2008年1月・2月・3月


2008年3月30日

東京国際アニメフェアー2008

2年くらい前だったか一度観に行った事があったのだが、今回もチケットを知り合いから貰ったのでパブリックデーの二日目に赴くことにした。

午前11時頃会場の東京ビッグサイトに着いたのだが相変わらずの盛況で入場の列がビッグサイト外まで伸びていた。

会場内も人の波。ガイナックスとか有名所のブース前は身動き出来ない程の混雑。普通の親子連れも多かったのでコミケほどの「濃さ」はなく、いわいる「秋葉系」の乗りは薄かったものの、ここは「郷に入れば郷に従え」である。

無料配布の紙袋やクリアシートをかき集め、アンケートに応えて景品を貰い、コンパニオンの写真を恥を忍んで撮り捲る。

これがこの手のイベントの正しき「作法」であろう。

気が付けば萌えアニメキャラの紙袋を抱える「秋葉」ルックに染まった自分がいた。

クリエータの端くれならば、ブースの中にいて作品を提供する立場に居るのが本来のあるべき姿なのだが、なんだかもう今更恥じたとてどうなるもんでもなかろうと、半ば自暴自棄でひたすら会場を徘徊する。

何か刺激になる作品でも見つけられれば良かったのだが、感性が衰えているのか惚け始めたのかは解らぬがコンパニオンのメイド服やオーバーニーソックスやツインテールばかりに目が行って2次元妄想に反応しなくなっている自分に情けなさを感じる。

更には自分にはもう理解の範疇を超えたアイテムとかが多すぎて、もはやついていけない。「初音ミク」とかよく解らない。分かったとしても楽しみ方すら呑み込めない。

会場には個人やグループでアニメを製作するクリエーターを紹介するコーナーがあって、それぞれブースが設けられている。そこに知人のアニメーターさんが出展されており挨拶に赴いた。この方は手描きのエキゾチックな作品を手掛けており自分には懐かしさを感じさせる。

それもそのはず、自分が学生時代の頃、足繁く通ったプライベートアニメ上映会「アニメーション80」に参加されている方なのだ。今やその発表の場が国際的なイベント会場で成される事に隔世の感がある。

それにしてもいわいる「萌」系アニメから幼児向け、外国製ギャグアニメまでが同居するなんとも言えない香ばしさを醸し出していたこのアニメフェスティバル。今年は開催期間4日で約12万人を動員したとか。

欧米系外国人の姿も数多く、一昔前の「秋葉系」そっくりの黒人がアニメグッズを漁っていたり、メイドコスの女の子が外国のテレビクルーらしきグループにインタビューされていたりと国際化著しい。

だが思うに、日本発と海外発のアニメには明らかな「相違」が感じ取れる。それがつまり「萌」に代表されるアニメ美少女のエロティックな表現やキャラクターの有無なのだ。これが海外発のアニメには皆無であるということ。だから海外の出展ブースに立ち寄っても無味乾燥に感じてしまう。

日本アニメの盛況はこの「萌」あってこそであり、そこがまた海外のファンを引き付ける「特殊な」アイテムである訳だ。

「萌」を表現する媒体であるところの「アニメ」と、そうでないアニメとの間には「越えられない壁」がある。「萌」なきアニメでは、この盛況を維持する事は不可能だろう。

だからこのフェア−は好むと好まざるに拘わらず「アニメ」のお祭りではなくて「萌」のお祭りなのかもしれない。

はたして「萌」は国際化出来るのであろうか?

この国際「アニメ」フェア−は来年もまた盛大に開かれるらしい。

いずれは作品を提供する側に立ってみたいものである。


2008年3月29日

花見

ここ数年恒例となった新宿御苑の花見。

満開と週末が重なって凄い人出である。幸い午前中に入園したので人波に揉まれる事はなかった。

染井吉野が満開の園内は壮観で、何だか映画セットのような360度見渡す限りの桜のパノラマである。

桜の幹の傘の下にレジャーシートを敷いて寝転がる。

桜の天蓋だ。

純粋すぎる程の桜一色の光景は、同時に脆弱と儚さでもある。

わずか一週間程で散ってしまい、葉桜の後は毛虫のシーズンがやってくる。

毎年、この桜満開のシーズンをこうして惚けながら眺められるのは、ある意味、幸せなのだろう。

惚けた果てにボケるのも一興か。


2008年3月23日

坂の下の溝

NHKが司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をドラマ化するそうである。

自分はこの小説を読んだ事がない。解説等によれば、明治維新から日露戦争までの激動の時代を3人の若者の視点から見た青春歴史群像であるという。主に日露戦争に関しての描写が優れた作品らしい。

明治維新下に生まれた若人3人が欧米列強の一つロシアに勝利するまで如何なる困難と対峙し命懸けで日本の近代化に果敢に挑戦していったのかを描写するという、今では考えられない程の「ポジティブ」なストーリーだ。

戦後高度成長下の1960年代後半に書かれた小説であるから「ポジティブ」であることも何となく頷ける。これまで何度か映像化する話もあったそうだが全て頓挫しておりこのNHKのドラマが初めてだとか?

考えてみるに「富国強兵」の国家政策を忠実に実践したインテリ男子(それも二人は軍人)の物語など、「好戦的」「軍国主義的」だと非難されてこの今の日本ではまともな映像化など難しいはず。今回どういう理由でNHK がドラマ化に漕ぎ着けたのかは知らぬが、はたして上手く作れるのだろうか?

それに日露戦争の描写など壮大すぎて、陳腐なテレビ用セットでちまちま作られても全く迫力に欠けるんじゃないかと心配してしまう。

そもそもこのような国家主義的小説を、今映像化してどうすると言うのだ?

男女共同参画という国家主義とは真逆の「去勢文革」が吹き荒れるこの日本では皮肉としか言い様がない。ただ虚しさが込み上げるだけ。

下手をすると横槍が入って制作自体頓挫しかねないと思うのだが。

それはさておき、改めて『坂の上の雲』の時代背景を考えると、明治維新から僅か40年弱で列強のロシアに戦争で勝利を納めるなんてどう考えても「神憑かり」にしか思えない。

まさに「雲を掴む」話である。

ちょんまげを結って農業に従事するしかない貧民が大多数だった封建鎖国国家の江戸時代から半世紀にも満たぬ。

その間に鉄と科学技術で固めた近代兵器を駆使した軍隊を完成させ、遂には列強ロシアを倒すまでに至る軍事強国に成長させてしまうなど、いったいあの頃の日本男子はどこまで凄かったのか?

一日一日がポジティブに猛烈な魂の闘争を繰り返して前進しない限り、こんなことは実践出来まい。

当時の日本男子の視線は遠く100年先を見据え、自らの命を顧みず、国家建設のために邁進していたのだろう。それが許される時代だったのだ。正に男が男として魂を100%燃焼出来たのだ。

それに比べ、それから100年後の現在、昭和から平成にかけてのこの40年間に日本男子が魂を燃焼できた事柄が一つでもあったか?

否。何にもない。

正に雲泥の差である。

国家建設に貢献するどころか基本的通過儀礼である結婚も就職も出来ない日本男子が爆発的に増加しただけ。

何かアクションを起こせば「犯罪者予備軍」として世間から非難を浴びせかけられ挙げ句の果てにニート、引き蘢りと辱めを受け「自己否定」を強いられる。

善良な日本国民としての権利どころか、まるで奴隷か囚人の扱いである。

そう、こんな時代に『坂の上の雲』を映像化したところで悪い冗談にしか思えない。

そもそも雲を掴もうとする意思を持つ事すら否定されるのだからね。

いっそのことそんな夢のような時代を描くのは止めて、むしろ現在の日本男子を忠実に描いたドラマの方がリアリティーがある。そんなオリジナルドラマを作っては如何か?

