2008年4月・5月・6月


2008年6月 29日

影男シリーズ最終話

本日30日発売の幻冬舎コミックス『コミックバーズ』に影男シリーズ最終話「絶望への扉」が掲載される。

2001年より『アワーズライト』で始まったこの影男シリーズも何とか完結までまとめる事が出来てほっと一息という感じ。

もし単行本化された暁には「絶望3部作」が完成だ。

『晴れた日に絶望が見える』

『絶望期の終り』

そしてまだ未刊の絶望最終章刊。

まとめて読んで頂ける日が来る事を願いたい。

宜しくの程を。


2008年6月 27日

赤毛のアン切手

「赤毛のアン」の切手が郵政公社から発売されたので買ってみる。高畑勲演出の日本アニメーション制作のアニメ原画がデザインされていてなかなかよい。

自分がインパクトを受けた「未来少年コナン」とほぼ同時期に放映されていたアニメなので今でも感慨深い作品だ。

アン役の山田栄子の声が印象的で彼女が後年、FM横浜で担当していた「ライドオンオートバックス」という番組もよく聴いていた。

今現在ちょうど製作中のドラマCDの時代背景が「赤毛のアン」放映時と同じだったので当時の諸々の資料を引っ張り出して作業しているのだが、すでに感傷に浸るには余りに時間が経ち過ぎている事に戸惑ってしまう。

仮に20代半ばで結婚して子を設けていたら息子娘が自分達の学生時代を過した年齢に達する程なのだから当然といえば当然だ。

それはさておき、アニメ「赤毛のアン」の主題歌やエンディング曲は秀作だった。

たまにラジオから流れてくると思わず聴き入ってしまう。

ところでアン・シャーリーみたいな妄想好きな女の子はなかなか魅力的に感じたのだが、よくよく考えると今で言う「腐女子」な訳でちょっと複雑ではある。

今だったら池袋の「乙女ロード」辺りに入り浸りなのか?


2008年6月 24日

コンビニの灯りが消える時、省かれる者の立場は?

エコエコ狂想曲の煽りでコンビニの深夜営業が規制されるとか。エネルギー消費を抑えるだとかごもっともな理屈なのだが、所詮規制されて困らない「既得権者」が言える事。

省エネ炭酸ガス排出規制というお題目の下で、この世界から「省かれていく者の叫び」をメディアは汲取ろうともしない。

ジェットコースターがまっ逆さまになって堕ちていくがごとく「高度経済衰退」が始まろうとしている。

1960年代と間逆な歴史が始まるのだ。

深夜コンビニの明かりが消えたらもう二度と点灯する事はあるまい。

ではコンビニが無かった時代へ戻るだけなのか?

否。

コンビニや携帯を文明の利器として味をしめた者がいきなりそれを失った時、今更それがない生活を受け入れられるはずもなかろう。

独居者にとって深夜コンビニの明かりは妙な安心感を与える「希望の光」にも等しい。

いつしか人はそれに慣れ親しみ、深夜コンビニの明かりが当然の存在として身体の一部となってしまった。

深夜コンビニでお菓子を買ったりコピー出来るささやかな幸せ。

それがもしなくなってしまったならば虚無感と暗黒の恐怖に襲われるであろう。

駅からの帰り道、あったはずのコンビニの灯りがなくなった時、人は知るのだ。

「文明が終りつつある」

1970年代のオイルショック時にもネオンサインが消された時があった。しかしだからといって将来が絶望一色になるなんて誰も思わなかった。

多少の揺らぎがあっても就職、結婚、出産、子育てという通過儀礼は保障され、未来への扉は開いていた。

なんといってもまだ人口比において若者層が大半を占め、『サザエさん』的家族制度が保たれていたからだ。

それに「1億総中流家庭」と謳われてはいたものの実は貧富の差だって今と比べ当時のほうが大きかったはずだ。

昨今問題となっている派遣社員にしてもブルーカラーの給料は当時の方が格段に低いし、労働条件も悪かったろう。

だが明確に違うところがある。

それは全てにおいて「未来への扉」が開いていたことだ。

吉永小百合主演の1950〜70年代の青春映画なんか観てみると若人の異常なる高揚感が漲っていて将来の不安うんたらなど微塵も無い。

そう!時代は自分達が作り出す!未来は自分達のために用意されている!という共通概念が隅々にまで行き渡って現状に甘んじる者など居なかったのだ。政治も経済も自らがコントロールし参加出来る希望があったのだ。

凶悪犯罪だって当時のほうが格段に多いはず。監視カメラなど何処にもなかった時代だ。

街頭では学生デモが頻発し、火炎瓶や鉄パイプが飛び交っていた。

にも拘らず今のように犯罪の恐怖に戦々恐々とする世相など微塵もない。むしろメディアはデモを煽ってすらいた。

多少の犠牲は厭わず、とにかく自らが未来を切り開いていったから恐怖を抱く暇もなかったろう。

希望は全ての不安を払拭するよい例である。

それから30年余。

少子高齢未婚化が進み硬直化してしまったこの日本。

いつしか未来は「既得権者」ががっちり押さえ、絶対に手放そうとしない仕組みが出来上がってしまった。

その既得権者の未来に不利益な人物や組織、活動、表現は尽く排除される。

その結果は何か?

結婚や仕事の機会を失い、希望を喪失したニート引き蘢り若年層の絶望に満ちた苦悩。

仕事を得たとしても使い捨て自暴自棄のブルーカラーの彷徨。

一方では老後の保障を国費に求める後期高齢者の大群。

そして至る所に設置された監視カメラ、傍受網。規制されたメディアに表現の自由の抑制と介入。

挙げ句が年間3万人の自殺者だ。

更に戦略物資の投機的高騰による際限のない物価高が追い討ちをかけ、エコという「規制」がありとあらゆる生活の利便性を奪っていく。

自分がこれまでの人生において己自らが「不幸な歴史の中」に生きていると実感することは未だかつてなかった。

比喩的に過去の不幸な歴史を思い浮かべる事はあっても、それはあくまで「歴史教科書の中」の出来事。

遠い過去の話だ。

しかし、今、ハッキリと実感する事が出来る。

自分は今、教科書に記されていたあの「不幸な過去」の幾つかの事例の一つと同じ「受難の時」に生きているのだと。

ありとあらゆる理不尽が襲い掛かってくる。

宮崎勤があっさりと「処刑」される一方で、かつての全共闘過激派「テロ」大量殺人死刑囚が未だ執行されずにいる理不尽。

欧米からの圧力に屈し「児童ポルノ規制」を与野党挙げて導入しようとする一方で、同様な欧米からの「反捕鯨」圧力には頑に反発する理不尽。

そしてその理不尽すら批判する事を許さないメディア。

街での行動も、ネットでの発言も24時間監視され、「危険」な言動は尽く取り締まられる。

理不尽がまかり通り、批判も許されない「教科書に記された不幸な過去の歴史」を自分は幾つも知っている。

そして、今、自分はその真只中にいるのだ。

深夜コンビニの灯りが消える時、残された僅かの「希望」や「安堵感」も街から失われよう。

自殺者は倍増し、その不安や怒りは既得権者に向けられよう。

「教科書に記された不幸な過去の歴史」はこうして闘争と混乱の時代へと繋がっている。

これこそ歴史の必然というものだ。

だが闘争の主役となるべき若年層はもはや圧倒的に少数派である。

己を変えるべきエネルギーすら失われた時代に希望の光は見出せまい。

「不幸な時代」を変える事も出来ない「不幸」。

テープの逆回しのような「高度経済衰退」に生きる者達の不幸は始まったばかりかも知れない。

ああ辛い。


2008年6月 23日

人気と勝利の秘訣。

Perfumeが人気という噂は随分と前から聞いてはいるが、未だマトモに動いているPerfumeを観た事がない。

相変わらず動画サイトはOSが古すぎて観れないし、DVDプレーヤーは無いし、テレビの歌番組は一体いつ放映されているのかも解らない。そんなこんなで先日やっとちらっとPerfumeをテレビで観た。

公共広告機構のなんだか野菜が踊っているCM。それから株主総会に出ていた旨のニュース映像。

いずれも1分にも満たないが、動いているPerfumeを観たのは初めてであった。

そして今夜たまたまテレビを灯していたらパヒューム登場の歌番組に遭遇。

いよいよちゃんと唄っている映像がフルに観れるのか、と思い期待して画面を凝視していたところ出てきたのはスマップメンバー扮するパロディーグループであった。

なんじゃこりゃー?

本物よりパロディーの方を先に観てしまうとはよく解らない。

かつて『ザ・ベストテン』などの歌番組全盛期には否応無しに流行歌や人気アイドルが五感に飛び込んできたものだが、最近は「流行」しているにも拘わらずTVで観た事がない歌手やら芸人が多い。

生活スタイルが変わって人気者が出ている時間帯にテレビを観なくなったからかもしれぬ。

あるいはもうテレビが時代の流れを映し出す機能を喪失しているのだろうか?

ところでその三人組のPerfumeだが、ちらっと観た限りでは、何だかあまりぱっとしない人達のようにも感じる。

カキコキとロボットみたいな動きをするのは、春先によく見かける頭のおかしい人のようだ。

Perfumeの楽曲は歌い手の「声」すらもシンセのような加工がされていて、それがPerfumeたる由縁であろう気がする。

だから肉声や生身のグループ本人を観たとしてもあまり喜びが湧かないのはちょっと可哀想でもある。

極端な話、彼女達の肉声ははあくまで素材であって、その素材を生かせるのであれば誰でもよいのかも。

だから日替わりPerfumeだって成立しよう。いっそのこと姿を一切表わさないほうがPerfumeというユニットは長続きするんじゃないかとも思ったりする。

ビジュアルはすぐに飽きられてしまうので大変だ。

最近、『ラジカル』というABブラザーズの人が司会の朝バラエティー番組をたまに観るのだが、今日は何やら変な海賊もどきのメイクをした新進芸人さんがハイテンションでアピールしていた。

髭男爵とキャラクターが被っているので辛そうだ。考古学者が適当にイメージしたような恐竜の想像図のごとき派手な衣裳やメイクでアピールする芸人さんの悲哀は如何ばかりかと心が痛む。

これじゃエリマキトカゲと同類であろう。

笑いよりも涙を誘うのは何故であろうか?

