだけ。ところが家にはCS受信設備はないし、ネットも重くて繋がらない。結局この喚問を生で視聴する事が出来なかった。

あれだけマスコミが「重大問題」と騒ぎ立てていたのに、その生の声を封じるとは如何なる了見だ?

事の真相を国民が知りたいというのは当然の権利な訳で、それが民主主義ではなかろうか。

本人の肉声を聴かぬ事にはあの論文の意図も解せまい。

それともマスコミというフィルターを通さなければ「事実」を知る事はまかりならんということか?

都合の悪い言論を聞かせぬのであればそれはかつての中共やソ連と同じじゃないか。

そこに言論の自由などありはしないし、見事なまでの言論統制は北朝鮮も真っ青だ。

結局の所、おかしいのは「元将軍」が書いた論文の内容ではない。

問題はこの国の歪んだ矛盾に一石を投じた「発言」すら国民に知らせたくないというマスコミ、行政府、立法府ひっくるめた愚行の事実であろう。

世襲と既得権維持のために死の物狂いの政治屋さんとその擁護機関と化したマスコミの下で「国政選挙」やるというのは何かの冗談か。

ただの茶番。

北朝鮮の信任選挙と同じようなもの。

結局選択肢は旧態依然とした価値観の者から選ぶしかないのだからね。

いったい今の自民党と民主党にいかなる違いがある?所詮は己の家業保身が目的の人達だ。ただそれだけのこと。

外交や国防は周辺の大国任せ。イニシアティブをとる気も能力もない。己の保身のためには国を売ることも辞さない輩もいそうだ。もっとも今の日本に売れるものがあるかは別の話だが。

もしかすると「元将軍」はこの馬鹿げた情況を内外に曝すためにこんな騒動を画策したのかもしれない。

それが事実ならこの「元将軍」は大した戦略家である。

確かに本人もこんな発言していたね。

「個人的見解すら許されないのならば北朝鮮と変らない」

少なくともここだけは正論であろう。

頑にこの「元将軍」の声を公の場に漏らすまいと勤める姿勢はかつての「大本営発表」や共産国のジャミング妨害電波と本質は同じ。

負け戦の典型的な前兆である。

この国会喚問中、テレビが流していた「どうでもよい戯れ言」に付合わされるのはどうにも耐えられない。

自分が聴きたいのは「元将軍」の生の声なのだ。なぜそれが許されない?

たとえ「元将軍」が

「あっとおどろくタメゴロー!」

と叫んだとしてもそれはそれで聴く価値はあるのだ。

こんなに地上波の数があるのに、そのどれ一つとして「知る権利」が行使されないとはいかなる国なのか?

