2007年1月・2月・3月


2007年3月31日

桜。

東京の染井吉野が満開となる。

先日、新宿御苑に立ち寄って桜を観た。たまたま低気圧が通過した直後で、すっきりと晴れ渡った青空をバックに咲き乱れる染井吉野は正に妖艶である。

これほどまでに圧倒的な桜を観たのは初めてかも知れない。満開のピークは短く、更に天候のタイミングもあるのでそれは一瞬の出来事なのだろう。

桜の下には死体が埋まっているとはよく言ったものだ。

確かにこの妖艶さは尋常ではない。

10年近く前までは、桜を鑑賞する意識など殆どなかった。

気が付くと桜のシーズンは終っており、それが当たり前だった。

ところが最近は、桜を異様に意識するようになる。歳を重ねる毎に、桜が咲きそして散っていく有様を確と脳裏に納めたくなる。

桜の生涯は短い。

その儚さを己の人生とシンクロさせたいのだろうか?


2007年3月24日

春の情景。

やっと春らしくなってきた。3月上旬は寒かったので未だに隣の中学校庭の染井吉野は蕾のままだ。この週末、花見は花無しで盛り上がるのか?

3ヶ月前に頂いた鉢植えのシクラメンがまだ花を咲かせている。庭に出して陽に当てるとまだまだ元気だ。

すでに種子みたいなのも出来ている。

これを庭に撒いたら芽が出るのだろうか?

近所のネコがクンクン匂いを嗅いでいる。食うなよ。

去年、毛虫に丸裸にされたツバキが健気にも花を咲かせている。

生命力は偉大である。


2007年3月23日

強迫神経症。

『R25』という無料配布雑誌に大槻ケンヂのインタビューが載っていた。

その中で、大槻氏が強迫神経症に罹って、机の上のコップを移動しないと死ぬみたいな強迫観念に囚われて神経がボロボロになったというエピソードがあった。

人は時として二者択一を迫られて死ぬ程悩む事がある。

大槻ケンヂはどうやってこの苦悩から脱したのかは知らないが、当時の大槻ケンヂは異常に痩せていたのを憶えている。

最近、自分も体重計に乗ったら4kg痩せて40kg代に戻ってしまった。

こんなダイエットは奨められない。


2007年3月20日

「騙すより騙された方がいい」

そんな台詞を時たま耳にする事がある。

そろそろ新年度で新しい人間関係が増えるシーズン。

なんとなくNHKの朝ドラマを見ていたら、劇中の中年男性が内縁の妻に騙されて貯金を丸まる持ち逃げされたシーンがあった。主人公はその憔悴し切った男性を見て「人がいいからねえ」と呟く。

人の良さと言うのは何を具体的に指すのかは解らない。

だけれど、人から優しくされた時、その人に尽したいとか、心を開いて何でも受け入れてしまうタイプがたぶん「ひとがいい」と言われるのだろう。

他人から見れば「そりゃお前、騙されてるんだよ」と思える事でも、「その人は僕に尽していたんだ。優しくしてくれたのだ。だから全てを受け入れなきゃ男が廃る」と言い切って疑いもなく付き合える人。

嘘もつけない純な心を持てれば、それはある意味「善人」ではある。

でも世の中は「いいひと」ばかりではない。

自分ははたして「いいひと」なのか、と考えてみた時がある。

少なくとも計算高い生き方は到底無理だから、ある意味「いいひと」というより騙されやすいタイプなのだろう。それを分かっているから自分のフィールド以外の世界に手を出さないし、逆に自分のフィールドに人を入れようとしない処世術に長けるようになった。

13歳の頃、中学生になったばかりの4月だったか、こんなエピソードがあった。

駅前の本屋で立ち読みしていたら、別の中学校の生徒らしい男性が自分に声を掛けてきた。

「お金を落しちゃって困ってるんだ。君、お金持ってる?ちょっとそこのファーストフード屋に付き合ってくれないか?」

そこで自分は、その男子生徒の言われるがままに、ハンバーガーとかを買ってあげて他愛のない世間話に付合わされた。

口調とかはすごく優しくて怖くはなかったが、なんだか他人の金でモリモリ、ハンバーガーを食べているその男の姿に妙な違和感は感じるものの、自分はお金を落した気の毒な人に御飯を食べさせている「人助け」をしてるんだと信じて、その後ポテトやらジュースを追加オーダーするその男の言うがままにお金を出していった。

「自分は良い事をした。人助けをしたんだ。中学生として立派に人付きあいが出来た」と、自分に言い聞かせ、帰宅しその事を親に話すと「それはカツアゲにあったんだ。バカモン!」と酷く怒られてしまった。

純粋な善人というものは希有だから、人は皆、ある程度騙し騙され付き合っていく。

だが自分は、幼少の頃からそんな駆け引きはもう嫌で関りたくなかった。

殻に閉じこもる自閉的タイプの人間は、こんなエピソードがある度に、自分の殻を増々厚くしていった気がする。そういう処世術に慣れてくると「身の程」が分かってくるから、たとえ人間関係が希薄になったとしてもそれ以上求めないのが礼節となる。

例えれば「来る者は拒まず、去る者は追わず」である。

だが「追わず」といっても本音では未練タラタラで、そんな卑屈な感情が猛烈なネガティブ思考を生む。

その卑屈な経験が地層のように重なって屈強なる「治療不可能」的絶望パーソナリティーが確立したのだと想像出来る。

実際は「来る者は拒めず、去る者も追えず」なのだろう。

しかし、だからといって計算高い狡猾な生き方をしたくないのは今でも同じ。

そんな処世術は真っ平ごめんだと。

だからタカラの「人生ゲーム」をやると、必ず最後に他のプレイヤーから財産を丸々剥ぎ取られ「貧乏農場」行きとなる。

一度たりとも真っ当な上がり方をしたことがない。

だが、狡猾な手を使ってほかのプレイヤーから財産を巻き上げてまでゲームに勝つぐらいなら「貧乏農場」の方がマシかもしれない。一生良心の呵責に悩まされ続けるよりはいい。