自分はこういったお笑い芸人の世界はまったく門外漢なのだが、どうしても笑えないのだ。

たとえば久本某さんの前で新興宗教のネタを振るとかする芸人さんはいないのであって、それをしたらテレビに出れない訳で、もうその時点でブラックユーモアを武器とする芸人さんは存在すら否定されてしまう。

気が付けばかつての旧ソ連や中共と同じく雁字搦めの規制で何一つ批判めいたことは喋れない国になってしまった。

そんな息苦しいメディアの中で芸人さんが生き残ろうとするならば奇声を上げたり、へんな恰好をしてアピールするしか手段がないのかもしれない。

そんなのばかりでは不幸である。

奇声を上げたり変な恰好でうろつくのであれば、知的障害者や痴呆老人をテレビに出せばよいこと。

つまりキチガイを装おうことが人気芸人への道となってしまう。

髭男爵も海賊もどきの人も言われてみればキチガイのシュミレーションである。

ならばいっそのこと真のキチガイを目ざしてほしい。

キチガイがお笑いの神髄というのならばそれでよかろう。

しかしキチガイはお笑いだけじゃない。スポーツもキチガイ沙汰である。

先日、スポーツニュースでバトミントンの日本代表選手女性二人組がパンチラのごとき短いミニのユニホームで紹介されていた。

なんだこれは?

ハレンチ学園か?

いっそのこと男子も同じミニスカートでオリンピックに出場すれば如何か?

男がパンチラで恥じらう姿は、相手選手に激烈なプレッシャーを与えるであろう事は容易に想像出来る。

人気と勝利をこの手に獲得するためには手段を選ばずだ。

Perfumeもお笑い芸人もオリンピック選手もキチガイを目指す以外に生き残るチャンスはないということ。

そんな日本に誰がした?


2008年6月 16日

ダーウィン展

上野の国立科学博物館で開催されているダーウィン展を見る。

「進化論」を打ち立てた人物として有名なのだが、論文そのものよりも何故彼が著名な人物に成り得たのかの方に興味が湧く。

ダーウィンは裕福な家庭に生まれ育った「選ばれし人間」だった。いつしか彼は昆虫採集に目覚めカナブンばかりを追っかける「昆虫ヲタク」として覚醒する。それが許されたのも上流階級に生まれ育った故の事。もし労働者階級生まれていたらカナブンどころか一生過酷な労働を強いられぼろ雑巾のように生涯を終えていたろう。「進化論」の「し」の字も記せまい。

ダーウィンの親は彼を医者か聖職者にさせたかったようだが生物探究に熱を上げる彼は生涯「虫ヲタク」として呑気な人生をめざしていたようだ。

所詮は変わり者だったのである。

そんなこんなでムシムシQな青春時代を送っている最中、イギリス海軍から奇特な誘いを受ける。それは軍艦のビーグル号で世界一周する学術調査航海への参加要請だった。彼にとっては世界の虫や植物を集める千載一遇のチャンスだ。

案の定、親からは反対を受けるが、理解ある叔父の説得で彼の願いは叶った。この叔父の説得がなかったら結局彼は平穏な牧師として生涯を終えていたであろう。

彼の探究心に理解を示したビーグル号の船長との出会いも重要だ。ダーウィンが虫や化石集めに狂奔出来たのもこの船長あってのことだったろう。

また帰国後の結婚も彼の人生にとってプラスとなった。

ダーウィンは結婚相手すら「昆虫採集したカナブン」と同等の好奇心を持って接する事を望んだ。

俗社会の結婚生活や社交界は己の人生にとって「恐ろしい程の無駄な時間」になりかねないと彼は述べている。だから彼にとって結婚は学術研究を妨げる障害になる恐れもあったのだ。

だがそれは杞憂に終ったらしい。

多くの子供にも恵まれて、彼は真理探究の人生を有効に過す事が出来た。

これもよき妻の協力あってのことだろう。まさに「内助の功」である。

また、彼が「進化論」を長年発表せずに温めているうちに、別の研究者が同等の研究論文を発表するとの事態が発生した。

このままだと世紀の理論は他人の栄誉の下に輝く事になる。

ところがこの研究者はダーウィンに遠慮したのか彼を出し抜くような事をせず、予めその旨をダーウィン本人に知らせその栄誉をダーウィンに譲った。

そして晴れてダーウィンは「進化論」を発表し、彼は歴史に名を残す事となった。

結局の所ダーウィンは己の生まれ、育ち、家族、友人等ありとあらゆる幸運に恵まれてこの名誉を得たのである。

彼一人では「進化論」は生まれなかった。幸運の星の下に生まれた故の快挙だったのである。

こんな事はダーウィンに限った事ではない。

ありとあらゆる著名人、成功者はこのような希有な幸運に恵まれてその地位を得たのだ。

一通り展示を見終って、感じた事は「進化論」そのものより、成功者とはなんぞやという疑問の答であった。

いずれにせよ、ある程度よい家柄に生まれ、お金と時間を湯水のように使える環境に居ないと「偉人」には成れないということだ。

貧者にそのチャンスは限り無く廻ってこない。

貧者は淘汰されるべき存在だ。

「進化論」の結論は「ダメな人間は何をやってもダメ」である。

博物館を出て上野の森の中を散策しながら思う。

「自分もまた、淘汰される存在か?」

見上げるとイチョウ。

イチョウは遥か何億年前より生き残ってきた植物である。まさに幸運を手にした植物だ。

果して己は「選ばれし存在」なのだろうか?

否。その可能性は限り無く低い。

「髭男爵」以下だ。

淘汰される存在は虚しい。


2008年6月 13日

髭男爵

最近、やたら「髭男爵」を耳にする事が多い。

人気があるのだろうか?

お笑い芸人が出ている番組を殆ど見た事がないので、よく解らない。

だがかなり前、深夜の駆け出しお笑い芸人のオーディション番組の中で、ワイングラス片手に何かコントをやっているヒゲの芸人を見た事があった。

その時は「髭男爵」なんて聴いた事も見た事もなかったからこの時初めて目撃したのである。

正直、面白くも何ともなかった事を憶えている。どんなコントだったかも忘れた。

ただ思った事は、売り出すために何やら奇抜な事を一生懸命工夫してる「涙ぐましい足掻き」というのが感じられて、ちょっと気の毒に感じた事だ。

面白くない事を懸命になっている惨めさというか、辛さと言うか、そんなのが伝わってきて痛いのだ。

「嗚呼、そんな恥じ曝しな事はもう止めて、コンビニのバイトにでも戻ったらいいのに。見ていて辛い」

こんな退屈な芸人さんはきっと半年ぐらいで姿を消すんであろうと思っていた。

そんな「髭男爵」が妙に人気が出ているという事を聴き、なんだか別の意味で気の毒な気分になった。

最近、流行っているどの若手芸人さんを見ても「面白い」と思った事がない。

すべて「気の毒」だ。

テレビのプロデューサーに唆されてお猿さんのように奇抜な奇声を上げている気狂い藁人形のようで、むしろ恐ろしい。

そして次々と忘れ去られていく。

この「髭男爵」も新たなテレビ芝居小屋の「生け贄」として酷使され出し殻のように捨てられていくのだろうか?

もっとも一瞬でもテレビで脚光を浴びる事が出来ただけでも数多の芸人の中では「成功者」である訳だから満足すべき結果なのだろう。

箸にも棒にも掛らない無惨な芸人が今日も暗い部屋の中で同輩芸人の活躍をテレビで観ながら泣いているのだ。

にも拘らず、自分にとって「髭男爵」は「気の毒」な存在という印象しかない。

この芸が「成功」と言うのならば、いったい人生って何なのだろう。

御本人も心の中ではこう思っているのではないだろうか?

「恥ずかしい。誰か助けてくれ」

人気の有無など芸の質には関係ないのである。取りあえず人前で恥ずかしい事をすればいいのだ。それを餌にテレビは人を欺く。

嘘はいつしか真理となって人を操る。

「髭男爵」も近い将来イギリス皇室から爵位を貰える日が来るかも。

ルネッサンス万歳。


2008年6月 12日

他人事。

派遣社員K君の「願い」通りにワイドショーでは相変わらず「秋葉原通り魔事件」に御執心のようだ。

   K君が書込んだ携帯掲示板の内容を事細かに分析する番組もあるようだが、雁首揃えて聖人君子面しているコメンテーターの解説は相変わらず愚にも付かない寝言ばかり。

出てくるコメントは「言っている事が解らない」とか「身勝手」とか「気持ちが悪い」の類が大半。

25歳成人男性が僅かの時間に7人もの命を奪うという激烈なネガティブエネルギーが一瞬のうちに放出されたという希有な事例に対し、よく解らないとか生理的に受け付けないと言うのはどういうことだ?

何のためにコメンエーターの肩書きで偉そうにテレビに面曝してるのだ?

「彼女がいない」ことに固執している記述を、ワイドショーでは「女性に執着」とかいう解説していたが、馬鹿か?