北朝鮮や旧ソ連国民の「情報飢餓」に悩まされる様が痛い程解る。

近親交配で劣化した「負け犬」のドッグランみたいなところから国政の代表を選ぶしかない日本国民も哀れだ。

ドリフコントのいかりや長介の決め台詞ではないが

「こりゃだめだ」

である。

これだったら東京ドームのバックネット広告にあった「ミニプードルのいしかわ」のわんちゃんに一票投じた方がまだましだ。

日本シリーズのスポンサーの一つがペットショップという事実も日本の行く末を物語っているが。

わんわん。


2008年11月 10日

先日、NHKBSで昭和の「日めくりタイムトラベル」という番組を観た。

取り上げられた年は1979年。自分が大学生だった頃だ。

ちょうどファーストガンダムが初放映された年でもあったので、その様子が詳しくレポートされていた。

自分の世代であればガンダムを知らぬ人の方が珍しいのであるが、ゲストの中にはまったく知識がない者がいてこれはこれで吃驚する。

それはさておき、番組では当時ガンダムにはまった各界の有名人が顔を出していたが、みんな髪が薄くなって50代前後のおじさんになっていた。

当時、10代後半でガンダムに出会った青少年は皆いい歳になってしまったのだ。

こんなにも年月が経った筈なのに、何故か自分の中では昨日のようにも感じる。

ファーストガンダムの映像は確かに古いのだが、それは記憶としては色褪せておらずすぐにでも内容は思い出せる。

登場人物も歳は取っていない。

周りの時間だけが流れて何だか非常に奇妙だ。

奇妙すぎる。

1979年前後は記憶に残るアニメがたくさんあった。『カリオストロの城』や『銀河鉄道999』など映画館に並んで観るという風習が社会現象になり始めた頃だ。

今のコンテンツ産業を支える世代の基盤が出来上がったのがこの時代。

この年に起こったその他諸々の出来事はあっさり忘れてしまったけれど、観たアニメの事だけは鮮明に憶えている。

1980年前後は二十歳を挿んで過した時期だから琴線に触れた作品も多かったのだろう。

あれからもう30年近く。

肉体と精神がすり減ってはいるがあの頃鍛えた感性だけは保ちたい。


2008年11月 4日

入間基地航空祭

今年もまた恒例の入間基地航空祭に赴く。

天候はいま一つの曇り空だったがそれなりに楽しめた。今年は入間基地50周年との事だったが燃料高騰のあおりか、飛行展示する機数が減って若干寂しい。

ただ例年のごとく入場者の数は20万人を超えて会場は芋洗い状態。

今年もレジャーシートとか脚立とかのマナー云々が取りざたされているが、この場での「ルール」は自衛隊側にしたら建前にせざるを得ない事情もあろうか。

基地近隣の住民に協力と理解を得るためにはあまり強い事も言えない。

観客からすれば航空祭も花見や花火大会と同じような感覚でやってくるのだからしょうがない。

キャパシティーの問題で人が溢れる心配さえなければレジャーシートだろうがバーベキューだろうが大目に見るだろうし、自衛隊側もむしろそういう感覚で航空祭を楽しんでもらった方がよいのだろう。

コミケットなどの9割方マニアが参加者のイベントと違い、一般家庭が休日レジャーの一環として楽しむ場で堅苦しいルールを厳守させるのは逆にどうかとも思う。

何処かの教条主義国じゃあるまいし、観客全員に起立を強要するのも酷だ。

もっともこれだけ混雑してくると己の正論を振りかざす輩も多くトラブルとか発生しやすい。特に昨今は「モンスターペアレンツ」なる存在が目立っているので、なるべく危険そうな雰囲気のある場所には近づかない事だ。今回も最前列で「子供がいるのに押さないで!」と叫ぶ母親や「子供が煩い!静かにさせろ」とか喚く輩を目撃した。

ただ、イベントとか祭りの場は昔からこんなもの。最前列に居れば子供が居ようが居まいが人は押し寄せてくるし、家族連れが多い場所で子供が騒ぐのは当たり前。要はある程度の我慢は必要なのだ。

我慢出来なきゃこんなイベントに来る資格はない。

あと、ことさら「子供は連れてくるな」とか主張するのもどうかと思う。子供の頃に航空ショーを観て「戦闘機萌え」に目覚める者もいる訳で、いやむしろ自衛隊側にすればそんな家族連れ大歓迎だろう。

一般の納税者たる「妻帯者」「子持ち」こそ協力と理解を得るために必要な「国民」な訳で、いくらルールを守るマニアでもその者に「将来」や「納税能力」がなければ自衛隊にとって「お呼びでない」のだ。

もしこのような基地開放イベントが抽選制になったら、呼ばれるのはレジャーシート持参の「家族連れ」ばかりになろう。

自衛隊にとっては建前のルールを守る少数者よりも「大切な将来のある安定した納税者」の方が重要なのだ。

もっとも入間航空祭がネットで騒がれる程、はちゃめちゃな無法地帯と化しているとは思えない。

20万人以上が押し寄せるイベントにしてみれば秩序はよい方だ。

今回も同行の知り合いが携帯を落してしまったのだが、すぐに落とし物センターに戻ってきた。

レジャーシートも脚立もゴミも目くじらを立て始めたらキリがない。余りに変な輩はいずれ淘汰されよう。

むしろ自衛隊関係者や協力者等が特別扱いの招待者として優遇されている事のほうが、ちょっとどうかなとも思う。

国民分け隔てなく受け入れる姿勢を平時から示していないと、いざ「有事」となった時、身内だけ守るんじゃないかと勘ぐりたくもなる。

まあそれはそれで仕方ない事なのかも。

以上、今年の入間航空祭マナーに関する雑感終了。


2008年10月 31日

ハロウィン

日本でハロウィンが季節行事になって久しいが何となく定着してきたように思える。

最初の頃は違和感が支配的で全く関心もなかったのだが、この9〜11月の諸々の出来事の記憶にハロウィンも含まれてきてカボチャのディスプレイを見ると「ああ、去年の今頃こんな事があったか」と思えるようになる。

記憶に折り込まれる事によって季節行事は定着していくのだろう。

正月やクリスマスも記憶のランドマークとして人の心に毎年刻まれていたのでハロウィンも同じステージに昇格したのだ。

もっとも、クリスマス同様、宗教的意味合いはどうだってよいのであるが。

取りあえずカボチャ味の菓子類がやたらと増えるだけ。

因にこの頃になるとコージーコーナーで売っている紫色のモンブランが無性に食べたくなる。


2008年10月 28日

日活映画

先週の日記でも記したがNHKBSで1950年代の日活映画を連続して放映していてそれを五月雨的に観ているのだが実に新鮮なのだ。

自分の世代だと既に物心付いた頃はすでにテレビ全盛期。日本映画は衰退して久しく日活といっても「日活ロマンポルノ」しか思い浮かばなかった。

だいたい石原裕次郎が『太陽にほえろ!』のボス役以前に映画に出ている事を知らなかったのだから。

若い頃の石原裕次郎や吉永小百合が演ずる日活映画をじっくりと観る機会は殆どなかったのでまるで工事現場から発見された貴重な遺跡のごとき驚きだ。

当時の中流家庭の日常を描く日活映画に石原や吉永や渡哲也が出てくると、何だか奇妙なのだ。自分の知っているこれらの俳優は物心付く頃既に年配役だった。彼等が初々しい20代の頃に映画に出ていた事など殆ど知らない。