別に「善人」として生きたいのではなく、他人との関り合いで、傷付き、傷つけたくないのだう。

だから騙すよりは騙される方がいい。

冒頭の、ドラマの続きは知らない。

もしかすると騙されたと思っていた内縁の妻は結局戻ってきて、お金も返したかも知れない。あるいはそのまま逃げてしまったのかもしれない。

でも自分はその男が馬鹿だとも間抜けだとも思えない。

女に疎かった男だったとしても、騙す男よりはいい。

「ひとがいい」故に冷徹に人間関係をシャットアウト出来ない人間はけじめをつけられない。

純朴な人ほど痛い目にあってしまう。

だがそれでも騙すより騙された方がいい。


2007年3月14日

プリンター三たび修理に。

アルプスの熱転写式プリンターMD5000が3回目の故障。1999年に購入したプリンターでもう8年近く使っているが買い替えるつもりはない。

というより、これに変わる高性能のプリンターがないから仕方ないのだ。

熱転写式はこのアルプス製のみ。今主流のインクジェットやレーザープリンターでこの仕様を満たす事は難しい。だからこそ量販店のプリンターインク売り場に行くと、ちゃんとアルプス製のインクカセット売り場が今尚存在し続けている。それだけユーザーがいるという事だろう。

修理代は1万7千円強。最新のインクジェットプリンターが買えてしまう値段。

次から次へと故障するパソコン関連機器の情況はデジタル環境が如何に経費を食うか如実に物語る。

自分の収入からすると堪え難き情況だ。

確定申告書を作成していると、まったく情けなくなってくる。

もはや将来の不安とかいう感覚さえ薄れ、滝が目の前に迫っているのにオールもロープも何もない筏にただ流されるままに乗っかっているだけの無気力な木偶の坊のような情況。

危機的情況を危機と感じなくなったら、もうおしまいだろう。

にも拘らず、商売道具は壊れ続け、体力、気力も衰え、心身共に疲弊情況。

そのうえ、3月に入って真冬みたいな気候が身体にこたえる。

桜の開花も遅れそうだ。


2007年3月12日

「一瞬の希望」

JAXAプロジェクト月回周衛星セレーネの「月に願いを」キャンペーンに応募した受付確認書が届いた。

受付番号が手書きというところが味噌。これがプリントアウトされたものだったら味気ない。

それはさておき、応募したメッセージはセレーネのシートに刻まれて月をずっと回るそうだ(無論2007年夏の打上げが成功したらの話だが)。

願い事が叶う事は稀だ。

大抵は過酷で冷徹な現実に阻まれて夢と消える。

だが、その瞬間に願われた想いは、紛れもない現実として人の心に刻まれる。たとえあっさりと忘れられる願いだったとしても、一生記憶に残る願いだったとしても、その願いを綴れた人は幸いである。

そんな「一瞬の希望」が言葉に刻まれて月を回るのだ。

月を見上げれば、あの時の願い事が蘇ってくるのかも知れない。子供っぽい稚拙な願いを記した己に恥ずかしさを抱く者もいれば、あの願いを叶えられると信じた時代を懐かしむ者も居よう。

あるいは本当に願いを叶えて月に手を合わせる者もいるだろう。

衛星は人の希望と挫折を乗せて月を回り続ける。

月を見上げれば同じ想いを抱く者がこの地球の何処かにいるかも知れない。

人が生きていくというのは過酷である。願いを綴っただけではこの現実に生きていけない。

願い事と言うのは所詮、贅沢な戯れ言でしかないだろう。

だが戯れ言だとしても、人は太古から天に願を掛け続けてきた。流れ星然り、七夕然り。

結局、人はそういう生き物なのだ。

願いが叶わなくとも、その願いを抱いたという一瞬は永遠に記憶に刻まれる。

その記憶だけで人は生きていけるのかも知れない。

月に願いを。


2007年3月9日

新海誠の新作

どうやらもう公開されているようだ。新作製作中とは聞いていたがすでに完成していたとは。ネットで予告編を観たが、テーマは例によってナイーブな恋愛心を電車の車窓風景に絡めて表現する手法。

ホームの風景やら、都心湾岸辺りから眺めたと思われる新宿高層ビル群のパノラマやら、JR中央線から埼京線経由で浦和、更に栃木に至る鉄道ルート等・・。

またもやシンクロ率400パーセント。

正直、シンクロ率が余りにも高すぎるので、ちょっと息苦しくなる程。

「これからの長過ぎる茫漠たる人生」云々の台詞がまた重い。この重さが何というか車窓からの風景と上手く絡み合って心がしみる。

いずれにせよ、この達観したナイーブな感性を堂々と実践出来るところが凄い。新海氏にはこのまま40歳50歳になってもこの感性を維持してほしい。


2007年3月5日

蚊。

先日、夜中に吸血性の蚊を発見した。まだ3月初旬というのに早すぎる出現に吃驚する。

遅かれ早かれ年中蚊に刺されるようになるのだろうか?

最近寒暖の差も激しく身が持たない。歳をとった。


2007年2月23日

エヴァの切手

2月23日に郵政公社から発売された「アニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ第五集/新世紀エヴァンゲリオン」記念切手を購入。

とりあえずエヴァファンとしてはゲットしておきたい定石コレクションアイテムである。

ここ数年『エヴァ』関連のグッズ、関連商品に関してはあまり興味を抱く事がなかった。殆どスル−状態。

パチンコも完全に守備範囲外だったので、切手は本当に久々の自分内「エヴァ祭り」。

さて、販売当日には指定された郵便局で当日限定のエヴァイラスト入り消印を押してもらえるとのこと。これはゲットしておかねばなるまい。

雨の中、午前10時頃、東京中央郵便局へ到着。

9時が開局なのでもう少し早く行くべきか迷った。もし行列でも出来ていたら面倒かなあと心配したが杞憂に終る。

局前には行列もなく、アニメファンらしき人の姿も居ない。ちょっと肩透かしを食らった感じだ。

局内に入っても人は疎らで拍子抜け。

カウンターの其処此所に老人クラブのような集団が居て、エヴァの記念切手を様々な台紙、便箋に貼り付けている。

彼等は郵趣(切手マニア)の人達で、記念切手が出る度に集まっているようだ。殆どが70歳以上に見える男女の方々。

切手集めという趣味がもはや老人の嗜みになっている事に軽い衝撃を受けた。

切手収集は自分が小学生の頃、比較的流行った趣味ジャンル。当時はクラスメート同志で切手交換の姿とかちらほら見かけたものだが、今や若い人から切手収集の話題が出る事はまずない。