彼は「女」を求めたんじゃなくて自分の「よき理解者」を求めていた。それを「彼女」という言葉に置き換えていただけ。

そんな簡単な解釈の変換も出来ず、容疑者を安っぽい「女の敵」に仕立て上げるメディアの悪辣さには反吐が出る。

そういえばKの書き込みの中でこんなのがあった。

「人と関り過ぎると怨恨で殺すし、無関心だと無差別に殺すし、難しいね」

よっぽどKのほうが真っ当な解説してるじゃないか。容疑者がワイドショーのコメンテーターのために「台本」まで用意してくれてるんだ。ちょっとくらい見習えよ。

有り難く思え。

本当は解っているんだが「大人の事情」で言えないというのなら、そんなコメンテーターなんて欺瞞的仕事はさっさと止めて本業に専念しろ。

結局メディアは他人事で済ませたいのであろう。

容疑者は「我々常人」とは別の存在で、何のかかわりもない人間だから、早く死刑になって視界から消えてほしいと。

この犯人が投げかけたこの社会の矛盾は「なかったこと」にしたい訳だ。

その「矛盾」によって恩恵をうけているコメンテーターを代表とする「マトモな日本人達」に追求の鉾先が向けられたくない、ただその一点のためにこの派遣社員は「日本人ではない何か」でなければいけない。

だから彼の言動は「意味不明」として片付けて置くと。

結構な解決策である。

彼が働いていた自動車製造会社で作られた車で今日も何人かは死んでいる。

かなり減ったとはいえ、年間6000人位は死に、けが人はもっと多い。

だがそれに関しては誰も非難めいたことは言わない。

なぜなら自動車会社はメディアの有力なスポンサーだし、日本の基幹産業だし、車を輸出し売ったお金で日本は海外から石油や食料を買っているからだ。

車製造会社がないと日本は成り立っていかない。

だから車で年間何千人死のうと、それは「仕方ない事」らしい。

ならば、容疑者のKが自動車製造業の下請けで過酷な労働を強いられて「頭がおかしくなった」のも、日本の基幹産業で働く者の何万分の一かは発生する「やむを得ない事例」なんだから、そんな彼が起こした通り魔事件は日本の基幹産業を守る上での「仕方ない」犠牲って理屈も成立しよう。

つまり今回の犠牲者7人も結局は間接的な「交通事故死」って解釈する事も出来る。

つまりはこれは自動車会社が尻拭いする事例であって被害者全員に彼に代わって賠償金を払うべき「過失事故」という理屈が成り立つ。

このどこがおかしいか?

もしそのようなコメントするコメンテーターが居たとしたら、全部賛同しないまでもある程度は納得しよう。

ところがそんな「正論」を語る者など誰も居ない。

連中はすべてこの男の「特異性」で片付ける。

やれ性格がネジまがっているやら、秋葉系の男は全て犯罪者予備軍だからとか、ダガーナイフを取り締まれだの。

そのうち「なんだかんだいって悪いのは秋葉原の連中だ」との「安直でお約束」の結論に達し、そして挙げ句の果ては「秋葉原歩行者天国中止にしよう」である。

原因は全て「異常な性格」、「生い立ち」、「秋葉原」、「ヲタク」、「ナイフ」

全て他人事で後始末だ。

あの宮崎勤の頃から世間は一つも成長していない。

まあそうやって「他人面」しているがよい。

「常識的」日本人が愛用するトヨ○の車にはK君のような派遣工員の怨念が幾分か込められている。

ドライバーはそれで事故死したり人を轢いたりしているかもね。

その犠牲と今回の事件の犠牲者との差は、おそらくそれ程大きいものではあるまい。

「地獄の沙汰も金次第」とはよく言うが、秋葉系産業が万一、自動車製造に代わって日本の基幹産業にまで発展したら、おそらくヲタクを悪く言うコメンテーターは一切姿を消すであろう。

まあ、コンテンツ産業をそこまで成長させる奇特な政治家や有能な経営者がいるとは思えないので夢物語ではあるが。

さて、今日も日本のために派遣労働者を酷使して車を売りまくりましょう。

「気狂い」を輩出する上では「秋葉原」といい勝負だよ。

競争だ!


2008年6月 9日

恋愛至上主義の犠牲者

「秋葉原通り魔事件」の派遣社員K氏の犯行に至るまでの携帯サイト書込み記録があったので読んでみる。

スレッドのタイトルは「【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】」である。

己の「ダメ人間」さをこれでもかこれでもかと吐露し、如何に自分が「女性から必要とされていないゴミ」であるかを滔々と綴る文脈は琴線に触れるメッセージだ。

少なくともこの世の理不尽な現実を見事なまでに表現している部分は評価出来よう。そしてこんな当たり前の「この世の無常」「いらない男の絶望」をメディアは一切無視してきた事も事実だ。

そう!悪いのは自分。

すべて「いらない人間」たる独身絶望男性が悪い。そう強いてきたメディアが彼をここまで絶望させたのだ。この言葉の痛みをメディアとフェミファシストは理解できるだろうか。

彼を凶行に走らせた「悪いのは自分」というスローガンで善良な男子を圧殺しようとしたフェミファシストに彼はこの「心の叫び」で抵抗していたのだ。

彼の苦しみを理解しない愚鈍な世間が彼を凶行に駆り立てたとも解釈出来る。

この「【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】」という彼のスレッドの大半には己の「不細工」さと「もてない男の絶望感」が延々と綴られている。しかしこの書き込みに反応する者は殆どいなかった。

彼の絶望感は如何程か?

この文章は、あの日航機墜落事故のフライトレコーダーに記された絶望的ダッチロール時のコクピット音声に類似するものがある。

まさに絶望的情況に追い込まれて死地へと向う「男の記録」だ。

ところでこのスレッドに関してはメディアでもいろいろと報じているみたいだが、的外れなどうでもよい書き込みだけを取り上げて、解ったような可も不可もないコメントに終始するだけ。

まるで他人事だ。

噴飯ものである。

彼の凶行の動機が如何なる所にあるかは、賢明な独身絶望男性諸君には明解なはずだ。彼のスレッドを僅かでも読めば説明は必要あるまい。

このような「心の叫び」はなにも彼のみに限った事ではない事は明白であろう。

多かれ少なかれ大多数の独身絶望男性が抱く普遍的な総意である。

にも拘らず事実を覆い隠し続けるメディアの無神経さは許し難いものがある。

呆れたのはワイドショーの女流作家やら女性心理学者コメンテーターの言葉だ。普段からこの「上から目線」な女性知識人の傲慢なコメントに苛立っていたのだが今回のは到底看過出来るレベルではなかった。

そのコメンテーターは彼のスレッド書き込みをこの言葉で一蹴したのである。

「気持ち悪い」。

彼の命懸けの「男心の叫び」を侮辱したこの自称作家女の心無い言葉がどれだけ多くの絶望独身男性を傷つけたか解ってはいまいな。

そしてこの傲慢で優しさの欠片もない女性の態度が彼のような男を大量に「生産」しているのに気かつかないのか?

今回の惨劇で罪のない者を傷つけ殺した幾分かの責任は彼女達にもある。

そしてこの無慈悲な女性をメディアの最前線に立たせ、絶望独身男性誹謗中傷弾圧キャンペーンを釈迦利器になって展開するメディアと、その背後で操る邪な連中こそ今回の秋葉原大量殺人の真犯人といえないか。

派遣社員Kは哀れにも操り人形のように真の首謀者に唆されて凶行に走ったのである。でなければ秋葉原などに行くはずもなかろう。

もしかすると彼の行動は当局の監視下にずっと置かれていた可能性も否定出来ない。

いずれにせよ、彼が現代の理不尽極まりない「恋愛至上主義」の哀れな犠牲者である事には間違いない。

彼の起こした罪は免れないが、万策尽きて絶望に陥り、今回のような凶行に駆り立てられた理由は多少は「理解」出来る。

しかしその復讐の鉾先は間違っていた。

突入すべきは「同胞」の住む秋葉原ではなく、己をここまで追い込んだフェミファシストの拠点であろう。

彼の過ちは己の視野の狭さである。

そして彼の「闘争」を孤独な自滅で終らせてしまった日本独身絶望男性全員の責任でもあるのだ。

真の敵は誰か?

それを明確にして闘争しなければ同じ事の繰り返しである。

彼の無念さの償いとして、せめて彼の残した檄文「【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】」を今年度の芥川賞に推賞すべきだと思う。

ろくでもない女子高校生の駄文が賞を取れるのなら、命懸けの「自爆」を敢行した派遣社員の文章の方がよっぽど心を打つんじゃないのか。

このどこがおかしいというのだ?


2008年6月 8日

 妄想具現都市アキバ

生活パターンが夜になっていたので起きがけにNHK19時のニュースを見たら、なんだか秋葉原が騒然となっている。

真偽の程は解らぬがメディアが伝える事件の全容は通り魔というよりは自爆特攻に近い。

大凡この手の「大量殺人妄想」は秋葉系の人間なら一度位は抱くだろうし、「妄想」の中では比較的スタンダードな「自爆」ぶりである。

問題はそれを「妄想」ではなく「現実」の世界で実践してしまう「おかしさ」だ。

繁華街を2トン車で突っ込み、刃物を降り回すデカダンスはあまりにありきたりで漫画のシナリオとしては、いただけない。

そんな糞妄想は飽きる程見て来たし、シュミレーションする輩も腐る程居たであろう。

そんな3流アクションドラマの台本通りに、今注目の秋葉原で主役を演じてしまったこの派遣社員は「思惑通り」に逮捕シーンまでマスコミに取り上げられ、匿名掲示板では格好のネタにされ、ある意味彼は人生を「自己現実」させ「自分捜し」に成功したのだ。

そんな人生自暴自棄秋葉系絶望男を生んだのは、皮肉にも「妄想具現都市アキバ」そのものと言えないか。

妄想具現化の都、秋葉原。

夢が実体化された場所には虐げられし民を誘う魅力がある。

妄想美少女、2次元の中の甘味な性愛、ロールプレイングゲームの中の勇者や女神・・。

すべてがこの街にある。

同時にそこにはネガティブな影が付きまとう。

夢は幸福を得るだけではなく、全てを破滅させる悪夢と表裏一体だ。

今回の「大量殺人」も悪夢の一部である事に疑いはない。

結局、いずれは夢と悪夢が対消滅を起こし、都共々「自爆」してしまうのは時間の問題だったろう。

今、この日本で「夢」や「妄想」の具現化は誰も望んじゃいないのだ。

自殺者年間3万人(実質的には15万人居る統計もある)というおぞましい自殺国家であることは棚において、テレビ、新聞はまるで何かに取り憑かれたように「エコエコ」と騒ぎ立てる。