題して『坂の下の溝』。

一切の希望を断たれた日本ニート引き蘢り独身男子3人の物語だ。

全ての希望を剥奪され精神的に去勢された彼等は日々虐げられ、自己否定を強いられ、やがて坂の下のドブ川に転落して惨めな死を迎えるような無意味で下らない半生を描くのだ。何の役にも立たない存在価値ゼロ、生きている事が如何に無駄であるかをこれでもかこれでもかとデカダンスに退廃的に3年間に渡り描き切るのである。

これこそが「皆様のNHK」に求められる作品ではなかろうか?

現代の状況下では日本男性を如何に蔑視し扇動、宣伝、教育していく事こそ公共放送たるNHKの勤めだ。

これなら男女共同参画予算からも制作費が下りて、よりクオリティーの高い「絶望男性」を描くことが出来よう。

坂の上からまっ逆さまに転げ落ちる日本男子の悲哀と絶望。

これが平成20年に描くべき現実の「国家像」である。

司馬遼太郎のロマンを描く資格など、もうこの日本にはない。


2008年3月20日

児童ポルノ法改正(「なくそう!子どもポルノ」キャンペーン)論議

先日、NHKBSで昔のガイナックス作品『トップをねらえ!』劇場版が放映されていた。

実は自分はこれまで『トップをねらえ!』を観た事がなかったので今回が初見である。

もっともオリジナルはOAVの連続モノなので、これは一種のダイジェスト版であろう。

正直、想像していたよりもよい出来で、ストーリー、演出、作画とも非常にレベルが高い。当然ながら当時はCGなど殆どなかった訳で手描きでの表情豊かな動きとこだわりのメカニックは実に素晴らしい。

逆に考えると、以後のガイナックス作品等のSF「萌え」系「お約束」メカ+美少女アニメーションの骨格はこの時代にほぼ完成の域に達しており、以降の『エヴァ』や『グレンラガン』という作品群は単に『トップをねらえ!』のオマージュとして高度にリメイクしているに過ぎないと言ってよいだろう。

昨今の高度なCG技術は、結局はリメイク再生産の手段であって、『トップをねらえ!』が創作された当時の作品に賭ける壮大なエネルギーに代わるモノではない。

如何に『トップをねらえ!』制作当時のクリエーター達が抱いていた意気込み、妄想力が凄まじいものであったかを物語ろう。

それを思うとこの『トップをねらえ!』が作られた1988〜90年こそが、いわいる「萌」文化の原点であり、以降の「秋葉系」と称される若人が胎動し始めた時代と言えないだろうか。

美樹本晴彦キャラや日高のり子の声を見聞きすると、危ういながらも、善くも悪くもこれが「萌」の「起爆剤」になったのである。

と同時に、この年代は宮崎勤の連続幼女殺人事件を発端として、いわいる「ヲタクバッシング」「ヲタク狩り」が吹き荒れた頃でもあった。

マンガ、アニメに関る若人は皆ペドフィリアか異常性格者と同一視され、スケープゴートとしてメディアから激しい弾圧を受けた。「ヲタク」という言葉がその蔑称として世間に広く知られるようにもなったのもこの頃。その結果、美少女系マンガ、アニメにはかなりの規制が掛けられたりして、むしろ一般世間においては「受難の時代」であったかもしれない。

だから、もしかするとこの時、下手をすれば「萌」の胎動はここで潰され、現在の秋葉原は存在しえなかった可能性もあるのだ。

あれから20年、幸か不幸か「萌」は日本を代表するコンテンツ産業を底辺で支える程のパワーを持つまでに至った。

美少女アニメ、マンガ、ゲームなくして日本コンテンツ産業は語れまい。そんな一大産業までに成長した「秋葉系」文化はこの2008年に至り、またもや危機に曝されようとしている。

それが昨今、議論になっている児童ポルノ法改正であろう。

要するに、単純所持まで罰し、更には空想上の絵にまで「準児童ポルノ」として規制を掛けようとする動きが内外で広がっているという。これが成立して恣意的に適応範囲を広げれば、「萌」系美少女アニメ、マンガ、ゲームというコンテンツは軒並み違法とされ、摘発の対象にされる恐れがあるらしい。

昨今の異常とも言える「女子」「児童」を名目上「保護」するという理由で立法成立した法律、条例をもって健全な男子を摘発する「男子弾圧思想」が吹き荒れるこの日本。今回の児童ポルノ法改正運動は、この「男子弾圧思想」に更に環をかける恐れがある。

健全な日本男子の基本的人権を踏みにじる手段としてこの法律が活用される可能性は容易に予想出来よう。

「子供」や「女性」の人権保護を「錦の旗」にすれば容易に世論は動くし事実、そのような潮流は世界基準だ。

だが、すでに痴漢の冤罪が社会問題化されているにも拘わらず、このような摘発の対象が曖昧で抽象的な法律が国会で通ってしまえばもはや日本は「恐怖政治」下に入ったも同然。

この児童ポルノ法改正という情況は、すでに「児童の人権保護」等という本来の目的から逸脱し文化、思想、信条の自由を著しく侵害する手段として考案されたと勘ぐられても仕方あるまい。これを推進している団体も相当胡散臭い輩らしい。

そんな連中が内外の「児童ポルノ」禁止推進派政治家と結託し、特定の思想信条を抹殺する手段を国会で可決させればこれは一種の「文化弾圧」となる。

ここまで成長した日本コンテンツ産業が、この児童ポルノ改正法でどれだけ打撃を受けるかは解らないが、少なくとも美少女系創作分野が著しく畏縮してしまう事は確かだろう。

現実の世界ですら男性の異性間に関する様々なアクション(いや、アクションすら存在しない場合もある)に抑圧がかけられているというのに更に想像上の「女性」「児童」にまで規制をかけ、その表現の自由すら奪おうとする昨今の傾向は、もはや狂気の域にまで達している。

たとえば日本ユニセフ協会が単純所持禁止を訴える「なくそう!子どもポルノ」キャンペーン等の児童ポルノ法改正を目指す輩の主旨はヒトラーの退廃芸術弾圧と同等と思える程酷い。

当時ナチスは表現主義絵画や彫刻を鑑賞すると人間は退廃し堕落する不健全な芸術と決めつけその全てを没収した。その中には著名なゴッホの作品もあったという。

つまり日本「萌」文化の代表格たる美少女系アニメ、マンガ、ゲームに接すると全員ペドフィリアになると信じて疑わない日本ユニセフ協会等の児童ポルノ改正推進論者の主張は、ゴッホの絵画を観ると人間は皆退廃するというナチスの主張と試行的には何ら変わらないのである。

なにせナチスは「退廃芸術は脳の病気だ」と断じていた訳で、日本ユニセフも同様「美少女マンガやアニメ愛好者は脳の病気」とでも考えていらっしゃるのであろう。「病人は危険。この世から抹殺せよ」という風にも聞こえる。弱者救済を標榜する団体がナチ同様これ程の差別を実践するとは吃驚だ。

いっそゲットーやガス室を作ってその中に「萌」愛好者を放り込む制度を政治家に提案しては如何か?

これで世の中は「児童ポルノ」とおぼしき存在は消え去り、世界は「浄化」されるんではないですかね?