さて、郵趣老人達は、皆顔馴染みの常連さんのようで和やかに談笑している。彼等にとって今回の「エヴァ切手」も記念切手集めの一つでしかなく「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメに関しては殆ど興味も知識もないようだった。

「これテレビでやっとるのかいな?」

「なんとなく名前くらいは聞いた事あったような気がするんがねえ」

「孫が好きそうでな。孫に送ってみようと思っとるがな」

「そういえば開局前に並ぶ行列の中に知らない顔が何人かおったぞ。徹夜もいたそうな」

そんな談笑しながらエヴァの綾波やアスカの切手を丁寧に台紙に貼りつける郵趣老人達の姿は何だか微笑ましい。

それはさておき、自分にとって記念切手を初日に買うという経験は初めて。とにかく戸惑う。

切手の台紙とか、記念切手専用の封筒とかいったい何処で手に入れるのか皆目解らない。専用封筒はどうやら郵便局が開く前に並ばないとゲット出来ないらしい。これは不覚だった。しかしイラスト入りの専用封筒便箋は局内の売店でも扱っていたので何とか購入する事が出来た。

切手を貼って記念押印するための紙は別に葉書や封筒に限らず何でもよいとのことなので、予めエヴァグッズの中からポストカードや自分のエヴァイラストを用紙にプリントして幾つか持参する。

取りあえずエヴァ切手シート(1シート10枚)を7シート購入して、台紙やら封筒やらポストカードに貼り付ける。それを窓口に持って行って記念消印を押印してもらう。

この消印は「手押し」と「機械押し」2種類あって各々碇シンジと初号機がデザインされている。

「機械押し」の窓口には行列が出来ており、何と1時間近く並んだ。この行列も殆どが郵趣老人で、いわいるアニメファン、秋葉系の姿は殆ど見られない。「エヴァ」記念切手は「ヲタク御用達」アイテムとは違うのだということを改めて思い知る。

さて、この郵趣のための消印押印に諸々の決まりがあるそうだ。初心者の自分はそんなルール等何も知らないから、何故局員が消印の場所を事細かく尋ねたり、郵趣老人達が押印場所を細かく指定しているのか奇異であった。

実は消印は切手に少しでも掛って押されていると、別の消印は押してくれない。また切手とは関係ないところに押す事もしてくれない。だから微妙に位置を変えて消印を押さないと何種類もある記念消印を効率良く残す事が出来ないのだ。

お陰で行列に2回も並ぶ羽目になった。

郵趣というジャンルも奥が深い。まあ、記念切手をこうしてこだわって買う機会も姑くはなさそうだが、いろいろ勉強になった。

それにしてもいわいる秋葉系エヴァファンの姿が疎らすぎるのは予想外。確かに平日、それも雨天という悪条件。人の集まりが悪いというのも頷けるが、記念消印は今日限定。指定郵便局も東京ですら此所を含めて僅か数局。かなりなレアな条件であるからもう少し秋葉系マニアが居てもおかしくはないのだが。

それに切手は他のグッズとは違い、国の機関が公に発行する一種の「証書」であるから額面落ちすることも考えられない。テレフォンカードよりも長期的価値は保証出来よう。手紙を出す機会は少なくなったとはいえ、郵便切手が廃れる事はあまりなさそうだし、手元にあっても損はないはず。そういう意味でエヴァグッズの中では一番安心出来るアイテムと思うのだが。

やはり切手はアニヲタが求めるジャンルではないのだろうか?

あるいはこの切手発行があまりエヴァファンに周知されていないのかもしれない(但し郵送での通信販売も3月22日まで受け付けているのでそちらを利用することも可能。詳しくはこちら)。

それはさておき、20枚近くのカードや封筒に記念切手を貼り付け消印を貰う。その中で昔描いた渚カヲルのイラストをポストカードにプリントし、それに渚カヲルの切手を貼って碇シンジデザインの消印を押してもらったモノがこれ

なんだか腐女子アイテムみたいになってしまったが、これも一興だ。

そう言えば、かつて大槻ケンヂが作った曲『どこへでも行ける切手』の歌詞に出てくる包帯少女が綾波レイの元になったとか。切手シートの左側のイラストにはそんな包帯姿の綾波の絵が記されている。

これは何かの偶然だろうか?


2007年2月20日

諸々のこと。

とりあえず放置状態だったコンテンツ「ギャラリー」を更新。

いくつかトップページに載せた事のあるイラストとか、これまでの単行本カバー絵原画とかを閲覧出来るようにした。

最近はテキスト中心で画像関係は全くと言ってよい程更新していなかった。もともと紙媒体向けの作品はネット上にはあまり公開しないのであるが、他の作家さんのHPのギャラリーを拝見すると興味深い作品が並んでいたりして目を引く。流石に自分のHPの「ギャラリー」が余りにほっぱらかしではまずいと感じ、とりあえず更新してみた。もっとも画像も小さく見栄えはしないが興味ある方は御覧下さい。

また「作品リスト」も久々に更新した。

さて、商業原稿が上がったばかりとはいえ、のんびりもしていられない。すぐに次回作準備でロケハンにも出かけねばならぬ。

ところが生活パターンが夜中で、起きたら外は真っ暗というサイクル。早急に生活パターンを変更しないとまずい。

確定申告やら、片付け事も山積だ。

更には日常使っている諸々の機器の故障修理、メンテナンスもやらねばいけない。

もうかたっぱしから不都合が発生する。

未だに録音メディアはカセットテープなのだがこれも調子が悪い。三台あるデッキの内一台はキイキイ音がするし、もう一台はモーターがいかれ走行不良。残りの一台(カセットレシーバー)はラジオの部分だけしか動かない。