裏を返せばそれは「新しい発展は必要無い。豊かさを捨て、野に帰れ」という意味だ(実際には帰るべき「野」など何処にもないのだが)。

だから「妄想具現都市秋葉原」は異端でしかない。いずれは滅ぼされる運命なのだ。

今回の事件は偽政者達にとって、秋葉原とその地に集いし「夢見の民」をスケープゴートに仕立てる恰好のきっかけとなったであろう。

結局、あの派遣社員が事を起こさなかったとしても、遅かれ早かれ他の秋葉系絶望男が似たような事件を起こしていたかもしれない。

あの男を呼んだのは、秋葉原自身の「意志」なのだ。

たまたま彼が主役を演じただけ。あの場に居た「やじ馬」も「犠牲者」も、もしかすると自分が「主人公」になっていたかもしれない。

パトカーに押し込まれるあの男の後ろ姿は「明日の己」だ。

やりきれない閉塞感と展望のない未来が横たわっている、この時代に今「秋葉原」で起こっている事象は、そんな先ではない日本の将来を予言している。

「気狂いに刃物」という諺はいずれ「秋葉に気狂い」という言葉に言い換えられよう。

気狂いと救世主は紙一重である。

だが今の日本に秋葉から救世主を見い出せる奇特な賢者がいるとは思えない。

愚民と偽政者の瞳には「気狂い」以外、視野に入るまい。


2008年6月 2日

僕らの未来はどこへいったのだ?

今現在、日本人宇宙飛行士が乗り込んだスペースシャトルが日本の実験棟を搭載し宇宙ステーションへと向っている。

そして火星では北極地域に新たな米探査船フェニックスが軟着陸。遂に氷の固まりらしき映像を送って来た。

また月軌道上には日本の探査衛星『かぐや』が居て、現在も月探査続行中である。

まさに、まさにこれぞ21世紀的「男のロマン」が展開中だ。

本来ならば、号外が飛び交い、テレビ、新聞は連日トップ一面で宇宙ステーション、火星着陸、月探査の報告を大々的に伝え、刻一刻と送信される最新データーを争うように伝えていよう。

キャスターは興奮ぎみに視聴者にこう叫ぶだろう!

「火星に遂に氷の塊が発見されました!人類の偉大なる発見です!」

そしてその直後のニュースではスペースシャトルにいる星出宇宙飛行士からライブメッセージが慌ただしく届く!

「見て下さい!いよいよ我が日本の実験棟が宇宙に進出です!只今宇宙ステーションにて取り付け完了いたしました!!これは我が民族の偉大なる一歩だ!」

この言葉にスタジオのゲスト、解説者はむせび泣き、感激の言葉を上げる。

ゲストのAKB48やショコタンは宇宙服のコスプレ姿で叫ぶ!

「偉大なる任務を遂行しているこの瞬間に立ち会える私達って幸せ!宇宙こそ私達が未来へ踏み出す唯一の扉なのね!私達日本女性はこのロマンに殉じる日本男性に命懸けで御奉仕しなきゃいけないんだわ!」

この様子を刮目しながら見る日本青少年は魂を揺さぶらせて心に誓うのだ!

「そうだ!おれたちも続け!宇宙ステーションだ月だ火星だ!太陽系進出だ!満州国再建!夢と希望を宇宙に注げ!」

日本中の学校では毎朝全校集会が開かれ、校長、教員は高らかに生徒、児童に向って訴える!

「皆さん!連日テレビや新聞で報じられるように、今や宇宙への本格的進出の扉が開かれつつあります!

君達が大人になった時、働く場所は地球ではありません!

月です!火星です!宇宙ステーションです!

あなた達は宇宙の子だ!

さあ!立ち上がるのです!さあ出発しましょう!君達に与えられる未来は宇宙大冒険の日々だ!

夢とロマンが君達の未来を約束する!

宇宙はすぐそこだ!」

それを聴いた生徒児童達は一斉に歓声を上げる!

「宇宙だ!僕は宇宙に行くぞ!」

「月だ!アポロ11号着陸船を発見するのは僕だ!」

「火星のオリンパス山一番乗りは僕だ!」

街では宇宙進出イベントが至る所で開催され、連日の松明行進が繰り広げられる!

日本首相は高らかに叫ぶ!

「若人の全ての意志は月へ!火星へ!宇宙ステーションへ!」

就職先も殆ど全てが宇宙開発関連。宇宙特需で日本は空前の好景気!

新たな火星植民地入植を夢見て結婚する若人も急増。少子化も一気に解消する。

世界は宇宙進出という一つのスローガンの下、高揚したポジティブ志向で全人類的な一体感に包まれよう。

これが!これこそ『正しき2008年』だったのではないか?

この何処が間違っている?

だというのに、現実の『2008年』はこれとは似ても似つかぬ様相である。

この重苦しいやるせなさは何なのだ。

血湧き肉踊る「宇宙征服」の高揚に踊る男子の姿は、何処を見てもいない。

あるのは青少年の荒涼としたネガティブな諦めの感覚。

現実の汚点ばかりを反芻する汚物塗れのメディアが青少年から希望を遠ざける。

「お前達は大人しくしていればよい。外に出ると悪戯、痴漢に児童ポルノ常習者が襲ってくるぞ!ききいいー!日本成人男子はみんな犯罪者だ!子供は家に籠って未来を見るな!夢を見るな!おとなしく穴蔵に籠ってろ!携帯もネットもみるな!動くと炭酸ガスが出るからじっとしてエコエコ唱えてろ。監視カメラがお前ら見張ってるからな!だから空を見上げるな!地べたに這いずってろ」

これが現実である。

今日もテレビ、新聞は、宇宙のことより日本男子の犯罪、汚点をこれでもかこれでもかと垂れ流し続ける。

ロマンを先導すべき男子を虐げるだけがメディアの仕事となった。

これが「現実の2008年」とは。

いったい僕らの未来はどこへいったのだ?

これは間違った未来である。

断定出来る。こんなのはあってはいけない「未来」だ。

この間違った悪夢よ。

早く醒めておくれ。

そしてロマン溢れる「正しき2008年」へ旅立とう。


2008年6月1日

創作の進化

ここ数日、夏のイベントで発表予定のドラマCD制作のため主題歌のレコーディングや素材のラジオ番組収録、そしてスタジオでの音声収録と目の回る忙しさ。

自分は原作シナリオ担当として歌い手さんや、DJ、声優さんに作品のイメージを伝えたり指示を出したりと何だか慣れない立場で四苦八苦している。

しかし、自分の作品が単なるイラストストーリーから音声ドラマに「進化」していく事を考えると感慨深い。

一人で部屋に籠ってしこしこ原稿に向うのとは違い、いろいろなクリエーターさんと会ってコミュニケーションしていかなくては成立しない創作ジャンルだから否応にも人と会わねばならない。

幸い、皆理解し合える人達ばかりでやりやすい。

仕事と違い、自費制作ならではの「自由度」があるのも確かだ。

声優さん達もこれからステップアップが期待されているホープが集って下さった。自分の作品がその人達の将来の活躍に貢献出来れば幸いなのだが。

そう考えると完成度は高くしなければならぬ。

商業作品とはまた違うプレッシャーがかかってきた。

妥協は許されない。


2008年5月31日

クリスタルチルドレン

NHK「みんなのうた」でやっていたヘンな曲と映像。安っぽいハワイの画家が描くようなイルカにのって人類皆平等、武器を捨てろと説教する子供が踊り狂う。

子供は無垢で崇高な対象と露骨に主張すればする程胡散臭くなる典型。

どう聴いても、どう観てもカルトの洗脳オルグ教材ビデオにしか見えない。

日本ユニセフの「児童ポルノなんとかキャンペーン」もこの類と思われる。

既得権を守るために「子供の安全」を声高に叫ぶ連中は、子供や女性を己の都合で無垢の存在と決めつけ我が身の保身のために利用するのだ。

子供を侮るな。

『幼年期の終り』で表現されるような本物の「ニュータイプ」の子供が出現したら既成概念の中で既得権益を独占している連中はあっという間に淘汰されてしまうのだが、そういう子供は「お呼びでない」のだろうな。

本当の「クリスタルチルドレン」は無慈悲である。

逆に大人達が「クリスタルチルドレン」に命乞いする位の残酷さで我々に襲い掛かってこよう。

だから安易に「子供たち」を己の保身のために利用することは止めておいたほうがいい。

いずれしっぺ返しがくるよ。

新世代のチルドレンは放っておいても勝手に覚醒する。

むしろ「子供の安全」を声高に叫ぶ程、覚醒は鈍り、人類の進化は阻害されよう。

子供は恐ろしいと忌み嫌うほうが、人として正常なのだ。

不完全で残酷で未完成な存在たる子供を「無垢」だとか「天使」だとか、そんな存在として考える方がおかしいのだ。

「クリスタルチルドレン」より 伊武雅刀の「子供達を責めないで」を聴いているほうがマトモである。


2008年5月27日

キチガイ携帯

先日、深夜ラジオで伊集院光がこんな事を言っていた。

「プラダの10万円携帯の何処が偉いのだ?本当にステイタスある人間は携帯など持たない。必要な連絡は全て下々の侍従にやらせるだろう」

言い得て妙である。

携帯の新しい市場開拓のつもりなのだろうが、高機能より見栄でブランドモノの携帯ひけらかしたところで人格が疑われるだけ。

そこまでして携帯にしがみつきたくなる社会は、もう病的だ。

携帯がコミュニケーションの必須アイテムであることは否定出来ないけれど、釈迦利器になって携帯に金をかけることに人生の意義はあるのか?それも見栄で?