いずれにせよ、そんなカルト紛いの法案が堂々と日本の国会で議論されているのだから世を疑う。

まさに狂気の沙汰だ。

『トップをねらえ!』が作られた1980年代後半。この作品に携わった創作者のエネルギーが今日の日本コンテンツカルチャーの土台を育んだ事に異論はない。

それが「萌」という文化。

当時、作り手も受け手もそれに全精力を投じた「闘争」が己のアイデンティティーとして今や確固たる存在となった。

善くも悪くもそれが今日日本の最先端カルチャーとして内外に認められつつある。

その潮流を根底から破壊し「キリスタン踏み絵」のごとく我らのアイデンティティーを「自己否定」せよと迫って来たのが児童ポルノ法改正だ。

これから先、その「萌」文化が日本コンテンツ産業の先兵として更に磨かれ世界に広がっていくのか、はたまた内外の弾圧勢力によって破壊されてしまうのか。

それはこの「萌」文化担い手自身の行動如何に掛ってこよう。

結局は「闘争せぬもの生きる資格なし」である。

潰されたくなければ闘争することだ。


2008年3月12日

桜餅

気候も暖かくなってきて、風に梅の香りが漂う。

幸いにして花粉症は煩っていないので、このシーズンは嫌いではない。水温む感覚は極寒からの解放でもあり再生の息吹を感じさせる。

ある程度歳を重ねると、春が来る事が生きている喜びとなってくるから、春先に縁側でお茶を啜って桜餅を食べる事が至福になる。

要するに広大な夢とか野心とかお金よりも、惚けてお菓子を食らっている事が実は真の有り難みなのかもしれぬ・・と自分を諌めるしかなくなるのだ。

かつて自分程の壮年日本男子ならば縁側で子と並び、己の人生を次世代に伝えるべく父として語りの一つでも打つところなのだが、子も妻も居ない身だと一足飛びに「老年の域」に至り、哀れな独り身の戯れ言にしかならない。

ところで阿佐ヶ谷は『うさぎや』が有名だが、自分としてはパールセンター入り口の和菓子の桜餅が好みである。あんこも程々に桜の花の塩漬けがついているのもよい。

そろそろ花見のシーズンか。


2008年3月4日

高脂血症

先日、30年ぶり位に健康診断を受けた。別に体調不良でも何でもなかったが、知り合いや親にせっつかれ渋々受けてみる。

その結果が出て郵送されてきた。

出力された諸々の数値データを眺めてみると、まるでコンピューターの自己診断プログラム結果だ。自分がロボットかアンドロイドになった気分。学生時代に最後に受けた健康診断とは隔世の感である。当時は全部手描きで診断もかなり医者の勘頼りだったと記憶する。

さてその結果を見ると「要医療」として血液内のコレステロールが平均値を上回っている「高脂血症」と出ていた。

なんだ?これは?

まあ、脂肪分の多い料理は好きだから多少はコレステロール過多なんじゃないかなとは思っていたが、これは病気なのか?

いろいろ調べてみるといわいる「生活習慣病」の一種で自覚症状はないが放置しておくと血管が詰まって動脈硬化を起こし心筋梗塞や脳血栓の危険因子になるとのこと。

とはいっても通院とか薬とかで治すレベルではなくて食事を気をつけろとか、運動しろとか、そういうレベルらしい。

いちいちこんな事で「病気」扱いするのもどうかと思うが。

半世紀近く生きていればどこかしらおかしくなるものだし、高脂血症よりも自転車乗ってるほうがよっぽど危険な情況に感じる訳で、いちいち気にしていたら逆に身体が持たなくなる。

因にこれ以外は問題なく、むしろ身長あたりの体重指数BMIは17.7でかなりな低体重。肥満度マイナス19.7パーセントで「やせ過ぎ」。

機械も身体も調子のよい時は無闇にいじくらないほうがよろしい。

とりあえず生きてるだけで丸儲け。


2008年2月28日

皇太子世代全男子更年期障害。

男性に更年期障害があるのかは知らない。ただ最近、生活の全てに関して意欲低下のような、総じてもうただ生きているのも面倒みたいな「諦めの境地」というものに支配される時がある。

肉体的、精神的、野望的限界が自らを滅ぼしていくような感覚だ。

最近、皇太子殿下に対する風当たりが強いと聞く。

曰く「天皇陛下へのお出ましが少なく不敬である」とか「身勝手な皇太子妃の言いなりで皇位継承者としての自覚が足りない」とかで身内側近からも非難されているという。

身勝手な妻に物言う事も間々ならず、父たる陛下には頭が上がらず、弟君には皇位継承者の地位を脅かされ、正に皇太子としての面子丸つぶれであろう。

だからといって相談出来る良き友も側近もなく、妻はひたすら「病」を口実に「我が道」を行くだけで聖職に等しいはずの皇太子后たる立場など何一つ顧みる事すらしない。

まさに四面楚歌である。

皇太子殿下の心境は如何ばかりか。

皇太子と同世代の自分にとっても他人事には思えない。

己の生き方を助ける者は何処にも居らず、世相はひたすら我を非難するばかり。

いったい己とは何なのか?己の自己否定を強いるだけのこの時代に己が生きている価値などあるだろうか?

祖父たる昭和天皇は僅か30代の頃、大東亜戦争総帥として陣頭に立ち、そして敗戦では自ら国民に勅語を発して国難と対峙したというのに、一方で皇太子殿下はまもなく50歳を迎える今日になっても万世一系として天皇家長男のプライドを発揮する場などその人生においてたった一度すら、いや微塵もなかったのだ。

軍服を着て国軍を謁見する事も出来ず、それどころか己の妻にすら頭が上がらず、出来る事と言えば娘愛子が幼稚園でお遊技する姿に合わせて自分も踊る事位。

ここまで惨めな皇太子はこの日本の歴史において初めてではなかろうか?

如何にこの時代が、真っ当な日本の男子にとって受難であるか、皇太子の姿を見ればよく解ろう。

身内からも側近からも妻からも、そして時代からも愛想を尽かされそうな皇太子はもはや存在する意義はない。

いずれ自害するしか選択肢はなかろう。

ある意味太平洋戦争直後、戦犯として裁かれそうになった昭和天皇以上に今の皇太子のほうが生命の危機を迎えている。

いや、これは皇太子だけではなく同世代の日本男子全てが抱える絶望なのだ。

半世紀以上前の総力戦敗戦後の男子のほうがまだ希望に溢れていたような錯覚に襲われる。

テレビでは馬鹿の一つ覚えのように27年前のペテン師の狂言騒ぎを反芻する茶番に興じている。

もう日本は国家全体が「更年期障害」に陥っているかのように壊疽し始めた。

救い難い無気力感が杉花粉の黄色い風と共に全土を覆う。

皇太子殿下の無力感を汲み取れない擬政者と愚民が、やがてこの国を滅ぼす。

嗚呼、人生はもう花開かぬか。


2008年2月21日

「きちがい高額情報料搾取システム」パケット君。

携帯を利用するようになって2ヶ月。

さっそくこの「ぼったくり詐欺器」の罠に引っ掛かってしまった。

今月の請求書を見るとPHSの時にはなかった妙な言葉が。

パケット通信料?

なんじゃそりゃ?

聞いた事もない通信料である。そして明細を見るとなんと余計に2500円も取られている。従来の利用料金に勝手に上乗せされているのだ。

一体なんなのだ?

特別な情報を携帯から取得した記憶もないし、数件の電話とメールをしただけである。にも拘らずなんだ?このパケットと言うのは?