これではエアチェックに使えないので、仕方なく新しいデッキを家電量販店で物色。

しかしカセットデッキを扱う店は年々少なくなって製品数は限られたものに。カセットテープというメディア自体が絶滅に瀕している感じだ。

でも未だに30年近く前のテープが再生出来る訳でまだまだ使えるはず。MDのほうが先になくなる予感もしてなかなかカセットテープから他のメディアに乗り換えられない。

それはさておき、安いダブルデッキでも1万5千円以上するようだ。DVDプレーヤーなら格安製品だと5千円を切っている世情にカセットにこだわる意味を我ながら疑う。

DVDを買わずしてカセットに固執したところで得るものは余りない。

むしろそれを維持するほうがコストパフォーマンスが悪い。

融通性が失われ頑固に古いメディアにこだわるということは、つまり歳をとったということだろう。

秋葉原などでは中古レンタルビデオテープが一巻100円以下で放出されている。そんな廃物を漁るのが自分の性格にあっているようだ。

色褪せた20年近く前のまったくヒットしなかったであろう聞いた事もない映画ビデオテープのパッケージを眺めながら僕は呟く。

「お前の人生の最後を看取ってやろう」

そして一山数百円のVHSビデオテープを持ち帰り、独り寂しく再生する。中にはトラッキングがNGで再生不良のもあったりする。

もう余命幾許かの再生すら間々成らぬ不人気映画ビデオを眺めて、これはまさに将来の絶望独身男性の末路と同じかなと哀しくなる。

名作であれば、まだ手許に置いておこうという気にもなるが、観るに耐えない駄作中古ビデオは虚しい。

まるで還暦をひかえた無職ニート引き蘢り独身男子のごとし。年収ゼロ。身寄りもなし。当然女性からも相手にされない。つまり引き取り手のない厄介者だ。

中味もメディアもボロボロな中古ビデオはもはや捨てるしかない。

それでも自分は最新作をDVDで観るよりこちらの方が好きだ。

なぜならば、そのような捨てるしか用途のない100円中古ビデオが他人に思えないから。

だからそんな中古ビデオと添い寝して、お互いの心の傷を舐め合いたいのだ。

「君と僕とは同じだね」と呟きながら。

翌朝、そのビデオは「燃えないゴミ」としてゴミ収拾場に堆く積まれていた。

火葬場に安置された無縁仏のように。

これが僕達の未来の姿でもあるのだ。


2007年2月19日

冒険家と引き蘢り。

最近、単独でヨットによる無寄港世界1周する冒険家の本をよく読む。

といっても堀江謙一氏の本に次いで二作目なのだが。

著者は白石 康次郎というヨットマン。

シングルハンド(単独)で最年少無寄港世界1周を成し遂げた時の航海記だ。

堀江氏の場合もそうなのだが、この単独世界1周ってなんだか恐ろしくポジティブな引き蘢りのような気がして興味深い。

大海原の中、誰とも接する事なく何ヶ月もヨットの中で暮すというのは、家の中に閉じこもってパソコンにしがみついているだけの引き蘢りとさして変わらない。

勿論、ヨットマンはただ漂流しているのではなく、高度な航海術を身に就けた屈強な精神力と体力を持つ猛者ではあるのだが、凪の時等はどう足掻いても進まないから、ひたすらヨットの中で独り耐えねばならない。

そんな情況と引き蘢りの孤独は何処かしら共通しているんじゃないか。

引き蘢りが籠る部屋は移動しないが、時間軸は流れている訳で、いつか「風」を待って何処かに辿り着く事を期待しているとしたら単独ヨット航海も引き蘢りの人生も似たようなものだ。

白石氏の著書の中で、航海中不思議な夢を見るという記述があった。

本人は大海原の真只中にいるのに、何故か東京の雑踏で友人達と懇談している。友人達は「航海は順調か?」と聞き、本人も「上手くやってます」と答えるそうだ。

つまりヨットだけが海の上で自動的に勝手に航海しており、乗り手の本人は陸に上がって知人と懇談している情況が何回も夢に出てくるそうだ。

幽体離脱でもしているように。

でもなんとなくその感覚は解るのだ。自分の人生が自分とは別のところで勝手に進んでいるような感覚。

孤独を拗らせると恐らくこのような幻覚に近い情況に陥るのだろう。

引き蘢りもヨットマンも孤独な冒険者という点では一致する。

だからこのような航海記に興味を抱くのかもしれない。

それはさておき、白石氏は今でも単独の外洋ヨットレースに参加しており、リアルタイムでブログも読める。

フジテレビの『目覚ましテレビ』でも時々生中継でレースの様子を実況する姿が写っている。

そう、今や衛星電話等を使ってどんなところからも生画像が送れる時代。GPSで自分が何処にいるかもリアルタイムで分ってしまう。無論ネットも出来るから大海原に居ても大量のスパムメールを毎朝処理する日課があるだろう。

その上、航海もオートパイロットに目的地をインプットしておけば、寝ていても目的地にヨットを導いてくれるらしい。

まさに東京の引き蘢りと殆ど変わらない生活で世界単独1周が可能なのだ。

なんだかロマンもへったくれもない情況が可笑しい。

無論現実にはシケやトラブルに独りで対処しなければならないサバイバルが待っている。近くにコンビニがある訳でもないし誰かが飯を作ってくれる訳でもない。病院もない。一瞬の油断は死に繋がる。大自然との対峙なのだ。

とはいえ彼等単独ヨットマンの航海記を読むと、今自分が置かれている場所と非常に似ているような気がして面白い。

そう、引き蘢りは孤独な冒険者なのである。

そう考えると、引き蘢りも悪くない。

引き蘢りにサバイバル技術を身につけさせれば、皆冒険者に成れるかも。

明日から君も植村直己だ。


2007年2月17日

入稿。

先日、やっと入稿した商業作品の案内を最新情報にアップ。

タイトルは『絶望帝国の興亡』

2月28日の「月刊コミックバーズ」に掲載予定である。

よろしくの程を。


2007年2月16日

E=mc^2

麗らかな小春日和の晴天下、遅い朝食を採る。独り食卓に座りなんとなくテレビのリモコンを操作する。気が付くとNHKハイビジョンにチャンネルを合わしていた。

番組はアインシュタインの相対性理論を人間ドラマ風にアレンジしたドキュメント番組

特に観るつもりはなかったのにいつしか目を離せなくなった。

本当にただぼうっと食事しながら観ていただけだったのだが、ひょんなことでE=mc^2(二乗)の意味が朧げに理解する窓口が見えたような錯覚に囚われた。

自分は理工系でもないし、数学は苦手な人間だから本当の意味が解る筈はない。

だがこの世界を司るエネルギーが「光の速さ」で決まっている事に奇妙な気分にさせられた。

エネルギーEはその物体の持つ質量に光の早さCの二乗を掛けた数値で現される。

光の速さは決まっている。秒速30万キロメートルだ。その二乗にその物質の持つ質量を掛ければ、その物質の持つ全エネルギーが算出される。

300000×300000=900億キロ/秒

これに物質の質量を掛ける。

たとえば1キログラムのモノだとこの900億キロ/秒がその物質の全エネルギーとなるのか?