あの手この手でユーザーからぼったくろうと携帯会社は罠を仕掛けるが、もう呆れるばかりの企画に腹を立てるのも面倒だ。シャベルが喋るとかやけくそに近い。

もうこうなったらなんでもありだ。

おしっこを漏らす携帯とか、痴漢する携帯とか、奇声を上げる携帯とかあってもいいんじゃないか?

女の子受け狙うなら、携帯自体がジャニーズタレントとかホストクラブになっているとかがいい。効率良くぼったくれるよ。

あるいは携帯電波そのものに洗脳信号を変調してユーザーを24時間通話しっぱなし人間に改造するのもよかろう。

最近、携帯で連絡する機会が増えてしまい、なんだか頭がぼーっとする。

これも携帯電話会社の策略ではないかと疑っている。

電車の中で向いの席に座っている人全員が携帯でメールを打っている光景を見るとゾッとしてしまう。

携帯がキチガイを生んでいる事も否定出来まい。

電々公社も国際電電もボーダフォンも、いっそのこと「携帯でキチガイになろうキャンペーン」を繰り広げたら如何か?

キチガイ電波キャッシュバックであなたもキチガイ度アップでお得だよ!

急げ!あなたも私もケイタイキチガイ!


2008年5月20日

「影男シリーズ」最終話作画完了。

2001年以来、およそ7年続けて執筆してきた「影男シリーズ」も今回で最終話だ。

当初はこんなに続くとは思っていなかったのだが、他にさしたる構想があった訳でもなかったのでいつのまにか続いてしまった、というのが本音であろうか。

全20話(プロトタイプの『絶望トンネル』も含めると21話)、ワンエピソードが大体16〜24ページ。例外的に32ページというのもあった。

まだラスト6話分が単行本化されていないが、いつかは出るんじゃないかと気長に待って頂きたい。

いずれは全話まとめて大判サイズで単行本にしたいと願っているが、はたしてそんな奇特な夢は果たせるであろうか?

最近は商業原稿の描き方が硬直してしまい柔軟性がなくなって、絵に面白みが欠けてきた。

知り合いなどから、もっとこうした方がいいんじゃないかと、御指摘、御指導を賜る事があるのだが、なかなか思いどうりに筆が運んでくれない。シリーズ中にいきなり絵柄が極端に変わってもおかしいので思い切った変化も難しい。

今後、コミックバーズでの新シリーズでは、絵柄を一度リセットし行き詰まった現状を打破しようと思っている。

ホームページいろいろ更新。

最新情報トップページギャラリー作品リストなど。


2008年5月14日

地震に思う。

先週の茨城県沖群発地震に続いて、中国四川省での大地震。

メディアが伝える地震災害の映像を見る度に「いつか必ず来るであろう」首都圏震災を思い浮かべる。

想像を絶するカタストロフが予想されるというのに、この国の行政の呑気さといったら絶望的である。

国民上げて防災訓練や実践的予防演習やバックアップシステムが不可欠であろうに、そんな事は一切やっていない。東京大空襲や関東大震災の教訓も活かせず、ただ流されるまま。

次に来る首都圏震災は、過去二つの大災害を遥かに凌ぐ国家的危機を招く程のインパクトがある。

なにせ現在の日本人口の遍在を考えると「10人に1人」が東京都民なのだ。

にも拘らず、行政のやっている事と言ったら愚行のオンパレード。

周知のごとく、ろくでもない何とか特定財源とか、年金保険制度とか、裁判員制度とか実態とかけ離れた「机上の空論」で国家運営をしている「つもり」の偽政者にこの国は潰されかけている。

野党も与党も関係なく、国会議員はいったい誰の何のために働いているのか皆目見当がつかない。

もっとする事があるんじゃないのか?

と思った途端にまたもや呆れた法案が。

お馴染み「サマータイム法案」である。

これを与野党の議員さんこぞって議員立法で成立させようという。

もう何回も「こんなモノいらない」と破棄されているのにも拘わらず飽きずに持ち出す感覚は、知的障害か?

温暖化防止に一役買うなどという理由らしいが、地勢的に日本でサマータイム制度など実施しても省エネ効果は薄いと誰もが指摘している。

地上波デジタルテレビ購入強制といい、国民に要らぬ手間と費用と混乱を強いる「糞制度」をちまちま考えている議員は馬鹿と言うしかない。

あらゆる物価が上がっているのにいちいちデジタルテレビや、サマータイム用機器など買っていられるか!

サマータイムで余暇時間が増える?糞蒸し暑い上に物価高のおり、誰が脳天気に遊ぶものか。家に帰って冷房かけて寝ているか残業を強いられるのがオチ。まあニートにとっちゃどうでもいいのだが、結局電力消費はむしろ増加で温暖化に一役買うはめに。

こんな制度で「経済効果」云々を皮算用している経済界も間抜けである。今を「昭和元禄」と勘違いしているのではなかろうか?すでに積極的にモノを消費する生産人口は減っているんだよ。

もうこの国には「消費者」と呼称される世代は消え去っているんだ。

こんな痴呆レベルの政財界の無能無策に引きずられる国民も哀れである。迷惑千万以外の何ものでもない。

止めは首都圏大震災だ。

まあ、棺桶とか骨壷需要はありそうだから葬儀屋特需でも期待すれば?経団連や政治家の皆さん。

ああ、死体を燃やしたら炭素が出るから地球環境によくないね。だったら「土葬法案」でも議員立法で作ってみたら?

死体処理も「地球にやさしく」しなきゃだめだよ。閑人国会議員さん。

もっともその時には、この日本もおしまいだけれどね。


2008年5月13日

国宝薬師寺展

少し前の事になるが、上野で開かれている薬師寺展に行ってきた。

国宝の日光菩薩、月光菩薩が至近距離で観賞出来る。

これを見て思ったのは、この菩薩がなんとも官能的な身体のラインを写実的に表現していることに吃驚したことだ。

後ろから見る腰をくねらせたポーズはインドヒンズー教ヤクシー像を彷彿とさせる程煩悩に満ちている。

到底神仏像として祀られた菩薩には思えない。思わず我が愚息が勃起してしまったほどだ。

むしろ仏閣から外に出されたこの菩薩像は、ギリシャかローマの神殿に飾られた女神像ようにも映る。

線香の匂いが一切ない、宗教色を排除した場所で見るこの菩薩像は、その像を作り上げた者が魂に込めた「真理」を伺い知る事が出来る。

即ち、菩薩と言えども、性愛の対象としての女体であることには変わりない。

煩悩、欲望を含めて人間は極楽浄土を垣間見る事が出来るのだと。

煩悩こそ悟りへの第一歩なのである。

普段は光背を背負い「煩悩」を覆い隠している月光菩薩、日光菩薩だが、いざ光背を外すと「彼女達」の真の姿が現れる。

おそらく、そういう「仕掛け」を飛鳥時代の仏師たちは予め用意していたのであろう。

煩悩こそ人間のありのままの姿であり、それを無きものにするのは「偽善」であると。

「煩悩こそ真理なり。その煩悩の偶像を滅せんと企てる者は邪なり。警戒せよ」と、この菩薩は語っているようだ。

昨今の「児童ポルノ改正」法を押し進め、性愛の表現活動を抹殺しようとする輩もおそらくその「警戒しなければならない仏敵」といえよう。

飛鳥時代の月光、日光菩薩と同じく現代美少女アニメキャラクターもまた生きていくに欠かせない「信仰」の対象である。

聖母でもあり、慈悲の対象でもあり、また性愛のシンボルでもある菩薩。

美少女キャラクターや、ラブドールは、すなわち平成の菩薩像である。

「児童ポルノ法改正」を押し進め、美少女キャラクターたる偶像をすべて破壊せよと叫ぶ輩は、即ち月光、日光菩薩を破壊するのと同じ事を為そうとしているのだ。

偶像を廃し、世の浄化を謳う偽政者を警戒せよ。その者共は邪である。

1300年の時を超えて、日光、月光菩薩は我々に「正しき行いとは何か」を問いかけているのかも知れない。

合掌。


2008年5月11日

ニートの五月

ゴールデンウイークもいつしか終った。今年は曜日の巡りが悪い上に天候も芳しくなくていつもの年よりぱっとしなかった。

「五月病」とかいうのもこれからか?

これ位の歳になると自分から何かを求めて動き回るという気力に欠けてくる。結局のところ、ここまで来てしまえば如何に自分が誰かしらから「必要」とされているかで、己の存在価値が分かってくる。

会社、家族、友人等、人望が厚い程その人間の価値は高くなる。当然、対価たる収入も高い。

逆に人望がなければ収入も低い。

その最たる存在がニートであろう。

よく、ニートが「まだ自分は本気を出していない。やろうと思えば俺には出来るんだ。その時がまだ自分には来ていないだけだ」だと語る事がある。

だが、その本気を出すべき己の「才覚」が世の中に必要とされていないからニートなのであって、結局の所「いらない人間」である事には変わりない。

己の「才覚」が世に必要なものならば、否応無しに求められる訳で、放っておいても「本気」を出さざるおえなくなる。

それが何時まで経っても「お呼びでない」のならば、いらないのと同じであろう。

本来、ニートが持っている花開くべき「才覚」を社会に還元出来ない世の中にしているのは政治の責任でもある。

ニートはすなわち、失政の果ての犠牲者なのだ。

そんな失政下、引き蘢り、ニートに真っ当な「求人」などやってはこない。彼等の元に届くのは大量の詐欺紛いのスパムメール。ニートに「ラブコール」を送ってくるのはこんな「ゴミ」の類でしかない。

貴重な人生をゴミと共に浪費するだけとは何たる屈辱か。

「まだ自分は本気を出していない。やろうと思えば俺には出来るんだ。その時がまだ自分には来ていないだけだ」と己を正当化しつづけても、やってくるのはゴミの山。

毎朝、スパムメールをゴミ箱に放り込む事だけが日課の、そんなニート達で溢れる日本に誰がした?