慌てて調べてみると、なにやらインターネットに接続したりすると取られる通信料らしい。接続時間に関係なくその取得した情報量で料金を徴集するシステムらしい。

僅かに接続しただけでお金を取るのか?

そういえば1回だけ試しに自分のサイトにアクセスしてどんな風に見えるのかチェックした事がある。これぐらいしか思い当たらない。

とすると、自分のサイトを1回僅かの時間見ただけで2500円取られるのか?

そんな馬鹿な話がアルか!!

これは「詐欺」だ!きちがいだ!

パケットなんて聞いた事もないシステム。そんな「きちがい高額情報料搾取システム」が自分の携帯の中に仕込まれているなどとは知る由もない。電々公社はそんな説明などしてくれなかったのだ。

これは騙された!

なにやらいろいろ調べてみると、パケット代で月額何十万も請求されているユーザーもいるそうだ。

どうかしているんじゃないか?

ユーザーの無知に付け込んで大金を毟り取る携帯会社の悪徳商法振りには怒りが込み上げる。

さっそく電々公社に電話をかけてこのパケットなる「きちがい高額情報料搾取システム」を自分の携帯から取り外せと受付の逓信省女に要求してみたがまったく話が通じない。

とにかくこの携帯でネットに繋いだり高画質な添付メールを送受信すると、このパケットという「きちがい高額情報料搾取システム」が作動して、利用者の口座から大金を吸い上げる仕組みらしいことは気がついたので、今後はそのようなことを避けるしか方法はない。

月5000円程定額のパケット料払ったら安く抑えられる携帯版「テレホーダイ」みたいな料金システムもあるようだがそんなの説明された記憶もない。大金毟り取られた挙げ句に後から「定額料システムあるよ」なんて言われたところで後の祭り。

要するに「ちゃんと調べないお前が悪いんや。無知なバカユーザーから金をふんだくるのがわてらの商売。ガハハハハ。儲かりまっせー。おおきに!」ということなのだろう。

本当に携帯は恐ろしい。何が仕込まれているか分かったもんじゃない。

まるで宇宙人に改造手術され体内にイガイガの物体を埋め込まれた感覚だ。

パケットは携帯電話会社が開発したまさにユーザーの金銭感覚を狂わす「きちがい毒電波システム」に他ならない。

まんまと騙されてしまった。

やはり携帯は危険な「ぼったくり詐欺器」であることを改めて思い知らされる。


2008年2月15日

バレンタインデーと日本の終焉。

なんだが最近のバレンタインデーは従来の雰囲気とは様相が変わって「女性が男性に心を込めて贈るもの」というコンセプトは既に過去の物になってしまったようだ。

義理チョコすら「死語」となって、もう女性が男性に気を使う必要もない状況下、また一つ「女性の重荷」が解放された訳だ。

一部尚も「自分チョコ」や「友チョコ」等で売り場は賑わってはいるものの、それはもう女性一般の行事ではなく、一部のマニアな女子が高級チョコに集っているだけのこと。胡散臭いヨーロッパのチョコ職人に群がる様は恰も米兵にぶら下がる『アメ女』のごとし。

遅かれ早かれ、バレンタインデーは本来の機能を失って消え去るだろう。

そういえば婦人雑誌の「主婦の友」が廃刊になったニュースを聴いた。主婦向け雑誌の老舗がなくなり、いわいる専業主婦のための雑誌は滅んだ事になる。

事実上、専業主婦という「出産育児家事を担う専門職」が日本から消え去りつつある訳で、主婦向け雑誌の絶滅はこの国に新たな世代を育む機能が喪失してしまった事を如実に象徴している。

ついに育児家事からも放免された日本女子は曾てない自由を手に入れた感がある。

だがその増長さは目に余るものがある。

特に恋愛対象外で自分よりレベルの低い男性に対する婦女子達のあからさまな軽蔑の姿勢は最近富に著明だ。

もはやこの国に「男尊女卑」などという言葉は当てはまらない。

『R25』というフリーペーパーの最新号コラムに面白い事が記してあった。

日本一般世帯の貯蓄率が大幅に減って、今やアメリカ並みの低貯蓄率に迫っているとか。このままだとアメリカのレベルすら超えるという。

かつては貯蓄率の高さを誇った日本。勤勉で浪費などせず、将来に備える賢い国民性が謳われたものだがもはや見る影もない。

浪費家のアメリカ人を笑うどころか、彼等の貯蓄率すら割ってしまう日本人の凋落振りは圧倒的ですらある。

それと同じく、かつて日本社会は「男尊女卑」などと欧米から揶揄されていたものだが、これまた圧倒的に情況は逆転している。

この日本社会において、若い女子が男子に卑下される場面などもはやお伽話だ。殆どの男子は若い婦女子に恐れおののき冤罪を避けんと恐怖に引きつっている。連日の痴漢報道や破廉恥事件摘発は恰もマッカーシー旋風吹き荒れし1950年代のアメリカにおける「赤狩り」のごとし。

婦女子に対し僅かでも色情の気配すら伺わせようものなら即座に「性犯罪者」のレッテルを貼られ社会的に抹殺されてしまうシステムがこの日本には存在する。

警察も法律も世情も、まず「男子に罪ありき」だ。

もはや「女尊男卑」国家というのが正解であろう。現実を見よ。

完全に様相が逆転したこの世相にかつての「日本の常識」は通用しない。

勤勉で質素な男子を敬う控えめな女子によって構成される日本社会は絶滅した。

今、存在するのは、働けず疲弊した絶望男子と浪費し身勝手な婦女子によって構成される未来なき世界である。

最近のバレンタインデーはこれをよく象徴していよう。己の自我を満たすためにのみチョコを消費する婦女子。そしてそれをよしとする世情。

そこに敬うべき男子の姿は存在しない。

正に「圧倒的な」崩壊ぶりである。

ギレンもびっくりだ。


2008年2月11日

コミティア来場感謝

2月10日東京ビッグサイトでのコミティアあびゅうきょブースに来て頂いた紳士淑女各位にこの場を借りて御礼申し上げる。

前日、自分の住んでいる杉並の方では積雪があったので大丈夫かなと思っていたが湾岸のほうは雨だったらしくビッグサイト周辺に雪は見当たらず。

当日はリクルート関連のイベントやBL?関連の同人イベントがあったらしく妙に込み合っていた。

さてコミティア。当日配置されたスペースが本部や入り口に近く、また次回申し込み窓口や売店が目の前で、非常に利便性が良い場所であった。まるで「駅からすぐの店鋪」というイメージか。

前回の反省もあって、遅刻しないよう頑張ったので若干寝不足ではあったが、知り合いの同人作家さんやお世話になった編集様、コミティアスタッフ各位がスペースに足を運んで下さり感謝の極み。

やはり自分にとってコミティアは欠かせないイベントである。一分一秒が貴重な時間なのだ。

また5月に宜しくの程を。


2008年2月7日

映画『黄昏』とコマ漫画本『結婚しなくていいですか』

両方ともたまたま偶然に何気なく観たもの。映画のほうは昼の12チャンネル。本は何となく立ち読み。

映画『黄昏』は1981年のアメリカ映画。この年のゴールデングローブ賞やアカデミー賞で幾つもの賞に輝いているからかなりの名作。

内容はアメリカの白人老夫婦が美しい湖畔で人生の黄昏を過すストーリー。ちょっとぼけかけた80歳の爺さんが主人公。誠実な妻と湖畔で暮す日々が描かれている。そして時々帰郷してくる既婚の娘とその連れ子の少年とが織り成す「感動」ドラマ。