この計算の仕方が合っているかどうかは解らない。全く頓珍漢なのかもしれない。

だが光の速さで物質のエネルギーを導き出せるということは、絶対的な光の速さという定数がエネルギーの源を司っているということだから、相対性理論は「光原理主義」の法則なのだろう。

これはまやかしでも怪しげなカルト教典でもなくて、実際にこの法則でもって巨大なエネルギーを物質から取り出す事が出来る。

原子爆弾も、太陽エネルギーも超新星爆発もすべてE=mc^2で導き出されるらしい。

つまりこの自分の身体もE=mc^2から創造されたものなのだ。

しかし光の速さの二乗とは一体なんなのか?

光速度の二乗にその物質の全エネルギーが存在するというのは、どういうことなのだろう。

光は波だから電磁波の一種なのであろう。その速度の平方根という概念をイメージしようにもその対象がないため朧げな感覚でしかないのだが、たとえばそんなエネルギーが一瞬にして開放されると原子爆弾のような現象が見られる訳で、それはとにかくも途方もない事だ。

たとえば此処に簡単に握れるペンがある。

このペンの質量の全エネルギーを解放するととてつもない大爆発が起きるのか?

それが光の速さの二乗で求められるということなのだろうか?

この番組を観てからこの「光の速さの二乗」という概念が奇妙にも頭から離れない。自分は理工学的な発想が出来ないからこれを数字で現すとか計算するとかは全くダメなのだが、「光の速さの二乗」という「場」のイメージを何とかして書き表したいというか、描きたいというか、見えそうで見えない透明な異次元の存在を何とかして具現化出来ないだろうかと思いを巡らしてみる。

それが全てを司る絶対的な定義とするならば、「光の速さの二乗」のイメージは、すなわち創造主、神の姿でもあるのだろう。

ただ、E=mc^2はあくまで「光原理主義」の考えであるから、定数たる絶対的普遍の場所を別の次元に置いたとしたら全く違う発想が生まれるかもしれない。

たとえば地球が太陽の周りを回っている「地動説」が今日の常識であるが、これはあくまで太陽を「不動」とし太陽を中心とした考え方であって、なるほどそういう視点からだと地球は太陽の周りを公転しているのだが、逆に地球を「不動」で「中心」とみなした視点で考える事も可能な訳で、そうなると「地動説」による法則もまた存在する訳だ。

何を定数にするか、何を中心とするかで世界観はぐるりと変わる。

アインシュタインの相対性理論はあくまで光の速さという絶対的な数字を不変とする概念でしかない。

もしかすると全く違う概念で物質のエネルギーを算出する方法があるのかもしれない。

それはさておき、このE=mc^2を何か日常の法則に当てはめられないだろうか?

たとえば質量Mを漫画原稿の一枚の原稿料だとする。そして光の速さCをその漫画家が一日に描ける原稿の枚数とする。

すると原稿料が一枚2万円で一日1枚しか描けない漫画家のエネルギーEは一日の枚数C1の二乗1掛ける原稿料2だから=2

一方2枚描ける漫画家のエネルギーは一日の枚数C2の二乗4掛ける原稿料2だから=8

つまり4倍の差が付く訳である。

まあこんな計算が相対性理論と関係あるはずもないのではあるが、筆が遅い漫画家はその内在するエネルギーも小さいと言う事か?作品の質は別としても稼ぎにおいては描ける原稿枚数の平方根の差がつくということだろう。

なんだか訳が解らなくなってきたが、いずれにしろ「光の速さの二乗」という概念は興味深いし、アインシュタインがそのような発想に至って、やがては原子爆弾を作り出したのは事実。

物質とエネルギーの関係を突き詰めていくと、やがて創造主の顔が見えてくる。

科学も芸術も哲学もその動機は「全知全能の創造主」の姿を見い出す事にあるのかもしれない。

テレビ視聴の99%は無価値なのだが極々稀に人生を突き動かされる番組と出会う事もある。

今日は何故かこの世界を司る「偉大なる存在」に突き動かされたような一日であった。


2007年2月14日

バレンタインデー

今年も恒例のバレンタインデーが来た。

ラジオを聴いていると女性DJの反応が興味深い。「そう言えば忘れてました」とか、意識的に避けている情況が垣間見れる。義理チョコという「義務的儀式」が鬱陶しいのであろう。このあたりはクリスマスと情況が似ている。

でもイベントとして女性がチョコを男性に贈るのを素直に楽しめないのは正直寂しい。

これが面倒になった女性が可愛いとは思えないが、別に特定の男性以外から好意を抱かれなくとも生きていける程、女性の立場が強くなったと言う事か。

それはさておき、チョコレートにまつわる話題をいくつか。

先日、ルックチョコレートが店頭から消えたことを憂う話題を日記に記したが、そのルックチョコをまとめて送って下さった方がいた。実にありがたい。お陰で禁断症状から解放された。

それから大切な知人からバレンタインデー菓子を戴く。

自分は一番嬉しかったりする事は黙って仕舞っておく人間(ショートケーキの苺は最後まで食べないタイプ)なのだが感謝の気持ちは表現しないと相手に伝わらないのも事実。

ちょうど原稿修羅場の時にわざわざ仕事場まで届けて頂いたので嬉しい限りであった。

この場を借りて感謝の言葉を贈ります。

ありがとう。

でもきっとホワイトデーは「3倍返し」なのだろうね(笑)


2007年2月6日

コミティア来場感謝。

2月4日ビッグサイトで開催されたコミティアに参加。

商業原稿締め切り間際ともあって若干落ち着かなかったが無事にイベントを過す。

午前中は程々の人出だったが、午後にかけて若干寂しくなる。

例年の冬コミケット後のコミティアと比べると売り上げが少ない。

いつもならバレンタインデー前後の2月中旬に開かれていたが、今回は節分直後の4日。この日程も原因だったのだろうか?