2008年5月6日

コミティア来場感謝

昨日5/5に開かれたコミティア84「あびゅうきょ工房」に御来場の紳士淑女各位にはこの場を借りて御礼申し上げます。

また昨年冬に発刊した『おたまと影の変態記』がティアズマガジンの読者アンケートや読書会などでかなり票を頂けており感謝感激。更には『プッシュアンドレビュー』に感想を投稿していただいた「たる屋」さんにも御礼申し上げる次第であります。

さて、このゴールデンウイークは北東気流が流れ込んで天候に恵まれず、この日も曇って時々小雨も舞っていたがコミティアは例年通り盛況であった。

お陰様で新刊コピー誌やディアスマガジンでプッシュして頂けた本共々持ち込み分完売する事が出来た。

購入出来なかった方には申し訳ない。

なお、『おたまと影の変態記』は秋葉原の『とらのあな』1号店5Fでも委託販売中なので近郊の方は御利用していただければ幸い。また通信販売も可能であります。

ところでこの日はコミティアが初めてという学漫時代からの知り合いを呼んでみた。オリジナル同人イベントは初めてらしく戸惑いながらも興味深く会場を徘徊していたようだ。

イベントでは10〜20才年下の人達と交流するのが常になっているから、同世代の知り合いとコミティアで会う事はめったにない。つくづく自分が特異な環境で活動している事が思い知らされる。

閉会後、彼を交えて知り合いの同人作家さん数人と会場近くのカフェで雑談。普段は各々別次元に居る知人が一同に会する情況は、とても新鮮であった。

これもコミティアならでは、であろう。

次回もよろしく。


2008年5月4日

COMITIA84参加のお知らせ。

恒例オリジナル同人誌展示即売会コミティアが、5/5東京ビッグサイトで開かれる。

今回もいつものようにサークル参加します。

COMITIA84(5/5東京ビッグサイト東4.5ホール)のスペースは「え01b」です。

例によってゴールデンウイーク版コピー誌新刊を出す予定です。

あと、諸々のペーパーもあり。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

宜しくの程を。


2008年4月26日

チョコレイト・ディスコ

先日、ラジオを聴いていたらなにやらピコピコしたインベーダーゲームみたいなシンセの伴奏に合わせて女性ボーカルがチョコレートディスコがどうのこうの、女の子男の子どうのこうのという歌が掛っていた。

マニアックな曲を紹介する番組だったのでてっきり1980年代半ばの忘れられたテクノポップグループなんだろうなと思っていた。

ところが調べてみるとなんと今現在流行っている曲ではないか。

Perfumeという女子3人組トリオ。

今の今まで知らなかった。

めったにCDなんて買わないのだが、妙に気になってしまい『GAME』という最新アルバムを購入。仕事のBGMにしてみた。

この「チョコレイト・ディスコ」という曲は変に癖になる。

「計算してる女の子、期待してる男の子」

歌詞はシンプル過ぎる程、シンプルで他愛のない妄言みたいなものなのだが、それがかっぱ海老せんみたいに絡み付いてくる。

この手の曲は余り得意ではないし、守備範囲ではないのだが・・。

それにしてもテイストが1980年代っぽくて変。

なんで今頃こんな曲が流行るのか解らん。


2008年4月25日

『東京キタナイ★TV』

NHKテレビを観ていたら『東京カワイイ★TV』という番組が流れていた。

女性雑誌そのものをTV化したような番組。

出てくるのはモデルタイプの女性とイケメン男優。

自分のような人間からすれば興味率マイナス400パーセントの内容。

「カワイイカワイイ」を連発するだけ。趣味の接点が一切ない。

だがこんな番組作ったところで若い女性が喜ぶかどうか?携帯メールに忙しくてテレビなど観ちゃ居なかろう。

どうせこの時間帯にはニート男性と独居老人位しかテレビの前に居ないのだから、いっそニートと老人向けの番組にしたほうが視聴率が稼げよう。

題して『東京キタナイ★TV』

引き蘢りのニート男性が汚い部屋で悶々と過す様子をダラダラ流すだけ。パソコンの匿名掲示板に向ってブツブツ言いながら何やら書込む様子とか、AVでオナニーするシーンとか、三角座りして泣いている様子をひたすら撮るのだ。風呂に何日入っていないかを競うコーナーもあり。

すべてが「クサイキタナイ」一色だ。

隣の独居老人が気味悪そうにニート部屋を覗き込むシーンも取り入れ視聴者からの目線も忘れない。ラストに水戸黄門扮する翁が乱入し、そのニート男に説教し軍歌を謳わせて更正させる。

締めに斉藤環や香山リカが一言述べて終了。

如何であろう。制作費も安上がりだ。

ニートだけでなく一般視聴者にも安心感と優越感を与えるであろう。

「嗚呼、こんな人間にならなくてよかった」とね。

オシャレな番組など民放に任せておけばよいのである。

『東京キタナイ★TV』こそ「皆様のNHK」が放映すべき番組だ。

伊集院光のラジオ新コーナーに出来そうかな。


2008年4月24日

硫化水素自殺「報道」

硫化水素で自殺という報道が流れて、その自殺者の数がここ数週間で五十人に達している事に吃驚する。

その反面、メディアはもっぱら「巻き添え注意」を喚起することに重きを置いているが、それでいいのか。

単一事故や事件で一度に50人犠牲者が出たら大騒ぎしてもよさそうだが、こと硫化水素自殺者「事件」に関しては何故に殊更冷静に勤めるのか?

その「動機」すら話題にしようともしない。

練炭自殺が流行した時もそうだったが、10代から30代の、まだまだこれからの人生がある若年層の自殺に関して、メディアはほとんどスルーしてきた。

報道によって連鎖自殺を防ぐためかもしれないが、何故に彼等が自ら命を断っているかの深い洞察もせず、ただひたすら「巻き添え注意」だけを喚起するメディアは、この時代の矛盾極まる病巣と対峙する気がないのだろう。

つまりは練炭や硫化水素で自殺するような若年層の人生など知った事ではない、ということか。

もっともメディアにとっては偽政者による「既得権独占のため」に役に立つ人間のみが尊重に値する「命」なのである。だからこそ利用しがいのある「おんな、子供」の生命、安全には過剰な程過敏に反応し、気狂いじみた報道に明け暮れているのだ。

それ以外の人間の「生命」など知った事ではない。むしろさっさとこの世から消え失せろと願っているのだろう。そんなメディアに世の本質を問わせようと期待するほうが間違っているとも言えようか?

世の矛盾を追求する本来のジャーナリズムの役割を放棄し、既得権独占のための手段に甘んずるメディア。

ある意味、メディアこそ「自殺ほう助」の真犯人かもしれない。

この際、開き直って「硫化水素自殺者数予想クイズ」番組でも作っては如何か?

視聴率稼げるよ。


2008年4月23日

「テレビ忠臣蔵」

先日、メディアを賑わせた裁判報道は何となく奇妙であった。

テレビで聞き齧った程度の知識でこの事件や裁判の事をあれこれ言える立場ではないし、実際よく解らない。

だけれどこの被告の「罪状」は正に絵に描いたような「極悪非道」だし、被害者の夫の男性は悲劇のヒーローであり「復讐するは我にあり」の台詞がぴったりの、いわば平成の「大石蔵乃助」だ。

更にこの「復讐劇」に香ばしいエッセンスを加えてくれたのが「弁護団」の人達である。

被告の救済どころか火に油を焼べて「民衆」の怒りを加速させたという点では「名脇役」となった。

なんだかこの「弁護団」は、実は被告を死刑にするために敢えて送り込まれた「刺客」だったんじゃないかと勘ぐりたくもなる。

真実は何処にあるのか知らない。

当事者以外はメディアというフィルターごしに「真実」を伺うしかないのだ。

だが、メディアは時として嘘と欺瞞に満ちあふれている。

この「復讐劇」だって相当のバイアスが掛っていると疑ってよい。

被害者の夫は「英雄」でなければならず、被告と弁護団は「鬼畜」でなければいけないという「役割分担」がメディアによってしっかりと構築されている。

これは「真実」「真理」に基づく報道というより「戯曲」と言ったほうがよいかもしれない。

民衆はその「戯曲」に踊らされ「極悪人」が極刑に処される瞬間を見て溜飲を下げるのである。

18歳の死刑の是非なんてどうだってよいのだ。

だから、例えば児童ポルノ改正法論議も「児童ポルノ=民衆の敵」という図式の元にメディアがシナリオを画策すれば、あっという間に成立してしまおう。

そこに「真実」なんて存在しない。

「真実」に基づきこの法律の異常性を訴えたところで、民衆は今回の裁判の「弁護団」と同一視して非難する事は目に見えている。

「児童ポルノを擁護するなんて気狂い共め!」とね。

民衆は単純だからすぐに扇動されて「真実」などかなぐり捨ててスケープゴートに石礫を浴びせよう。

世の中そんなものだ。

裁判が「法の下の平等」に基づいて裁かれるなんて嘘である。

例えば、夫を殺してバラバラにして捨てたセレブ妻がいたが、彼女の求刑は僅か懲役20年である。

噂によればこの女性は大層裕福な家庭の出身らしいから、まあ裁判官や検察に手心が加わったのだろう。

最近の重罪化傾向も胡散臭い。

かつては「気狂い」にも市民権があった。

「気狂い」に犯行の動機も糞もない。気狂い故に気狂い沙汰を起こすのだ。

だから「気狂いに刃物」なのである。

そんな「気狂い」を一般人と混同させ、やれ原因は「ゲームだネットだ」と無理矢理動機の原因を結び付ける最近の傾向は忌わしさすら感じる。

茨城の刃物振り回し「気狂い」犯も、曾ては「気狂い」は「気狂い」と認め、さっさと精神病院に放り込まれたはずだ。

これは更正云々ではなくて、「気狂い」は「気狂い」として処する合理性があったからだ。

なのに昨今の裁判では「気狂い」は「存在しない事」にされて、むりやり動機を探究し加害者を「罪なき者」に濡れ衣を着せるためのスケープゴートを祭り上げる材料にしている。

「気狂い」も住みにくい時代になったものである。

一方で、上記の「夫殺害バラバラセレブ妻」のように、「気狂い」でもないのに「気狂い」の振りをしてまんまと罪を逃れる輩も入る。これこそ悪質極まりない。

「気狂い」に失礼だ。

動機も計画性も明確な犯罪なのにどこが「気狂い」か?