そんな彼等が演じる1950〜60年代は正に自分の幼少の頃の記憶とシンクロして懐かしい。

緑に覆われた広い庭に縁側。家族構成や世代それぞれの面影は当時そのものだ。家族親族が集う場が描かれると「ああ、そう言えばあの頃は盆暮れには必ず10人くらいの親族が集まっていたなあ」と感慨に耽る。

そして宴席には必ず瓶入りのバヤリスオレンジが登場するのだ。正に定番。

更にストーリーには必ずといってよいほど縁談の話が出てくる。

縁談は当時の若者にとって唯一の最終目的であり、大団円であった。

親や親族が必ず縁談を持ち込んで結婚を催促する。それ以外のストーリーはないと言っても過言ではない。

選択肢が限られていたからなんだかみんな一生懸命なのだ。

「ニート」や「おひとり様」なんて想像すら出来なかった昭和40年代。

当時の映画はなぜか発色がよくて原色もギラギラで映像にもストーリーにもメリハリがある。

初めてじっくりと観る日活映画はどんな新作映画よりも魅力的だ。

そこに描かれる高度経済成長期の風景と人間の持つ豊かさとエネルギーは代え難いものがある。

全てが停滞し、衰退しつつある平成20年に、どんなCGを駆使しようとも昭和30〜40年代レベルの息吹を表現する事は不可能に近い。

年老いた肉体と精神が支配するこれからの日本にとって当時の日活映画は増々輝きを増す黄金のフィルムだ。

それにしても石原裕次郎にも20代の頃があったのだな。それすら新鮮な驚きである。


2008年10月 22日

映画『こんにちは二十歳』

相変わらず楽しみはMXテレビ朝の『巨人の星』だけ。主人公星のライバル2人によるキチガイ沙汰の被害妄想バトルや父一徹のこれまた狂気に満ちた打倒巨人打倒息子のキチガイ執念はその演出も含め心地よい。星のライバルが星の妄想の中で化物や偶像に変身して星に襲い掛かる描写は本当にスカっとする。

そしてその妄想の中に描かれるライバルがサイケな配色で星を罵倒し嘲笑するシーンは爽快だ。

「グアハッハッハッハ」

すると星は「グギャアア」と叫んで頭を抱える。

正にリポビタンD的ミユキ野球教室的、いや狂室的森永エールチョコレート「50円とはいいことだ!」的多摩川グランドテイスト前衛劇場である!

重苦しい日々の中に光る一滴の清涼剤だ。

クライマックスシリーズなんていう欺瞞プレイオフでお茶を濁す現代プロ野球を観るより数段面白い。

やっぱり1960年代の表現物は素晴らしい。

先日、BSで吉永小百合主演の1964年制作『こんにちは二十歳』という映画を観た。

昭和40年代テイスト溢れた琴線に触れる作品だった。

自分が少年時代を過した東京郊外の風景、中流家庭の描写、価値観、環境、流行、希望全てが真空パックのように保存されている映像に暫し見入ってしまった。

この頃が人間として、文明人として尤も真っ当な時代だったのかもしれない。

もはや平成20年の「今」には如何なる関心も持たぬ方がよい。

相手にするだけ人生の無駄だ。

子供ニュースじゃあるまいしパンやゼリーを喉に詰まらせて死んだ事故とか、食品に何かが入ってた位で地球が爆発するかのごとき馬鹿騒ぎしたかと思えば、何十兆円のお金が乱高下してどうのこうのとか、子供銀行の戯れ言か?