それはさておき、チラシの中に『ヤンデレ』オンリーイベントの案内をみつける。

『ヤンデレ』とはなんぞや?説明を読むとどうやら病んでいる女の子がデレデレしてくるという内容の漫画らしい。

流行りの『ツンデレ』は一見つんつんしている子が実は恋人の前ではデレデレしてくるというギャップが萌えるということらしいが、なんだか『ヤンデレ』の方は怖そうだ。

そんな漫画だけ集めてイベントが開けてしまうというのも何だか複雑。

気が付くと庭の紅梅がもう咲いている。今年は暖冬で東京はまだ雪も記録されていない。

でも暖冬の年は夏も冷夏になりやすいらしい。

気候的にはメリハリのない年になるのだろうか?


2007年2月4日

先日、むらかわみちお氏主催の『ヤマト本』謝恩会に招待されて出席。

赤坂のフランス料理店で御馳走になる。出席者も映画監督の樋口真嗣氏や庵野秀明氏等錚々たるメンバー。自分の居場所がなさそうだったが、幸いにも以前阿佐ヶ谷のクロッキーワークショップで一緒だった作家さんやそのお知り合いも出席されていたため、胸をなで下ろす。

このような催し場ではいつも「独りポツン状態」が常の自分にとっては助かった。

庵野氏には「御無沙汰です」と挨拶されてしまい、恐縮のあまりあたふたする。映画『キャッチボール屋』のロケ現場で御一緒したことを憶えて頂いたのである。本来ならこちらからご挨拶しなければならないのであるが・・。やっぱり器が違う(汗)。

それはさておき、宴席では出席者の世代柄『ヤマト』ヲタ話に華が咲く。40代前後のクリエーターが殆どの筈なのだが、皆若く見え「年齢不詳」だ。この世界は「精神年齢」が若くなければ勤まらない。だから風貌も初々しいままなのだろう。

だれも「枯れて」はいないのだ。素晴らしい。

明日のコミティアや仕事の締め切りが迫っていたため最後まで居られなかったが、コース料理も美味しく、有益な時間を堪能させて頂いた。この場を借りてむらかわみちお氏に御礼申し上げます。


2007年2月1日

ルックチョコレートがない。

先日、いつも愛食しているルックチョコレートを買おうとコンビニに寄ったところ、商品が棚にない。

どうしたことか店員に訪ねると、なにやらメーカーが販売自粛しているとか。

全く納得行かなかったので、更に店員に詰め寄る。

ルックチョコレートに何が問題があるのだ!俺にルックチョコレートを食わせろ」

テレビの健康バラエティー番組の大半が虚偽誇張捏造であるという「常識」を知らぬ者が馬鹿を見たのと同じように、菓子メーカーの食品衛生に関する報道を真に受けたらどうなるかは子供にでも解る。

賞味期限切れの商品を出荷する事など何処のメーカーでもやっている慣例だろうし、それを殊更大袈裟に取り上げるのは、他に目的があると考えるのが普通だ。

このような事例は、何者かが利潤追求のために「都合のよい虚偽」をメディアを通じて積み上げて人を騙す昔ながらの「商慣例」に過ぎない。

憶測すればさしずめこの菓子メーカーのブランドをライバル会社が都合よく略取するための茶番劇と考えればよかろう。メーカーの不祥事をメディアにリークして窮地に追い込ませ、乗っ取りを謀る。まあこんなところだろう。先日の納豆騒ぎもこの類だ。「利益史上主義」の日本においては「正義と真実」に思える全ての報道は「都合のよい虚偽」に基づいた悪質な商行為と思った方がよい。

「酒酔い運転はやめよう」というキャンペーンのすぐ後には自動車メーカーや自動車保険のCMが口煩い程流れてくる。年間6000人もの交通事故死者が存在するという悲劇を保険料と新車販売で潤っている企業が聖人君子面して「危険運転防止」と叫んだところで説得力はあるまい。鉄道のない地方で夜間運転しているドライバーの大半は酒気帯びだろうし、そういう社会を作り出さなければ自動車関連企業は潤わないから「飲酒運転」はどんどん増えてもらわないと困る。

それでドライバーや歩行者が死のうと、自動車メーカーにとっては「知った事か」であり、保険会社にとっては「事故が怖けりゃ高い保険料払え」なのだ。

そう、常に犠牲を強いられるのは「都合のよい虚偽」宣伝に踊らされて自動車を買ったユーザーのほうである。

「納豆騒ぎ」をおこした関西のテレビ局も謝罪会見なんかやめて、こう言えばよかったのである。

「アホか!納豆でダイエット確実ならテレビで発表する前にワシがこっそり秘密裏に独占しとるわ。テレビを信じるお前がアホなんや!騙してナンボのマスコミを信じたお前の腐れ脳を呪えや!ドアホ」

それが「利益至上主義」の常識なのだから、騙された方が悪いのである。だからテレビは信じるに値しない。謝罪会見すら騙しの一つ。全て虚偽と思え。己の身で確認出来る事象、たとえば天気や地震等の災害、科学的に立証出来る報道以外は、全て「都合のよい虚偽」と思った方がよい。

最近国会を賑わしている、某厚生労働大臣の「失言」騒動も、同じくこの類だ。

だがこちらは「都合のよい虚偽」というより「不都合な真実」と解釈した方が解りやすい。

抜本的な「少子化」対策は国家的事業であるから、女性を「機械」と言い換えても致し方なかろう。

同じ国家的事業である戦争遂行時には男子は皆徴兵され「戦闘機械」として国家に殉ずる。それと同じ。

機械のごとく挙国一致しなければ少子化スパイラルから脱する事は不可能である。この何処がおかしいと言うのか?これ以上の「真実」はない。

しかしその「真実」を知らしめる事が「何者か」にとっては「不都合」なのだ。だから大袈裟な程にマスコミは騒ぐ。

つまり、日本が抜本的な「少子化」対策を本気で実践し、人口が増え、国力が増大する事を恐れる者が厚生労働大臣の「失言」を激しく糾弾していると推測出来る。

フェミファシズムが深刻な「少子化」を増長させている「真実」は、そのフェミファシズムで日本をミスリードしている者にとっては恐るべき「不都合」な訳だから、なんとしてもこの大臣の「不都合な真実」を闇に葬らねばならない。これが今、マスコミが狂ったように「厚生労働大臣罷免」キャンペーンを繰り広げている本当の理由なのだ。