このように如何にいい加減な司法制度の元で裁判が展開されているかを考えると、新たに始まる「裁判員制度」なんて茶番でしかない。

結局、裁判なんて『水戸黄門』と同じく、60分で犯人が死刑になりさえすればよいのだ。

いっそ『こまわり君』みたいに「死刑!」の台詞一発で裁判終了でいいんじゃないのか?

死刑廃止なんて出来っこあるまい。

死刑がなくなって困るのは民衆とメディアである。

今回みたいな「復讐劇」がなくなっちゃうからね。

「テレビ忠臣蔵」一巻の終わり。


2008年4月20日

ラジオ出演予定

4月20日日曜日、78.9MHzかつしかFM毎週日曜20時から放送されているマンガ・アニメ情報生番組『秘密のオンライン』にゲストとして出演する。

メインDJさんとは以前からお知り合いだったのだが、今回初めて番組に出させていただける事になった。

夏に自主制作で発表予定のドラマCDの宣伝も兼ねてプロデューサーと共にお邪魔する。
興味がある方は是非聞いてみて下さいませ。

このかつしかFMはコミュニティーFMなのでラジオでは葛飾区周辺のみが可聴範囲なのだがインターネットでも聴取可能。

http://www.kfm789.co.jp/

宜しくのほどを。


2008年4月17日

巨人の星

東京MXテレビ早朝に、初代の『巨人の星』が放映されている。最近始まったばかりらしくシリーズの序盤が観れる。

なにせ昭和40年代の作品であるからテレビアニメ作画レベルは恥ずかしい程に稚拙だ。ほとんど「紙芝居」である。しかしなぜかストーリーは妙に後を引く。

朧げな記憶の果てに忘れかけていた主人公星飛雄馬や父星一徹のキャラクター設定や台詞は意外にもしっかりしていて、今現在でも人生訓として通用しそうである。

当時、プロ野球読売巨人軍は日本少年達にとって唯一のヒーローが実在する憧れの場であった。当時の少年は例外なく巨人軍の野球帽を被っていた。つまり巨人軍は絶対的に揺るぎない強さを誇った「神」の集団でもあったのだ。

柴田、高田、王、長嶋、黒江、末次、土井、堀内、森。そして川上哲治。

この絶対に負けないV9戦士はメディアによって神格化されて、少年達はひたすらに巨人至上主義に邁進したのである。

そう!日本全少年が「ジャイアンツユーゲント」だったのだ。

そのプロパガンダの一つが『巨人の星』だったとも言えようか。

主人公星飛雄馬は、父と共に天に浮かぶ巨人の星を指差す。そしてグラウンドに落ちる巨大な夕日はそのエネルギーの象徴だ。

まるで何かの宗教勧誘アニメのようだ。

そう!当時巨人は天空に存在する絶対神と同等だったのだ。

昭和40年代、物事は今程複雑で多様化しておらず、ただひたすら信じるものに邁進するしか選択肢はなかった。だからスポーツ根性モノの作品は無邪気に思える程、単純な思考でなり振り構わずストーリーが進んでいく。

弱いものは打ち捨てられ、強いもののみが生き残る。そのための戦略が心地よい程に染みてくる。

当然、今では放送禁止の言葉も頻発する。この『巨人の星』放映でも冒頭にその旨のおことわりテロップが出ているが、それでも台詞がカットされるシーンがある。

「日雇い人夫」「気狂い」などの台詞はなかなか凄まじい。

昨今格差社会と煩いが、この『巨人の星』で描かれている「格差」を見ると大した事もなかろうと思える。継ぎはぎだらけの学生服などは、今だったら修繕する手間暇を考えれば買ったほうが安いだろう。労働の対価というものが当時と如何に変わってしまったかも解る。当時アキ子お姉さんのような、男性の夢を無償の労働で補佐する女性の存在は当たり前だったのだ。

いずれにしろ、この作品を観ていると、結局のところ物事の本質は何も変わっておらず、今はただ「偽善」という分厚いオブラートで「現実」が不明瞭にされているだけなのだと分かってしまう。

弱肉強食の原則は昭和40年代だろうが平成20年だろうが同じようなものだ。現在はそれが如何に巧みにごまかされているだけなんだろうと。内助の功たる専業主婦が居なくなった分、平均男性の幸せが奪われている現代の矛盾をこの『巨人の星』が浮き彫りにしてくれる。

『巨人の星』の心地よさは、その欺瞞に満ちたオブラートが一切ないところにある。無邪気な程単純なのだ。しかしその単純さこそ人の気持ちを引き付ける要素になろう。

今ではホモセクシャルと疑われかねない「男同士の友情と団結」が普通に描けているのも、凄いところだ。こんな情念が融合しないと「男の夢」は具現化出来なかったのだ。

巨人至上主義時代というシンプルな時代は、もう戻っては来ない。今、ジャイアンツの帽子を被る少年の姿は何処を捜しても、居ない。

この『巨人の星』も使い捨てでよしとされた大量消費時代の遺物であろう。

しかし、そんな遺物をこの平成20年に垣間見る時、なんとも言えない気持ちになる。

もはや、少年が天を仰げる目標は存在しない。

天にあるのは「虚人の星」のみ。


2008年4月13日

これからの『サザエさん』

先日、行きつけのコーヒーショップでモンブランケーキをオーダーしたら、以前の半分位の大きさになっていた。

昨今の原油価格、穀物価格高騰でそろそろ下々の民の生活にも影響が及ぶようになったのか?

昭和30年代生まれの自分にとってこれまでも生活に大きく影響するような出来事は存在した。1970年代のオイルショック然り。でもそれは一時的なイベントとしてインパクトがあったものの、暫くすると正常なレベルに戻っていった気がする。少なくとも以前より生活環境や物質的な充足感が損なわれた事は一度もなかった。

多少の揺らぎはあったものの、時と共に豊かさは拡大していったのだ。

だが、今後はどうなるのだ?

原油や穀物が以前より安くなるとは思えない。物理的な絶対量が足りないから急速に供給が回復する可能性も少ない。むしろ永遠に供給は回復せずにずるずると物不足が拡大していくような気がする。

食料もエネルギーも海外に頼っている日本が国民の必要とするその絶対量を確保しつづけられるパワーがあるとは俄に思えない。

だからもしかすると、もう2度とコーヒーショップのモンブランケーキは元の大きさに戻らないばかりか、どんどん小さくなって、遂にはメニューから消えるのだろう。

いや、ケーキだけではない。

世の中がもはや対処し切れない現実に直面しつつある事に愕然としたのだ。

先日、「後期高齢者健康保険」が改定されたとかで75歳以上の高齢者に新たな保険証が交付されたというニュースが流れた。しかし多くの高齢者がその制度改定に戸惑っているという。

つまりはかなりの該当老人が身の回りの事柄に関して独りで対応しなければならないという現状を浮き彫りにしたのだ。親族は全く当てに出来ない。というか頼るべき親族が存在しないのだ。

当該省庁はこの事実を分かっているのか?

すでに日本に『サザエさん』のような親孫祖父祖母が同居する家族制度は無いに等しい。

大抵が独居で世代間のコミュニケーションも希薄なのだ。

そしてその情況が今後激烈な速度で拡大するのは必至である。75歳以上の老人など珍しくなくなり、そんな年老いた独居老人が日本中に溢れかえってしまう時代が確実にやってくる。

75歳以上の老人の面倒など誰が看るのだ。家族や身寄りも存在しないのだから老人達は公的機関に頼るしか無いのであるがその公的機関ももはや許容範囲を超えて機能停止状態にならざるを得ない。

つまり、75歳以上で心身共に健康な者以外は確実に打ち捨てられてしまう国になるということだ。

物資、エネルギーも確保出来ず、高齢化にも対処出来ない国、日本。

2008年現在の、この日本は恐らく最後の「豊かで平安」な時代になるのかもしれない。

「飽食」もまた懐かしい死語となるだろう。

すべては「もの余り」から「物不足」に逆転して、スーパーの棚からありとあらいるモノが消えていこう。

いや、スーパーすら町中から消えようとしている。すでにコンビニチェーン企業は不採算店鋪を大量に閉鎖するとのニュースも聞こえてきた。

これからどんどん高齢化社会になるというのに、街から利便性が消え失せ、いつしか昭和30年代の生活水準にまで落ち込むだろう。だがかつての昭和30年代は乏しくても若年層が卓越し生産人口が多かったから、情況は正反対だ。

なにせ『サザエさん』に描かれていたようなプラスの活力で漲っていたのだからね。サザエもワカメもカツオもマスオもそしてタラちゃんも未来が約束されていた。

「これからの人生」が存在した世代で家族は構成されていたのだ。

だから老人達もそんな家族に扶養され希望は孫に託され、何の不安もなかったのである。

だが、これからの時代、全てのベクトルは負に向う。

「これからの人生」よりも「もう直に終る人生」の者達でこの国が溢れかえるのだ。

不便な生活を強いられる上に頼るべき家族も存在しない。モノも希望も失われる中、独身独居老人が頼れるのはもはや「自分自身」だけ。

公的機関など誰も当てにはしないだろう。若年層が絶対的に少なくなった社会にそんな余力は存在しない。結局身寄りもお金もない独居老人達は、満足な医療も受けられず死を待つしかないのだ。