今から27年前の初公開時はテレビで盛んにCMが流されていたが当時まだ20代の自分にとって初老夫婦が主人公の映画などまるで興味がなく観たいとも思わなかった作品だ。

それから四半世紀経ってたまたまテレビで放映されていたのが目に入り、暫くチャンネルを変えるのを止めた。

そうだ。

いつしか遥か先の事だと思っていた自分の人生の「黄昏」が迫ってきている事に気付いて、思わず見入ってしまったのである。

隠遁生活に入り身体も頭も老いかけてきた事を自覚し始めた80歳の男。

だが彼には長年連れ添った妻と、確執はありながらも親父憶いの娘がいる。

つまり真っ当な人生における通過儀礼を為した男の「黄昏」が描かれている。

何時死んでもおかしくないような老いの中で、己の人生を後悔なく振り返る事の出来る幸せ。

誠実な妻と美しい娘の愛情。そして連れ子ながらも気の合う孫の少年。

この映画では彼の死までは描かれてはいないが、きっと心地よい満足のいく人生を振り返って逝く事が出来る幸福な最期が用意されていよう。

真っ当な人生とはこういうものである。

妻と娘と孫に看取られ逝くのだ。

これが男の人生だ。

そしてその妻も満足のいく人生を全う出来るだろう。

一方、何となく立ち読みした本『結婚しなくていいですか』はこんな内容である。

30代後半から40代独身未婚女性の老後に対する漠然とした不安や愚痴をだらだら綴った煮え切らない「負け犬」女の自己欺瞞エッセイをシンプルなコマ漫画で描いている。

これを読んでいると本当にしんどくなってきた。

男の気配が希薄で恋愛に非積極的な未婚女性がこれから独りで生きていく上で、ひしひしと迫る「老後」に対しどうするか思案ばかり繰り返すが結局結論も出ず、ただ時間が過ぎていく情況しか描かれていない。

何も考えずに結婚し出産するという真っ当な「通過儀礼」を避けると、如何に女性は無味乾燥で無意味な思案に明け暮れなければならぬかを思い知らされる。

「自己現実」が何だかは知らぬが、それは結局の所幻想であって、その幻想をいち早く見抜き「平凡な結婚」を選択した女性が結局は人生の勝ち組になる訳で、彼女らは「人生は何ぞや」なんて「禅問答」はしない。なぜならそんな暇などないからである。

暇がない程忙しい。これぞ人生ではないか?

思案するのは精々20代半ばまでだ。40近くにまでなって人生の意味を問うている独身女性はもう哀れというしかない。

「自己現実」出来る選ばれし才女は二十歳になる前にもう決まっているもの。そんな特別な女性は1万人に一人くらいの確率だろう。

大多数の平凡たる女子が人生後悔しないためにはなるべく早く結婚という通過儀礼を為すべきなのだろう。

そのタイミングを逃した者は何を言っても「人生の敗北者」でしかない。

40近くなって独身でいる事を自己欺瞞で固めてみても「私、結婚して子も産み育ててますが何か?」と専業主婦に言われたらその女性は勝てない。

何ら才能のない女子が幻の「自己現実」に惑わされ、気がつけば閉経の時を迎えた時、彼女らは一体己の老後をどうするつもりであろうか?

ラジオで先日エッセイストの秋山ちえ子がこんな事を言っていた。

「女の幸せはこれ全て男に尽くす事」

無論、秋山ちえ子は大正生まれであるから、今の婦女子の価値観とは天文学的にかけ離れてはいるが、それでも「男に尽くす」という概念を全否定したところに女の人生は成り立っていかないだろう。

男のために尽したところで何の見返りもないから嫌だと言うのであるならば、一生自己欺瞞で固めた禅問答を繰り返していれば良かろう。

尽くす事に見返りはないかも知れない。

しかし人生などそんなものである。

自分の為した事が自分の思惑通りに帰ってくる事など希有だ。

大抵は損をする。

感謝もされないし報酬もない。だがそれが生きると言う事だ。

映画「黄昏」の中で主人公の妻は、遭難し湖の岩場に掴まっていた夫を助けるため自ら湖に飛び込む。下手をしたらそのために自らの命が失われる危険があるというのにだ。

そんなことを為しても、このぼけかけた80の旦那は妻に感謝するかは解らない。

むしろ、当たり前な事だとふんぞりかえるかもしれない。

だがそうだとしても、妻は別に怒りはしないだろう。

何故ならこの妻は夫を愛しているからである。

立ち読みした本『結婚しなくていいですか』には、その愛が決定的に欠けている。

此所に描かれている独身女性達は男のために微塵も損をしたくないのだ。

愛は自分が受けるものであって、男はそのために存在するものだという思考が全てを支配している。

これでは結婚は無理だ。

だから死ぬまで自己欺瞞な禅問答を繰り返す哀れな老後を迎えなければならなくなる。

愛は自己犠牲であって、己が損を覚悟で為さねば成立しない。

この本に描かれている女性はなんとカサカサして潤いの欠片もない「不幸の固まり」のような存在なのだろう。

とても気の毒だ。

人生の「黄昏」はあっという間にやってくる。

己が死ぬまで禅問答を繰り返す気か?

そんな人生は人生とは言わぬ。

ただの虚無だ。

身寄りのない独身男女はいずれコンビニの遺体ボックスに放り込まれる運命だろう。

そしてそのボックスにはこう記されているだろう。

「ここがお前の自己現実の場所だよ」

まもなく人生の陽は沈む。人生は短い。

何を成すかは自分次第だ。

映画『黄昏』が終った後、虚しく独り冷凍食品を温める自分が惨めであった。


2008年2月2日

新年会その2

先月の31日に幻冬舎コミックスの新年会が開かれたので足を運ぶ。珍しく今年は二つ目の出版社新年会である。

27日に出席した新年会よりも規模が大きく出席者は50〜60人位か。

出版社の宴ではオーソドックスな立食パーティー。このようなパーティーに出席するのは10年以上前コミックモーニングで描いていた頃の講談社の忘年会以来だろうか?

コミックバ−ズの他にボーイズラブ系?の雑誌との合同新年会だったので女性の割り合いが多い。バーズも女性作家が多いので必然的に男が少数派となってしまう。着飾ったお嬢さん方がいっぱいでちょっと恐怖。集団となった女性は苦手なので戸惑う。

幸い、知り合いの漫画家むらかわみちお氏がいらっしゃったので「独りポツン」状態は免れる。

とはいえ、今回も他に知人はおらず残念ながら交流の輪を広げるチャンスには恵まれず。普段全く接点のない漫画家同士だからせめて名札が欲しかったところだが。

さて、宴の間、情報通のむらかわ氏からさまざまな漫画出版界の動向を賜って、如何に自分が行き当たりばったりの戦略なき商売をやっているか思い知らされる。営業が全く苦手で疎いとせっかくのチャンスも逃してしまう。如何に自分に合った活動の場をサーチし続けるかが成功の秘訣であろう。