ラジオからちょっと前に流行った曲が流れてきた。広瀬香美とかいう歌手の疳高い声がちょっと耳障り。「スキー場で玉の輿ゲット」みたいな曲ばかり唄っていたこの女性歌手の詩をよくよく聴いてみると・・

「男は皆、歩くATM(自動現金支払機)。見栄えがよくて沢山現金を吐き出してくれるATMほしい」と唄っているようにも聞こえる。

異性を機械に例えるという意味においては、この歌手も厚生労働大臣も似たようなもの。

しかし大臣の発言はマスコミから激しく糾弾されるが、この歌手の詩はむしろ奨励されるごとくラジオから夥しく垂れ流される。たとえ女性閣僚がこの詩に準ずる類の発言をしたとしても誰も咎めはしないだろうが、男性歌手が大臣失言に似た曲を発表したら即発禁処分だろう。

「男がATM」というのは女性からすれば「都合のよい真実」だが、「女は子供を産む機械」は女性にとって不都合だから許されないというのならば、現金を吐き出さない出来の悪いニート引き蘢り男はお断りという歌もその類の男子からすれば「不都合な真実」なのだから発禁処分にしてほしいものだが、けっしてそうはならない。

このような不誠実がまかり通るのが今の日本の常識だ。

だからテレビの報ずる「真実」は絶対に信じない。断じてね。

だから騙される方が悪いのだ。

尚も自分はコンビニ店員に食い下がる。

「マスコミの報道など知った事か!ルックチョコレートを出せ!俺はさっき1週間前の生クリームたっぷりのケーキを食ったがなんともなかったんだ!さあ!出せ!ルックチョコレート出せ!」

この不誠実で「利益至上主義」な日本は、いずれ自分の愛するものを全て奪っていくのかもしれない。

そんな底知れぬ恐ろしさに駆られ、僕は「ギャー」と叫んでコンビニを飛び出た。

チョコレートの次は何を奪っていくのだろう。

ルックチョコレート食べたい。


2007年1月22日

商業誌原稿ペン入れのため多忙につき日記の更新滞りぎみ。

御容赦。

気が付くとアクセスカウンターが20万を超えていた。訪問者に感謝。

余裕が出来たら放置状態のコンテンツも久々に更新させたい。


2007年1月11日

ヒルダはバラバラ。

「我、地に平和を与えんために来たと思う勿れ。

我汝等に告ぐ。然らず、むしろ争いなり。

今からのち、一家に五人あらば、三人は二人に、二人は三人に分かれて争わん。

父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に・・」(新約聖書『ルカによる福音書』・第12章)

最近、マスコミを賑やかせているバラバラ殺人事件。バラバラ殺人と聞くと、従来ならばプロの仕業とか外国人の手口等と連想するものだが、東京での二つの事件はいずれも裕福でステイタスの高い家庭内が舞台。それも虫も殺せないように見える若い男女だ。加害者も被害者も端から見れば何の不自由なく満たされている筈の親族配偶者同志。

「死人に口なし」だから殺害の動機がメディアで報じられている通りとは限らない。

だが自分の存在を否定されたとか、努力しても報われないとなじられたとか、己のステイタスやプライドを傷つけられた事が殺意に繋がったみたいな理由が囁かれていると、結局のところ、いくら経済的に裕福だとしても「底なしの愛情」を満たす事は出来なかったのだ。

大半の絶望独身男性(あるいは負け犬女子)が、結婚も間々ならぬ時代。

先日、朝日新聞コラム「ロストジェネレーション」に「難婚世代」というタイトルで、独身男女の埋め難い結婚相手の理想像が述べられていた。

女子が求めるのは「年収一千万以上の男」。男子が求めるのは「フィギュア集めを認めてくれる女」。

決して交わらない理想像をぶつけ合い、空虚に歳を取っていくだけ。

そこにあるのは、「自己愛」のみ。

そんな人間がたとえ「年収一千万以上の男」「フィギュア集めを認めてくれる女」と巡り会ったとしても、「自己愛」が満たされる筈もなかろう。相手の傲慢さとか身勝手さが許せなくなって、接点すら見出せまい。

挙げ句の果て、結局獲得したはずのステイタスの象徴である配偶者や肉親を自らの手で殺め、バラバラにする。

どっちにしろもうダメなのだ。

この世界はたぶん、終末に向っているのかも知れない。

バラバラになったのは、人間の身体だけではなく、その心もバラバラなのだ。

己を満たそうとしてその渇きを配偶者や親族、または恋人に求めようにも、結局そこには己の渇きを満たす「愛」はない。挙げ句それは渇きを求めた者に対する裏切りと憎しみに変わり、相手を殺める事でしか解決出来ないのだ。

おそらく、文明がある程度進化すると、人間というものの中に存在する「自滅トリガー」が働いて、本来は愛すべき存在を殺めてしまうシステムが起動するのではないか?

少子高齢化、人口減の社会というのは、たとえ結婚を強制的に促進させたところで何も解決しない。

「自滅トリガー」が起動したこの日本社会では、たとえ結婚、出産出来たとしても、その親族同志で殺し合う感情が形成され、己自身を破滅に招く。だから何をしたってダメなのだ。

ちょうど鶏に卵をそのまま餌として与えてしまうと、それ以後自分で産んだ卵も全て食べてしまうのと同じように。

禁断の林檎を食べたアダムとイブがエデンから追放されるのごとく。

冒頭の詩は新約聖書からの引用で、押井守のアニメ『パトレイバー2』でも使われていた。

何不自由なく豊かになったこの日本が、おぞましくも肉親同志で殺し合い、「ソドムの市」と化したことを如実に現している素晴らしい詩だ。

『太陽の王子ホルス』に出てきた悪魔グルンワルドもさぞ御満悦であろう。

バラバラになったこの日本にやがて「悪魔の軍勢」が攻め込んでくるのだ。

このような「バラバラ殺人」が日常化すると、便乗商品も売り出されそうだ。今回の夫殺しの妻も渋谷東急ハンズでノコギリ等を購入したという。

ならば東急ハンズも本格的にバラバラ殺人用ツールをワンフロア新設して販売しては如何か?