まさにキチガイ世界のキチガイニュースだ。

頭がおかしくなる。

真っ当な生き方をしたいならテレビ、新聞を捨て1970年以前に還る事だ。

それしかない。

「現世は我人生に関係なし。勝手に滅びよ」

これが賢き日本人のスローガンになる日も近い。

同じキチガイでも1970年以前のキチガイの方が希望がある。

『こんにちは二十歳』劇中でも吉永小百合は恋人との喧嘩のシーンで叫んでいたよ。

「どうせ私はキチガイよ!」

気狂いをちゃんと気狂いと表現出来る分、当時の方が真っ当な時代だったのであろう。

あの日に還りたい。


2008年10月 13日

ショートカット

随分前だがNHKBSで秋葉系ネットの話題を紹介するみたいな番組があって、その中で『東方Project』『初音ミク』を懇切丁寧に解説していた。

お陰でやっとこれらが何であるか多少は理解出来た(あくまで多少)。

で、思った事は既存のオリジナル形態はそのまま残す一方でユーザーが自由にカスタマイズして楽しむのもまた「あり」の世界になったのだなということ。

少し前だったら著作権の問題とかで、そういった行為は公に楽しむ事は許されず、あくまでアングラに甘んじる分野だったのが、今や逆にこっちの方が奨励され創作の主流になりつつあるような気もする。

それと似ている事象に気がついた。

可愛い女の子が居てその子を自分のモノにしたいと考えた時、従来の発想ならばその子に気に入られるために、男を磨くとかプレゼントを上げるとかそんなアクションに出るのが普通だろう。しかし昨今では全く別の手段で自己の欲求を満たす男子が増えている。

つまり女装である。

今や女の子をゲット出来る確率は低い。所詮徒労に終る恋路に己のエネルギーを捨てるよりは、いっそ自分が女の子そのものになってしまえばよい。

これも『東方Project』や『初音ミク』二次創作と同じ発想ではなかろうか。

オリジナル創作物はその作者が諸々な作品や経験からヒントを経てそれを自己の中で再構成して新たなものを世に送り出す訳だが『東方』や『初音』の二次創作者はそのオリジナルに乗っかっかたままで自分を表現してしまう。

つまり目的に至る諸々の事象がショートカットされているのである。

創作も恋愛も膨大なエネルギーを経て初めて成就に至る事が出来る。たとえ失敗に終ったとしてもそれが人生なのだ。

ところがネット上の「二次創作」や男子の「女装」はその必須過程をすべてショートカットしていきなり結論が来る。

確かにオリジナル創作や本物の恋愛成就より手っ取り早くて苦労も失敗も少ない。

でも達成感はあるのだろうか?

どんなに素晴らしいものでも「他者の依存」から脱却出来ないのだ。

どんなに着飾っても女の子そのものには成れないし、自分が生み出した作品として世に出す事も出来ない。

ショートカットは結局「虚無」の世界。

何かを成すならば諸々の憶いを己の中で熟成させ独自作品に昇華させてこそ初めて意義ある創作物となろう。

世に存在する賢者は決して不毛なショートカットはしないはず。

だがネット上では一見非生産的に思えるショートカットに作り手が夢中になってしまう。

ネット故にショートカットが容易でオリジナルという概念も希薄化してしまうのか?

オリジナルという考え方自体古臭いのだろうか?

こうなると著作という概念すら霧散し、ぼんやりとした綿埃のような物体がふわふわ漂っているだけの「何か」があるだけ。

おそらくこれも新しい創造のカタチなのかもしれない。

でもこれだともはや創作で対価を得るというシステムが崩壊してしまうかも。

確かに『初音』も『東方』もこれだけ「売れている」のに著作者の影が薄いし暴利をあげているようにもみえない。

著作者自身もそれを望んでいないようにも思える。

女装男性もそれはそれで満足しているようだ。

たぶん従来とは全く違った発想や価値観があるのだろう。

思うに己が記すこの日々の日記もショートカットだ。

だが日々の憶いをネットに書きなぐったところでこちらは一銭にも成らぬ。

創作の原動力をこんなところで「漏電」させてどうする?

不毛そのもの。

不毛な文章に時間を費やす余裕はもう自分にはないはず。

己の愚かな駄文書きはそろそろ卒業すべきか。


2008年10月 11日

「嫁」のいない世界。

先日恐ろしい番組をNHKテレビやっていた。

特報首都圏「急増!シングル介護〜“非婚時代”にあなたは〜」

「ひとり介護地獄」みたいなレポート番組。

番組解説にはこう記されている。

『 高齢化と非婚化が同時に進む中で、親の介護を独身の子供がする“シングル介護”が増えている。日本の介護保険制度では、独身者による親の介護をあまり想定していなかったため、こうした人たちの多くは仕事と介護の両立ができず、苦しんでいる。
 介護者への支援策として国も、年間93日の介護休業制度を設けているが、ほとんど活用されていないのが現状だ。
 “シングル介護”を放置しておくと、仕事が続けられなくなり、最終的には親の年金などに寄りかからざるをえない生活に追い込まれてしまう。
 今後も急増必至といわれる“シングル介護”の過酷な実態を描く。』