とはいえ、こんな超遅筆の自分にとっては営業戦略云々以前の問題で、商業誌に発表出来るベースがあるだけでも満足せねばなるまいというレベル。

自分に声を掛けて下さる漫画編集部があるということだけでも有り難い。

と言う訳で幻冬舎コミックス様には感謝の極みである。

それはさておき、料理、お酒、ビンゴ大会と宴は続き、担当編集者様と今後の展開についていろいろお伺いを賜り新年会は終了。

「影男シリーズ」後の、新たな企画が勝負の分かれ目か。

特別大きな収穫があった訳ではないが、飲食費用出版社持ちの宴に呼ばれるということだけでも有り難い事である。

宴のデザートのチョコレートケーキが余っていたのはちょっと勿体無かった。タッパーを持参して持って帰りたかった。なんとも貧乏臭いが甘いものは見逃せない。

結局2次会まで出席し夜半過ぎまで飲む。


2008年1月30日

おしらせ

1月30日発売幻冬舎「月刊コミックバーズ」3月号に影男最新作『非絶望の世界』が掲載されています。

書店でみかけたら手に取ってみて下さい。


2008年1月29日

パチンコ「フランダースの犬」

先日、伊集院光のラジオでも話題になっていたが、遂に「名作シリーズ」までパチンコ台になったとか。

あまり詳しくないのだが「フランダースの犬」台では最後の感動シーンでリーチがかかって犬と主人公が死ぬと玉がじゃらじゃら出てきてお金がたくさん貰える仕掛けになっているとか。

つまりお客は主人公が死ぬのをひたすら台の前で祈る訳で、まあおめでたい事この上ない。

「名作シリーズ」を製作した会社は『未来少年コナン』もパチンコ賭博に売り払った前科があるから、今更驚く事もないのだが、何事も「超えてはいけない一線」はある訳でまあ一言で表わせば「恥知らず」「外道」のレベルであろうか?

もっともパチンコで回収した利益で更なる「名作シリーズ」の制作資金にするという図式もある訳なのだが、作品の性格からして賭博のネタにした時点でもうおしまいという気もする。

自分の愛しい娘を女郎屋に売り飛ばしておきながら「お前の将来のためなのだから我慢しろ」と宣うようなもの。鬼畜親と同レベルであろう。

この際、いっそのことお客が自由にカスタマイズ出来るパチンコ台を作ってみては如何か?

自分の愛する妻子が襲われそうになるとリーチとか、自分の愛するものが陵辱されるとパチンコ玉が沢山出てくる「売国鬼畜」台というのも一興だろう。

更に何でもありなんだからパチンコ台の前で自殺出来る「自殺」台というのもよい。

借金漬けの人生を精算出来る台は大流行り。「パチンコCRJR中央線」とか「パチンコCR高島平」とか「パチンコCRアウシュビッツ」とか「パチンコCR家畜屠殺場口蹄疫」とかね。ヒットすると椅子に仕掛けられた100万ボルトの電撃で即昇天。

葬儀社と提携すればパチンコ業界も潤うのではないか?

これからパチンコは「いらない人間」を処理する社会福祉に貢献出来よう。

『エヴァンゲリヲン』映画第2弾もこの調子で頑張ってほしい。

気狂いパチンコ万歳。


2008年1月28日

冬コミ新刊の『おたまと影の変態記』が「とらのあな」でも通販可能になりました。

宜しくの程を。


2008年1月27日

新年会

珍しく今年は幾つかの出版社の新年会に招待される。

先日もある出版社の宴に呼ばれたので足を運んだ。

出席者は20人くらい。男女半々の比率だが、おそらく自分より10歳以上若い方ばかりと想像する。

ここ最近、このような飲み会はずいぶん御無沙汰だったのでかなり緊張してしまう。出席者も担当編集の方を除き初対面なのでぎこちなく名刺交換してみたりするがなかなか共通の話題が見つからない。

自分の席は一番端っこだったので気がつくと運ばれてきた料理を取り分けたりしていた。

普段やりつけないことをする自分が変。

別に場を盛り上げるつもりもなかったのだが、以前なら黙って座っているだけだった自分が率先して動いているのは視野が少し広がって場の情況が把握出来るようになった証拠だろうか?

だからといって話題の中心になる訳でも、ペースメーカーになる訳でもない。そもそもコミュニケーション能力ゼロの自分がそんな立場に成れるはずもない。

相変わらず中途半端な存在感だ。

まあ初対面ばかりの宴席はこんなものであろう。

いろいろとよい刺激になったし、招待されて感謝の極みである。

とはいえ四半世紀も漫画家をやってきたというのに、宴席の場で新人と殆ど変わらない「立ち位置」というのはどうにも情けない。まあ実力の世界であるからこれが身分相応というものだろう。

むしろ気が楽とも言えようか。

帰りの寒風が身に凍みる。


2008年1月26日

火の用心

先日、近所の阿佐ヶ谷パールセンターで火事があった。

知人と何回か通った事のあるコーヒーショップも被災したらしく姑くは営業出来ないらしい。現場の様子は直接見て居ないのだが何だか馴染みの場所が被災するというのは心苦しい。

ディスプレーとして置かれていた古いタイプライターとかどうなってしまったのだろう?

季節柄火の元には十分注意しなければ。


2008年1月23日

雪。

昨年は一回も降雪を見た事がなかったので2年ぶりの積雪である。

気温も1℃ちょっとで本当に寒い。

でも雪景色は綺麗なのでもっと積もれと願うのだが、その願いも虚しく霙になって土の上の僅かの雪さえ溶けてしまった。

儚きぞ雪の命。

まるで独身絶望男性の虚しき人生のようである。


2008年1月21日

「独身地獄」

「影男シリーズ」最後のエピローグ絵コンテを描いているのだが何だか非常に哀しくなってくる。「壁男シリーズ」はあくまでフィクション世界での物語なのだが、影男の現世の末路はどう転んでも悲劇にしかならない。

昨今、ニュースで流れる40代以上の独身無職絶望男性がひき起こす悲惨な事件を聞く度に、もはや影男も絵空事ではないのだと実感する。

実家に引き蘢った挙げ句、行き詰まって実の親兄弟を殺したり自殺したり放火したりとそんなニュースばかりが目立つ。

昭和30〜50年代、日本男性の大半が就職結婚出来た時代には、こういった40を過ぎて仕事もせず実家で親に面倒を見てもらいながら引き蘢って生きている独身男性など特異な存在でしかなかった。

ところが今やそのような環境に置かれる独身男性は「ごく当たり前の風景」となりつつある。

ニュースだけでなく、知り合いや親族にも実家で燻っている無職男性は普通に居る。

そして彼等には間違いなく幸福感が喪失している。

異性から存在を否定され、己を恥じながらも行く場がなく、実家に籠るしかないという「男として存在の拠り所」を失った彼等の行く末は確実に悲惨だ。

一方で同じ立場でも女性の方は、むしろ幸福感に満ちているように思える。

実家で独身を満喫し、自由な立場で人生を謳歌している。ある程度の容姿さえあれば何不自由なく暮していけよう。異性からもちやほやされ、社会的にも女男共同参画によって優遇されているから天国だ。

事実、実家住まいの独身女性が悲惨な事件をひき起こしたなどという話は聞いた事がない。

かつて「独身貴族」いう言葉があったが、それは女性だけに言える事であって、実家に引き蘢る独身男性には「独身地獄」という言葉が似合う。

40〜50代の独身男が70〜90代の親に面倒を見てもらうという構図に何の未来があろうか?