「簡単人体バラバラセット」とか「匂いが漏れない死体袋」とか「萌え萌え妹一発即死木刀撲殺天使ドクロちゃん」とか「高速人体ミンチシュレッダーヒートフォーク」とか。

明日は自分が生ゴミと一緒にバラバラに捨てられるかもしれない。

これからは最も親しい人から殺されるのが当たり前な社会になろう。

許し合い、認め合う事を忘れた人間関係は地獄だ。

「ごめんなさい」の一言が救いになるのに。

みんな自分の事を「愛して」と言うばかり。

恐ろしい。

「我、地に平和を与えんために来たと思う勿れ。

我汝等に告ぐ。然らず、むしろ争いなり。

今からのち、一家に五人あらば、三人は二人に、二人は三人に分かれて争わん。

父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に・・」(新約聖書『ルカによる福音書』・第12章)


2007年1月8日

4回目の猪年。

お正月も終ったというのに、変則的な『ハッピーマンデー』のせいで季節感が狂う。

成人式は15日と相場が決まっていたのに、8日に祭日を移動させるとは、そろそろおかしいと思わぬのか?

「七草がゆ」と「成人式」が殆ど同じ日にしてまで三連休が欲しいのだろうか?もっとも連休の恩恵に預かる職種に就けない者が増えてきている昨今、『ハッピーマンデー』など絵に描いた餅でしかないのだが。

それはさておき、2007年は猪年。自分にとっては4回目の「年男」。

振り返って過去三回はどんな情況だったか思い出してみる。

最初は1971年、12歳だからちょうど小学6年生。大阪万博直後、札幌オリンピックの前年だったか?

その頃の正月は親戚が集まってお年玉とか貰い、妙に盛り上がっていた記憶がある。親族、友達等たくさんの人間と遊んだ。12歳であるから将来の不安とかそんなものは微塵もなく、暖かく家族に見守られ「高度成長的平均山の手中産階級家族」の中の子供時代だった。

次は1983年。24歳。

大学を卒業して1年。当時はバイトしながら徳間書店の『プチアップルパイ』に年4回作品を発表し始めた頃。就職を放棄したから(当時の大卒は9割以上が何らかの会社に就業するのが当たり前だった)家族からは将来を不安がられ、自分ももっと頑張らねばと焦っていた頃。すでに人生は365日「不安と焦躁」に駆られ始めていた。家族や親族と正月を過す事もなくなり、もっぱら大学時代の友人との交流が中心だった。

そこにはまだ「自分なりの青春」というものがあったらしく、不安もその若さの一部として受け入れていた気がした。

因にこの年は松田聖子が全盛期で、テレビでは『わくわく動物ランド』が人気だった。

更に1995年。36歳。

90年代前半にバブル経済が襲い、弾けると、もうその後の日本は自分の伺い知れない世界と成り果ていた。

大学当時の仲間との交流も疎くなり(大半は結婚して家庭に入っていった)、相変わらず家族、親族とも疎遠で殆ど「引き蘢り状態」。辛うじてこの頃より同人活動を始めたりイベント等で新たな人的交流が始まったが、12年前に掲げた人生目標には程遠く、自分の限界を知り始めた頃だったのかも。

またアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』との出会いが、人生を更なる「絶望」への探究へと走らせた。

そして気がつくと2007年。

おおよそ、12年前と何ら変わらず「絶望」を拗らせただけで、己の人生はいよいよ壮年期から老年期への道を辿らんとしている。こんな状態でよくも半世紀近く生きてこられたと思う。

とにかく「生きているだけマシ」という世の中になりつつある今、その「生きていけるのか」ということが最大の目標になってしまった事が情けない。かつて24年前に目標に掲げた「結婚し妻子を扶養する」という「夢」(いや夢ではなく当時は当たり前の目標だったのだ)は霧散しつつある。あらいる問題を自ら解決しなければならないのに、その手立てすら解らず、やがて確実に来る心身の衰えに対する備えすら全くない。親は老い、大学当時の仲間すら壮年期半ばを過ぎんとしているのに、己のポテンシャルは1983年当時と大して変わっていないとは俄に信じがたい。

唯一、大きな病や怪我がない、それだけが救いなのだが、それすら今後は保証されないのだ。

1971年当時、親父は今の自分より若かった筈だ。にも拘らず、正月には妻子を囲み、親族を家に呼び、賑やかな正月を迎えていた。これは特別な事ではなく、当時の40代後半男子の極々当たり前な「日常」であった。

それに比べ2007年の自分は、正月に親族友人と会う訳でもなく、かといって妻子仲睦まじく過す事は夢の彼方。寂しくなった実家で独り虚しく佇むだけ。相手をするのはネットから流れてくる無味乾燥で顔の見えない文字の羅列。

このままでは本当にダメになる。

危機感と不安に押しつぶされる前に何とかしなければ。

救いのない毎日がまた刻まれていく。

恐ろしい。


2007年1月1日

謹賀新年

2007年が明けた。

昨年の正月は「正月らしい」気持ちを得る事が出来ず、それが後々響いた感じがしたので、今年は敢えて「俗な年末年始」を迎えようと考えた。

ここ数十年観る事のなかった『紅白歌合戦』にチャンネルを合わせたり、年越し蕎麦をじっくり味わったりする。出汁の効いた蕎麦汁が冷えた身体に染み込んでほっと落ち着く。

零時前だったので『終りよければ全てよし』だ。

因に『紅白歌合戦』を観ていたら男女数十人のグループが上半身下半身露に踊っているコーナーがあった。

まるでかつての『11PM』を彷彿とさせる映像に『紅白』も満更でもないと感じたり、太った双児兄弟が幽体離脱を模した芸を披露したのを観てこれまた吃驚。そんな俗な「年末年始の風物詩」を敢えて取り込む事によって己のポテンシャルを何とか世間に近付けて軌道修正を図る。

正月が明けて、近所の神明宮に初詣。今年の開運と健康を祈願し、破魔矢を買う。

こんな当たり前な「正月」がとりあえず人の幸せに繋がっていくのだ。

家族と一緒に、あるいは独りだったとしても、この一年の始まりを平穏に過し、365日有意義に無事に過ごせる事を祈れる日に出来れば幸いである。

本年もよろしく。


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