食料輸入は停止されヒエとイモの配給で凌ぐしかあるまい。車も鉄道もエネルギー不足で走る事もなく、移動手段は馬車のみ。

ネットも携帯も昔話だ。インフラを維持出来なくなってこれらは一部の特権階級しか嗜む事が出来なくなる。

独居老人は今にも増して部屋に引き蘢り、誰に看取られることもなく死んでいく。

街は埋葬し切れない独居老人の死臭で溢れ、健康な老人の唯一の仕事はその死体処理だ。

彼等は思う。

「嗚呼、平成20年がお伽話のようだ。コンビニなんて夢のようなお店があっていつでもお菓子を食べられた。嗚呼、あの時代に戻りたいものだ。あの廃棄されていたお弁当、美味しそうだったなあ」

そんな波平とフネしか出てこない『サザエさん』がこれからの日本のスタンダードだ。

子も孫も居ない、各々孤立した独居老人として描かれる波平とフネのみの『サザエさん』。

遅かれ早かれ孤独死しか描かれない『サザエさん』。

今日の3本

「フネ、隣の死臭にうんざり」

「タマ、街角の老人死体の腕をくわえて逃げる」

「波平、孤独に息を引取る」

僕らはそんな時代に生きていかねばならない。

怪我や病気をしたら最後と思え。

誰も助けてはくれない。


2008年4月9日

聖火リレーと映画『靖国』

北京オリンピックの聖火リレーが欧米で盛んに妨害にあっている映像がテレビから流れていた。解説によると中国によるチベット弾圧に抗議するためであるとか。

覇権主義の中国を牽制するために欧米各国もこれら抗議活動を事実上看過しているようだが、考えてみればイギリス、フランス、アメリカが過去数世紀に渡ってアジア、アフリカに対する植民地政策で如何なることをしてきたかを考えれば、中国に抗議する資格などさらさらないんじゃないかと思う。だから中国政府や中国若人が憂う聖火リレー妨害に対する「怒り」は、なんとなく理解出来る。

大体、聖火リレーの沿道で抗議している人達は、本当にチベット独立を願っているのだろうか?

ただ騒ぎに乗じて目立ちたいだけかも知れないし、白豪主義のナショナリストかも知れない。だいだい雰囲気として察するならば、日本の調査捕鯨を妨害した「シーシェパード」と同じ匂いがする。

つまりは「黄色い人種が覇権を画策したり、稀少哺乳動物を捕獲する事は神が許さない」みたいな白人優越主義が根底にあるのだから、連中には中国も日本も同じようにしか映っていまい。

それに仮にチベットが独立して強国となり、核兵器でも持つような事態になれば手の平を返してチベットを非難するであろう事は容易に想像出来る。

要するに欧米の「チベット擁護」はチベットが何の資源もない、とるに足らない「弱少国」であるからで、だからこそ中国の覇権主義を牽制する手段に使える訳である。例えれば「女、子供」の安全保護を口実に既得権を守ろうとする偽政者と何ら立場的に変わらないのである。

単に欧米列強の既得権を中国にかすめ取られたくないだけなのだ。

そういう意味では、やはり北京オリンピックはナチスドイツ下のベルリンオリンピックと情況が似ている。

外圧から来る民族主義の高揚は中国若人にしてみれば「魂の祭典」であるからなんとなく羨ましいとも思える。ナショナリズムは若人にとって人生最大の「御褒美」である。

やはりオリンピックは民族主義が全面に出たほうが面白い。

中国がチベットを「併合」しているのは紛れもない事実なのだから、それを正当化するならば大いに欧米列強と闘争すればよいのだ。中国は核保有国だし結構良い勝負が出来そうだ。

もうひとつ、最近話題になっているのが、在日中国人の映画監督が撮った『靖国』という映画。

内容は観ていないから知らない。だが、報道で察するには「反日」的で、日本の「軍国主義」を批判する内容であるとか。

これを何だかよく解らないが上映するしないで揉めているとか?

ところでこの映画の意味合いを考えると、偶然にも北京オリンピック聖火リレー抗議活動と同じ立場になっている事に気付く。

すなわち半世紀以上前、日本が中国を侵略するという「覇権主義」の原点が「靖国神社」であると問題提起する活動が正しいのならば、皮肉にも欧米各国で中国の覇権主義による「チベット弾圧」を抗議する聖火リレーの「妨害者」の活動も「正しい」と認めなければならなくなる。

他国の「侵略」の歴史は糾弾するが、己の国の「侵略」行為に対する批判活動は看過しないというのでは説得力がなかろう。

この監督が聖火リレーの抗議活動をどう捉えているのかは知らない。どっちにしろ、それを認めないとおかしな事になってしまう。無論、実力行使で聖火リレーを妨害するのと映画という表現活動を同列で語るのは無理があるかもしれないが。

一方でこの映画の上映云々に口を挿んだ国会議員も間抜けだし、その思考は中国のチベット「弾圧」を正当化する中国共産党指導者と似たようなもの。

表現活動にいちいち口出しする時点で「負け」を認めたようなものだし、表現の自由に寛容性がなくなった時点で、その国はもうダメである。

もっともこの『靖国』を作った監督からしてみれば、こんな「騒ぎ」を起こしてくれたお陰で、ただで「宣伝」してもらったようなもの。自前で広告を打っていたら何億円と掛っていたろう。馬鹿騒ぎするメディア様様である。

このようなドキュメンタリー映画は精々単館上映で、一部の濃い映画ファンが観賞するに留まるのが普通である。だから、この騒ぎで興行的には監督の「完全勝利」であろうか。

この映画を観たいかは人の自由だし、好みの問題だろう。因に政治思想性の高いプロパガンダ映画は嫌いではない。ソビエト映画の『大祖国戦争』シリーズは面白いし、ナチスドイツ映画『意志の勝利』も傑作である。

だからこの監督も、今更零落れかけたこの日本で靖国批判の映画を撮るより、祖国に帰ってナショナリズム滾る中国若人と共に中華国家の世界制覇を鼓舞するプロパガンダ映画を作ったほうがよほど己の人生にプラスになるはずだ。

もう、日本なんか世界の誰からも恐れられていないし、尊敬もされないのだ。

そんな国を批判したところで何のためにもならないだろう。

時間の無駄である。

だから御国のために中国のレニ・リーフェンシュタールとなって歴史に名を残したまえ。中国はナチスがなし得なかった核武装も得たのだし、未来は明るいぞ。

そういう意味では、今の中国は羨ましい存在だ。

去勢国家に零落れた今の日本には、中国の覇権主義に抗議する事も、欧米列強の干渉にも抗えないのだから。清朝末期の中国と同じだね。当時の両国の立場が入れ代わったみたいなものか。

聖火リレーも映画『靖国』も今の日本には何の影響も齎さない。主役は常に中国だ。

寂しい限りである。


2008年4月3日

新年度

桜が満開になって1週間。今年はそれ程散る事も無く結構息が長い。

2008年度が始まったが、公私共々未だ展望開けぬままボルテージも上がらない。

街にはフレッシュマンと称される新入社員や新一年生らしき姿がちらほら見られるが、何だか別世界の住人のよう。

自分が若い頃、「新年度」が嬉しいとか希望に溢れるとか、そんなポジティブな気分になった事は一度も無かった。

変化など欲していないのに否応無しに新しい環境に放り込まれる理不尽に納得出来ず端っこでちぢこまっていた記憶しかない。

就職しなかったので、毎朝背広を着て出勤という経験もないのだが、あの「背広」という実用性の欠片も無い一兵卒の格好は想像しただけでも堪え難いものがあった。

つるつるの革靴、冷たいワイシャツ、結び方の複雑なネクタイ。その全てが「拷問」にしか感じられなかった。

だからこの季節の「フレッシュマン」を見るといたたまれない気分になる。

世渡りが上手く、コミュニケーション能力に長けている者であればサラリーマンとして安定した給与が貰える訳で、背広など何の苦にもならないのであろうが、社交性も協調性も世渡りも下手な人間が「背広」を着るということは、武器も扱えぬまま最初に地雷原で吹き飛ばされる一兵卒と同じで「出来損ない」でしかない。

だから「フレッシュマン」の中にはそんな「開戦1日目」で惨めに死んでいく人間もたくさんいると思うと辛くなるのだ。

昔、アメリカのCNNニュースか何かで日本の幼稚園児のお遊技の姿が紹介されている映像に向うのニュースキャスターがこうコメントしていたのを憶えている。

「この子らはこうして未来のビジネスマンとして教育されているのです」

これを見たのは確か高校生の頃だった筈だが、正直愕然とした思いを抱いた記憶がある。

要するに日本人の子供は皆サラリーマンブロイラーとして「飼育」されていた事実を、外国のメディアは見抜いていたのだ。

行き着くところは夢も希望もない一兵卒サラリーマン。

旧陸軍の粗末な2等兵の軍服とフレッシュマンの背広がオーバーラップしてとても嫌な気分になった。

これは1970年代の話で、今は当時程の「エコノミックアニマル」観は随分と薄れてしまったが、それでも4月の新入社員を見ると使い捨ての「バンザイ突撃」要員に映ってしまい辛くて仕方がないのである。

それでもニートよりはましなのだろうか?

自分は恐らく将来も背広を着る仕事は出来ないだろう。

もはや「バンザイ突撃」する能力も気力も資格もない。かといって兵卒を操る特権的階級にいる訳でもなく、ただ無意味に時間の流れに漂うだけのクラゲみたいな人生である。

意気揚々と行き交うフレッシュマンは自分にとって「惨めで無能な己の姿」の裏返しだ。

そんな虚像におののき、コソコソ石の下の虫のように這いずって生き恥を忍んだ挙げ句、気がつけばまもなく五十路。

いったい己の人生は何処へ向っているのか?


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