悲劇しか見えない。

社会から必要とされず、職もなく妻も娶れず子も設けられない男子は、本当に不幸しか与えられない。

しかし、かつては無職男性でも、何かしら彼等を受け入れる情況が社会には作られていた。

未知への冒険、夢、闘争、憧れ。

血沸き肉踊る「男のロマン」というものが。

その「ロマン」に魂を委ねれば、無職でも、妻が居なくても男は輝かしく生きていけたのだ。

ところが今の時代、そんなものは微塵もない。

富と力を獲得独占したほんの僅かの恵まれた男子を除き、大半の独身無職男性は単なる「いらない存在」として社会から放棄されたゴミでしかない。

その「ゴミ」の面倒を見てくれるのは年老いた自分の親くらいなもの。親が死んだら「ゴミ処理場」に一直線だ。

冒険やフロンティア精神で国家の未来を牽引する役割も奪われ、ただ「社会のお荷物」として身障者と同じレベルで扱われるようになった独身絶望男性。

情況は急激に悪化しつつあり、このまま放置していると身寄りのない絶望独身男性が大量に発生し社会問題にまで発展するという。

行政は少子高齢化に加え独身絶望男性の生活保護を真剣に考えなければならなくなるという。

憲法には国民は最低限の幸福な生活を送る権利があって、国家はそれを保障しなければならないと記されている。

しかし、昨今の国家は如何に独身男性から「最低限の幸福」すら奪ってきたか、この情況を見れば自ずと解ろう。

実家に引き蘢った挙げ句、破滅的行動を起こし死んでいく絶望独身男性。

これからはこのような悲惨な死が交通事故死者に変わって激増するだろう。

かつて「交通戦争」と呼称され、年間2万人近くの犠牲者を出した時と同じく、「絶望独身戦争」と呼ばれる引き蘢り、ニート、フリーター独身男性の悲惨な死の歴史が幕開けするのだ。

いつの時代にも淘汰されるべき生き物の末路は悲惨だ。

辛い。


2008年1月12日

最新情報等諸々更新。

1月30日発売予定幻冬舎「月刊コミックバーズ」3月号に影男最新作『非絶望の世界』が掲載予定。前作から半年振りという超遅筆ではあったがいよいよ影男が覚悟を決めるストーリーである。あともう一話で影男シリーズは完結させようと思っている。

東京護国寺にある「オルゴールの小さな博物館」というところに行ってきた。

予約制で様々なコースを展示品の解説つきで見て回る事ができる。この日は生憎の冷たい雨。予約を取った時間には自分の連れと母娘一組、そして一癖ありそうな男子一名の計5人だけ。博物館は非常に綺麗で広々としている。見学後はお茶まで出る。

オルゴールにはシリンダー方式とディスク方式2種類あるそうだがいろいろ歴史が分かって興味深い。オルゴールの側に手を当ててみると響いて共振しているのが解る。

ディスクやシリンダーが一周してしまうと曲は終ってしまう。

まるで人の人生みたいだ。

短い人生の中で、如何に己をこの世界に共振させる事が出来るかが「生きる証」なのだろう。

他者に響かない、共振出来ない者の人生は虚しい。

オルゴールと人生は同じだ。


2008年1月7日

ムンク展

国立西洋美術館で開かれていたムンク展に足を運ぶ。

最終日だったので入場するにも20分掛る込み具合。

ムンクは昔から好きだった画家で、自分の作品にも反映させる程。ムンクの展覧会が開かれる度に足繁く通う習慣がついている。

今回のムンク展にもお馴染みのモチーフを描いた作品群がたくさんあった。

『病める子』『マドンナ』『不安』『絶望』というムンク定番の作品に巡り会う事が出来た。

同じ作品でもそれを観賞する時期や年齢、同行者の有無、その時の心の感情によって感じ方が違う。

いわば心の鏡だ。

今回、一番心に残ったのは『声』という作品。

解説によるとこの絵に描かれた女性はムンクが恋した人妻でその誘惑と恋心を象徴的に描いた作品と言われる。

湖面に反射した月明かりをバックに逆光のシルエットに妖艶に浮かび上がった白いドレスの人妻。

まるで接吻をせがむような恍惚な表情で男を誘う。

湖面に映った月はまるで男根のようだ。

そう、これは罠だ。

その罠に落ちた男はフィヨルドの深い湖底のごとき女の業に引きずり込まれ我を失い絶望と死に至る。

それをムンクは訴えたかったのではあるまいか?

あるサイトでムンクの女性観について興味深い記述をみつけたので引用してみた。

「興味深いのは、ムンクが常に支配的な女性を恋人に選んだこと。ただ、支配され続けるのに堪えられないムンクは遅かれ早かれ恋人と距離を置き始め、それによって恋人関係は常に破局に終わったそうだ。ムンクにとって女性とは畏敬の対象であり、母として自分を守ってくれる存在であるのと同時に(だからこそ支配的な女性を好んだのだろうが)、自分を縛りつけ、創造力を吸い取ろうとする恐怖の根源であったのだろう。(これは心理学で言うところのグレートマザーというものか?)
男の首に顔をうずめる赤毛の女を描いた『ヴァンパイア』『マドンナ』といった一連の絵を見ていると、ムンクの矛盾した女性観を垣間見ているような気にもさせられた。ムンクは女性全体に対して恐怖と関心と憎しみと愛情を抱いていたのではないか。」

これはなかなか的を得た評論だと感ずる。

支配的な女性、即ち己の全てを包み込んでくれる「母」のような存在。それでいてその支配によって己のエネルギーをすべて吸い取られる事に常に恐怖を抱く自己矛盾。

女と母の両方を持つ女性がムンクを惑わせ苦しめ、しかしそんな存在なくして彼は生きていけなかったのだ。

ムンクは実際、人妻と不倫に落ちたりして壮絶な恋愛遍歴があったようだが、そんな女性との愛憎相まみえた生きざまがあのような「不安」「絶望」「嫉妬」というテーマの作品群を産んでいったのだ。

恋愛が苦手であるにも拘わらず、女に恋いこがれ身を焦がしたマイナスエネルギーが半ば狂気じみた創作衝動の元になったのだろう。事実、ムンクは恋愛沙汰で傷害事件まで起こしたりしているから、まあ相当なドロドロ恋愛をやってきた男だ。

80近くまで無事生きられたのは幸運だったのかも知れない。

なんとなくそんな不器用さに親近感を感じてしまうのはなぜだろう。

そんな思いを込めて、今回ムンクの『声』を自分なりに速攻20分で模写してみた。学生時代を思い出しGペンで叩き付けるようなペンタッチで描いてみる。不思議に当時の感覚が蘇って、思わずムスカのように「描ける!描けるぞ」と呟いてしまった。

その絵がこれ。右はぺインターで色付けしたもの。


これを今回ムンク展に同行した知り合いに捧げよう。

この知り合いとムンクの絵画を観賞する事によって新たなムンク観を発見する事が出来て収穫であった。

因に知り合いはムンクの『絶望』を評して「買い物を頼まれたのに勝手に買い食いをして帰るに帰れない男の姿」だという。

確かにそれも絶望には変わりないのだが・・・。

更に『ヴァンパイア』の洞察に関しては鋭いものがあった。この『ヴァンパイア』に描かれている抱擁の図は「女」と「母性」を深く象徴した作品だ。

知り合いはきっとこの作品の真意を見抜いているのだろう。

この絵を共に見る事が出来ただけでもムンク展に行ってよかったと思う。

感謝。

それはさておき、ミュージアムショップで吃驚した事が一つ。

『マドンナ』に描かれていた胎児の姿がそのままキャラクターグッズとなって携帯ストラップとして売っていたのだ。ちょうど自分が今商業誌で不定期連載中の「影男シリーズ」主人公影男の娘「死子」ちゃんの素材もこの『マドンナ』に描かれた胎児だったので何だが奇妙な感覚である。