40代の独身息子が自分の親の介護のために終日病気で倒れた親の面倒をみる情況が放映されていた。

仕事をする時間すらないので収入源は親の年金のみ。

この御時世、介護のために公休なんて大方の企業には認められないらしい。

それに会社ではこんなやり取りがあるだろう。

本人「親の介護のために有給休暇とりたいのですが」

上司「親の介護?そんなもの奥さんに頼めばよかろう」

本人「私、独身なんですが?」

上司「独身?その歳で独身かね。男として恥ずかしくないのかね。40になってまで女性を娶れないとは一人前の男じゃないな。そんな男に介護ごとき女々しい雑務で有給休暇なんてやれん。嫌なら辞めたまえ」

本人「・・・・」

まったく惨めだがこれも正論である。

将来の夢も展望もなく、ただ親の面倒のために人生をすり潰すとはなんという残酷物語であろう。

親が死んだら己の人生もおしまい。

この構図には何かが欠けている。

そう、「嫁」だ。

女に家と書いて「嫁」と書く。

従来ならばこのような介護を含む家の諸々の仕事は嫁が担当する仕事であった。

男はその間、仕事をして家族のためにお金を稼ぐ。

いつしか、このような構図が崩れて、もはや「嫁」は死語になりつつある。

いったいどうしてこんな理不尽な世界になってしまったのだろう。

なぜ、「嫁」はこの世界から消えてしまうのか。「嫁」は悪しき存在なのか?

40代の男に親の介護をさせる社会が正しいというのか?

「自分捜し」「おひとり様」などともてはやされ、自由を謳歌している若い独身女性は、この苦汁に満ちた男たちの「恥」をなんとも思わぬのか?

この理不尽を叫んだところで、女男共同参画、ジェンダーフリー、フェミファシズムの世、誰一人賛同するものはいない。

惨めに親のおしめを代える独身40代男を見て、自由人の婦女子は嘲笑するだけ。

こんなふうに。

「あー嫌々!哀れな男ね。親の下の世話しか出来ないクズ人間。

こんなのに嫁ぐ女なんている訳ないじゃん。

私は年収1000万円以上で生涯贅沢三昧させてくれる男じゃなきゃ嫌よ!

それ以下なら一生独身でいいわ!

好きな事して生きてくもの。誰がタダ働きで義理の爺婆の世話なんかするかよ!

レベルの低い独身男は両親の糞に塗れて死んじまえ。

ぎゃははははは!!」

これが今の若い独身女性の本音であろう。そして世間はこの女性の声を否定しない。むしろ奨励すらしているのだ。

もはや大多数の年収の少ない独身絶望男性にとって40代以降は生き地獄である。

かつて「嫁」という存在があった頃、日本の家庭には「幸せ」という文字があった。

しかし、今、そんな言葉は存在しない。

生きているだけ馬鹿馬鹿しい孤独が横たわっているだけ。

生まれてくるなら、女か権力者に限る。

運が悪かったと思って諦めるしかなかろう。


2008年10月 10日

NHKの朝ドラ

朝、惰性で灯しているテレビから流れ出る毎度お馴染み連続テレビ小説。

近年は御当地ものが多く、今回は島根県が舞台らしい。ところが島根にこれといったインパクトのある名所名物がないのか、何だか無理矢理宍道湖のしじみを絡ませてきた。

正直なところ、実際の島根県でも地元とはいえ、しじみが話題になるなんて吃驚しているのではないか。

ましてや若い女性が主人公。地元産の魚介類に絡ませても些か無理すぎる。

今回のお話に限らず、地方出身の若い人を現地名産特産名所と関りを持たせるのはあまりにも現実離れした設定。

そういうのを好むのは都会で暇を持て余した旅行好きの人位なものであって、現地の若者にとっては退屈で忌々しいモノとしか考えていないだろう。

めぼしい店鋪はパチンコ、中古車販売店位。更に地方経済衰退で駅前はシャッターが降りっぱなしの商店街。

大多数の若者はこんな廃墟同然の地元を捨てて首都圏に向ってしまおう。

でもこれではドラマは成立しないから、恰も地元で活躍する若者を「捏造」するしかなくなる。

今回のドラマもそんな荒唐無稽な設定だから頭が痛い。

いっそ荒唐無稽ならこういうストーリーにすれば如何がか。

マナカナのマナが唄を諦め出雲大社で巫女のバイトを始める。すると八岐大蛇から発せられた覚醒電波を浴びてマナは自分が卑弥呼であると叫び出す。困った家族が彼女を精神病院に放り込む一方、彼女の覚醒電波に共鳴した京都の舞い子カナが京都御所の地下に隠された聖なる剣を持って出雲に出兵。そこでマナとカナは合体してオオナムチを呼出して暗黒神スサノオ降臨。

しかしそれは宍道湖のしじみを食い過ぎた双児芸人タッチの幽体離脱芸が高じた妄想で、その芸に感動したリリーズとポピンズが上京して宗兄弟の特訓を受ける。

するとしじみの中からマナカナの真の両親が現れめでたしめでたし。

これならば荒唐無稽でもそれなりに楽しめるストーリーになろう。

テレビ朝日系で始まったSFドラマ『未知からの生還者』とコラボレーションすれば更に面白みが増す。

NHK朝ドラはこれで安泰だ。


2008年10月 9日

削除のお知らせ

ここに記された当日付けの日記は熟考した結果削除することにした。

少なからずバリケードの中で命懸けで青春のエネルギーを燃焼した当時の若人に対して思想信条は何であれ敬意は示さねばならない。

本意でなかったにしろ関係諸氏に不快な思いをさせた事をこの場を借りてお詫び申し上げる。

削除したのはあくまで自分の判断である。

告知せずに日記を削除することは日常的にやっているので別に珍しい事ではないのだが、今回は特別に削除を告知した。

当サイトの日記は「読み物」として多少バイアスをかけているので時として過激な表現も多い。また「妄想成分」も多分に含まれているのでご配慮いただけると幸いである。

臨機応変に是々否々で管理しているので問題があれば迅速に対応したい。


2008年10月 8日

ノーベル賞

何やら今年のノーベル賞に4人もの「日本人」が選ばれた事でメディアは大騒ぎしているがなんか変。

よくよく吟味すると4人の内、2人はアメリカの大学で活動しており、実質「アメリカ人」ではなかろうか?

その上、日本在住の受賞者も1950年代に発表された理論に対しての賞だがら今現在の日本の「栄誉」には程遠い。

むしろ、なんでそんな優秀な「日本人」科学者が国外で活動しているのかが問題だろう。

つまり、現日本ではノーベル賞に値する研究が出来ない事を暗に証明しているのではないか?

「頭脳流出」かどうかは知らないが、少なくとも今の日本に革新的な偉業を成す環境が備わっているとは俄に思えない。

奇特な才能を持つ人間がもし日本で育つなら、ノーベル賞を受賞出来るような人間がわざわざ「祖国」を捨てて国外に拠点を構える筈もなかろう。

出身校では祝勝ムードだが、その母校のある国を捨てて出ていってしまった事実の方が重要だ。

科学者に限らず、真っ当な先駆者がこの日本で育つとは思えぬ。

ちょっとでも「おかしな人間」が居ると「犯罪者予備軍」と袋叩きにするような「田舎根性」が染み付いた風土では絶対無理だ。

湯川秀樹だって戦前は原爆大好きな「マッドサイエンティスト」だったのである。

それでも戦中戦後の混乱期を生き抜いて、高度成長下「自由な競争」を許された世代ではその才能を十分に発揮する事が可能だった。

それが今回の日本在住の科学者だ。この世代にはソニーとかホンダとか「世界に冠たる」日本の科学技術が存在した。これは紛れもない事実である。だから今回の2人の受賞者は「あまりにも遅すぎた」ノーベル賞だったのであろう。

だがそんな「自由で能力を存分に発揮出来た」時代は遠に過ぎ去った。

平成20年の日本には、そんな自由も能力を発揮する場もない。

近年、世界に誇るべき「日本発」の才能、技術、発明はあったか?

大抵は欧米の技術の後追い。ネットに代表されるコンピューター通信技術はハード、ソフト共欧米の技術に支配され日本発の規格など何処にもない。一方従来日本の「お家芸」だった自動車、家電も新興国に席巻されつつある。

では新たな可能性と謳われる「コンテンツ産業」はどうかというと国は本気で振興する気がないため凋落の一途。

こんなジリ貧無気力無能国家日本から今後ノーベル賞候補が育つ事など絶対にあり得ない。

「愚衆」が群がって食い潰すだけの国は人類の未来を照らす先駆者輩出とは無縁だ。

もっともノーベル賞に「モンスターペアレント部門」「クレーマー部門」「ごね得部門」「偽善者による子ども婦女子消費者偽擁護部門」「痴漢でっち上げ部門」「独身男性虐待部門」「育児放棄主婦部門」「片付けられない主婦部門」「自分捜し独身女性部門」「後期高齢者部門」「振り込め詐欺部門」「匿名掲示板アスキーアート部門」などがあれば毎年日本人の受賞者で独占出来るであろう。

素晴らしき日本。

湯川秀樹博士も感動して涙を流している事でしょう。


2008年10月 7日

2008年国際航空宇宙展

先週末、パシフィコ横浜で開かれていた国際航空宇宙展に行ってみた。

内外の航空宇宙関連企業の見本市みたいなイベントである。

防衛庁の試作戦闘機「心神」実物大模型等が興味深かった(残念ながら撮影禁止。今更隠す程のモノはないと思うが・・)。H2ロケットや月探査機『かぐや』模型、JAXAの何やら変な試作機等も展示されていたがあまり面白味はない。諸外国の後追い技術ばかりで退屈だ。