ムンク展のキャラクターグッズが「胎児」というのもある意味凄いものがある。


2008年1月5日

限り無く希薄な存在。

年が明けて年始となると親族の集いのようなものに呼ばれる事がある。

だが今更ながらそんな場に自分が出たところで居場所もなく、案の定親族からは殆ど話し掛けられたりもしない。

ただそこに居るだけである。

勤人でもないから安定した収入もなく、いわいるお年玉をあげる立場になったところで未だかつて誰にも配った事がないほど惨めな立場なのだ 。

親族の集いには近所に住む従兄弟の息子も来ているのだが、もう20代前後なのにマトモに会話した事すらない。名前さえよく知らないのだ。向うも向こうでこちらを「無気味な50近くの独身男」の親族として警戒しているようだ。

こんな情況であるから、親族の前では「限り無く希薄な存在」として、あるいは無気味な怪しい親族として距離を空けられている感覚がひしひしと伝わってくるのだ。

親族間だけではない。

仕事、プライベートにおいても、一体自分はどれだけ必要とされているのか陰々滅々と考える事がある。

男は「40にして不惑」というが、これ位の歳になれば自分の力量とか世間でのポテンシャルとかを自覚し、身分相応の振る舞いを悟る事が40代男の必須であろう。

少なくとも社会的地位を保つためには結婚し、子供を設けるというのが必要最低限のレベルなのだ。

親族の集いでつくづく思うのは、そのような当然の「通過儀礼」を経ない40代男性親族は周りから軽んじられ、殆ど相手にされなくなる。経済的、社会的地位がない40男は年少の親族からも馬鹿にされマトモな居場所すらない。

昨今は「結婚しなくてもよい生き方がある」なんて宣う者が多くなったし、事実40代独身男性は珍しくもない。

しかし結局の所、そんな男子は「自己欺瞞」で自分を騙しつつ人生の闘争から逃げているようにしか思えないのだ。

世間に対し、何かしら自己存在を証明するためには、まず結婚が最低限の必須条件である事を否定してはいけない。

結婚出来ない40代男はいくら崇高な理念、学問、技術、知識を持っていたとしても「私、結婚して妻子養ってますが、なにか?」と既婚男性から言われてしまえば、その者には決して勝てない。

独身者は既婚者(あるいは結婚経験者)に断じて勝つ事は出来ない。

夫、父親という肩書きは全てのステイタスの基本中の基本だ。

宇宙飛行士はなぜ既婚者が選ばれるか?それは生きる意欲が独身者より格段に高いからだと言う。

周りを見てもそうだ。

結婚している、あるいは結婚を目指している男子は生きているステージが違う。

同じ仕事をこなすにも独身者は自分の利益だけを考えるが、結婚願望、あるいは既婚者は「自己犠牲」の元に働くから、仕事の質も早さも格段に上だ。

だからこそ異性を引き付け、人望も厚く、皆から頼りにされる「男」になれるのだ。

そこに独身者と既婚者(あるいは結婚肯定男子)との間に「越えられない壁」が存在する。

結局の所、他者の為に自らの技能と労力を惜しみなく注げる者が生き残れるのであって、それが出来ない男子には未来は与えられない。

そんな当たり前な事を「自己欺瞞」によって自分をごまかしながら生きるのは、もうまっぴら御免だ。

もっとも他者のために注げる技能を持たぬ者がいくら釈迦利器になって奉仕したところで何の役にも立たないのだから40〜50代に至って己の無能さを嘆いたとて後の祭り。

そんなのは「いらない人間」でしかない。

そんな己を恥じ悔いて忍び懺悔するのが未婚男性の身だしなみというものだろう。

40過ぎて独身を肯定する男子は、負け犬の遠吠えでしかない。幾ら理論武装したところで「でも妻も子供もいないよね?結婚経験ないよね?養ってないよね?」と言われればそれでおしまいじゃないか?

女性が強くなったといっても結局は男の抱擁力を頼りにするのが女の本質だ。その本質は決して変わらない。事実、それ以外の関係性で男女の婚姻が成立する事などありえない。だから女から求められる抱擁力に応えるのが男の勤めであり、それが出来て一人前であろう。

それが最低限の男の基準だ。

独身者が年老いて独りになった時、それでも独身を貫く事がよかったかとどれだけの男子が納得するのか?

結婚の煩わしさや損得勘定で独身を肯定するのは「現実」に目を背け、己が哺乳類たるホモサピエンスのオスとして地上に存在している事を認めたくないからだ。

でも「現実」はホモサピエンスのオスとしてメスを獲得する生存闘争の場からは決して逃げられない。決して!

自己欺瞞によって幾許かの間、現実から目を背ける事は出来ても、必ず現実は己の人生に立ち塞がり、生存競争の場に引きずり出される日が必ずやってくる。

結局この「世界」は既婚者のために存在する。

女を獲得できる「雄」のために存在する。

生存闘争に勝った者に神は微笑み、負けたもの、あるいは闘争から逃亡した者には無慈悲な仕打ちが待っていよう。

親族の会合では既婚者やその妻、子供が和やかに話している。仕切るのも彼等だ。40代以上の未婚者には哀れみと嘲笑に似た同情しか与えられない。

二十歳代の親族の息子が腫れ物に触れるのを避けるかのような体勢でこちらを窺っている。

自分はとにかく一刻も早くこの「恥さらしの場」から逃げるべくじっと俯きブルブル震えるしかなかった。

未婚とは如何に如何に惨めなものか骨身にしみた。でも仕方あるまい。それが己の力の限界なのだから。

これからも己の「恥と屈辱」人生を背負って情けない半生を過すのだ。

「辛い辛い」と嘆きながら。

独身絶望男性に未来は決して与えられない。限り無く希薄な存在として忘れられ、打ち捨てられるだけである。

正月から絶望だ。


2008年1月4日

阿佐ヶ谷誘覧翻訳掲載完了。

以前から阿佐ヶ谷誘覧の英訳を少しづつ掲載してきたがやっと翻訳分を掲載完了した。一部未翻訳の部分もあるがなんとかこの英文掲載によって国外の人も読んでいただけるようになったと思う。

翻訳担当した夏目黒雪(森野優樹)氏及びC.Vaillancourt氏には改めて感謝と共に掲載完了が遅れた事お詫びする。

今後とも阿佐ヶ谷誘覧をよろしく。


2008年1月2日

謹賀新年

2008年が明けた。

昨年末から夜歩く事が多く、夜空を見上げるとオリオン座のすぐ上に煌々と火星が輝いているのが印象的。不安と恐怖という衛星を背負って冬空に赤く輝く火星は己の心境とシンクロしているようだ。

もう大きく飛躍など望めない年齢に掛っているのに、未だ志遥か彼方の悶々とした日々に人生のロウソクをすり減らす日々。

我が人生に幸運の星は輝くのだろうか?

初夢を見た。

憶えているのは、例によって未だ大学を卒業出来ぬまま現役の学生とだらだら授業を受けている情景だ。

単位が足りない。そうだ。ずっと授業をサボっていたから試験内容が解らない。また卒業は先になるんだなあという絶望的な夢。

周りは20代前半の若者ばかりで独りぽつんと自分だけ40代の男が教室に佇む様は惨めだ。

学内の生協に行ってみるとなぜか『新世紀エヴァンゲリオン』のグッズが一杯で、それを漁っている自分が居る。

なんとも情けない姿である。

こんな後ろ向きなどうしようもないコンプレックスの塊のような夢を2008年初頭に見てしまっては今年も大した事はなかろう。

情けない。


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