なんか血沸き肉踊るような独自開発兵器がないのか?アンドロイド美少女戦士とかを期待したが当然そんなものは見当たらない。

基本が屋内展示なので全体的に地味な印象。入場者もそれほど多くなく開催期間通して4万人程だとか。。

もっとも防衛関連の企業が多く出展していたのでメディアも大きくとりあげる事はなく、宣伝もされなかったようだ。

屋外の湾岸上空ではヘリや新型飛行艇US2のデモフライトも行われていたが戦闘機等のフライトはゼロ。

ブルーインパルスの展示飛行も初日に予定されていたようだが雨でキャンセル。

航空宇宙展にしてはその看板に相応しからぬ寂しさ。パリなどで行われる同様のイベントと比べたら雲泥の差。

実は30年近く前、この国際航空宇宙展も非常に華やかで派手なイベントだったのだ。

1976年に入間基地で開かれた時は総勢50万人近くを動員する程の大航空ショーであった。

その時自分も見に行った記憶がある。

当時、まだ実戦配備間もないF-14、F-15等がガンガン飛び交い、最先端の巨大輸送機C-5ギャラクシーや垂直離陸機ハリア−等がエプロンに所狭しと並べられていた。まだ機種がF-86Fだったブルーインパルスの展示飛行もこの時初めて堪能した。

パンフレットにはこの年、函館空港に亡命飛行したミグ25も展示されると記してあったが急遽中止になったらしく、その告知部分だけ切り取られていたのも思い出す。

このように曾ては「男のロマン」を掻き立てるスーパーイベントだった国際航空宇宙展も今や屋内の寂しい展示会に零落れてしまった。

近年日本の「病的異常」がこのイベントの遍歴からも垣間見れてしまう。

また往年の大航空ショーとして蘇ってほしいものである。


2008年10月 5日

平成20年秋世情。

ある電気機関車の名前でネット検索していたら何故か41年前の新宿駅タンク車炎上事故がヒット。

最後には「新宿騒乱」に辿り着いてしまった。

ちょうど40年前の10月である。

詳しくはこのあたりを読んでみるとおもしろい。

ベトナム戦争、アポロ計画なんかが物凄い勢いで進行中だった頃で学生運動もまっ盛り。

この新宿騒乱は、確か騒乱罪が初めて適応された事例だったと記憶しているが、何しろ当時小学生だった自分にはテレビニュースで何やら投石してる群衆がわらわら居るという程度の認識しかなかった。

当時の記録なんか読むと暴れていたのは画策した学生よりも何万と押し掛けたやじ馬の方で、イデオロギー云々より「一丁暴れて鬱憤ばらしするか」みたいなノリだったらしい。

(このあたりは現代の「秋葉系事情」とよく似通っている。実際の秋葉系男子はむしろ整然と秩序正しいのだが不審行動や反社会的行動に走るのは単に秋葉原が世間に注目を浴びている事に便乗した「やじ馬的」存在。例の通り魔事件もこの類と推測出来る)

それはさておき、1968年当時の人口比は言うまでもなく「団塊世代」の若人が卓越していたから、あらゆる分野、階層がアクティブでエネルギッシュなアクションに満ちていた。

誰かが路上で何か叫ぶと何処からともなく大勢の若者が集まってきてそれがうねりとなり広がっていく。

そんな時代だったから「新宿騒乱」も一種の「お祭り」。

今だったらそんな「破壊祭り」に参加した若者が行く末は散々だろう。「テロを肯定する反社会的犯罪者」とメディアに叩かれ一生棒に振ると相場が決まっている。

しかし当時は違うのだ。

ここのエピソードにもあるが、好き放題破壊行為を楽しんだ若者も大学卒業すればあっさり「大手商社」に就職出来てしまう。

壊しても壊してもそれ以上の創造と生産の場が準備されているから路頭に迷う心配はまったくない。まあ当時の学生運動は就職前の「リクレーション」みたいなものだったのだろう。

「学生集会にも参加したけど、就職が決まって、長い髪を切って、もう若くないさと言い訳したね」

うんたらかんたらみたいなフレーズの曲が流行する時代だったのだ。

あれから40年。

なんだかそんな昭和は「お伽話」みたいだ。

平成20年。

自分達の表現、というものを社会に反映させる事が如何に難しいかを思い知らされる時代がやってきた。

諸々のクリエーター達の集いの場には常に諦めの空気が漂う。

これが40年前だったら「デモだ!ストだ!ゲバルトだ!」みたいな感じの討議が始まるのだろう。

だが平成20年の世。そんな事を言い出したら「頭がおかしい」と思われるだけ。

新しい創造、表現の場に潤沢なお金や人材、時間は殆ど回ってこないのが今世の常だ。

若い世代に用意されている仕事は殆どが既得権者の尻拭い。

反抗して変なアクション起こしようものなら社会的に抹殺されておしまいだ。

このあたりが「暴れて壊し捲っても一流企業内定」の40年前とは決定的に違うのである。

10/4付け朝日新聞朝刊に載っていた『政策ウオッチ』というコラムにコンテンツ産業の事が載っていた。将来の「基幹産業」と謳われて久しい日本コンテンツ事業振興予算は今年度僅か20億円のみ。韓国やフランスですら100億円の予算を注ぎ込んでいるというのにである。結果、日本のゲームソフト会社は米国勢の下請けに甘んじているのが現状とか。

要するに「やる気まったくなし」なのだろう。

お金は旧態依然の土木、建築、自動車産業に回され誰も住んでいないマンションや車の走らない道路や乗り手のいない自動車ばかりに注ぎ込まれ浪費されていく。

だから漫画、アニメ、ゲーム等に才能を有する若人は「就く場」を与えられぬままニート、引き蘢りとなって人生を無駄に過すしかないというのも頷けよう。

いつまでたっても自分達が「主役」になれない時代。

出世してもそこは既得権者の尻拭いの場であって己の夢や創造を発揮する場ではないのだ。

新しい企画が通る事もない「責任」だけとらされる「管理職」に誰が成りたいか。

だから賢い奴は引き蘢りを選択し「深く静かに潜航」するのである。

あらいる分野でそんな憂鬱な閉塞感が漂う。

要するに「もう終ってる国」なのだ。

自分を含め、そんな国に住むクリエーター達は、結局どうすることも出来ずにいる。

取りあえず明日の食糧には困らないし雨露凌げる場はある。だからといって先々希望など何処にもないし誰かが何とかしてくれる訳じゃないから危機感は常に感じているのだ。しかし「革命」を叫び火炎瓶を投げたところで「何も変らない」ことは先刻承知。だからただ引き蘢っているしかないと。

そんな「諦め世情」が平成20年のスタンダードなのだ。

40年前の「無邪気さ」が何とも羨ましい。

落書きだらけの101系電車だって平気で走ってたよ。


2008年10月 1日

今年もあと3ヶ月。僕らの人生はあと・・。

今年もあと3ヶ月となってしまった。キンモクセイの香りが漂いはじめ2008年もそろそろ最終コースに差し掛からんとしている。

時は思案しているだけで過ぎていって「一年」という単位が限り無く短いものに感じられる。

人は他者からどれだけ必要とされるかで己の過す時の重さが決まる。

誰からも必要とされなければ、埃が舞うのごとくあっさりと時は過ぎ去っていく。

学生時代の友人から時たま電話が来る。

随分昔の日記にも記したが、過去に交通事故に遭って今でも若干の障害を抱えている男。

そんな訳で40代後半で実家住まい。正職にも就けず短期アルバイトで日々を凌いでいる。

時勢柄、自分も含め、まもなく「いらない人間」として処分される運命だからいろいろ「余生」を模索してみる。

どうせ行く先、長くはないのだから散歩がてら近くの公園で可愛い少女に抱き着いて己の遺伝子を託すのも一興と促すが、あまり乗り気ではなさそうだ。

障害者手帖を見せれば、ボランティアでお目溢しして貰えるんじゃないかと尋ねるが、そんな特典はないらしい。せいぜい公共施設に無料で入場出来る位のもの。

ソープランドは無料じゃないのか?精々それくらいの優遇処置はあってもよいのではと思うが、女男共同参画の嵐吹き荒れる御時世、男子はたとえ障害を持っていても、何ら優遇はしてもらえないとか。

まったく男に生まれて残念な時代である。

彼も自分も今後は苦汁に満ちた人生を強いられると容易に予想出来るから、そろそろ己の人生終焉準備だけは怠らないようにしなくてはなるまい。

高度経済衰退期、最初に切り捨てられるのは我々のような「いらない絶望独身男性」。特に男子の障害者は、冷酷に処分される事を覚悟しなければならないだろう。

国政を牛耳っているフェミファシストからすれば、彼のような障害者は保護対象外なのだ。

実際、こんにゃくゼリーで窒息死した子供の事例は懇切丁寧に扱うのに、放火で亡くなった15人もの男性は家畜小屋で焼死した豚並みの扱いだ。

男15人分合わせても女、子供の命一人分の価値すらない。それが今の世だ。

彼はちょっとその自覚が足りない。妙な楽観論を持っているのが困り者だ。

だからこそ、おちんちんが元気な内に死にものぐるいで遺伝子を種付けする努力をしろとアドバイスするのだが、どうにも煮え切らない。

人生ラストスパート。

蝉も蚊も死迫る秋口に頑張って伴侶を見つけ、無事交尾した後、屍を曝しているじゃないか。

せめて蟲並みの最期を迎えたいものである。


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